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ホテルのエントランスを抜けて、エレベーターホールまで、お互い一言も話すことなく歩く。相変わらず手は繋いだまま、でも心なしかさっきよりも、深津の手が温かく感じられるのは気のせいではないとなまえは思う。
「いいのかピョン」
揃って無人のエレベーターに乗り込み、動き出すやいなや、深津がそこではじめて口を開いた。なまえはしばらく無言で俯いていたが、小さく深呼吸すると、返事の代わりに、そっと顔を上げて深津の顔を真っ直ぐ見つめた。その目を見て深津は全てを悟ったかのように、小さく頷いた。
カードキーの電子音と共に、深津がドアノブを押して部屋の中に入る。当然ながら、深津のその一連の所作に、少しばかりの焦燥も感じることはできない。対して、なまえはと言えば、さっきからドキドキと自分の心臓の音がうるさくて仕方ない。まるで、全身からつま先まで全部心臓になってしまったみたいだ。深津と繋がったままの手は、温かいを通り越して汗ばんでしまっている。それが恥ずかしいと思う以上に、なまえには全く余裕がない。現に部屋に入った瞬間から、自分の心音以外全く聞こえなくなってしまった。どくん、どくん、と今にも口から飛び出して来そうな心臓の音がなまえの耳の中でひたすら響く。
「なまえ」
どんどん音が遠ざかっていくなまえの耳に、深津の低くて、それでいて甘い声が届く。
なまえは、はっと我に返って、声のする方を勢いよく見た。
「……!」
見上げた先には、深津の感情の読めない黒い瞳がなまえをじっと見ていた。目が合った瞬間、深津の目が少し安堵したのがわかって、なまえは小さく息を飲む。
「電気つけるピョン」
少しだけ呆けていたなまえに、深津がそう言って、なまえ越しに壁の方を一瞥する。なまえは黙って頷くと、スイッチを押そうと、深津に背を向けた。そこで、ふと記憶を遡る。あれ、今、確か名前……
「……!!」
メインルームの電気がつくやいなや、なまえは深津に背後から抱きすくめられた。あまりの事にその場に固まるなまえを後目に、深津はなまえの首筋に顔を埋め、抱きしめる腕にさらに力を込めた。
「なまえ」
首筋に頭を沈めたまま、深津が優しく呟くように、なまえの名前を呼んだ。それを聞いて、ようやく、さっき初めて名前を呼ばれたことに気づいて、今さらながらなまえの顔がかあっと赤くなる。しかし、それを気にしている間もなく、今度は耳たぶに唇を寄せられ、慣れない感覚になまえがびくん、と肩を揺らした。
「や……めッ……」
深津に耳たぶを甘噛みされ、なまえが堪らず声をもらす。それが良かったのか、間髪入れずに、深津がなまえの耳を舌で蹂躙する。反射的に、なまえは肩を竦めて逃げようとするが、深津のたくましい腕に拘束されていて、叶わない。
「ッ、はぁ……」
ようやく耳を解放されたときには、なまえは肩で息をするほど、呼吸が乱れていた。それがよっぽど愛おしかったのか、深津が不意になまえのこめかみにキスを落とす。と同時に、腕の中のなまえの向きを変えて、今度は正面からぎゅっと抱きしめた。
「ふ、深津、くん……!?」
しばらくの沈黙の後で、ゆっくりなまえを放した深津が、すっとなまえの手を取った。そのまま、指と指を絡め、今までで一番深く繋ぐ。一方で、深津の全て見透かしたような目が、なまえの瞳を捉えて離さない。目線をいっさい逸らさずに、繋いでいるなまえの手を引き寄せ、そっと白い甲に唇を寄せた。あまりの恥ずかしさに、思わず手を引っ込めようとするが、そこまで想定していたかのように、深津の手がそれを許さない。まるで、わざと見せつけるみたいに、目の前で手の甲に口づけられ、なまえは顔から火が出るほど恥ずかしくなる。それなのに、なぜか深津から視線を逸らすことなどできずに、なまえは顔を真っ赤にしたまま、深津と見つめ合った。
「キスしていいか、ピョン」
「……!?」
さっきから恥ずかしいことを好き勝手散々しておいて、今更それを聞くのか、となまえの顔に書いてあったのか、深津がふっ、と一瞬小さく笑った。それから、返事を待たず、大きな身体を屈めて、なまえにそっと口づけた。
「んッ……ふ……」
繋いだ手はそのままで、深津がもう一方の手でなまえの後頭部を持ち上げるようにして、優しく何度もキスの雨を降らす。深津の柔らかい厚みのある唇に啄まれ、えも言われぬ心地良さに目眩がしそうになる。なまえも、不慣れながらも、精一杯つま先立ちで身長差を埋めようとするが、足元がなんとも覚束無い。
「ちょっと待ってろ、ピョン」
「えッ……ひゃあッ……!」
何かに気づいた深津が不意に耳元で囁くやいなや、なまえをひょいと横抱きに担ぎ上げる。突然、いわゆるお姫様抱っこと言われる抱え方をされ、吃驚したあまり、遅れてきた羞恥心でいたたまれなくなったなまえは、言葉を失ったまま深津の首にしがみつく。あーこんなことなら、さっさとダイエットしておけば良かったーと内心頭を抱えるなまえを後目に、深津はなまえを抱きかかえたまま、スタスタと部屋の奥に向かって歩き出す。
「これでいいピョン」
少し得意げに見える無表情でそう言って、深津がなまえを下ろした場所は部屋の壁に備え付けのキャビネットだった。キャビネットの縁に、なまえを腰かけさせれば、さっきまでかなりあった身長差がほとんど無くなった。
「んッ……」
さっきまで見上げていたはずの深津の顔が、なまえのすぐ目の前に近づいたと思った瞬間、再び口づけが始まった。先程の些か無理な体勢とは違って、自然と2人の身体の密着度も高くなる。キャビネットの縁を掴んだなまえの両手を包むように深津の大きな手が重ねられる。それだけで、なまえのこの先にある不安や緊張が解けていく気がした。
「んんッ……ん……ッ」
最初は唇を軽く重ねるだけだった口づけが、徐々に深く求めるものに変わるのに、それほど時間はかからなかった。口づける角度を変え、何度も何度も深津がなまえの唇を求める。そのあまりの甘美さに、女の子の手握ったこともないとか、やっぱり嘘じゃん、と少しだけ恨めしい気持ちで、こっそり薄目を開ければ、深津の伏せられた濃く長いまつ毛が視界に入って、思いがけず胸が高鳴る。少しだけ下がり気味な直線的な眉毛は高校の時から変わらなくて、手を伸ばして触れたくなるほど愛おしい。なまえは密かに深津の眉毛が好きだと思った。否、眉毛だけではない。男らしくすっとした鼻も奥二重気味の目も、分厚い形のいい唇も全部好きだとなまえは思う。そう思ったら、堪らなくなって胸の高鳴りが止まらない。
「なに人の顔ジロジロ見てるピョン」
「ひッ……!」
知らないうちに、唇を離していた深津が、いつもと同じ無表情な顔でなまえを見ていた。
「キスの最中に目を開けるのはルール違反だピョン」
「うッ……ごめん……」
「ごめん、ですまないピョン。おしおきピョン」
「えッ……」
深津がなまえの耳元で、低く不穏に囁いた。