海に行きたかった

 引っ越してからしばらく、季節は夏になった。朝、開け放したカーテンの向こう側、窓の外の炎天下の空に洗濯物がはためく。空調のきいた室内でのんびりと冷たい麦茶を飲みながら見ていたテレビでは、海開きのニュースが流れていた。
「海かあ」
 隣で同じようにテレビを見ていたイライくんがつぶやく。海かあ、いいね。
「海、行く?」
「え、行くかい? 海、行くかい?」
 声をかけると、そわそわと麦茶のグラスを手の中で回してテレビとわたしを交互に見るので、ああこれは海に行きたいんだなと思って、行こうか、と笑った。
 濡れてもいいようなおしゃれな鞄はもっていなかったので、少し格好悪いけれどスーパーのビニール袋にバスタオルと、引っ張り出した水着を入れて、それから水筒にスポーツドリンクを作ってもって、車のキーを手に駐車場に向かってから気づく。
「車検に出してる」
「そういえばそうだった」
 イライくんの車は今なくて、わたしは車を持っていない。仕方がないので、スマートフォンで海水浴場の近くの駅を調べて、電車で行くことにした。車のキーは一度部屋に戻って、靴箱の上に置いた。
 駅まで少し歩く中で、じわじわと汗をかいて、着ていたシャツはすぐにしっとりと湿って肌に張り付いた。イライくんとおそろいの麦わら帽子をかぶっていたので直射日光は避けられるけれど、それでも暑いことには変わりはない。蝉の鳴き声、ぺたんこのサンダルがアスファルトをたたく間の抜けた音、隣を歩くイライくんとつないだ手のひらの熱。はじめてのことじゃないのに、なんだかはじめてのことみたいに感じられて、イライくんはどうだろうと思って顔を見上げてみると、優しい青い瞳がこちらを見ていた。
「はじめてのデートみたいだ」
 つないだ手が一度離れて、するりと指が絡まる。
「なんだか、胸がドキドキするよ」
 ぼくだけかな、と微笑まれて、わたしは涙が出るような気持になった。
「イライくんだけじゃないよ」
 キスがしたいと思った。外だからしないけれど。できない代わりに絡めた指をきつく握った。駅について離れていく指先に名残惜しく残る熱が愛おしくて、そっと自分の指に唇を押し当てた。

「スイカ割りしたいな」
 改札を通る前、駅前のスーパーの軒先に並ぶスイカが目に入ったので、ふと口に出した言葉にイライくんは大きく反応した。
「いいね、スイカ割り。しよう」
「スイカ重いかな」
「ぼくが持つよ」
 いったん駅を出てスーパーに入る。たくさん並ぶスイカの中で、これかなあと思うものを手に取って、そのままレジへ向かった。ビニールひもでくくられたスイカを片手に持つイライくんは、麦わら帽子と相まってなんだか夏休みの子供みたいで、高い上背と骨太な骨格とちぐはぐで少し面白かった。
 そのまま、いかにも海へ行きますというふうな格好で駅のホームへ向かって、快速急行を見送って各駅停車に乗った。海水浴場の駅は各駅停車しか止まらないらしい。
 二人で空いている車両の端っこに座って、窓の外を眺めながらいろいろな話をした。海に着いたらまず何をしたいか、海の家で浮き輪を買おうか、焼きそばは売っているだろうか、車じゃないからビールが飲める、とか。
「岩場はあるかな」
「どうして岩場なの?」
 イライくんが岩場のことを気にするので、ないんじゃないかなあと返事をすれば、少し残念そうな、小さな声が返ってきた。
「夢だったんだ。雪之丞さんと岩場で隠れてキスをするのが」
「変な夢」
「そうかな」
「そうだよ」
 イライくんて結構夢見がちだよね、というと、なぜか少し照れたような顔をするので、かわいいなあと思ってそれを見ていた。電車内にアナウンスが響く。どうやら駅に着いたらしい。ビニール袋とスイカをぶら下げて、手の甲をくっつけてホームに降りた。
 空はなんだかどんよりと曇ってきて、遠くから雷鳴も聞こえてきた。嫌な予感がするけれど、これはもしかしたら雨が降るのかもしれない。
「ああ、遠くで降っているね。地面の濡れたにおいがする」
「イライくん動物みたい」
「いやあ、ふふ」
「なんで嬉しそうなの?」
 軽口をたたきながら、仕方がないのでこちらまで本降りになる前に家に帰ることにした。反対のホームに滑り込んできた電車にそのまま乗って、とんぼ返りだ。
 帰りの電車の窓を雨粒が叩いて、少しだけ湿った空気が流れ込んでくる。また同じだけの時間をかけて帰り着いた駅では、ぱらぱらと雨が降っていて、これからここもきっと大雨になるのだろうということはわかった。
「傘買って帰る?」
「一本だけ買おう」
 スイカを買った駅前のスーパーで大きめのビニール傘を買って、わたしがさして、うんと手を伸ばしてイライくんをいれて、スイカを二人でもって帰った。帰り着いた玄関に入った瞬間、どうしてだか勢いの着いたイライくんに抱きしめられてキスをされた。
「どうしたの?」
「岩場でキスできなかったから」
「そっかあ」
「ねえ、濡れちゃったし、お風呂に入らないかい」
「一緒に?」
「そう、一緒に」
 鼻と鼻をくっつけ合ってこそこそ内緒話をするみたいにしゃべるイライくんに、しょうがないなあと言いかけて、大事なことを思い出した。
「洗濯物忘れてた」
「あ」
 二人で慌ててベランダに出ると、雨でびしょぬれになったタオルやらなにやらが生ぬるい風に揺れている。もうどうしようもない、洗い直しだ。
「洗濯機回さなきゃ」
「お風呂は?」
「……回しながら、入ろ」
「ふふ、雪之丞さん好き」
「わたしもイライくん好きだよ」
 玄関から転々と散らばる水着の入ったビニールとか、スイカとか、水滴のこととかは全部後回しにするとして、ひとまずは取り込んだ洗濯物と濡れた服を洗濯機に入れて、温かいバスルームへ二人で手をつないで飛び込むことにした。だって外はまだ雨が降っていて、夏にしてはあんまり暗いものだから、それなら、二人ぼっちの世界に浸っていたってばちは当たらないと思うのだ。