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午前5時――
普段通りの起床時間きっかり、に深津が目を覚ます。少しぼやけた視界に自室と違う様子が映って、ここが自分の部屋ではない事をじわじわ思い出す。と同時に、はっとして隣を見れば、自分の腕に載った小さな頭が目に入り、深津は密かに安堵のため息をついた。
「なまえ」
安らかな寝息を立てるなまえを起こさないように、そうっと腕を抜き、華奢な腰に腕を回し、背後からぎゅっと抱き締める。ん、と反射的に漏れたなまえの声が掠れていて、それだけで、つい数時間前の情事の記憶が蘇ってきて深津の肌が粟立つ。今更ながら、些か、いやだいぶやりすぎた。おそらく、未だ男を知らなかった体を開き、そればかりか、開いたばかりの初心な身体を、まるで熟れたばかりの果実を貪るように、求め続けた。なまえにやめて、もう許して、と泣いて懇願されてもやめてやらなかった。むしろ、それすらも、深津の欲を煽るだけだったとは、無垢ななまえは知りもしないだろう。よく、初めて交合った童貞のように、とは揶揄されるが、自分の場合、本当にそうだったのだから、面目の欠片もない。自分では、どちらかといえば、だいぶ理性的な方だと思っていただけに、少なからずこの体たらくに深津は軽く自己嫌悪を覚えた。
「……!」
深津から理性を奪った犯人が、腕の中で、ん……と悩ましげな吐息を漏らしながら、くるりと寝返りをうつ。起こしたか、と深津が一瞬息を飲むが、なまえの瞼が開く事はなく、再びすーすーと安らかな寝息が聞こえ始める。その無邪気な寝顔に、考えるだけ無駄だと言われた気がして、深津は吸い寄せられるように、愛らしいなまえの額にそっと唇を寄せた。そのまま、再びなまえの身体をぎゅっと抱きしめる。起こすかもしれない、とは頭ではわかりつつ、やっぱり止められなかった。早く目を開けて、深津の好きななまえの瞳で自分を見て欲しい、という思いと、ずっと欲しくて堪らなかったこの体温を、誰にも見せずにこのまま腕の中に閉じこめておきたい、という2つの似ているようで相反する気持ちが深津の中で交錯する。少しだけ身体を離して、そっとなまえの寝顔を覗き込む。まるで、子供みたいな寝顔はあの日と変わりない。なまえの寝顔を見つめながら、深津は、高3のあの頃に思いを馳せた。


深津がみょうじなまえと、まともに知り合ったのは高3の秋だった。同じクラスメイトなのに、知り合うとは語弊があるかもしれない。しかし、山王バスケ部は3大大会は元より、練習試合での県外遠征も多く、オフシーズン以外はまともに授業に出ることも困難だった。当然バスケ部以外の、クラスメイトとの交流もほとんどない。だから、みょうじの顔は知っていても、まともに会話したことがなかった。たまたま、クジでみょうじと共に文化祭実行委員に選ばれるまでは。
「深津くんは、部活優先で大丈夫だよ」
委員に選ばれて最初にみょうじに言われた一言に正直むっとした事を思い出す。彼女が自分に気を遣ってくれた事はわかる。しかし、クジとはいえ選ばれた以上、その責務は全うすべきだと深津は思う。これは、おそらくキャプテン経験者のいわゆる職業病みたいなものだ。
「国体終わったら引退だから大丈夫ピョン」
「え、そうなんだ……ごめんね、私そういうの全然知らなくて」
「みょうじが謝ることじゃないピョン」
「ありがとう。でも、正直ほっとした。実はね、一人でどうしようって、ちょっと焦ってたの」
そう言って、少しはにかんだように笑った彼女を、ちょっと可愛いと思うくらいには、もう、あのとき既に心奪われていたのかもしれない。
見た目のふんわりした印象とは違って、みょうじは真面目でひたむきな頑張り屋だった。人があまりやりたがらないような仕事を文句一つ零さずこなし、クラス全体の作業の進捗はもちろん、一部やる気をなくしてほったらかし気味になっているクラスメイトの仕事のフォローなど、多方面に気を配っていた。結局、国体の遠征が終わるまで、深津は表立ってみょうじを手伝うことはほとんど出来なかったが、最初に言っていた通り深津がいなくとも彼女は実行委員の仕事を全うしたわけである。
「深津くん、お疲れ様」
文化祭が無事終わり、最後の片付けをしているところ、みょうじが深津に、紙パックジュースを手渡す。それは図らずも深津がいつも好んで飲んでいる味だった。
「ありがとピョン……なんでこれってわかったピョン」
「え、だって、深津くんいっつもこれでしょ。わかるよー」
えへへ、と無邪気に笑う彼女を見たその瞬間、深津に一陣の風が吹いた。この感覚をなんと呼ぶべきか、深津にはわからない。1度も知らない初めての感覚。じりじりと胸の内側が焼け付くように焦れているのに、それでいてザワザワと落ち着かない。そのくせ、羽根帚か何かで首の後ろを撫でられているようにこそばゆくもある。しかし、不快かと聞かれれば、決してそうではない、不思議な感覚。
その日飲んだジュースの味はよく覚えていなかった。代わりに、あのときの彼女の笑顔が目に焼きついて片時も離れなかった。

文化祭が終わり、もうすぐ冬休みが近づいて来る頃。3年生にとっては、そろそろ進路を現実的に見据えなければならない頃だ。去年の今頃はウィンターカップ開幕前で、それこそいつも以上にバスケに集中していた。この時期に授業に出ているなんて、考えてみれば、入学以来初めてだと深津は思った。正直、気乗りしない退屈な授業だが、出席日数がギリギリのバスケ部員としては真面目に受けなければならない。手持ち無沙汰にシャーペンをくるくる回しながら、深津は不意に窓際の前の方に視線を送る。あのとき以来、気がつけば、深津は彼女を目で追うようになっていた。目で追ったからと言って、特に何かが変わるということはない。文化祭が終わってしまえば、彼女と話をする口実もなく。所謂、以前と同じただのクラスメイトに逆戻りだ。それでも、視界の隅でもいいから、深津は彼女を捉えておきたかった。おそらく、みょうじが深津の視線に気がつく事はないだろう。相手に気取られないように視界に入れることなど、真剣試合でコートを常に隈無く見渡す事に比べたら、訳もない事だったから。それでも、心の何処かで彼女が自分の方を振り返ってくれはしないか、と深津は密かに願う。
頻繁に彼女を見ているうちに、深津はふと、ある事に気づいた。それは、自分と同じように彼女に視線を送っている者が、多からずいるという事だった。もちろん、彼らは深津の視線になど気づきもしない。ただ、惚けたような顔で、じっとりとした熱のこもった目で彼女を見ている。ただ、それだけだった。それが、すこぶる不愉快に感じるのは何故だろう、と深津は思う。そればかりか、仮に自分もあんな目で彼女を見ているのだとしたら、あまりの気持ち悪さにゾッとする。けれども、もし自分があんな風に人の目もはばからず、みょうじを見たならば彼女は気づいてくれるだろうか。気がついて欲しい、いや、気がつかれたくない。自分でも理解できない複雑な感情を消化しきれず、深津は心の中で深いため息をついた。


深津にとって、決して忘れることのできない、あの日は、卒業まであと1ヶ月ほどになった頃、前ぶれなくやってきた。放課後、いつものように部活の練習に顔を出した深津は、珍しく忘れ物をした事に気づいて教室まで戻った。
「……!」
教室のドアを開けると、机に突っ伏して眠っているみょうじがいきなり視界に入ってくる。おそらく、その場に深津をよく知る人間がいれば、相当面食らった顔をしていると言われたに違いない。教室の真ん中辺りに机を何個かくっつけて、どうやら卒業制作を作っている最中だったようだ。机の上にはみょうじのものと、もう一人別な誰かの模型が並んで2つ鎮座していたが、教室にはみょうじ以外の人の姿は見当たらない。深津は静かに教室の中央へ近づくと、みょうじが寝ている隣の席に座った。ふと気になって、練習着のTシャツの襟元をつまんで匂いを嗅ぐ。一瞬の逡巡の後、深津は首にかけたタオルでもう一度汗を拭った。机に頬杖をついて、深津の方に顔を向けて眠っているみょうじの寝顔を覗き込む。すやすやと静かな寝息を立てているみょうじの顔を深津は黙ってじっと見つめた。あどけなさの残る額も、伏せられた長いまつ毛も、小さく薄い唇も、その全てが愛おしいと深津は思う。眺めているうちに、今度は触れてみたいという衝動が込み上げてきて、深津はゴクリと唾を飲み込んだ。不意に、みょうじの前髪が一房はらり、と落ちて顔にかかる。それが、触れたいという深津のスイッチを押す形になった。恐る恐る、みょうじの顔に手を伸ばし、指先で前髪に触れる。柔らかい絹糸のような髪をそっと耳にかけたと同時に、ん、とみょうじが身じろいだ。深津は咄嗟に手を引っ込めた。
「あれ……エーコ、私寝ちゃってた……?」
ゆっくりと目を開けたものの、まだ夢うつつなみょうじが、ぶつぶつと独り言のように呟く。どうやら、深津がいる事には気づいておらず、友人に向けて話しているようだ。
「ね、聞いてよ……今ね、夢に好きな人でてきたの……」
みょうじの口から出てきた、好きな人、の一言に深津がその場で凍りつく。みょうじに好きな男がいる、その事実が深津の胸を無茶苦茶に掻き乱す。名も知らぬ彼女の好きな男への醜い感情で頭がおかしくなりそうだと深津は思った。
「すっごく、かっこよかったんだぁ……私、やっぱり、深津くんの事が好き、だなって……ふふふ」
「……!!」
刹那、深津の目が大きく見開かれる。聞き間違いでなければ、彼女の口から出たのは、紛れもなく自分の名だった。その事実に、さっきまでの不快な感情はどこかへ吹き飛んでしまっていた。代わりに、これでもかと言わんばかりに、胸がドキドキとうるさいほど高鳴る。嬉しさと気恥しさと嬉しさで深津は胸がいっぱいになった。言いたいことだけ言って、呑気に再び眠りについたみょうじを今すぐ起こして、抱きしめて口づけたい欲をなんとか堪えて、深津は大きく息を吐いた。それとほぼ同時に、教室に向かって近づいてくる足音が微かに聞こえ、深津は席を立つ。そのまま、何食わぬ顔で廊下に出て足音とは逆方向に向かって歩き出した。深津が教室からだいぶ離れた頃、後方で教室の扉が開く音が聞こえた。それを聞いて、柄にもなく深津は胸を撫で下ろす。おそらく、席を外していたみょうじの友人が戻って来たのだろう。
きっと、すぐにみょうじを起こして帰ってくれるはずだ。
気がつけば、深津は廊下の突き当たりの階段を最上階まで駆け上がっていた。最上階の屋上へと通じる階段に膝を抱えて座り、お辞儀するみたいに頭を下げながら、深いため息をつく。
心臓の音がバカみたいにうるさい。
こんなに自分の心臓の音を聞いたのはいつ以来かと思い返せば、去年の夏のインターハイの苦い記憶が蘇ってきて深津は小さく自嘲する。
深津くんのことが好き、という彼女の声が頭の中でずっとリフレインしている。本来ならば、誰も聞くはずではなかった彼女の告白。
みょうじの夢に出てきた自分は、いったいどんな風だったのか。彼女の目には、自分はどう映っているのか。願わくば、今夜の夢で自分もみょうじに会いたい。まるで盤面が一色になったオセロみたいに、頭の中が彼女で埋め尽くされていく。そのくせ、胸の奥がきゅっと締めつけられるような、甘い痺れ。
ああ、そうだ。これは、恋だ。


「俺も、好きピョン」
ぽつり、と独り言のように呟いた深津の生まれて初めての愛の告白が、深津以外誰もいない階段の踊り場に響いた。




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