気になるあの子

あれからは幸村くんと面と向かって話してもいないし、挨拶でさえ交わしていない。クラスが違うのでそうかかわる機会もないのだけれど、移動教室や体育なんかで廊下ですれ違う瞬間というのは訪れるもので、出会う頻度をゼロにはできない。私は最大限素通りしているので目も合わせないようにはしている。

だがしかし、考えが甘かった。


―――――どうして嘘をつくんだい?


「(こわすぎる……!)」


彼が私の存在に気づいていないわけがなかった。音楽室で対面したとはいえ潜んで過ごしていた私の顔を認知していたうえに真実を見抜いていた。
私がもっと巧妙に嘘をついていれば疑われなかったのだろうか。でも、彼にはなんの嘘も通用しないような気がする。あれは確信していたひとの目つきだった。神の子は千里眼も携えていらっしゃったようです。
窓から外を見下ろすと、運動場には体育の真っ最中の幸村くんがいた。クラスメイトと話しているだけの姿でも、あかるい陽ざしと彼の白い肌が映えているからか立派な情景の一枚になりそうだ。

音楽室のことも私が弾いていることも彼ははっきりとおぼえていた。
どうして彼は、言及したのだろう。


―――――あーあ、自滅したんだ


そして私は、なにを必死になって隠したがっているんだろう。
私が空っぽになったところで、誰にもなんの関係もないのに。


*


今日は課外学習で県内の美術展覧会に訪れていた。おもには西洋絵画が飾られていて、美術史のながれを追っていく主旨の展示だった。この手のイベントは苦手だけれど、この日に限ってはずっと楽しみにしていた。集団行動がないだけでかなり救われる。自分のペースでひとりゆっくりと展示物を見られるのはとても居心地がいい。

展示スペースを出たすぐの場所には専用ショップが設けられていた。立ち寄るひとは多いけれどショップの面積は広くとられているし、だいたいの生徒たちはソファで座ったり立ち話をしているのもあってそこまで混雑していない。ゆったりとお買い物ができそうだ。

ポストカードは買いたいな。クリアファイルも実用的でよさそう。絵画の柄がそのままプリントされているペンもかわいいな。

文房具コーナーだけでも魅力的なグッズばかりでうまく絞れない。まずはポストカードから選ぼうと整列された棚から取ったときだった。一枚だけ取るつもりだったのに、もう一枚も後ろに張りついていたのかポストカードがはらりと床に落ちた。そのまま隣のひとの靴のうえに乗ってしまったようだ。ローファーだったから私と同じ立海の生徒だ。慌ててしゃがみ込もうとするも、そのひとがさっと拾い上げてくれた。

「す、すみません」
「いや、かまわない」

ながれるようにスマートにポストカードを渡される。顔を見る間もなくそのひとはそのまま立ち去ろうとしていた。


―――――ありがとうのほうがうれしいな


どうして幸村くんを思い出すんだろう。こんなときにも彼はあらわれる。理由はわからない。
でも、いま思い出したということはきっと、ちゃんと目を見て、伝えないといけないことなのかもしれない。

「あ、あの」

彼が振り返ると、私はぐっと唾を飲み込んだ。

「あ、ありがとう、ございます」

もっと自然に言いたかったけれど、それでも、あの日までの私に比べたらちょっとは進歩しているだろうか。

「(呼びとめるほどのことじゃなかったかも…!)」

私はいつもどうして大げさにするんだろう。呼びとめてお礼を伝えるよりは『すみません』でながしてよかったシチュエーションだった気がしなくもない。それこそ目の前の彼みたいに、さらりとこなせたらかっこよかった。

あれ……? そういえば彼は、

「書店で会って以来だな」

その台詞に確信した。つやつやとした直毛、細身ですらっとした佇まい、すっとした細い目。
彼とは以前、会ったことがある。


*


放課後はときどき本屋へ寄り道していた。
図書室でも本は嗜めるけれど、小説でも漫画ても話題の新刊を手に入れるなら本屋へ直行するのが一番だ。おかずのレパートリーを増やすためにレシピ雑誌を探すのも楽しみだったりする。

彼と出会ったのは、美術書コーナーを物色していた日だった。
画集や解説書を読んで回っていたところで、ふと一冊の本に目が留まった。

『ルノワールを辿る―印象派の軌跡−』

淡い色づかい。ぼやけたような世界のなかに溶け込む、ときにはやわらかく、ときには大胆なタッチ。図書室でも宿題の休憩がてらながめていた画集のなかでも印象派の作品集はよく手にとっていた。風景画でも人物画でも対象の特徴を捉えながらもあたたかみを含んだ描写に惹かれていた。絵の知識は皆無で、正直技術的な解説書を読んでも難しいという感想がまず思い浮かんでしまうけれど、この本なら厚みもないし背表紙のフォントとタイトルがからして取っつきやすそうだ。つまりフィーリングでぴんときた。

「(うぅ…届かない)」

つま先を最大限伸ばしてみるも届かず。周りに脚立がないか確認するも見当たらず。もう一度勢いよくぐっと腕も足も伸ばしてみるもやはり結果は同じ。一秒だけいいから伸びて、私の身長…!

「これでいいか?」

私の手の一個ぶん以上の開きで隣から手が伸びた。少しの引っかかりもなく、すっと本が棚から抜きとられた。さっと手渡された本を受けとるも一瞬のことで戸惑っていたら「すまない…違っただろうか?」彼が気がかりそうな素振りを見せたのでぶんぶんと首を何度も左右に動かした。

「あの、すみません。取っていただいて」
「礼には及ばない」

彼のことは見かける機会が多い。
柳蓮二くん。学年首席をとるくらい成績優秀で、テニス部でも一年にしてはやくもレギュラー入りを果たしたまさしく文武両道のひと。そして、幸村くんとよく一緒にいるひと。幸村くんから目を逸らすと、たいてい彼がいるのだ。

「印象派が好きなのか?」

「さ、最近興味があって、勉強したいなって………」

「そうか」

彼が思案するような表情を浮かべるので私が首を傾げると、彼は「あぁ」気づいたように言った。

「俺の友人もルノワールが好きだと言っていたからな。少々共通点を思い出しただけだ」

彼は顎に手を当てしばらく考えるような素振りをすると、同じ本棚の低い位置にある場所から一冊手に取った。差し出してくれたそのタイトルは『印象派ってなぁに?』。表紙のデザインからしても子ども向けの本のようにみえる。

「内容は児童向けに噛み砕いてあるが、だからこそこの流派の原点が分かりやすい。載っている絵も有名どころばかりだ。これを読んでからでも絵を見る感想は大きく違う。なかなか良い本だ」

中をぱらぱら捲ってみると全ページがカラーで、文字が大きく解説も分かりやすい。それぞれの画家の特徴もざっくりと書かれているし、いまの私にはぴったりな内容だ。少ない要望で多くを汲み取り的確にこたえてくれる、まるでコンシェルジュみたいだ。

「邪魔をしてすまない」
「い、いえ」

彼はそのまま別の本棚へと移動していった。私は細い背中と肩にかけられたラケットバッグを呆然とながめることしかできなかった。


*


「あ、あのときは、本を取ってくれて、しかも私に合うのを選んでくれてありがとうございました」

「差し出がましくなかったか少し心配だったんだ。…というのも、あのときのお前は」

「?」

「緊張していたのか、ずいぶんと顔が強張っていたからな」

困ったように笑う彼に、私は胸に矢が勢いよく刺さった気分だった。キューピッド的な意味ではなく、精神的ダメージという意味でだ。


「(こんなときどう話を繋げたらいいの…!?柳くんって超絶頭いいって有名だし下手なこと喋ったらこいつこの程度も知らないのかとか思われるんじゃ……!でもせっかく厚意で選んでくれたのにもっとこういいかんじの話題振りとかして、)」
「(俺を警戒している確率72…いや80%は悠に超えるか?まずい、初手を誤ったか)」


優秀な柳くんというイメージばかりが先行するあまりガチガチになるわ、しかも堂々と彼に悟られていたわという失態っぷりだ。どう話そうか、よりもまずまっさきにお礼を言うべきだった。

「ほんとうに失礼なことをして申し訳ございません」

「気にするな。それに、同学年なのだからそうかしこまらなくてもいい」

柳くんの言葉に、ほっと肩の力が抜ける。もう一度背筋を伸ばして「ありがとう」と言うと、彼はそっと口もとをゆるめた。同い年とは思えないくらい落ち着いた振る舞いだ。

「そ、その、柳くんが紹介してくれた本のおかげで今日の展示がすっと頭に入ってきたの。時代が後のほうになると印象派の絵もいろいろジャンルが分かれてくるのとか実際によくみてわかったし…あと、柳くんがとってくれた本もちゃんと勉強になって、えっと、もっと絵が親しみやすくなって見るのが面白くなって」

話していると、ふと柳くんがじっと私を見つめているのに気づいた。見つめているというよりはひたすら聞いてくれているのだろうけれど、私は無性に恥ずかしくなった。

「ご、ごめんなさい。いきなり、その、べらべら喋って」

「聞いていて興味深かった…むしろそこまで講評してもらえて光栄だ。いまさらだが、名前を教えてくれないか?」

「えっと、苗字って言って…あ、私勝手に柳くんの名前呼んで…!」

「俺はなにも呼ぶのも恐れ多いようなたいそうな人間ではないぞ」

「そ、そんなつもりじゃないけど…でも…」

「遠慮はいらない」そう言って、柳くんがあたふたする私を宥めるように涼しげに笑った。もっとこれくらい落ち着き払った中学一年生に私もなれたらいいのにな。なんだか情けなくなって顔を俯かせていると、ふと、柳くんが気づいたように視線を凝らした。

「二枚とも買うのか?」

ポストカードを指しているらしい。

「あ、えっと…さっき落としちゃったから戻したらだめかなって…」

そう返すと、彼はすっと私が持っていたうちの一枚を抜きとったかと思えば、じっとポストカードをながめた。ほんとうに鑑賞しているみたいに。

「よければこのまま貰っていいか?」

「え?」

「俺もちょうど買う予定だった」

「え、でも、新しいのをとったほうが、」

「いい絵だ」

彼はそう言ったあとも、しばらく見つめていた。端的でそして率直な感想のように聞こえた。取り返そうと手を伸ばしたけれど、そんな隙を与えるまもなく「ほかには見て回ったのか?」「えっと、まだ」「俺もまだ終わっていないんだ。一緒に見ないか?」文房具コーナーへとすたすた歩く彼にまんまと誘導されてしまう。そのまま彼は陳列されているノートを手にとりしっかり吟味しはじめたので、勇気のない私は話をぶり返せない。

「なるほど…クリアファイルもよさそうだ」

「あ、うん。その、プリント整理するのに使えるし柄も綺麗だから」

「たしかに何枚あっても困ることはないな」

「そのペンも絵がプリントされててかわいいし···でもこれも買ったら予算がオーバーしちゃうからどうしよう。もう来ることもないからここで買わなきゃもう会えないし、特別展限定だからいっそのこと全部買っちゃうか、でも買いすぎるような気もするし」

「ペンとそのポストカードを買うか買わまいか非常に迷っているということか」

「つまりそういうことで…あ、またこんなだらだら話しちゃってごめんねっ」

「どうやら苗字は熱心になると途端に饒舌になるようだな」

「えっ、あ、その」

「そして極度の緊張状態だと敬語になる、と」

「そ、そんなに分析しないでください…!」

「悪いがこれは癖なんだ」

治す気も到底ないのだ、と言いたげに柳くんが愉快そうに笑う。これ以上話すとますますボロが出てしまいそうなので唇をぎゅっと閉じて目の前の商品に目を凝らした。そんなようすも隣の柳くんに観察されている気がするけれど、ここでむきになったら負けだ。
そうやって柳くんと話しているあいだも彼の手もとにあるポストカードが何度も視界に映った。いまはこの時間に集中しよう。いつかどこかで、お返しできたらいいな。

「あの…それは、ブックカバー?」

「あぁ。どこかのタイミングで買えたらとは思っていたが…どれも絵柄が馴染んで手にとりやすいな」

「かわいいね…あ、あの、柳くん。私も…同じ柄買ってもいい?」

「?問題ないが…?」

「その、被るの嫌じゃないかなって…」

「なにも気にしなくていい」

そう柳くんが笑って、私はほっとした。
こうして誰かと買い物するのもいつぶりだろう。あれはいいねとか、これはどうかなとか、相談しながら決めていくそれだけのことがこんなにも楽しいんだ。
買い物をひと通り終えたあとは、買い残しがないか、予算オーバーになっていないか、もう一度確認した。ポストカード一枚にクリアファイルが二枚。ペンは柳くんと相談して今回は我慢した。そしてなにより外せなかったのは、あざやかなブルーのブックカバーがひとつ。木々や花が湖に反射してゆらめいている様が描かれている絵画だった。ずっと凝らして見ていても全然飽きない。きっといまはものすごく口もとがゆるみすぎて変な顔になってそう。

「どうかしたか?まだ、見足りないものがあれば…」

「ううんっ、その…えっと…」

「?」

「なんだか、お揃いみたいでうれしいなぁって」

今日のことも憶えておこう。もう二回も胸に留めておきたい大切な日ができたなんて、なんてしあわせなんだろう。

「ありがとう、柳くん」

ありがとうも、たくさん言えた。







「もう買ったのかい?」


聞き覚えのある、澄みとおった声。


「あぁ、これから会計を済ませるつもりだ」

「いいね、それ。君らしいよ」彼がちら、とブックカバーを見やる。

「精市は図録にしたのか」

「いろいろ気に入った絵もあったし、今度描くときに参考になりそうだったから」

柳くんを挟んで、すぐ向こうにいる幸村くん。
どうしよう。いままで徹底的に避けていたのにこんなところで会うなんて。でも、課外授業なのだから会っても当然か。柳くんとの買い物に夢中になって気がゆるみすぎていた。そして、とうとう私の存在に気づいたようで、彼の目がじわじわ見開かれた。顔、見られちゃった。絶対私だって気づいている。あぁどうしよう、あのときなんで逃げちゃったんだろう。「苗字?」空気の異変を察知したのか、柳くんが状況を伺っている。

「やっぱりそれにしたんだね」

彼が視線を落としたさきには、私が手に持っていたポストカードがあった。

やっぱり。
やっぱり?
やっぱりとは?
予想が当たっていたとか、そういうときに使う言葉だよね?前から知っているということ?私の好きな傾向とか?そんなの話したことないのに?どうして?

見透かされた理由なんて、もうこれしか思いつかない。


「千里眼…………!!」


神の子にはなにひとつ隠しても無駄なのだ。


「せんりがん?」こっくり。幸村くんが首を傾げる。

「わ、わわたしはひひひひ人違いです!ドッペルゲンガーのほうです!」

「あの、苗字さ「お邪魔してごめんなさい!で、ではここで失礼しますっ!」

レジへと猛ダッシュした私はほんの短い距離なのに息を荒げていた。最近やたらと呼吸困難になる頻度が多すぎる気がする。しかしおかげで店員さんが気を利かせてくれて(ドン引きしていたとも言える)手早く会計を済ませてくれた。もちろんその後も一度たりとも後方を振り向くことなくトイレへと駆け込んだ。







「まだ時間がかかりそうだな…」うーん、と唸りながら彼が眉根を下げた。

「精市、いったい彼女となにがあったんだ?」

「海が好きな理由ってなんだろう」

彼の問いはおそらく回答を求めていなかった。自分のなかで落とし所をつけようとするつぶやきに近かった。逃げるように去った彼女を追う彼のまなざしは、まるで思いを馳せているような意思をはらんでいる。手に持っていたポストカードを見やった。
裏面には、Claude Monet、1883、Le matin d'Étretat

「なにかいいことでもあった?」

「というと?」

「いまの蓮二、機嫌がよさそうだから」

―――――なんだか、お揃いみたいでうれしいなぁって

「そうだな」














「あ、そうそう。せんりがんってなんのことなんだい?」
「…………」

  

神さまの通り道

scene