■ ■ ■


「ほらよ」
最初にいた防波堤のほど近くに止めてあったバイクのハンドルにかかっているヘルメットをイザナがなまえに放り投げる。ヘルメットを両手でキャッチしながら、なまえはまじまじと目の前のバイクを見た。
「ね、これおにーさんのバイク?」
「イザナ」
「え?」
「おにーさんじゃなくて、イザナって呼べ。家出少女」
「私だって家出少女じゃなくて、みょうじなまえだし……」
少し不貞腐れたように呟くなまえを見て、イザナが鼻で笑う。
「なまえ、早く乗れ」
イザナに初めて名前を呼ばれ、なまえの心臓がとくん、と脈打つ。聞き慣れた自分の名前も、イザナが呼ぶと、父親ともクラスメイトとも違う音色に聞こえる。フワフワした不思議な感覚を抱きながら、なまえは覚束無い動きでイザナのバイクの後ろに跨った。
夜の国道を疾風のようにイザナのバイクが走りぬける。さっきの不良達と同じようなエンジン音を鳴り響かせて走るイザナの後ろで、なまえは向かい風に吹き飛ばされないように、イザナの背中にしがみついた。華奢に見える背中は、触れると見た目とは全然違って、まるでしなやかな黒豹のようだとなまえは思う。自分のとも父親のとも違うその感覚に、自分でもよくわからない胸の高鳴りを感じながら、なまえは小さく溜め息をついた。
イザナのバイクが帰りついた先は、繁華街にある豪奢なマンションだった。もしかしたら、億ションかもしれない。そして、今更ながら、こんな遅い時間に人様のお宅に、お邪魔するのはいかがなものか、とごく普通の考えがわいてくる。しかも、家出してきた未成年をいきなり連れてきたら、ご両親も困惑されるだろうし、もしかしなくても、自分はかなり非常識な事をしようとしてるのではないか、と思ったら自然と足が止まってしまう。
「突っ立ってねぇで早く来いよ。置いてくゾ」
後ろを振り返ったイザナが少し不機嫌そうに、なまえを呼ぶ。
「ねぇ、今更だけど、迷惑じゃない?」
「お前、バカか?それなら最初っから連れてこねぇ」
少し遠慮がちに切り出したなまえを見て、面倒くさそうにイザナが舌打ちする。
「好きにしろ」
そう吐き捨てて、イザナはエントランスホールに入り、手馴れた様子でオートロックのパネルを操作している。なまえは一瞬の逡巡の後、慌ててイザナの後を追いかけた。

エレベーターで高層階まで一気に運ばれ、あっという間にイザナの家の玄関に到着する。電子音と共に開いたドアから、イザナに続いて恐る恐る家の中に入る。装飾品の類いが置かれていない生活感の全くない玄関に、少し違和感を感じながら、なまえは一応、小さくお邪魔します、と言って上がる。
「オレ以外住んでねぇから、そーいうの要らねぇよ」
廊下を進みながら、イザナが面倒くさそうに吐き捨てた。
「え、イザナここに一人で住んでるの?」
家賃とか一体どうしてんの、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「ここ、風呂。入りたかったら勝手に使え」
つや消し加工のオシャレなドアを通り過ぎざまに、左手で軽くバンバン、と叩きながらイザナが振り返りもせず言う。つられて、なまえも黙って頷いた。
「うわ、広ッ!なにこれ!すごーい!」
「うるせぇよ」
イザナの後ろに続いてリビングに足を踏み入れたなまえが、思わず歓声を上げた。まるで、ショールームみたいなピカピカのフローリングのリビングは、とても広く。大きく透明度の高い高級サッシの向こう側には、港町の夜景が広がっていて、なまえは思わず窓際に駆け寄った。タワーマンションの上から見下ろす景色は、月並みな言い方だが、まるで宝石箱のようで。遠くに見える水平線の上をチカチカと光る船が行き交うところまで見渡せる視界に、なまえは子供のように目を輝かせた。
「満足したか?家出娘」
イザナの声にハッとしてなまえが後ろを振り返ると、このリビングの唯一のインテリアであるソファに寝っ転がって、イザナが携帯電話をいじっていた。途端に、自分がひどく子どもっぽい事をした気がして、恥ずかしくなる。
「オレはほとんど家にいねぇから、お前の好きにしていい。気の済むまでいればいいし、出て行きたくなったら勝手に出てけ」
バツが悪そうに近づいてきたなまえに、ソファに座るよう視線で促し、イザナ自身は寝転んだまま呟く。
「ねぇ、お金とかいくら出せばいい?」
少し遠慮がちに、なまえはイザナとソファの肘掛の隙間にちょこん、と腰を下ろした。
「要らねぇ。生憎金に困ってねーんだよ」
「え、でも、そんなのさすがに申し訳ないよ。代わりに何かできること……」
「ガキができることなんて知れてんだろ。あ、身体で払う、かぁ?」
至極真面目な顔のなまえを鼻で笑うみたいに、明らかに揶揄した調子でイザナが嗤う。
「なッ……!」
「冗談だよ、バカ。つーか、大したもんも持ってねぇガキがどうやって身体で払うんだか」
顔を真っ赤にして固まるなまえを、おかしくて堪らないとばかりに、イザナが揶揄う。
「もう、ひどい!ば、バカにして……!」
「はいはい。ガキはクソして寝な。ん、お前の部屋がねーな」
なまえを軽くあしらいながら、不意にイザナがそう呟く。
「別になくても、リビングでもどこでも……」
「オレが居心地悪ぃだろ。そういえば布団もねぇしなぁ……しょうがねぇ、今日はオレの部屋で寝るしかねーな」
「……!!」
とんでもないことを涼しい顔でのたまうイザナを凝視したまま、なまえは言葉を失った。





paraiso