第一発見者

中学一年生の春。
席に座りながら、窓越しの景色をぼんやりとながめる。生徒たちの笑顔とはしゃいでいる声。真っ青な空。運動場に所々できている水たまり。教室内でざわめく話し声。

「つぎの教室ってどこだった?」

突発的で、至近距離できこえる声に思わず肩が跳ねた。なんてことのない同じクラスメイトの子だ。

「…え、っと」

三階の多目的室。単語はすぐに思い浮かぶのに、口からは空気が抜けたみたいになにも出てこない。たったひと言、場所だけ言えばいい話なのに。相手もいっこうに言葉を発しない私に首を傾げた。沈黙がながれる。頭のなかが急速に真っ白になっていく。

「多目的だって、ほら行こう」
「あ、うん」

彼女は腑に落ちない顔をしつつも友達と一緒に教室を出て行った。完全にいなくなったことを確認したあとはじわじわと脱力感が襲った。誰にもきこえないようしずかに息を吐いた。机のうえに置いていた手を重ねるように握りあった。

お父さんは毎晩のように学校のことを尋ねてくる。嘘をつけない私は交友関係のことまで堂々と話せる器用さは持ち合わせていない。お父さんもほんとうは『そこ』を気にしているのも重々わかっている。親不孝だな、私。学校楽しいんだよって言えたら、なにも引け目なんかないのに。

まだ硬い教科書を机から取り出して、ゆっくりと席を立った。


―――――それ以外、なんかあったっけ?


ときどき響く、嫌でも思い出す声。なにもかもを過去のせいにしたくない。認めたくない。でも、そうやって誰かのせいにしてしまいたいとも思う。

窓から見える空は澄みきっていてどこまでも上にいけそうだ。こんなにも綺麗なのに、どうして私の目にはもやがかかって見えるんだろう。

「空っぽ」

つぶやきはクラスメイトの喧騒にかき消された。


*


友達がいないとなると、移動教室とかで迷ったり場所が分からない時にヘルプを求める手立てがない。立海は生徒数も多いのもあってとても広い。ここで迷ったら割と洒落にならない。こういうところで用意周到な性格がはたらいて、最近は放課後に校内を歩いてリサーチしていた。

「(ここが二号館…)」

階段付近の校内案内図を見ながら、廊下をざっと見渡す。二号館は空き教室ばかりで、基本的にはクラスルームは新校舎へ移設を進めているようだ。
廊下を歩いているとパコーンと不規則に、ときには一定のリズムを保ったボールの音がきこえる。二号館の隣にはテニスコートがあるからか、ラリーの音もこちらにまで響いているみたいだ。

教室上に取り付けられている表札を見ながら、階段を上りどんどん上のほうへと進む。最上階に着くと、その廊下に並んでいる教室は一年生のいる棟とは違って少し古めいていた。どれも使われていないのかもしれない。端まで進んでいくと突き当たりの曲がり角が見つかった。勝手な想像だけれど大体資料室なんかが奥にあるイメージだ。首を上げて、札に書かれた文字を読む。

『音楽室A』

予想は大きく外れていた。

別館にも音楽室があってはおかしくないけど、こんなところにもあったなんて。
教室の扉についている窓から中を覗くと見慣れた音楽室とは異なり、座学のための机と椅子はひとつもない。ただグランドピアノだけが置かれている。他の楽器類も一切ない。
ほんの興味本意で扉に手をかければ、いとも簡単に開いた。鍵はかかっていないらしい。
中に入りあたりを見渡してみる。薄暗いのでカーテンを開くと陽ざしが否応なく入りこみ、浮遊する埃をきらきら照らした。この部屋には長期間ひとが行き交っていない特有の空気感が残っている。

漆黒のピアノは大きな存在感を放っていた。天板もうっすらと白い埃をかぶっているようで艶を失っている。鍵盤の蓋をゆっくりと開いた。ひとつ押してみると、ポーンと音が鳴る。音に崩れはなく、調律はされているようだ。
ちらちら周りを見渡し、念押しで人の気配がないことを確認する。鍵盤の前に置かれた椅子に座り、手をそっと置いた。

たしかな足取りで歩いている。道も見える。あたりの景色も見える。
なのに、いつのまにか、もうなにもかも真っ暗で、後ろを振り向いてもなにも見えない。どこを目指せばいいのかわからなくなって、いまにも足が震えそうでたまらない感覚。

きこえない。
なにもきこえない。


「まただ」


ぱたん。鍵盤の蓋を閉じる音がしんと室内に響いた。ほんとうにここはしずかで椅子を引く音もよく通る。防音壁ではないようだけれど、外にほとんどひとが出歩かない空間というだけでもかなり落ち着く。
ここでずっと弾いていたら、気持ちいいんだろうな。


―――――完璧に弾けるまで、ずっとだ


脳内に響く声をかき消すように、目を閉じた。こんな行動をいったいあと何回繰り返せば気が済むんだろう。もう、とっくの前に終わったことなのに。
鞄を持ち上げて扉のほうへと歩いていく。最後に振り返って教室内を見渡してから扉へと手をかけた。

開いた瞬間のことだった。
すぐ目の前に、ひとが立っていた。驚いているのか目を僅かに見開きながら私をまっすぐ捉えている。状況が追いつかなくて声も出ない。このひと、誰だったっけ。見たことがあるのになんにも思い出せない。私はなにがしたかったんだっけ。こういうときはどう対処したらいいの?
お互い顔を凝視するだけでなにも言葉を発さない。無言の時間がながれている。いつまでこの時間がつづくのか、もうどうにかなってほしい。でも私じゃどうにもできない。なにか、なにか話せばせめて。

「あの、」

まず彼が声を発した。それが合図となったのか金縛りから解放されたかのように、すうっと息を全力で吸い込んだ。

「す、す、すみません」

深く腰を折ってのち即座に顔を上げた。彼がなにか言おうとしていたような気もするけれど、彼の身体を押しのけるようにして強引に教室から抜け出した。あんなに静寂だった廊下はどたどた走る音でうるさかった。







どうやら正門まで走り抜けていたらしい。壁に手をついてゼェハァ深い呼吸をする私に通りすがりの誰かに変な目で見られてしまったけれど、そうも言ってられない。とにかく落ち着かせることが最優先だ。

あのひとには見覚えがある。というより、入学当初から大注目を浴びている『あのひと』だ。意識せずとも自然と覚えるし、おそらく校内ではほとんどが知っているであろう人物だった。


*


「お、幸村くん!」

昼休みのチャイムが鳴ると学校中が開放感満載の空気になる。購買に駆け込む生徒、お弁当を出す生徒、食堂に行く生徒で賑わい、いつもの休み時間よりも一段と騒がしい。クラスメイトのはつらつとした声に顔を上げると、クラスメイトの視線のさき―――――廊下を歩いていた彼が反応して足を止めた。そのまま談笑している彼に自然と目が留まった。

幸村精市くん。
テニス部入部早々にレギュラー入りはもちろん、試合ではひとつのゲームも落としたことがない。
テニス以外のスポーツもできて、そのうえ勉学面でも成績優秀。
絵もとても上手で、美術の先生にコンテストに出せると言われたこともあるらしい。
植物が好きで、委員ではないけれど積極的に屋上庭園の手入れもしている。
容姿は抜群にととのっているうえ性格も優しく、男女分け隔てなく親しく接する。
『神の子』という異名持ち。

噂に疎い私でも勝手に目に耳に彼の情報は入ってくる。知れば知るほど彼はすごいひと…というよりは雲のうえのこわいひと、という認識になっている。真田くんと柳くんというひともレギュラー入りを果たすくらいテニスが強いらしく、幸村くんはそのふたりとよくいるのを見かける。交友関係でさえも隙がないなんて、完璧オブ完璧だ。彼が注目されて早々、最低でも一日五回以上は彼の話題を耳にした。女の子たちのあいだで「幸村くん」の単語が聞こえない日なんてあっただろうか。

ふと、彼の視線がこちらへ向いた。私は肩が跳ねそうなのを抑え、ぐるりと首の向きを変えて窓を見やった。

「幸村くん、どうかした?」
「…ううん、なんでもない。また部活でね」
「ん」

数秒後、首の向きを少しだけ軌道修正し、彼がいないことを確認した。ほっとため息をつく。

どうして彼は音楽室の前にいたんだろう。彼も校内を迷いそうだから探索していたとか? でも、それこそ彼なら友達に聞けそうだからそれはないか。とすると、彼はピアノを嗜んでいたのだろうか。絵に関しては得意らしいけれど音楽の趣味がどうだとかはなにも知らない。しかしほんとうにピアノが趣味だったとしてもあんな辺鄙な場所にある音楽室を選ぶのか微妙なところだ。

そして私は、そんな辺鄙な場所にあるあの音楽室を定期的に訪れている。

あの日をきっかけに、ひとしきり弾いたあとはまず扉についた窓から顔を覗かせてまずは廊下に誰もいないか確認するよう心掛けた。はじめのうちは気配に慎重になっていたけれど、何回最終点検をしても彼は現れない。彼がいないことに安心したいまは音楽室に普通に入って、普通に過ごして、平穏無事に音楽室を後にしている。結局、彼と鉢合わせたのもあの一度きりだ。
何度も通っているけれど、この音楽室が使用していいのかどうかは知らない。鍵がかかっていなかっただけで実は立ち入り禁止の部屋なのかもしれない。特定の教室を貸し切る場合は顧問の先生や担任に事前の報告がいると、生徒手帳にはそう載っていた。多分、入学早々に校則違反をしているのだろう。

誰にも咎められていないいまだけは、まだ弾いていられる。
誰に咎められなくとも、音が完成することなんてあり得ないのに。


*


今日の放課後も音楽室で過ごしていた。
窓から差し込む夕焼けの陽ざしが鍵盤の蓋に反射している。それを合図に、椅子から立ち上がった。
教室を出てから廊下を歩いて階段を降りるその時間まではまぼろしと現実のはざまをただよっている気分になる。一階に着いて、校舎を出てからが、ようやく正真正銘の正気に戻った感覚がする。あの空間で何度彷徨えば、私は気が済むんだろう。

二号館のそばにはレンガ作りの花壇が設置されている。音楽室に寄った帰りはここの花壇のそばをかならず通るようにしている。色とりどりゆたかな花たちがぎゅっと敷き詰められているのをながめているだけでもほっとする。色彩も綺麗に配置されていて、どの花も丁寧にお世話をされているのがよくわかる。

「(この子、なんていう名前なのかな)」

青空みたいに澄んだブルーの小ぶりな花たちが咲いている。写真を撮るために、携帯を取り出そうとした瞬間だった。
背後から凄まじいスピードでなにかが通り過ぎた。


―――――パリン!!


振り返るまもなくだった。ひび割れた花壇にめり込むように直撃したであろうボール。外壁が壊れて、中の土までこぼれてしまっている。突然のことに驚いて、あたりを見渡していると

「ごめん!大丈夫!?」

焦るような声のほうへ振り向けば野球部のユニフォームを着た男の子がこちらへ駆け寄ってきた。

「ほんとごめん!ケガない?いける?」

「う、うん。で、でも······」

ちらりと私が花壇へ視線を向けたのを見て、男の子も視線を同じほうへ目を向けた。彼はやってしまったといいたげに顔を歪めた。

「申し訳ないんだけどさ、その花壇どうにかしてくれない?」

「え?」

「部活戻らなくちゃなんだ、じゃあ!」

「え、ちょっと····!」

過ぎ去る背中に待ってと言いたかったけれど、もうとっくに声の届かないところまで彼は走り去っていた。
そんな無責任なことってないのでは···!

(でも····)

花壇へと目を向ける。このままでは花たちがかわいそうだ。あの子を追って引き留めることはもうできない。崩れてしまったこの子たちを早くどうにかしないと。走って、校舎へともう一度戻って行った。





ひとまず職員室に失礼して、担任の先生をどうにか見つけて相談した。
先生は花壇付近まで鉢植えをいくつか運んでくれた。応急措置としてこの鉢に植え替えをするよう指示はもらったけれど、先生も期末テスト前で忙しいらしく、いまは手伝えないと言われてしまった。
そうなると、作業できるのは私だけだ。
「よし」
ちいさくつぶやいて、周囲にばれないよう両手で拳をつくった(誰も見ていないとは思う)。
スカートのなかが見えないようにしゃがんでいたけれど、そこに注意を払うのも億劫になって、そう経たないうちに膝をつきながら作業をしていた。膝に砂がちくちく当たって痛い。シャベルを使って土をすくい上げ、なるべく根を痛めないように鉢植えへ移し替えていく。鼻いっぱいに土のにおいが通る。砂遊びではないにしてもここまで土にふれるのなんてずいぶん久しぶりだ。

「(これで合ってるのかな…)」

ボールの勢いが凄かったのか花壇に入ったひびの範囲が広かった。そうなると花壇からこぼれそうな花も多くなり、植え替えが必要な種類も多くなる。
せっせと土やら花を手探りで移し替えているけれど、ガーデニングの知識がない私には花を傷つけたりしていないかかなり不安だ。せっかく綺麗に手入れされているのに、ここで追い打ちをかけてさらに花たちを傷めることはしたくない。

直射日光を浴びているわけでもないのにじんわりと汗が流れてくる。やっぱり手伝ってくださいと無理やり先生を引き留めてもよかったかもしれない。ふう、と土のついていない腕で額の汗をぬぐった。


「どうしたの?」


隣からきこえる、澄んだ声。
ゆっくりと顔を上げたさきに、綺麗なひとが立っていた。


―――――幸村精市くんだ。



「……」

「……」

「……」

「··········はっ!」


だめだ、なにか話さないと。あまりにも綺麗だからうっかり見とれていたとか、恥ずかしい。

「えっと、これは」

すくっと立って向き合う。なんとか話したい。けれど、彼の綺麗な佇まいもさることながら「なんでもできるすごいひと」の噂を思い出して、うまく言葉が出てこない。しかも、あの音楽室の前に立っていたひとだ。私のことは認識しているのかな。芸能人に会うとこんなかんじなのかな。

どうしよう、はやく話さないと。これ以上いらいらさせたくないのに。ここで詰まったら余計に彼をいらいらさせる。はやく、なんとかしないと。
最悪の想定を考えれば考えるほど焦燥が迫り上がってくる。また、頭が真っ白になりそうだ。

「君が···」

「?」

「君が壊したのかい?」


········あああああああ!もうどうしよう。
とうとう神の子から天罰を与えられるのでしょうか。今日が最後の日になるかもしれない。

「ち、ちち違うんです!ほんとうに違います!いきなりボールがぶつかって、花壇に当たって、たまたまそこにいて、成り行きで私が移し替えることになって、でもよくわからなくて、うまくいけてない気がして」

あぁ、まただ。ちぐはぐにしか話せない。どうしてもいつも、冷静に話せないんだろう。
不甲斐なさが襲って、耐えきれずにうつむいた。「ごめんなさい。わ、私…」少しでも緊張を抑えたくて、胸の前で両手をぎゅっと握る。手についた土のにおいが鼻をかすめた。
ざ、と靴が砂のグラウンドを擦る音が聴こえる。胸が詰まりかけて、どうにかなりそうだ。握りすぎて白くなりかけている拳にふわっと上から手が乗せられた。長くて、綺麗で、けれど骨張っている男の子の手。
心臓が跳ねて反射的に上を向いた。

「疑うような言いかたをしてしまったね。そんなつもりは···けっして君が悪いとかそういうことを言いたかったわけじゃないんだけど、ごめんね」

眉根を下げて、彼はそう言った。

「ゆっくりでいいよ」

その言葉と一緒に、彼の手の甲をひたすら見続けていた。ばくばく鳴り響いていた心臓が徐々にペースを取り戻していく。ときどき生徒の話し声が聴こえる程度で、私たちのあいだには沈黙だけがながれていた。ぐっと唾を飲み込んだ。

「···その、この子たちが、かわいそうだったから、なんとかしたくて」

おそるおそる顔を上げると「うん」彼はふっと微笑っていた。途端、全身から力が抜け切った。
全然うまく話せていない。何回も詰まってしまったのに、彼は汲み取ってくれたのかな。
少し視線を下げると、はっと気づいて反射的に彼の手をはなしてしまった。

「あ…ご、ごめんなさい。手、汚れて、その」

彼はきょとんとしていたが、私の台詞の意味に気づいて、あぁ、と手を見やった。

「これくらいなんともないよ。君のほうこそ、軍手はないのかい?」

「…あ」

焦る気持ちが先行して、彼に言われるまでまったく気づかなかった。

「あとは土も足りなさそうだし。あ、そういえば鉢底石は入れた?」

「はちぞこいし?」

「多分そんなに量はいらないとは思うんだけど…ごめんね。ちょっとだけ運ぶの手伝ってくれるかな?」

「え、あ、はい」

さっさと機敏に歩く彼についていく。
これは、彼が手伝ってくれるということでいいのかな。普段からガーデニングを趣味にしている彼がいるならかなり頼もしいけれど、それ以上に申し訳なさがじわじわ襲ってくる。
とはいえこんなことを思うのも最初のうちで、花壇へ戻ったあとは彼の的確なご指示のもと黙々と作業に集中できた。特段これといった会話もなく、彼も手際よく進めていた。日頃から植物にふれているのが言葉通り、彼の動きに迷いがなく、噂でしか知らなかった彼のプロフィールを目の前で事実として再確認できた気がした。やっぱり、幸村くんがいてよかった。





失礼しました、と、彼の声が職員室に彼の声が通る。ぱたん、と扉が閉められた。

「なんとか終わったね」

「ごめんなさい…ほんとうに」

「君があやまることじゃないよ。先生からも野球部の顧問に言ってくれるみたいだしね」

外はうっすらと暗くなりかけている。彼も部活があったのに先輩に断りを入れてこちらの植え替えに徹してくれていたみたいだ。

「あそこで君がすぐに動いてくれたから花もそこまで傷まずに済んだし、俺ひとりだったらもっと時間がかかっていたと思うよ。あの花壇ももっと手入れしたかったところだったからちょうどよかった」

このひとにこんなふうに笑顔を向けられたら見境なく女の子たちは彼に惹かれてしまうんだろうな。そして幸村くんは自分のこと、『俺』っていうんだ。ちょっとだけ意外。
日の落ちた空をちらっと見やる。彼にはずいぶんと時間を割いてもらっているから、そろそろここで区切りをつけないともっと迷惑がかかる。口を開こうとしたら、幸村くんがなにかに気づいたように視線を下げた。

「膝、擦りむいているようだけど、もしかしてさっき?」

彼の目線を辿って膝を見やると、線が入ったような砂の跡がついている。先ほどから痛むといえば痛むけれどたいした怪我でもない。

「あの、こ、これくらいは大丈夫で、家も近いから」

「ちょっと血も出ているみたいだし保健室に行ったほうがいいんじゃないかな」

「えっ」

血、という単語にひやりとして膝を上げてよーく凝らしてみるとたしかに出血していた。とはいえ、ほんの数ミリだ。幸村くん、目が良すぎませんか。私でもお風呂に入るまで気づかなかったと思う。彼の視力は噂には聞いていない。

「いまの時間ならまだぎりぎり空いてるだろうから」

「え、えっと、はい。その、今日はほんとうにごめんなさい…すみませんでした」

軽くお辞儀をして、彼の横を通りすぎていく。
保健室、か。血は出ているけれどこのくらいなら、

「やっぱり俺も行く」

「へっ!?」

ささっと隣に再登場した幸村くん。あれ?このままお別れコースじゃなかったのかな。

「あああの、私は大丈夫なので、どうぞ帰ってくだ「万が一のこともあるから念には念をね」

「で、でも、幸村くんの帰りが遅く「いつも部活で遅くなるからこれくらいの時間は慣れてるよ」

頷く以外の選択肢はなかった。


*


消毒液のつんとした匂い。白いベッド。クリーム色のカーテン。中学になってからははじめて利用する保健室だ。膝を擦りむいたのが原因で訪れるなんて思ってなかった。
私ひとりでも処置できるくらいのちいさな出血でも幸村くんは消毒液をつけてから絆創膏を貼るまでのすべてを施してくれた。ほんとうになんともないのにな。彼は私の前で膝をついて丁寧にあつかってくれる。じっと彼を見下ろしているだけでも、なんだかそわそわする。

「痛むかい?」

王子さまみたいなひとだと誰かが言っていた。大それた名称がこんなにもぴったりなひとが存在するんだ。彼の問いに首を横にふると「よかった」安堵したように笑った。

「跡が残ったら大変だからね。そうだ、手も怪我はない?」

返答に戸惑っているあいだに彼はさらりと私の手をとって、手の甲も掌も慎重に確認した。なんだか問診を受けている気分だ。ひとしきり終わったのか「うん、大丈夫そう」彼は安心したように言った。藍色のゆるい癖髪に白色のはちまき。この位置からだと彼のつむじがよく見える。私はか細く息を吐いた。

「あの、今日は手伝ってもらったうえにここまでしてもらって…その、」

「ありがとう」

「?」

「『ごめんなさい』よりも『ありがとう』が欲しいな」

やさしい目。でも、譲る気はないんだな、というのが直感でわかった。絶対に後ろに引かないもの強さが彼にはある。

「…あ、」

「敬語もないほうがもっといいのだけど」

このさき彼にはなんでもさきを越されてしまいそう。彼の手を握る力に僅かに力がこもる。こたえるように、彼もまた握りかえしていた。

「わ、私だけじゃ全然わからなかったから、すごくたすかりま…たすかった。ぇ、えっと、怪我のことも気づいてくれて、手当てまでしてくれて…いまはなにもできてないけどいつかは、その…お返ししたくて、いつになるかわからないけど、頑張るね」

ボールがぶつかってこわかったとか、私のせいで壊れたんじゃないとか、そんなことよりももっと伝えたいことがあったんだ。

「幸村くんがいてくれてよかった。ほんとうに、ありがとう」

せめてこの言葉だけは、どんなときでも誰にでもまっすぐ伝えられるようになりたい。

「どういたしまして」

受けとってくれたひとによろこんでもらえるように。

「名前、聞いてもいいかい?」

「苗字名前です」

「俺も苗字さんがいてくれてたすかったよ。こちらこそありがとう」

義務的にしか呼ばれていなかった私の名前は、今日ようやくはじめて、しっかりと目を見て、意思を持って、呼んでもらえた。たったそれだけのことでもこんなにもくすぐったい。

「そろそろ帰ろうか」

「うん。……あっ!」

「ん?」

「ご、ごめんねっ。手、ずっと握りっぱなしで気づかなかった…」

「全然いいよ」

そしてやっぱり、私とは違うところにいる遠いひとだ。きっとこのさき彼とかかわる機会はないのだろう。ほっとさせてくれる彼の笑顔を間近で見ることももうないのだ。
そうだとしても、今日のことはずっと記憶にとどめておきたい。






彼と並んで正門を目指して歩いていく。敷地内はほとんどひとが出歩いていないのもあって、一段としずかだ。校舎の窓もほとんどが真っ暗で一階のあたりが点々と光っていた。

「遅くなってしまってごめんよ。とはいえ、あのまま君を放っておくとたいしたことないってそのまま帰りそうだったから気になってね」

「そ、そんなことは」

「ほんとうに?」

「……」

「……」

「……そんなことは、ありました」

「やっぱりね」

くすくす彼が笑う隣で私はいたたまれなくなっていた。実際、彼が言った通りだった。些細な怪我で保健室に行くのも大袈裟だから行くふりをしてそのまま帰ってしまえば…と考えていたから、突然彼がついて来るなんて予想外だったのだ。あぁ、彼にはお見通しだったんだな。もし彼の気遣いに素直にこたえていたら彼が付き添わなくても済んだだろうに。

「あの、」

「あやまるのは無し」

「うっ」

「大きな怪我もなく無事に花を移し替えられたし、手当もしてもらってラッキーだと思えばいいんだよ」

「……そ、そんな楽観的にはとても…!」

「あははっ」

保健室のなかで知っていたらいまよりもよほど罪悪感で満たされていたと思うし、しつこいくらいあやまっていただろうな。幸村くんはもう私の癖を見越して配慮してくれている。いつもの私なら溢してしまう言葉をぐっと飲み込んだ。そして「ありがとう、幸村くん」彼の目を見てそう言うと、彼が満足げに、ほがらかに頷いた。こんなにも胸があたたかくなるなんて、いつぶりだろう。

「親御さんには連絡を入れなくて平気?」

親御さん。こうも丁重に敬称を使う中学生男子がいるだろうか。幸村くんは日頃お父様お母様と呼んでらっしゃるのでしょうか。なんて訊けるはずもない(気になるけれど)。

「私も、放課後はたまに残ってこれくらい遅いときもあるから大丈夫だよ」
「なにか部活に入っているのかい?」
「えっと、帰宅部だけど…図書室とか中庭とかによく行くから」

そっか、と幸村くんが言う。
何気ない会話の一部。そのつもりでこたえたはずだった。


「音楽室は?」


空気が固まった。
私の足が止まると、彼も足を止めた。彼の視線は私をはっきりと捉えていた。彼の纏うやわらかい空気が僅かに引き締まった。


「あの日、二号館の音楽室でピアノを弾いていたのは、君だよね?」


思わぬハプニングにそこまで思考を回す余裕がなかったとはいえ、こんな肝心なことを抜かしてはいけなかった。
あの日音楽室のすぐそばで立っていたのは、正真正銘彼なのだ。


「人違い、です」


そして私はもうひとつ重大なことを忘れていた。


「どうして嘘をつくの?」


神の子を欺くなど、到底無理だということを。








「すすすすすすみません!多分きっとおそらくほぼ確実に間違いなく人違いです!ど、ど、ドッペルゲンガーだと思います!」
「え、あの」
「もしくは幽霊とかだと思います!きっと人間じゃないです!」
「でもあのとき君は、」
「今日はすみませんでした!どうかお気をつけて!」
「あ、ちょっと待って!苗字さん!」


「ごめんなさい……っ!」


どうしたって感謝の言葉で締めくくられるはずがない。彼の引き留める声も厭わず私は全速力で正門へと直行した。守衛のひとがぎょっとしていたような気がするけれど、なりふり構っていられない。

「お風呂で染みるだろうから気をつけるんだよ!」


背後から聞こえた彼の大きな声は遠くにいる私のもとまでよく通っていた。最後の最後まで気を遣ってくれる幸村くん。せめてもう一度だけ、お礼を言いたかったな。

それからは海岸沿いを通り越すまでずっと走りつづけていた。いつもの体育の何十倍も全身を使ったからか家に着いてからもへとへとで早々にお風呂に入ることにした。熱いお湯に染みてぴりぴりする擦り跡を撫でながら、悶々と今日起こった出来事をふりかえっていた。割れた花壇のこと、鉢に植え替えた花のこと、名前が呼ばれたこと、ありがとうと言えたこと、幸村くんのこと、そして音楽室Aのこと。悶々と考えていたらずいぶんと長風呂になってしまった。

お風呂から上がったあとは、火照ってぼうっとした頭ですっかりふやけてしまった絆創膏を剥がした。捨てるのが、名残惜しく思うなんて。膝をやさしく撫でる度にちりつく傷みがなぜだかとてもこそばゆかった。

  

神さまの通り道

scene