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*少し暗めの話です

「……!!」
厨房で物凄い音がして、私は思わず後ろを振り返った。ドジな私とは違って、普段から冷静な父がこういう失敗をするのは珍しい。幸い、昼食時のピークはとうに過ぎており、店内は客もまばらだった。その中には武藤さんもいて、私は彼にすみません、と目配せする。武藤さんは飲んでいた湯呑みを置きながら、大丈夫か、と同じく目線で伝えてくる。私は頷くと、店内の他のお客さんに軽く頭を下げ、カウンター越しに厨房の様子を伺った。
「お父さん、大丈夫……ッ!?」
その瞬間、厨房の床にうつ伏せに倒れている父の姿が目に入ってきて、心臓にいきなり刃物を突き立てられたように、息が止まりそうになる。私は慌てて、倒れている父に駆け寄り、半分悲鳴のような声で叫びながら、意識のない父をゆさぶった。
「おい、どうした?」
尋常ではない私の様子に気がついた武藤さんが、厨房に駆け寄ってくる。私とすぐ側で倒れている父を見ると、あくまで冷静に、スーツの胸ポケットからスマホを取り出すと、速やかに救急車を呼んでくれた。
「揺さぶったらダメだ」
どこかに電話をかけながら、傍にきた武藤さんが、取り乱して訳が分からなくなっている私の肩をやんわり掴んで制止する。
「……ッ、」
「しっかりしろ。今は泣いてるときじゃない」
武藤さんの落ち着いた碧い瞳と目が合うと、不安や動揺でいっぱいの心が解れて鼻の奥がツンとしてくる。武藤さんは、そんな私の両肩に手を置くと、まるで子供を優しく宥めるように私の顔を覗き込んだ。私は少し滲んだ涙を手の甲で拭って、静かに頷いた。
「なまえちゃん」
程なくして到着したレスキューの人達が速やかに父を救急車に運び、一緒に乗り込もうとする私に、武藤さんが1枚の紙切れを渡す。
「搬送先わかったら電話して。すぐ駆けつける」
武藤さんの電話番号が走り書きされた紙をぎゅっと握りしめ、私は精一杯の作り笑いを浮かべて、はい、と消え入りそうな声で、一言だけ返事をした。

手術中、というランプの灯りだけが不穏に光る薄暗い病院の廊下のベンチに、私は一人ぽつんと座って、祈るような気持ちで手術が終わるのを待った。父は亡くなった母と駆け落ち同然で上京してきたので、私にはこういうときに連絡を取れるような親戚はいない。母は私が小さいときに病気で亡くなっているので、私以外に兄弟もいない。文字通り、父娘2人きりで私と父は生きてきた。もし、このまま父が死んでしまったら、そう考えただけで不安で胸が潰れそうになる。だめ、今はそんなこと考えちゃだめ、そう自分で自分に言い聞かせるけれど、一度頭を過ぎってしまった悪い想像はなかなか消えてはくれない。私は心配と不安で震える自分の両腕を自分自身で強く掴みながら、奥歯を強く噛み締めて泣き出したいのを何とか堪えた。
「なまえちゃん!」
「……!」
薄暗い廊下の向こう、武藤さんが駆けよってくる姿を見て、私の胸が、ドクン、と大きな音を立てて鳴る。まるで、闇の中に差し込んだ一筋の光に誘われるように、私はよろよろとベンチから立ち上がり、彼の方へ身体を向けた。
私はたどたどしい口調で、武藤さんに父の病状を簡単に説明した。武藤さんは私の話を聞いたあと、黙って私の頭をぽんぽん、と優しく撫でた。その手の温かさでまた泣いてしまいそうになったけれど、さっきの武藤さんの言葉を思い出して何とか涙を堪える。
それから、私たちは2人並んでベンチに腰かけて、父の手術が終わるのを待った。お互い、敢えて口を開く事はなかったけれど、待っている間、武藤さんはずっと、私の手を握っていてくれた。ただそれだけで、さっきまで不安に押し潰されそうだった気持ちが少し和らいでいく。武藤さんが隣にいるだけで、こんなにも勇気づけられる。それだけで胸がいっぱいになる。私の手より遥かに大きい武藤さんの手の温もりを感じながら、私はさっきよりずっと心強い気持ちで、手術室の扉が開くのを待った。
「先生……!」
手術中のランプが消えるのとほぼ同時に、オペ着姿の先生が手術室から出てきて、私は弾かれたように立ち上がり、駆け寄った。
「手術は無事成功しました。ですが、経過観察の為しばらくは入院が必要です。詳しい話は後ほど……」
軽く会釈して、立ち去る先生の後ろ姿に、私は深く頭をさげた。
「お父さん!」
程なくしてストレッチャーに乗せられた父が手術室から出てくる。点滴や酸素マスクやら、色んなものが装着されている姿に胸が痛んだけれど、眠っている顔色は悪くなかったので少しだけほっとする。付き添いの看護師さんと少し会話した後、よろしくお願いします、と伝えて、病棟に運ばれる父をそのまま見送った。
「おやじさん、とりあえずは、よかったな」
「……ッ、!」
呆然と父を見送っていた私に、武藤さんが静かに声をかける。その声で、私の今まで張りつめていた緊張の糸が、プツリと音を立てて切れた。と同時に、今まで堪えていた分、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなる。そればかりか、しゃくり上げるような嗚咽も止まらなくなる。
「今まで泣かずによくがんばったな」
そんな、まるで叱られて泣き出した子供みたいに肩を揺らして泣く私の頭を、徐に武藤さんが自分の胸に、ぐい、と引き寄せた。そのまま、小さい子供をあやすみたいに、武藤さんの大きな掌が私の背中をぽんぽん、と優しく撫でる。その優しい手つきが、低く囁くような声が、分厚い胸元から香る大人の匂いが。武藤さんの全てが私をこの上なく優しく包み込むから、私は余計に涙が止まらなくなってしまう。
「ううッ……、」
私はもう恥も外聞もなく、涙でぐちゃぐちゃになった顔で武藤さんの逞しい胸にぎゅっとしがみついて、声を上げて泣いた。



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