かわいい魔法

 雪之丞さんはいつも、ぼくのことをじっと見ては「かわいい」と言う。「イライくん、すごくかわいい」、そう何度もつぶやいて、たまに頭を撫でて、そしてもっとたまに胸に抱きしめてくれる。柔らかな抱擁は優しくてあたたかくてとても心地いいが、ぼくも男なのでなかなか複雑な気持ちになる。雪之丞さんはどちらかといえばかわいらしいより美人な部類で、けれど心のうちは少し寂しがり屋で甘えんぼで、それを見せないように頑張っているのがぼくにはわかるので、そこがとてもかわいいと思う。ぼくにしかわからないかわいいところ。ぼくにだけ見せてくれる心の弱いところ。間違いなくかわいいのは雪之丞さんの方で、つまりぼくは年上で美人でぼくのことをよくかわいいかわいいと抱きしめてくれる雪之丞さんのことをもっとかわいがりたいわけだ。けど彼女はそれをよしとしない。
「雪之丞さんはかわいい」
 ラーメンを食べて家に帰ってきて、二人でのんびりと珈琲を飲みながらぼくがそう言うと、雪之丞さんはぼうっとした表情でこちらを見て、そうかなあとあやふやな返事をする。
「イライくんのほうがかわいいよ」
「そんなことないよ。雪之丞さんのほうがかわいい」
「そうかなあ……でもイライくんのほうがかわいいとわたしは思うよ」
 ていうか、なんで突然かわいいとか言うの? お小遣いほしいの? と言われてしまって、ぼくはなんだかもやもやした気持ちになった。本人が認めようが認めまいがぼくにとって雪之丞さんはかわいい人だ。けれどそれをどう伝えても、うまく伝わらない。どれだけ頑張ってもあいまいな返事の後に、それよりイライくんのほうがかわいいといわれる。暖簾に腕押し、糠に釘、というやつだ。
「ぼくの言葉はそんなに軽いかい?」
 少し寂しくなって、飲みかけの珈琲をテーブルに置いて隣同士座ったソファに深く沈むと、雪之丞さんは驚いたように、そんなことないと言ってくれたけれど、そのあとに続く言葉をぼくはもう知っている。
「こんなにかわいいイライくんの言葉を信じないなんてありえない」
 普段はあまり動かない雪之丞さんの表情筋がにこ、と動くのが好きで、けれどぼくが言いたいのはそういうことじゃなくて、心のもやもやは取れない。
「……お風呂に入ってくるよ」
「背中流そうか?」
 普段であれば喜んで受け入れる提案も、こんな気持ちのままでは受けることもできず、少し肩を落として風呂場へと向かった。かわいいといわれて、確かにそれを否定するわけでもないから、きっと嫌な気持ちはしていないんだろうけれど、ここまで受け流され続けるとどうしたらいいかわからなくなる。それに、ぼくは男で、雪之丞さんの彼氏で、将来的には夫であると名乗りたい立場なのに、ぼくばかりがかわいがられていては立つ瀬がない。
「ああ、どうしたら……ぼくの愛しい雪之丞さん、あんなにかわいいのに、わかってもらえない」
 はあ、と脱衣所の扉を閉めてため息をついたところで、着替えをもってくるのを忘れたことに気づいた。もう何もかもがうまくいかない。せっかくの素晴らしい同棲生活の初日だというのに、こんな気持ちでいてはだめだ。気を取り直してリビングに着替えを取りに戻ろうと廊下へ出ると、すりガラスのはめ込まれたドア越しに雪之丞さんがソファで丸くなっているのが見えたので、体調でも悪いのかと慌ててドアを開けた。
「雪之丞さん?」
「あ、え、あれ? イライくん? お風呂は?」
 クッションを抱きしめていた雪之丞さんの頬は赤く染まっていて、目はうるうると涙で濡れている。
「ど、ど、どうしたんだい! どこか痛む? 体調が悪い? 熱がある? まさか風邪でも……」
「ちが、ちがう、落ち着いて、おち、落ち着いてイライくん」
 取り乱して額や頬や手をぺたぺた触るぼくに、雪之丞さんが声をかけてくれて、けれど彼女のことを案ずるあまりに駆け足になった鼓動はなかなか元には戻らない。どうしたんだい、なにかあったのかい、としつこく聞くと、クッションに顔をうずめた雪之丞さんは、くぐもった声でなにやらもごもごとつぶやいた。
「……か……わい……って……」
「え? なんだい、ごめん、よく聞こえない……」
「だから! い、イライくんが、かわいいって、言ってくれるの……うれしいんだけど、恥ずかしい」
「え……あ……う……?」
「だ、だからあ!」
 聞けば、ぼくがいつもデートの帰り際などに「かわいい」と言っていたのも、すべて受け流しているようでその実、帰宅してからかなり今のように動揺して恥ずかしがって真っ赤になっていたらしい。
「雪之丞さんだってぼくのことかわいいって言うじゃないか」
「自分が言うのはいいの、言われるのがだめなの」
「わがままだなあ」
「わかってるけど、だめなの」
「かわいい」
「やめて」
「かわいい」
「やめてってば、イライくんすごい顔してる」
 確かに、自分が今ものすごくにやにやといやらしい笑みを浮かべている自覚はある。だってかわいいんだ。今まで雪之丞さんからこんなふうな反応が返ってくることは一度だってなかった。少なくとも、ぼくは見たことがなかった。それが今は、こうして間近で、ぼくだけがそれを見ることができる。そのことがとてもうれしくて、愛おしい。
「やっぱり、背中を流してもらおうかな」
「いやだ」
「いいじゃないか、何もしないから」
「うそ、その顔は絶対何かする顔」
 まあまあ、いいだろう、と許しを請うように軽いキスをおくれば、しばらく考えるそぶりを見せて、雪之丞さんはしょうがないなあ、とわざと拗ねたような声を出した。
「かわいいイライくんの頼みだから、特別だよ」
 小さなキスを返されて、うれしくてたまらなくて、クッションを取り上げて軽いからだを横抱きにして飛び跳ねるような勢いで風呂場へと向かった。わああぶない、と必死に抱き着いてくる雪之丞さんは、やっぱりかわいい。とてもかわいい。ぼくは今日からこのかわいくて愛しい人と、二人で生きていくのだ。それがとても、幸せだった。