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ベランダの手摺に頬杖をつくようにして、なまえはひとり夕暮れの海を見ていた。
高層マンションの上から見渡す海は、果てしない広さで、本当にどこまでもどこまでも続いているような気さえしてくる。朝日を浴びて光り輝く水面も、昼間の真っ青な凪いだ海も、どれもなまえは好きだったが、とりわけ、こんな夕暮れの海が一番好きだった。夕陽をゆっくり飲み込んで朱色に染まる水面も、淡い茜色と藍色が混じり合う黄昏の空も、息を飲むほど美しくて、自分の存在なんて本当に取るに足らないものなんだと、思い知らされる気がした。そんなとき、だいたいふと過ぎるのは父親の顔で。黙って家を出てきたなまえが言えた立場ではないのだが、多分ものすごく心配していると思う。そう思うと胸の奥がちくんと傷んだけれど、かと言って今すぐ家に帰る気にはならなかった。それはもちろん、なまえの気持ちの問題でもあるが、それとは別にイザナの事が大きかった。ひょんな事から始まったイザナとの同居生活は、思いがけず居心地がよくて。生まれてはじめて家族以外の誰かと一緒に暮らす相手が、まさかその日知り合ったばかりの、しかも男だなんて、父親が知ったら卒倒しそうだけれど、なまえにとってイザナは恩人でそれ以上でも以下でもなく。それは、きっとイザナも同じでたまたま気まぐれに助けた家出少女を、これまた気まぐれに家に連れてきた。ただ、それだけ。そう思ったら、少しだけ胸の端っこに鈍い痛みが走った。なぜかは自分でもよくわからない。わからないまま、今度は空虚な感じがじわじわ滲み出して、胸が締めつけられる。自分でもわけのわからない感情になまえは深いため息をついて、項垂れた。
「あ、……」
いつの間にやら鳴り始めた、遠雷の不穏な音を聞いて、思わずなまえが顔を上げる。空を見上げれば、すっかり雨雲が立ち込めて、鉛色に染まっていた。これは一雨来そう、と心の中で思うと同時に、イザナの事がふと頭を過ぎる。イザナは気圧が低いと体調が悪くなる。だから決まって雨の前は体がだるいと言ってソファに死んだように寝転がっていた。そんなイザナを、まるで猫みたいだ、となまえは密かに思う。恐らく出先で死にかけていると思われるイザナを心配しつつ、もしかしたら、今日は早く帰ってくるかもしれない、と思うだけでなまえの心が小さく踊った。と同時に、猫みたいに気まぐれに、イザナが奏でるギターの音が聞こえた気がして、思わず隣を見遣る。当然、今はここにいるはずもない、恋人でも友達でもない男の端正な横顔を恋しく思いながら、なまえは静かに立ち上がった。
「……!」
部屋で布団に入りながら、雷鳴まじりの激しい雨音を聞いていると、徐に玄関の鍵が開く音がして、なまえは目を瞬かせる。なまえが布団に入った時間から考えると、既に時計は午前0時を回っている。なまえの予想に反して、イザナの帰宅は遅かった。夕方から降り始めた雷雨は、結局今もまだ降り続いていた。雷こそ遠くなったものの、雨足は依然強く、こんな中バイクに乗って帰ってきたなら、当然びしょ濡れだろう。そう思ったら、いても立っても居られなくて、なまえは布団から出て、静かに部屋のドアを開けた。
「あ」
ドアを開けるやいなや、バスルームのドアが開いてイザナと鉢合わせる。なまえの心配をよそに、イザナはシャワーを浴びて部屋着に着替えていた。よくよく考えれば、もう子供ではないので当たり前と言えば当たり前な事なのだけれど、なんとなく、濡れっぱなしのままで平気そう、というか、そういう事に頓着しなさそうな気がしていたのだ。
「雨、平気?」
「ずぶ濡れで平気なわけあるか」
不機嫌さを隠しもせず、もー寝る、と気だるそうに言い捨てて、イザナはなまえに背中を向けて部屋に入っていく。イザナの後ろ姿を、見送って、なまえもまた部屋に戻った。
「イザナ?」
翌日、イザナは昼をすぎて夕方近くになっても部屋から出てこなかった。さすがに、心配になってなまえが少し遠慮がちに、イザナの部屋のドアをノックするも、返事はない。何となく良くない予感がして、なまえは静かにドアを開けて部屋の中に入った。中央にベッドだけが鎮座している殺風景な部屋は、一番初めになまえが眠ったときから何も変わっていなかった。膝を抱えるように小さくなって寝ているイザナを見て、少しだけほっとする。それでも、ちゃんと息をしているか確認しようと、なまえは寝ているイザナの正面の方に回りこんで、顔にかかるイザナの髪を掻き上げようと、そっと手を伸ばした。
「……ッ、!?」
イザナに触れるか触れないうちに、不意に伸ばした手を掴まれて、バランスを崩したなまえの視界がぐるん、と回る。気がついたときには、なまえの身体はイザナの腕の中にすっぽりと収まっていた。鼻先に当たる華奢そうに見えて筋肉質な胸板、腰に回された骨ばった腕の感触、ほのかに香るフレグランスと混ざった男の子の匂い、と一気に五感をこれでもかと刺激され、なまえは自分に今なにが起こっているのか理解できずに、ただ身を固くした。押し当てられたイザナの胸から伝わってくる規則正しい鼓動を、その倍速の爆音で鳴り続けるなまえの心臓の音がかき消していく。なまえは息を殺してしばらく、なすがままにフリーズしていたが、あまりに何も起こる様子がないので、恐る恐るイザナの顔を仰ぎ見ようと、ゆっくりと顔を上げた。
「寝て、る……?」
見上げた先には、すうすう、と無邪気に規則正しい寝息を立てるイザナの顔があった。それはいつぞやと同じ、ため息が出るほど神々しい天使の寝顔で。そんなこととはつゆ知らず、なまえは1人で勝手にドギマギしていた事が一気に恥ずかしくなる。それでも、一度高まった心臓の音を自分で止める事などできず、かといって、イザナを起こすのもはばかられて、なまえは小さく息を飲み込んだ。
「ひ、ッ……!」
何とかイザナを起こさないように、じわりじわりと身を捩って抜け出そうとするも、しっかり腰に巻きついたイザナの腕の力が緩むことはなく。それどころか、なまえが身動いだ事が引き金になったのか、イザナの腕がもう一段なまえを強く抱きしめ直すので、喉の奥から思わず小さい悲鳴が漏れた。それでも、イザナが起きる気配はまるでない。これって多分抱き枕だ、となまえは半ば諦めたように、心の中で呟く。そのまま、目の前のイザナの胸にこてん、と頭を預けてみる。相変わらず、うるさく鳴る自分の心臓の音と、触れた額から伝わってくるイザナの鼓動を聞きながら、なまえは静かに目を瞑った。目をつぶっても、昂った気持ちが簡単に収まるわけもない。それでも、重なる鼓動と触れ合うイザナの体温の温もりに包まれて、いつしかなまえもまた心地よい眠りに落ちていった。