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仕事を終え、普段と同じ時間に事務所を出て、その足で私は駅前のファッションビルに向かった。三途さんが帰った後、言われた通りに私は武藤さんに電話をした。しかし、電話をかけたものの、一体どう話をしたらいいのかわからず口ごもる私に、武藤さんは、オヤジさんのことで何かあるのか、相談に乗るから、今夜食事にでも行こう、と逆に心配して私を誘ってくれたのだ。武藤さんのその行き届いた気遣いに胸の奥がじんわりと温まる感じと同時に、後ろめたさを感じながらも、何はともあれ、私は安堵のため息とともに電話を切った。約束を取りつけて、少しほっとしたのも束の間、今度は去り際に三途さんに言われた言葉が頭の中でリフレインして止まらない。そもそも、色気のある格好がどんな格好の事かもピンと来ない。少なくとも、私のワードローブの中にはないことだけは確かな気がする。今まで武藤さんと2人で食事に行ったことは何度かあるけれど、それこそ今日のように、あくまで私を心配して気遣って誘ってくれたというだけで、デートとかそういうものでは決してない。それでも、私にとってはそれだけで胸がいっぱいになるほど嬉しかった。本音を言えば、私は武藤さんの事が好きだから、彼の事をもっと深く知りたい、傍にいたい、触れたい、という気持ちがないわけではない。でも、それを私が望む立場にない事は充分わかっている。武藤さんは私よりずっと大人で、私のことなんて、そういう風に見てくれているわけがない。そんなことを望むなんて分不相応もいいところだ。それは、本当によくわかっている。でも、それでも、三途さんの言うとおり、武藤さんが私たち親子にしてくれたことに対する精一杯の恩返し、そういう大義名分があれば。それでも、こんな私が武藤さんを望むことは、やはり、許されない事なんだろうか。
駅ビルで私は、目一杯背伸びして黒のノースリーブのミニワンピースと、レザーの小さなショルダーバッグを手に入れた。それに、普段から肌身離さず身につけている、母の形見の一粒ダイヤのネックレスを合わせれば、少しは様になると思う。私は駅のトイレで慌ただしく着替えを済ませ、簡単に化粧を直し、髪を整え、どこかそわそわしながら武藤さんを待った。
「間違えたな」
駅のロータリーに武藤さんの運転する車が止まり、運転席から降りてきた武藤さんが私を見るなり、開口一番そう言った。
「今日のなまえちゃんには、もっと洒落た店を予約した方がよかった」
オレのミスだ、すまない、と少し冗談ぽく武藤さんが笑う。私は初め何を言われているのかわからなくて、ぽかんとした後、すぐに意味を理解して、一瞬にして顔が茹でダコみたいに、かあっと熱くなる。
「あの、私、変じゃない、ですか……?」
「変じゃない。よく似合ってる」
躊躇いがちに聞いた私に、武藤さんが私の大好きな顔で笑って、行くか、と車の助手席のドアを開けてくれた。
武藤さんが連れて行ってくれたお店は、モダンな和の創作料理のお店で、決してお洒落じゃない店ではなくて。むしろ、派手さはないけれど、シックな店の内装はもちろん、料理の味も盛り付けやテーブルウェアのセンスもすごく良くて、何となく武藤さんに似ているところも含めて、私には充分お洒落で最高に素敵なお店だった。正直に言えば、私は武藤さんと一緒なら、多分カップラーメンでも、コンビニのおにぎりだって特別美味しく感じると思う。
食事をしながら、私は実際父の事で相談したいことがあったので、本当にそちらの話もたくさんした。それでも、父の借金の事を聞く事はなかなかできなくて。言わずもがな、三途さんに言われた方の話はもっとできそうにもなく。気がつけば、食事を終え、私は地下駐車場に止めてある武藤さんの車に向かって、武藤さんの後ろを歩いていた。このままでは、いつものように、武藤さんが私を家に送り届けて、それでおしまいになってしまう。今、言わないとだめ、そう思ったら、心臓が無駄にバクバク鳴り始め、指先まで震えてくる。
「あの、武藤さんッ……」
震える指で助手席のドアを開けて、シートに座るやいなや、私は思い切って話を切り出した。
「ん。どうした?」
「え、っと……その……」
「なまえちゃん、今日何かあった?」
「えっ?」
勢いで切り出したのは良かったものの、二の句が告げないでいる私に、武藤さんが先に尋ねた。その思いもよらない言葉に、私ははっとして武藤さんの顔をまじまじと見つめた。武藤さんは普段と同じ、穏やかな瞳で私を見ていた。碧く少し憂いを帯びたこの瞳が、私はとても好きだ。武藤さんに見つめられると、いつも胸がドキドキして、どうにかなってしまいそうになる。
「何となく元気がないように見えたけど」
黙ったままの私に、武藤さんがそう言って心配そうに小さく笑う。この上なく優しい眼差しに見つめられ、私は自分でもどうしようもないくらい、思いが溢れて止まらなくて。もう、三途さんとの約束なんて関係なく、気づけば、今のありのままの自分の気持ちを口にしていた。
「……たくない……」
「え、なに?」
「まだ、私、帰りたく、ないです……」
「君らしくないな。そんなこと言ったら、男は勘違いするぞ?」
絞り出すように口にした私の気持ちを、武藤さんは否定もせず、かといって本気にすることもなく、いわゆる大人の対応をした。普段ならば、好ましいとさえ思うそれが、今はひどく狡く感じてしまう。
「武藤さんになら、勘違いされてもいいです」
「本当にどうした?今日、なまえちゃん、なんか変だぞ?」
「はぐらかさないで下さい。だって……私、好きなんです、武藤さんの事が……」
むきになって言い返すしかできない私は、武藤さんに比べたらまだ全然子供だと、あらためて思い知らされる。と同時に、武藤さんに、ちゃんと私のことを見て欲しくて、私は思い切ってもうずっと胸の中で温めてきた気持ちを口にした。
「三途に何か言われた?」
「……!」
武藤さんは一瞬、目を見開いただけで、特に動じた様子もなく、返事の代わりに、何故か今日の事を全てお見通しとばかりに、三途さんの名前を口にした。
「お金の事なら気にしなくていい。オレが全部勝手にしたことだから」
「でも、ッ……」
「いいんだ。オレは君と君のオヤジさんの店がとても気に入ってる。なくなったらオレが困るだろ?」
「それでも、私、武藤さんに助けてもらってばっかりで、何も返せなくて……」
「それなら、もう充分もらってる。だから、バカな事考えるな。オレは君にそういう事は望んじゃいない」
武藤さんのその言葉が、不意に私の胸に突き刺さる。武藤さんが私みたいな子供を相手にするわけないって最初からわかっていたのに。それでもどこかで、もしかしたら、と淡い期待を抱いていた。それが今、目の前で粉々に砕け散って、心が千切れそうだった。
「武藤さん、ひどい……あんまり、です……」
「……?」
「私、武藤さんが好き……大好きだから、武藤さんだから、本気でそういう事したいのに、武藤さんは私の事なんて、やっぱり好きでもなんでもなくて、そんなのわかってたけど、でも……」
自分でも随分勝手な事を言っていると思う。まるで、欲しい玩具が手に入らなくて駄々をこねる子供みたいだ。それでも、涙と共に溢れ出してしまった、この行き場のない想いを自分でもどうしていいかわからず、私は泣きながら恨み言のようなものをひたすら言い続けるしかなかった。
「……」
「望まないって言われるのが、こんなにつらいなんて知らなかった……知らなかった、です……ッ、!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、見当違いの八つ当たりを言い続ける私の捨て台詞を最後まで聞き終わるやいなや、武藤さんが私の頭をスーツの胸にぐい、と引き寄せる。刹那、嗅いだ記憶のある大人のいい匂いがして、私は思わず息を飲んだ。
「……君は、男というものをまるでわかってない」
「武藤、さ……ッ……ん、……!」
何故か深いため息と共に、武藤さんが低く甘く私の耳元で囁く。突然の抱擁に訳がわからず呆けたままの私の顔を、両方の大きな掌で包むと、些か性急に武藤さんが私の唇を塞いだ。吃驚して目を見開いたまま固まる私に、武藤さんの厚ぼったい唇が、角度を変え何度も口づける。その気の遠くなるほど甘美な口づけに身を委ね、私は静かに瞳を閉じた。



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