ビーカーのブラックコーヒー(烏哭)
「先生って博士号もってるって、本当ですか?」
「……誰から聞いたの、それ」
前回ちょっかいを出してから、まだそんなに日も経っていないというのに。
通称『開かずのドア』を開け放って入ってきた光織に、烏哭は少しだけ驚いた。
――絶対にそんなことを相手に気取らせる男ではないが。
ギィ、と音を立てて背もたれに身体を預け、彼女の方に向き直る。
突然の来訪者はすっかり下校の支度を整えて、首にマフラーまで巻いた状態で立っていた。
「光明さんから聞きました」
「あの人ほんっと……」
立ち上がって椅子を引いてやれば、光織はのこのことやってきて、座る。
警戒心があるのかないのかいまいち判断に困る。
「何か飲む?」
「結構です、ありがとうございます」
きっちりと礼儀正しい返事を聞く前に、烏哭はキャニスターから2人分の豆をミルに落とした。
スイッチを入れ、いくつか手元のボタンに触れる。
静音機能なんてものは最初から搭載されていないミルががごがごと音を立てて回り始め、保健室を音で満たしていく。
「で、僕が何だっけ」
「博士号」
「ああ、うん、持ってるよ」
今日はずっと座って作業をしていたせいか肩やら首やらが強張っている。
年取るのほんと嫌だなぁと独り言ちて、烏哭はぐるぐると肩を回した。
「え、本当なんですか」
「うん」
ほぐれた筋肉の中を一気に血液が流れる感覚に、軽く眩暈が起きる。
「なに、何で」
粗く引かれた豆に、ケトルから熱湯を回しかける。
広がる香りを肺まで吸い込むと、光織が珍しい表情でこちらを見ていた。
「私いま、初めて先生のこと尊敬してます」
「大袈裟だなぁ」
博士号くらい誰だってとれるでしょ、と笑いながら、ドリップされたコーヒーを自分のマグに注ぐ。
光織の分をどうしようかと一瞬思案し、どうせ飲まないかとビーカーに注いだ。
案の定、光織は目の前に置かれても反応すらしない。
「何の勉強されてたんですか、大学はどこに?」
興奮したように矢継ぎ早に質問してくる彼女の前で、ゆっくりとコーヒーを啜る。
「18の時にとったやつは」
「……はい?」
「あれ? どの博士号の話が聞きたいの?」
「えっ? どの、って、博士号っていくつも取れるんですか」
「取れるでしょ」
現に自分がそうだと当たり前のことを言っただけなのに、飴玉のような紫色の目が見開かれる。
こんなに真っ直ぐ彼女から見つめられたのは初めてかもしれないな、と、頭の片隅で思った。
「18歳って、私とほとんど変わらない」
どことなく、夢見るような口調だった。
勉強となれば寝食惜しまず打ち込める彼女のことだ。そう遠くないうちに辿り着くだろう。
そんな確証が烏哭にはあったが、それを光織に伝えるのは彼の役目ではない。
黙ってマグに口をつけていると、光織が目を眇めた。
「……で、博士号2つ持ってるような人がどうしてこんなところにいるんですか?」
「職業に貴賎なしっていうでしょ」
「趣味か暇潰し」
「どっちでしょう」
間違ってはいない。趣味と暇潰しの延長でやっているようなものだから。
「退屈しなくていいよ、君がいるからね」
コーヒーと同じ。
簡単に淹れて手軽に味わう事はいくらでもできるけれど、せっかくこんなに珍しいものが手に入ったんだ。
少し手をかけてでも一番良い状態で堪能したい。
「生徒で退屈凌ぎするの、やめた方がいいと思いますけど」
「曰く、『歓びのない労働は下賤である』」
「……ゲーテ?」
「正解はラスキン」
「まだ勉強してません」
「それじゃ18歳で博士号は難しいかもねぇ」
むぅ、と唸って、光織はマフラーに顔を埋める。
烏哭は目を細めて、子供らしいその仕草を見た。
――どうやら会話に夢中で気づかないらしい。
ミルが豆を砕く音に紛れさせて、部屋の入口を施錠したことも。
コーヒーの香りで誤魔化して、部屋にはあの甘い香が充満していることも。
「特定の分野も決まってないので18歳では無理だと思いますが、いつか挑戦したいと思います」
マフラーを巻き直して、光織が立ち上がる。
マグカップをシンクに置いて、烏哭は目元だけで笑った。
「お話聞かせていただいてありがとうございました。あとコーヒーも」
「生徒の相談に乗るのも『労働』のひとつだから、ね」
そう言って、彼女の腕を強く引く。
「――っ、」
光織の体重を受けた机ががたん、と大きく揺れ、冷めたコーヒーがビーカーからこぼれた。
「さぁ、『歓び』を頂戴?」
ビーカーの
ブラックコーヒー
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