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ガラッ、と年季の入った引き戸を開ける音がして、いらっしゃいませ、と言って私は勢いよく振り返った。実はだいたい15分前くらいから、一連の動きを繰り返しているのだけれど、今回もやはりハズレのようで。店に入ってきた罪のないおじさん客が、あからさまにがっかりした顔をした私を見て、なんとも複雑な顔をして黙って席に着いた。
「こんにちは」
「……!」
待ち人がなかなか現れず、少ししゅんとしながら、コップにお冷をついでいると、聞き覚えのある低く耳に心地よい声が聞こえて、私は胸を踊らせながら、振り返る。
「いらっしゃいませ!!」
傍から見れば、絶対にさっきとは明らかに違うテンションで、私は待ち焦がれた目の前の彼を出迎えた。彼は私を見て小さく笑って、そのまま彼のいつもの定位置である、角の4人がけのテーブル席に座った。私は先に入ったおじさん客に、さっとお冷を運ぶと、その足でそそくさと彼の席にお冷を持っていく。
「こんにちは。ご注文は、いつものでいいですか?」
「ああ、それで頼む」
「かしこまりました!」
元気に、目いっぱいの愛想を振りまいて私はそう言うと、おぼんを抱え小走りで足取りも軽く厨房にいる父にオーダーを告げる。
数ヶ月前、彼がはじめてお店に来たとき、私は正直ギョッとした。時計は昼のピーク時を過ぎていて、決して大きくはない店には、さほど客はいなかったが、店内の客の視線が一気に彼に集まったほどには、彼は明らかに異質だった。身長が2m近い大柄という事もあったが、それより何より、髪型はトップ以外刈り上げてある金髪で、明らかに上質そうなダブルのスーツを纏い、インナーのシャツは光沢感のあるグレー。加えて、ネクタイはおそらくハイブランドのものであろう、普通のサラリーマンがつけるには些か派手な色柄のものだった。つまり、有り体に言えば、絵に描いたような反社会組織に所属している人だったのだ。私が少し緊張しながら、いらっしゃいませ、と挨拶すると、彼はそれは穏やかに笑って、「日替わり定食を頂けますか」と、丁寧な口調で告げた。その笑顔が見かけとは全然違う、本当に優しそうな笑顔で。思えば、あの瞬間から私は彼に心惹かれていたのかもしれない。間もなくして、私がオーダー品をテーブルに並べると、彼は小さく会釈して、礼儀正しくいただきます、と言うと箸を持った。職業柄、色んな人の食べる所作を見てきたせいで、世の中にはいただきますの一言もなく食べ始める人が沢山いることをよく知っていた私には、その辺もすごく好感が持てたし、それより何より、彼の食べ方が本当に本当に綺麗で。言ってはなんだけど、うちみたいな庶民的な安い定食屋には似つかわしくない、それこそ、高級料亭や一流レストランでこそ映えるようなきちんとした食事の作法を身につけた人の食べ方だった。まさに、掃き溜めに鶴、と言わんばかりに、神々しささえ感じるほど、圧倒的なオーラを放ちながら食事をする彼に私は魅せられてしまい、惚けた顔で彼が箸を置くまでただただ見惚れていた。
「ごちそうさん」
「あ、ありがとうございます。○○◯円になります!」
過去の事を思い返して、惚けていた私の前に、いつの間にか食事を終えた彼が立っていて、私は少し慌てて金額を伝える。
「あ、あの……」
「ん。何?」
「どうして、うちの店に、その……通ってくださるんですか?」
彼にレシートとお釣りを返しながら、私は思い切って勇気を出して、今までずっと彼に聞きたかったことを口にした。
「そんなの、美味いからに決まってる。それより、なんでそんなことを?」
突然、予想外のことを聞かれ、いつもあまり表情を変えることのない彼の目が少しだけ見開く。その瞬間、人を寄せつけない涼やかな碧い瞳がなんだかすごく温かく思えて、私の胸が密かに高鳴る。
「だって、お客様みたいな人なら、もっと、美味しくて良いお店に行けるじゃないですか。それなのに、なんでうちなんかに、って思って……」
「もしかして、オレ、迷惑だったか?」
なんだか少し卑屈になってしまった私の言葉を、彼はそう捉えたようで、少し申し訳なさそうな顔で私を見た。
「い、いえ!そんなこと絶対ないです!むしろ、これからも、ぜひ……!」
私は首をぶんぶん横に振って、慌てて彼の言葉を否定した。その言葉に偽りはない。あるとすれば、迷惑どころか、私はあなたの事もっと知りたいって思ってます、という私の邪な気持ちが込められていることだけだ。
「ああ、それなら良かった。だって、」
「……?」
一瞬、まるで悪戯を思いついた子供のような顔をして、彼が内緒話するみたいに、私の耳元に少し顔を近づける。
「美味くて、君みたいな可愛い看板娘のいる店なんて、他になかなかないからな」
「……!!」
私の大好きな顔で笑いながら、また来る、と、さらりとつけ加えて、彼はまるで何事もなかったように普段通り帰って行った。私はあまりの衝撃に、口から飛び出しそうな程暴れる心臓をなんとか抑えるように、両手で口を塞ぎながら、彼の消えた入り口の方を見たまんま、しばらくその場から動けなかった。




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