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カタ、カタン、とリズミカルとは程遠い、不慣れなタッチで伝票の入力をようやく終え、私はうーん、と伸びをした。オフィス街の片隅の雑居ビルにあるこの事務所で働き始めて、今日でちょうどひと月。今までやってた飲食の仕事とはまるで違う事務作業やパソコン入力に最初は四苦八苦しながら、最近ではだいぶ慣れて、なんとか人並みにはこなせるようになってきたと自分では思っている。
私にこの事務所で働くように取り計らってくれたのは武藤さんだった。たった一人の肉親である父が厨房で突然倒れ、一命は取り留めたものの、しばらく入院と静養が必要になり、お店をしばらく閉めなければならなくなった。その間、仕事のない私に武藤さんが、急に人が辞めて困っていたから、良ければ手伝ってくれると助かる、と申し出てくれたのだ。今思えば、仕事内容や条件から考えても、わざわざ右も左もわからない私なんかを雇うより、すぐに優秀な後任が決まるような仕事だったと思う。それでなくとも、父が倒れたときから武藤さんにはずっとお世話になりっぱなしなのに、と申し訳なく思う反面、どんな形であれ、武藤さんと何がしかの繋がりがある、というのが密かに嬉しかった。だって、私と武藤さんは友達でもなければ、恋人でもない。本来、ただのお客様と店員、という味も素っ気もない関係なのだから。
「みょうじさん、〇〇時に来客だから、今から応接室にお茶を2つお願いできる?」
「はい、わかりました」
私の向かい側の席に座って仕事をしていた所長が、鼻眼鏡を少し上げて、私に少し申し訳なさそうな顔で穏やかに告げた。ここの唯一の同僚であり上司である所長は、私の父と同じくらいの年齢の男性で、とても穏やかで優しい人だった。ポンコツな私がここで何とかやっていけるのも、所長が本当に親切で忍耐強い人だったからに他ならない。言い換えれば、私をここに紹介してくれた武藤さんの配慮のおかげでもあり。だから、私は武藤さんに足を向けて寝ることなんてできないし、武藤さんの為ならばなんだってしたいし、実際なんだってできると心から思っている。私は椅子から立ち上がると、お茶の準備のため、給湯室へ向かった。
「遅ぇよ!いつまで待たせんだ?」
「も、申し訳ありません……」
応接室のドアをノックして入るやいなや、罵声を浴びせられ、私は入口で立ち尽くしたまま、肩を竦める。そんな私を見て、応接室の革張りのソファにふんぞり返って座っていた三途春千夜は忌々しげに舌打ちした。彼を初めて見たのは、武藤さんに連れられてここに初めて来たときだったと思う。プラチナブロンドの長い髪に黒いマスクをつけた彼を最初は女性だと思った。それくらい、とても綺麗だったから。武藤さんの紹介によると、三途さんは武藤さんのいわゆる秘書的な仕事をしているとの事で。さらには、ここの事務所の所長の直接の上司が彼との事。それはすなわち、私にとっては物凄い偉い人に当たるということだ。上役であり、武藤さんの信頼する人。そう頭ではわかっていても、実のところ、私は彼が非常に苦手だった。
「おい、いつまでそこにぼーっと突っ立ってんだァ?早く入れよ」
「は、はい」
入口で立ったままの私に、三途さんはイラついた口調でそう言った。初対面の時こそ、マスクをして物静かな印象だった彼は、2度目に会ったときにはマスクを外すとともに、今の横柄で慇懃無礼な彼になっていた。まるで、彼のマスクは武藤さんにだけ忠誠を誓った証、口枷みたいに思えた。
「座れ」
「あの、私はお客様にお茶をお持ちしたのですが……」
不躾な視線だけで、ソファを一瞥した三途さんに、私はおずおずとそう伝える。
「はァ?だから、オレが客だっつーの。お前に話をしにきたわけ。ったく、ジジィから何も聞いてねぇのかよ、使えねェ」
「わ、私に話、ですか?」
「そうだよ。だから、早く座れよ」
苛つきを通り越して、半ば呆れたように、三途さんは大袈裟なまでに深い溜息をついた。私は小さくなりながら、ローテーブルを挟んだ三途さんの向かい側のソファにそそくさと腰を下ろす。
「前から気になってたけど、お前さ、武藤サンとはどーいう関係?」
「どういう、って、ウチのお店に来てたお客様と店員、ですけど……?」
私が座るやいなや、三途さんが気だるげに頬杖をつきながら、睨めつけるように私を見る。毎回の事とはいえ、友好的とは程遠いその態度に私は胸の奥がひゅっとするような気持ちになる。思えば最初に会ったときから、彼は私の事をよくは思っていなかったのだろう。武藤さんから紹介されたときも、礼儀正しい態度とは裏腹に彼の目は終始笑っていなかったことを思い出し、背中が薄ら寒くなる。
「はァ?ただの店員にここまで色々する訳ねぇだろ、嘘つくな殺すぞ?」
「そんな、嘘じゃありません、本当です!」
威圧的に不穏な台詞を吐き捨てる三途さんに、内心、冷や汗をかきながら、私は必死に彼の疑いを晴らそうと首を横に振る。
「はッ……まぁ、いいわ。オレが聞きてぇのは、武藤サンがお前の為にどれだけ骨折ってくれてるか、知ってんのかってこと」
「それは、もちろん、武藤さんには感謝してもしきれないです……」
「口で言うだけなら、誰でもできんだよ。こんな小娘の為に、わざわざよその島の事に首突っ込んで頭下げてさー、わっかんねーよなァ」
「あの、よその島、って何の話ですか?」
唐突に出てきた意味不明なフレーズに、何となく引っかかりを感じて私は三途さんに問い返す。もしかしなくとも、私が把握している以上に、私のために武藤さんがしている事がまだあるってことだろうか。えも言われぬ、嫌な予感に背中を冷たいものが伝う。
「だーかーらー、お前のオヤジが××組ってとこに借金してんだろ?それを武藤サンがわざわざ肩代わりしたって話だよ」
「そんなの、知らない……」
父が反社会的勢力にお金を借りていた、この言葉だけでいきなり横っ面を殴られたような衝撃を受けた。そもそも父が借金していた事が初耳なのに、その借金を武藤さんが肩代わりしてくれていたなんて知るはずもなく。私は咄嗟に相手が三途さんだという事も失念して、心の声をそのまま呟いていた。
「はッ、お前知らなかったのかよ!恩知らずもいいとこだなァ!」
「すみません……本当に今聞いたんです……」
ありえねぇ、と言わんばかりに、揶揄するような言い方で三途さんがどこか楽しそうに告げる。そんな彼とは裏腹に、私は血の気の引いた唇を震わせて、なんとかそう呟いた。
「で、さっきも言ったけど、口で礼言うだけなら誰でもできんだよ」
「なら、私は何をすれば……」
私は動揺を隠しきれず、縋るような目で三途さんを見た。とにかく、武藤さんに申し訳なくて、そんなことも知らずに呑気にしていた事が恥ずかしくていたたまれなくて。それを、この人に縋ったところで、何も変わらない、そう頭ではわかっていても、そうせずにはいられなかった。
「金で払えないなら、代わりのもんで払うしかねぇだろ。オレの言ってる意味わかる、よなァ?」
「……」
私の目をじっと見据えながら、淡々と話す三途さんの薄いブルーの瞳の奥が妖しく光ったように見えた。いくら世間知らずの私だって、そこまで鈍感じゃない。もちろん、三途さんが何を言わんとしているかは、わかっている。わかっているからこそ、何も言うことが出来なかった。
「さっさと連絡しろォ。今夜は武藤サン、スケジュールねぇはずだからよ」
「……はい」
話は終わりだ、と言わんばかりに、三途さんがソファから立ち上がった。私は俯いたまま、小さく返事をする。
「間違っても、色気のねー格好で行くんじゃねぇぞ?」
去り際に、三途さんが私の耳元で囁いた。刹那、武藤さんのとは違い、少し甘いフレグランスがふわりと香る。その香りが消えるか消えないかわからないうちに、背後でバタンとドアの閉まる音がした。一人取り残された私は、今日一番深いため息をついて、天を仰いだ。