二月十四日。こんなにもすばらしい日を決めてくれたどこかの国の誰かさんに感謝しなくちゃいけない。それでもって日本にその文化を持ち込んでくれたやつには功労賞をあげてやりたい。甘ったるいカカオの香り。淡い色合いの華奢なラッピング。トリュフ、クッキー、マフィン、ガナッシュ、ブラウニー。選択肢が広くてなにを作っても良しとされるのもまた最高。俺にとってはなにがなんでも重要なイベントだ。
「この前からその話ばっかりね。そんなに楽しみ?」
「だってスイーツをタダでもらえる一大イベントだろぃ?」
「そんなことだと思った」
隣の苗字が呆れがちに言った。
冷えた空気が堪えるいまの季節に中庭で昼飯を食うのは酷なもんだけど、夏に比べたらずっとましだっていうのと、ここは陽あたりがいいからという理由で中庭は苗字のお気に入りの場所だった。とはいえ寒いもんは寒いみたいで、ときどき肩をすくめてはフォークをもった手をもう片方の手で何往復も擦っている。
「でもこの時期は女の子たちもそわそわしてかわいいよね」
そう言って苗字は俺がわけた卵焼きをひと口食べた。
「うん、おいしい」
満足げに頬をゆるませる苗字が見られる、この瞬間のために卵焼きはつくってるようなもんだ。時間がなくても卵焼きだけは絶対手を抜かないって決めている。今朝の朝練も遅刻しそうだったけど「丸井くんの卵焼き食べるのいつも楽しみなんだよ」ふわふわ笑うこいつを見たら頑張った甲斐があったなって本気で思う。俺はつくづく単純だ。
「お前は?なんか作んねぇの?」
苗字は「うーん」こっくり首を傾げた。
「作るつもりだけど、毎年のことだからネタ切れなんだよね。去年は生チョコにしたから今年は焼き菓子のほうがいいのかな。いっそのことチョコじゃないスイーツにするとか…なにかおすすめのレシピとかある?」
「俺はなんでもうれしいけどな」
「丸井くんはなんでも好きかもしれないけど、もうちょっと考えて」
苗字がむっと顔を顰める。なんでもいいはなんの参考にもならないらしい。なんでもいいというのがなにも取り繕っていない最高のアドバイスなのに。
「それこそガトーショコラとかマフィンとかいいんじゃね?大量生産もできるしさ」
「あんまり量はいらないけど……うん、マフィンとかそのあたりにしようかな」
「でもまぁ今年は結構あげるだろぃ?多めに作っといてもいいんじゃねぇの?」
「親戚も遠いし、お父さんと私だけしか食べないんだよね。いっぱい作ったら作ったで私もつい食べ過ぎるから太っちゃうし…」
「ん?」
「え?」
何度も瞬きをする苗字とばっちり顔が合う。
嫌な予感がする。
「……配る予定は?」
「……配る?」
「……人数的にそこそこ作らねぇの?」
「えっ、もしかしてクラスで交換会なんてあった?それってこのクラス全員分?」
「……や、そういうのはねぇけど」
「? ないの?」
「チョコ、誰にあげんだよ?」
「お父さん」
「ほかには?」
「…………ほか?」
今年の一大イベントは、一波乱ありそうだ。
*
女子三人がひとつの机を囲み、首を屈めて熱心に向き合っている。脇を通りすがりがてら覗き見ると、雑誌の一ページが目に留まった。ゴテゴテにデコレーションされたチョコレートバーに、チョコカップケーキ。ぱっと見たところ多分バレンタインレシピ集とかそんなのだ。味のクオリティはそこそこに、けどカラースプレーやアラザンを施してなにより映え重視でカラフルなのが『それっぽい』。
「俺、それな?」
俺の声に女子たちが一斉にくるりと振り向く。「覗き見禁止」「お返しくれたらね」なんて野次を飛ばしながらも互いに顔を見合せては密かに笑っていた。
少し視線を逸らすと、ひとりで机に向き合っている苗字が目に入った。プリントとノートを広げて黙々とシャーペンを動かしている。背筋をしゃんと、綺麗に伸ばして。自主勉かなんかだろう。左から数えて二列目の一番後ろ。角じゃないけどあいつ曰く当たりの席らしく、そこそこ落ち着くみたいだ。
「テニ部にあげねぇのかよ!?」
苗字は目をぱちぱちさせた。
「え、えっと…」
「…………」
「そのつもりは、なかったけど……」
「なんでだよ!」
「こ、声が大きいよ」
苗字はあたりをきょろきょろ見渡す。「そんなにびっくりすること?」俺の迫力に気圧されているというより、引いているらしい。
「なんで作んねぇんだよ」
「なんでって……」
そう言われましても、と言いたげに苗字は目を泳がせている。おずおずしながら上目遣いでこちらの機嫌を伺っている。話題を躱す余裕なんてあたえない。なにがなんでも尋問だ。俺がじぃっと睨みをきかせると苗字の肩がさらに縮こまった。理由を言わなければ俺がさらにヒートアップするのを解ったうえで、おまけに正直に言わなきゃもっと事態が悪くなることを想定したのか、苗字は観念するかのようにため息をついた。
「みんな……特にいらなさそうだから」
「はぁ?」
マジで素の声が出た。いやいや、ありえない。だって、絶対いるだろ。
前のめりになる俺に負けじと苗字も「だって」と反旗を翻す。
「みんなのことだから当日いっぱいもらうでしょう?」
まぁ、もらうだろうな。
「だから作らねぇの?」
「私ひとり抜いたところでもらえる絶対数が多いんだから大丈夫だよ」
びっくりするくらい理由になってない。
なんだよ、大丈夫って。全然大丈夫じゃない。
「あげねぇ理由にならなくね?」
「チョコにも賞味期限はあるんだよ。いっぱいもらったら消化に専念しなくちゃ」
「期限内に食える自信しかねぇな」
「そんなことができるのは丸井くんだけ」
「そういうイベントものこそお前ならつくりたかったんじゃねぇの?友達とチョコ交換的なやつ」
「お菓子作りは好きだけど…昔は幼馴染とかその兄妹ともしてたし、バレンタインらしいことはもう経験してるといえばしてるから」
「ふうん」
「なぁに、そのふてくされた顔」
苗字もそれなり反抗しているようだけど、生憎なんの効果もない。小動物が精一杯威嚇しているみたいでむしろ可愛く映るあの感覚だ。てか俺、なに言ってんだ。
「俺にもねぇのかよ?」
「それは…」苗字は若干顔を固まらせたが、すぐに「丸井くんこそいっぱいもらうんだから私の分がなくても平気だよ」なんて言いのける。
やっぱりだめだ、まるで理由になってない。
俺にもテニス部のやつ誰ひとりにもあげないなんてことあっていいんだろうか。
「んじゃあ俺が全っ然もらえなかったらどうすんだよ。泣きまくってお前のことすげぇ責めるぜ」
「丸井くんがもらったチョコが十個未満だったらさすがに謝るよ」
「なんだよその十個って」
「ほぼ確実に十個以上はもらうでしょう?」
「……知ーらね」
「あ、もらう自信満々なんだ」
「そんなちっちぇ個数は賭けにもなんねぇだろぃ。百個が最低ラインだって。百個以下ならチョコつくるってことで決まりな」
「えぇっ、そんなのずるいよ。言っておくけど一個もらえるだけで凄いことなんだからね?」
「そうか?」
「そうだよ。もっと感謝しなくちゃだめだよ」
ほんとうに、誰にも渡さないのだろうか。
幸村くんにさえも。
結局昼休みはチョコをくれるくれないの押し問答で時間をぎりぎりまで使って、なんの着地点も得られないまま予鈴が鳴った。議論が活発に盛り上がったからか熱量のおかげで寒さも忘れた、と言いたいところだけど、苗字は最後まで寒そうだった。そろそろ教室で食ったほうかがいいかもしれない。
終礼後、椅子の引かれる音、生徒の話し声、教室内が一気に喧しくなる。苗字は掃除当番らしく、教室の隅に備えられたロッカーからほうきを取り出していた。そばを通りかかって、声をかけた。明日の小テスト、今日の部活の練習メニュー、新入生歓迎会の準備、そろそろスーパーに寄らなくちゃいけないとかいろいろ話していた。屋外の掃除じゃなくてよかったと苗字はうれしそうにしていた。
「今日は?」
俺は訊ねた。
「音楽室、行ってくる」
苗字は言った。
どうやら今日は図書室じゃないらしい。じゃあ、と言えば、苗字はやさしく手を振った。
音楽室。きっと部活が終わったら幸村くんも訪れる。殺風景な部屋に大きく構える黒いピアノ。今日もまたあいつは、俺の知らないどこか遠くへと歩いていく。
あの空間でふたりはなにを話すんだろう。そういえば、ふたりのあいだでバレンタインについてはふれられているんだろうか。放課後以外でも廊下や中庭だとか俺の目の届く場所でもふたりが会話している光景はよく見かける。その折にでも苗字からその手の話題を振ったりしないんだろうか。苗字は俺の前ではさも気に留めないふりをしておきながら、実際はなにを作るか、どうラッピングするか、いつどのタイミングで渡すべきか作戦を練りに練っているんじゃないか。
だからって、俺には関係ないことだ。
そんなのを考えたところで、作戦を知ったところでなんにもならないのに、どうして俺は知りたがるんだろう。
もしもそれを知ったとして、俺はどうしたいんだろう。
バレンタイン前日にも俺は粘りに粘った。
「レシピ調べとかねぇと後々大変だぜ」
「まだ気にしてたの?」
苗字は意外そうにおどろいていたけど、こっちは当然おぼえている。
「俺は忘れてねぇからな」
「丸井くんが自分でつくったほうがおいしいと思うよ」
「苗字は卵焼きうまいんだからチョコもうまいって」
「変な理屈」
「つくればいいのにさ」
俺は椅子の背もたれに重力のまま身体を傾けた。ひとつ机を挟んだ向こうの席で女子たちが準備はどうするだの、徹夜になりそうだ、だの相談し合っている。億劫そうな口調のわりに表情は満更でもなさそうだ。
「ほんとうはね、全然考えなかったわけじゃないの」
苗字がふっと軽く息を零した。
「はじめは感謝の気持ちも込めて友チョコつくろうかとも思ってたの。でも、仁王くんはいっぱいもらっても食べきれなくて困るって言ってたし、真田くんもこの手のイベントは苦手だって言ってたからあげても迷惑かなって思って……同じ友達同士であげるあげないの選別をするのも、なんだかなって」
苗字なりに『平等』というところにこだわっていたんだろうか。どいつに渡すか渡さないかなんてほかの誰からもとやかく言われる筋合いもなければ侵害される理由もないのに、それこそ変な理屈だ。たったひとりにのみ渡す権利だってあたえられているはずなのに。
「あいつらは例外だっての。全人類の九割はもらったらよろこぶんだって」
「主語が大きいね」
「壮大ってことだろぃ」
「もらう分にはうれしいだろうけど、だからって規格外にもらったら大変だと思うよ」
「そこまで考えなくてもよくね? つか、単純に俺がほしい」
「丸井くんこそ私があげなくても充分もらうでしょ」
「それでもほしいんだって」
「そんなにチョコばっかり食べてたら鼻血出ちゃうよ」
苗字は眉尻を下げて、申し訳なさそうに笑った。
「みんなのことないがしろにしてるつもりはないんだけど、ごめんね」
そう言った苗字の表情に、俺はなんだかやけにさみしくなった。
「そうは思ってねぇけどさ」
思ってはいない。けど、ほんとうにそれでいいのか。
「俺以外も、お前のがほしいって思ってるだろぃ」
俺はこいつのチョコが俺の手元に届くことを芯から願っているんだろうか。どうしてこんなにも執着する必要があるのか、わからなくなる。
「そんなことないよ」
苗字はやわく微笑った。
「みんな、丸井くんと私ほど甘党じゃないもの」
季節外れのすずやかな声が耳の奥にまで届いた瞬間、確信した。苗字は秘密裏に作戦を練ってなんかいない。ほんとうに、あげる気なんてさらさらないんだ。
開きかけた唇は、重力に従ってあえなく閉じられた。
その日の放課後は苗字とテニス部全員で揃って帰ることになった。道中、苗字と幸村くんは並んで歩いていたけどふたりの会話からはバレンタインだとか、チョコだとかそういう類の単語は聞こえなかった。暗がりの空が街並みを満たしていく。
結果的に、それなりにもらえるんだろうなとは自負していたものの予想をはるかに超えた数が俺のもとに届いた。直接はもちろん、ロッカーからも机のなかからも人づて経由でもありとあらゆる手段でやってくる。
そして、俺よりもはるかに超えた量を幸村くんはもらっていた。そうなるだろうなとは見込んでいたけど断トツだった。本命だとか義理だとかファンだとかを抜きにしても『学校で一番モテる男子にチョコをあげる』こと自体を目的にした女子たちの一大イベントになっているらしかった。もともとあげる予定がなかったやつも周囲の勢いとノリに乗じてついでにあげているのが記録更新に拍車をかけていた。謙虚なのか無頓着なのか無自覚なのか幸村くん本人も想定していなかったらしく、意外と結構、圧倒されていた。
「精市、部室にあった適当な紙袋だが使うか? ひとつだけに詰め込むと持ち手が切れるかもしれない。もう少し分散させたほうがいい」
「ありがとう、蓮二。たすかるよ」
「これがぜんぶ現金なら夢があるんじゃが」
「まるで夢のないことを言わないでください」
「この量だと申し訳ないけど妹と分けさせてもらおうかな…」
「申し訳ないって思うだけでもやさしいけどな」
苗字の予想通り、幸村くんはどう消化しようか考え巡らしていた。少なくとも俺にとっては、おもしろくない結果だった。
今日一日のあいつを思い出す。直接目にしていなくとも、幸村くんが数多の女子からチョコをもらっているであろう光景が耳を通る噂でも周囲のざわつくようすからでもかんたんに察していたはずだ。それでも、あいつはなんら変わらなかった。真面目に黒板に向き合って、俺の前ではふわふわ笑って、ときには凛とした顔つきで本を読む。いつもの苗字だった。昼休みくらいはひとりにさせたほうがいいかと思ってあえて昼飯を誘わなかったけどそんな配慮も意味をなさず、あいつは教室でひとりしずかに過ごしていた。強いていうなら俺がもらったチョコの量におどろくくらいで、それだけだった。
その日の放課後、苗字は学校に残ることもなくまっすぐ帰っていった。
*
「そういえばあの漫画、やっと新刊買えたから今度持ってくるね」
「お、マジ? はやく読みてぇ」
「もっと読みたい本もあるのにそろそろテスト勉強しなくちゃだよね」
「あの期間部活できないのも嫌だよな」
「今回も柳くんの山はりに頼ろうかな」
「…それ俺にも教えてくんね?」
「情報料は高くつくよ」
弁当も食い終わってだらだら話している最中のときだった。ふいに苗字が机の横へと手を伸ばしたかと思えば、俺の前へと丁寧に置いた。「はい、どうぞ」目前に現れたのはさらさらした質感のワインレッドの紙袋。視線で問い返してみるも、苗字はにこにこしながら先を促した。
「もう十四日は過ぎたからこれはただのプレゼント」
苗字の台詞に黒板を見やる。チョークで書かれた日付を再確認した。今日はバレンタイン当日から三日は経っている。
「丸井くんが何回も言うから折れちゃった」
苗字に促されるまま、袋を覗き込む。中からひとつ取り出してみると、パウンドケーキだった。さらに取り出してみると色違いがもうひと種類現れた。
「チョコと……抹茶?」
「いままでプレーンとかドライフルーツとかだけで、抹茶味のお菓子は作ったことがなかったの。せっかくだからつくってみようと思って」
ケーキひと切れずつが透明なラッピング袋に包まれている。フィルムの中央にかけて細いリボンが丁寧に施されている姿はケーキ屋やパン屋のレジ横に置いてあるお菓子さながらだ。にしても、ひとりでもらうには結構な量だ。この紙袋に詰められた個数だけでちいさなカゴ一個分くらいは埋まりそうだ。
「これって、俺の?」
「? ぜんぶ丸井くんのだよ?」
一個貰えるだけもやばいのにこんなにもらっていいのか? やばい、一日でぜんぶ食べたい。つーか俺やばいしか言ってない。てか一気食いはだめだよな。しかもながら食べとかじゃなくて一個ずつじっくり味わって食わねぇともったいないし、これだけは弟にも分けたくない。仁王なんかにも見られたくないから紙袋ごと鞄に入れたいけど形が崩れそうだな。でも手に持ってたら変に反応してきそうだし、あいつ、やたらと目ざといからな。
「ごめんね。もしかしてあんまりだった? 丸井くん和菓子も好きだから勝手に抹茶も好きかなって思ったんだけど…」
苗字が不安げに俺の顔色を伺う。咄嗟に手を往復させた。
「いや、そうじゃなくてさ! うれしいんだけどマジでもらえると思ってなかったからさ…結構びっくりしたっていうか。
すっげぇうれしい。ありがとう」
苗字は胸を撫で下ろして「どういたしまして」ほんのり目もとを赤らめた。なんにもしてないのに脱力感が襲ってするすると肩の力が抜けていく。そして俺は苗字の言葉を脳内で反芻した。これに入ってるの、ぜんぶ俺のなんだよな。なさけない面になりそうなのを必死に堪えて、頬にぐっと力を入れた。
「お父さんも追加のバレンタインだってよろこんでくれたからよかった」
「お父さんのついでかよ」
「そ、そんなことないよ」
俺のジト目に苗字が慌てて反応する。
「つくってるときも包んでるときも丸井くんのこと思い出してたんだよ」
机の上に置かれた苗字の両手が遠慮がちに重なった。
「私ね、丸井くんと友達になれてよかったなっていつも思うんだ。ちょっとしたことだけど移動教室だけでも私にとっては新鮮で、調理実習も丸井くんと一緒にできて楽しかったな。お弁当食べるのも毎日楽しみで、放課後も寄り道してちょっと食べに行ったりとか…一回きりで終るものだと思ってたけど、丸井くん、やさしいから何回も誘ってくれて…私はついて行くことだけしかできなかったけど、いつもうれしかった」
お小遣いはすぐなくなっちゃうけど、と、苗字は苦笑いした。
「丸井くんといたから、いっぱい思い出が増えていったんだよ。ほんとうにありがとう」
俺はつくづく単純だ。
「みんなには内緒ね」
はにかむ苗字の顔にもその言葉にも、どうしようもなくむず痒くなるんだから。
無自覚ほどタチが悪いもんはそうない。本格的に目も当てられない顔になっていそうだったから、最大限隠すためにせめて片手だけでも頬杖をつくふりをしてみる。
「これっきりでお別れみてぇな雰囲気出すなよ」
「来年はクラス離ればなれになるかもしれないし…想像したらさみしくなっちゃって」
「来年も一緒になるかもしれねぇだろぃ」
「確率論的にその可能性は低いって柳くんが言ってたよ」
「もしクラス違ってもお前の唐揚げは食いに行くし帰りも買い食いもするし。学校さえ同じなんだから問題なし」
「私からももっと誘いに行くね」
「んなこと言っていざってときにお前はなんでも遠慮しすぎるんだよな」
「でも前よりは誘えるようになったよ?」
「一緒に弁当食わねぇ?ってはじめて俺を誘ったときのお前、汗だくだくで顔真っ赤で声も裏返っ「そ、その話はもういいからっ」
そして、俺はつくづくくだらない。
幸村くんと比べてどれくらいの割合で俺を思い出したんだろうなんて考えているんだから。
俺はいつも、俺のことしか考えられない。
「まだうまくできないけど、でも、ちょっとは成長したんだよ」
あんなにも自信がなさそうにしていた苗字のなけなしの意地を育てたのも、ちょっとした気概を求められる行動の後押しをしたのも、すべての元を辿っていくと行き着くのはそのひとりだけなのだ。
「悪いって」
頬を赤らめた苗字の頭をぽんぽん撫でたら、伏せられていた目もとがゆったりとやわらいだ。いま頃机の下で苗字の両手は堅苦しく縮こまっているんだろう。
「ほんとに俺だけでいいのかよ」
「どういう意味?」
「ほかにもほしいやつ、いるだろぃ。多分」
「そうかな」
「幸村くんとかさ」
口にした瞬間、頭がまっさらになった。冴えたわけじゃない。青ざめた感覚に近かった。どうしてこの場面でその名を口にしたんだろう。やけになっていたのか、なにも考えていなかったのか、考えすぎたあまり気が抜けていたのかわからない。とにかくいつもの俺ならありえないヘマだった。すばやく頭を回転させようにも平常時ならすらすら出てくる言葉がこんなときにかぎって出てこない。
「幸村くんこそ、困っちゃうよ」
解放されて気が抜けたみたいに口もとをゆるませて、苗字は窓越しの景色を一瞥した。
「あんなにたくさんもらってたのに」
こころを鎮める声。俺の苦手な、苗字の声。しみじみときいて、そうしてどうしていいかわからなくなった。
「そんなの、わかんねぇだろ」
俺は言った。
「丸井くんみたいによろこんでくれるかな」
遠いまなざしに、淡い祈りが帯びているみたいだった。
よろこぶよ。
たったひと言が胸の奥でつっかえた。
平等。幸村くんは誰からのチョコもひとしく、快く受けとる。笑顔で丁重に、あたり障りなく、嫌味なんて微塵もあたえず、相手の好意にこたえる。学校一人気の男子の鑑にふさわしい振る舞いだった。そのひとしさはあまりにもやさしく、残酷だった。
きっと平等にこだわっていたわけじゃない。たとえ瞬間的な実りに終ったとしてもほんの少しでも可能性を掠めとれるなら、苗字なら実行していたんじゃないか。途中まではそれなりに作戦を考えていたっておかしくない。それでも、残酷なまでのやさしさを目の当たりにして平然といられる自信がなかったのかもしれない。もしも幸村くんに渡したとしてその他大勢の一部にしかなり得ない結末しか視えなかったのかもしれない。僅かな展望と莫大なむなしさとを秤にかけた結果だった。
それでも俺は反論したい。幸村くんが、ほかのやつらと苗字のものを一緒くたになんてするわけがない。はっきりとした根拠なんてないくせに、強くそう思う。
けど、苗字に言ったところで響かないんだろう。
あいつにとってなんの説得力もない後押しにしかならない。あげたところで特別よろこばれるはずがないとそんな的外れで凝り固まった想像が苗字のなかに完成している。ちょっとのことで崩せないくらいには、頑丈だ。
冬休み、幸村くんと苗字のあいだでなにかあったはずだった。ふたりを引き寄せる得体の知れない引力が働いていた。見てもいないのにほとんど確信に近い直感が俺の頭一体を覆っていた。そんな引力のほうが段違いに脅威的な存在だろうに、あいつのなかに佇む堅い岩壁を崩すことについてはちっとも働いてくれやしない。
「来年はさ、つくれよ」
俺は、俺のもとに届くことを願っていたんじゃない。
幸村くんへ届けられることをなによりも願っていた。
あわよくば苗字が幸村くんへ手渡す瞬間をこの目で見たかった。ふたりの世界は、ふたりだけのものだと頭に焼きつけるために。そうしてくれたら嫌でも潔く諦められるまじないにかかるような気がした。
「どうしてそんなに気になるの?」
「え?」
「丸井くんなら、俺が独り占めできるんだーって自慢するかと思ったのに」
そんなかんたんなまじないにかかるくらい、とことん単純になりきれたらいいのに。
「そうだよな」
そう、きっとそれが正しい反応だ。
これは苗字がつくって、俺を思って渡してくれた、正真正銘俺だけのものだ。なにを作るか、どうラッピングするか、どのタイミングで渡すか、ぜんぶ苗字が考えてくれた。これ以上求めるものなんて、なにもない。
「ほんとに、ありがとな」
殺風景な音楽室。白くて細長い手に包まれたチョコ。期待と不安と気恥ずかしさの入り混じった瞳。笑いあうふたり。あてのない光景が曖昧な輪郭を保ったまま頭のなかに浮かんだ。
「すぐ食べないの?」
「いま腹いっぱいだから」
「めずらしいね。また感想教えてね?」
「マジうまい」
「ちゃんと食べてから言ってよね」
「食う前から確信できるだろぃ」
「もう」
「絶対うまいってわかるからさ」
絶対はないんだよ、と、苗字はいつもみたいに否定しなかった。
「ありがとう」
明日感想を伝えたなら、どうこたえてくれるだろうか。わからないけど、きっと、いま目の前にいる苗字よりももっとやわらかく、あかるく笑ってくれるんだろうとそう思った。