03

威勢のいい風が通りすぎると、頬と耳きぃんと痛みが走った。
「さっぶ」
そう言って丸井くんが肩を竦ませた。仁王くんは無言のまま顔をマフラーへ埋めたが、苦行にでも耐えているかのようだ。

「部活であったまっても汗ひくと結局寒くなるんだよな」

「来週はもっと寒くなるんだって?」

「冬も夏も一生お断りぜよ…」

「仁王はあと三分家を出遅れると朝練に完全に間に合わない可能性が格段に上がる。要注意だ」

「なるほど、三分も猶予があるんか」

「お前、まだ寝れるって思ったろぃ?」

この時期にもなると吹き荒ぶ風は鋭く、特に海岸沿いの通学路では潮風もあいまって厳しさを増した。思わず呻き声が漏れてしまう。「寒いね」持参したカイロを手の甲へ当ててみるも、到底全身が温まるわけもない。
吹きつける風もなんのその。「大丈夫?」幸村くんはというと極寒の空気に包まれようと動じないどころかむしろ優雅に笑っている。彼の肌は日頃から白いのに冬にもなると一段とすっきりと白く見える。かと言って顔色が悪く見えるわけでもなく、いたって健康的に見えるのが不思議だ。

「冬は好きだけど寒いものは寒くて…」

「赤くなってるね」

幸村くんは指の背をぴたりと私の頬へ当てた。こんな真冬でも彼の手はあたたかくて…なんてことはない。ひえきった感触に思わず声を上げると「ごめん、つい」口ではそう言っているものの軽やかに笑っているあたり悪びれてはいなさそうだ。でもなにより厄介なのは、こんなときでも忙しなく鳴る心臓だ。寒さで赤らむ自分の顔は好きではないけれど、いまだけはありがたい。

「毎朝ベッドから出るのもどうしても億劫になっちゃうよね」

「俺もいつもなら朝は苦手じゃないんだけど、ここ最近は起きるのにちょっと時間がかかるよ」

「洗濯物もベランダで作業するのもつらくてすぐ家に入りたくなるから、せめてこたつがあったらいいのにな」

「苗字さんの家にはないの?」

「うちにもないし、親戚の家にもなかったから一回も入ったことがなくて。だからかな、ずっと無性にあこがれるの」

はんてんを着て、みかんを剥きながらテレビにかじりついて一日を過ごす……こたつという単語だけで、頭のなかには絵本に出てくるような典型的な光景が次々と浮かんでくる。その度にいつか自分も存分に味わってみたいと、冬になっては両親におねだりしていた記憶がある。

「こたつか…そういえば真田の家にはあるよね」

「そうなの?」

「あぁ。常にはではないが、この時期は毎年親戚が集まるからそのときか、佐助くんが泊まりにくるときにも出しているな」

「それこそ昔は新年の挨拶がてら真田の家にお邪魔していたときはこたつで囲んで…俺もよく入れてもらってたよ。なつかしいな」

「いいなぁ」

「しかし、あれはよくない」

よくない、とはどういう意味だろうか。眉を顰める真田くんに首を傾げると

「俺とてたるんでしまうからな」

真田くんの気まずそうに目を逸らす仕草に、私はくすっと笑ってしまった。

「こたつの魔法にかかると真田くんでもぐうたらになっちゃうんだね」

「なら、部室にこたつを持ち込めば部の空気も緩和されるかもしれんのぅ」

「それは断じて許さんぞ」

「真に受けるな、弦一郎」

「しかし仁王くんならほんとうに仕出かすやもしれませんね」

「思い出したら俺もひさしぶりに入りたくなってきたな。ねぇ、今度お邪魔させてよ」

「いきなりだな。まぁ出すこと自体は造作もないが」

「それって俺らも参加していい感じ? …ってジャッカルが聞いてるぜ」

「俺かよ!?」

「いいよ」

「やりぃ♪」

「なぜ幸村が言うのだ!」

「……無理やり上がり込むくらいなら俺はいいぞ?」

「大丈夫、気にしないで」

「だからなぜお前が言うのだ!」

「別にいいだろ?せっかく出してくれるのに俺だけがくつろぐのももったいないしね」

「俺が言いたいのはそういうことではなくてだな……!」

「ちょうどジャッカルも気になってただろぃ? 俺がついてってやるって」

「ついてってやるってな、お前……まぁ、日本に来てからこたつってのをはじめて知ったし実際どういうもんかは気になるけどな。……真田、ほんとに行っていいんだよな?」

「あぁ、かまわん」

「んじゃ、人が集まったほうがこういうのはなおさら盛り上がるだろぃ。お前らも来たら?」

「えぇ、ぜひとも。来週はちょうど部活もオフですしね。あとは真田くんのお家のご都合を調整しなければいけませんね」

「プリッ」

「せっかく集まるならさ、鍋パしようぜぃ、鍋パ!」

「なべぱ、とはなんだ?」

「鍋パーティーの略称だ。この人数にもなるとそれなりの準備も必要だが、弦一郎の家は大丈夫か?」

「おそらく問題ないとは思うが聞いてみよう」

「肉多めだよな、肉」
「むしろ肉しか食わんじゃき」

「おおまかに予算を決めたほうがよさそうだな」

「なにも指定しなければ遠慮なく具材を買い込んでしまいますからね」

買い出しはどう分担するか。なにを買ってくるか。ひとり何円までに収めるか。それぞれが思い思いに好き勝手に考えては話し合っている。まとまりがあるのかないのかわからない。
「みんな楽しそう」
しかし、結果的にいざというときには一致団結するのだから摩訶不思議だ。こうしてみんながふとした日常を成就させるためにそれぞれ違った形に変えてはしゃいでいる景色を、そばで見届けられる時間がいとおしい。厳しい冬の寒さも尖った潮風もすべて彼らのこの瞬間のためにあるように思える。

「なんだか私も食べたくなってきちゃったから今日は野菜でも買って帰ろうかな。お鍋は洗いものも少なくて済むからたすかるんだよね」

「苗字さんはなんの具が好き?」

「えっと…ねぎとかお豆腐とか?」

「なら、君もいまのうちにリクエストしておかないと買い出しに入れてもらえないよ」

「……私?」

「え?」

「私が好きなものより、みんなが好きなものを買ったほうがいいんじゃない?」

「……苗字さん、もしかして」

「?」

「自分は関係ないって思ってる?」

「へっ?」

私が目をぱちぱちさせると、幸村くんはやれやれと困ったように笑っていた。
スーパーでまとめ買い。少し遠出をしてショッピングモールでお買い物。家にこもって年末にやり残した掃除に専念する。さて私は私で来週どうしようかと考えていたところなのに。

「君も来るんだよ」

やや呆れ気味に彼に笑われるけれど、だって、あまりにも想定外のことだ。

「あ、もしかしてもう埋まってた? どこかずらしたほうがいいかな」

「空いてるはいる、けど」

「ほんとう?なら、ちょうどよかったよ。部活がなくても全員で揃うこともめずらしいからね」

「……で、でも」

「でも?」

「私も行くって思ってなかったから、えっと…」

「こたつの話を持ち出したのは君なんだから、君が主催したようなものだよ」

「そ……そうなの?」

「うん、そう」

「……で、でも」

「でも?」

「………でも、私、テニス部じゃないのに」

「はい、そこからは禁止」

幸村くんがぺちっと私のおでこを叩く。きゅっと目を瞑って受けてみるも全然痛くない。おそるおそる瞼を開くと、目の前の彼はしかたないな、といった具合に眉根を下げていた。

「なんでも遠慮しすぎるのは君の悪い癖」

「…でも」

「君がテニス部かどうかなんて形を気にするような連中じゃないよ」

「…でも、みんなに一応聞いたほうが……」



「お話中、失礼します。苗字さんはアレルギーなどございますか?もしくは苦手なものでも教えていただきたいのですが」

「え?」

「皆さんが食べられないものは事前に買い出し候補から抜いておかなければいけないと思いまして」

「あ、えっと、ないです」

「もちろん苗字さんも鍋のスープはあっさり派ですよね?」

「苗字もこってりだよな!? 濃厚白湯とか豚骨とか!」

「……あっさりめの、だし系のほうが好きです」

「俺もあっさり派かな」

「というわけで残念ですが丸井くんあきらめてください。立海テニス部の味覚はどう足掻いても味付け薄めあっさり系に傾くのですよ」

「えー!…んじゃあ鍋の素はいいとして、ほかは……」

「聞くまでもなかったね」

からかいながらも少しの嫌味もない上品さを纏った笑顔は彼の持ち味だ。

「でも、ほかにはなにか?」

ここまで完封されるとお手上げだった。表情からはおぞましさを微塵もかんじられないのに『こういうとき』の彼にはどうしたって逆らえない。そんな私の心情も知ってか知らずか「ならよし」彼はご満悦そうに目を細めた。私は俯いて、赤くなった顔を誤魔化すことしかできなかった。これは、寒さのせいじゃない。そんなところも観察されているような気がしてしばらく顔を上げられなかった。隣の彼がどんな顔をしているか、わかっていたから。

結局、帰りに寄ったスーパーでは鍋の献立を抜きにしたものばかりで買い揃えた。
来週の、とびっきりの楽しみにとっておくために。


*


趣のある日本家屋。畳の匂い。部屋に構える茶色くつるつるした四角い机に、ふかふかのこたつ布団。ガスコンロと大きな鍋。障子戸を挟んだ向こうに広がる縁側。

「愛すべき日本の原風景がここに……!」

訪れたさきは、理想郷だった。

「すごい、苗字さんがもう泣きそうになってる」

「だって、こんな…こんなことってもう一生ないかもしれないんだよ…!」

「そうだね」

「『あぁ』なってる苗字観察してるときの幸村くんってすげぇ楽しそう」

「健気な民を見守る聖母さまのようじゃの」

「これだけ大きな鍋ならかなり具が入りそうですね」

「土鍋のほうが風情はあるがこの人数ではやむを得んからな」

「すでに用意してくれていたのか。すまないな」

「むしろお前たちのほうが買い出しで大変だったろう。にしてもなかなかの量だな」

「かさ増しのためのもやしがそれなりに割合を占めている」

「さっさと切っちまうか。真田、キッチン借りてもいいか?」

買い出しは事前に担当の食材を各々に振り分けていたので準備はばっちり。掃除の行き届いたキッチンは広々としているもののそれでも全員が集うと手狭になってしまうので、具材の切り込みは人員を絞り、桑原くんと丸井くんと私とで分担することになった。幸村くんももちろん率先して手を上げてくれたのだけれど、諸事情を考慮して柳くんがすかさず止めに入った。今回は昆布からだしをとる手順は省いて、手軽に味が決まるだしベースの鍋の素を使うことになった。(「つぎやるときは豚骨系な」などと丸井くんは強調していた)

「えっと……こう?」

「そうそう、できてんじゃん」

「へぇ、あのしいたけってそうやって切ってたんだな」

「写真とかで見てもどうしてるんだろうって思ってたけど、結構かんたんだしこっちのほうがかわいいね」

「食ったら一緒だけどな」

「それを言うなよ」

桑原くんと私がしいたけの飾り切りを教えてもらっているあいだにも丸井くんは手ぎわよく切っていくので、ごろごろした野菜たちはあっというまにバラバラになっていった。白菜、しいたけ、ねぎ、豆腐、大根、にんじん、エリンギ…切っても総重量はほぼ変わらないので目の前に並ぶと圧巻ものだ。消化できるか心配な量だけれど「ヨユーヨユー」丸井くんの台詞の通り、彼らのことだからおかわりもヨユーだと見越して買い込んできたのだろう。

具がぎゅうぎゅうにしき詰められた大きな鍋がどんとガスコンロに構えると、ようやく鍋パーティーのはじまりだ。

「すげぇ腹減ってきた」

「この待っている時間がより食欲をそそられるものですね」

「ガスコンロの火で部屋もあったまってちょうどええのぅ」

分厚いこたつ布団を捲って膝頭を入れると、じんわりと温もりが伝ってくる。あぁ、やっぱりここは理想郷だった。

「これがこたつ…」

「いまにも召されそうな顔だね」

「人生の終わりには棺桶じゃなくてこたつに入りたいなぁ…」

なさけない顔をしているであろう私を幸村くんが微笑ましくながめている。墓場まで持っていけるのなら持っていきたい。これにさえ入っていれば、やなことなんてぜんぶ浄化されそうだ。

「せっかくだからもっと足伸ばしなよ、冷えただろ」

「じゃあお鍋が温まるまでちょっと…狭くなってごめんね」

「あっちはとっくに足を崩してるよ」

「こたつに入ったまま寝過ごしたりするのもやってみたいね」

「さて、弦一郎がなんと言うか」

「…さ、さっきのはなかったことに」

「なんの話だ?」

「苗字さんがこたつに入ったまま寝「ゆゆ幸村くんっ」

ぐつぐつ煮立つ音が大きくなると、蓋の隙間から煮汁が僅かに吹き出しはじめる。それを合図に蓋を開くとふかふかの湯気が高くのぼっていく。だしの匂いもふわっと部屋に広がっていく。心なしか鍋を覗くみんなの目がきらきらしている気がする。

「おっ、できてるできてる」

「ちょうどいい具合だな」

「ではさっそくいただきましょうか」

「あく取っていかないとな」

「いただきます」

「仁王くん、肉ばかり食べてはいけませんよ。野菜もしっかり摂ってバランスよくです」

「母ちゃんみたいじゃの」

「真田も地味に多く取ってねぇか?」

「あ、ずりぃ!」

「む、俺は肉も野菜もほぼ均等に食べているつもりだ」

「『ほぼ』の偏り具合が凄い気がするんだが…」

「あ、柳生くんの眼鏡曇ってる」

「そうまじまじと見られると恥ずかしいものですね」

「ふふ、かわいいね」

「苗字さん、ちゃんと食べてるかい?」

「うん、大丈夫。幸村くんおかわりいる?」

「ありがとう」

「すぐなくなりそうだから、余りの具もこっちに持ってくるね」

「肉の消費ペースが思っていたよりも早いな」

「だから肉はもっと買っといたほうがいいって言っただろぃ」

「ちなみに、俺は誰がどの具材をどの分量で摂取しているか把握済みだ」

「そんなデータまで!?」

「つまり肉を独占している人物を特定できるというわけですね」

「そんなやつがいたら罰ゲームが必要だね」

「幸村が言うとまったく笑えんのじゃが」

「締めのためにスープもとっておかないといけないぞ」

「あっ…美味しいからつい飲み過ぎちゃった」

さすが中学生男子といったところか、鍋に埋もれていた野菜と肉は綺麗さっぱり消費された。量のわりには人数で割るとたいした金額でもないので、さすが立海の頭脳、柳くんの手腕だ。

締めは事前に催された多数決により、ご飯に決定していた。余った鍋つゆに水洗いしたご飯を入れて、蓋を閉じて煮立たせる。とき卵を全体に回し入れ、もう一度蓋をして蒸らしたら、ふわふわの卵雑炊の完成だ。野菜と肉だけでも満腹になったはずなのに、締めは別腹なのかペースを落とすことなくみんなのお箸は進んだ。

「ごちそうさま」

「ずいぶんあったまりましたね」

「むしろ暑い」

「ふぅ…結構食ったな」

「もしつぎにするときは昆布からだしも取ってみたいな。せっかくだから春菊とか水菜も入れて…あ、メインを鱈にしたら幸村くんの好きなお魚で鍋もできるね」

「それいいね。よし、つぎはそれにしよう」

「来年のメインが決まりましたね」

「幸村の目に一切の迷いがない…!」

「えっ、それじゃ豚骨スープと合わねぇだろぃ!」

「俺も賛同しよう」

「柳もかよ!?」

「丸井、当分豚骨系は諦めるナリ」

洗いものを済ませたあとは、みんなでこたつを囲んでトランプをすることになった。神経衰弱にばば抜き、大富豪、ポーカー…ありとあらゆるカードゲームをした。柳くんは記憶力が抜群だし、仁王くんにはばばを見抜かれるし、柳生くんはいかにも物腰やわらかく見せつつも仁王くんに劣らない洞察力を披露し、真田くんの気迫に怯み、丸井くんと桑原くんはいつのまにかタッグを組んで臨んでくるし、幸村くんは涼しげな顔をしておきながら凄まじい圧をかけたりと、一瞬たりとも気を抜けなかった。やいやい騒いで盛り上がって、冷やしかしたり探りあったり、波瀾万丈な時間を過ごした。これでもかと頭を捻って、いっぱい喋って、ときにはお腹が痛くなるくらい何回も笑って、ほんとうに疲れるものだった。


*


お手洗いを借りて、戻った頃。ゆっくりと廊下を歩いていく。白い光が木目に反射するくらい磨かれた縁側。
部屋の障子を少しだけ開けてみる。丸井くんたちはトランプをやめて、真田くんから借りた花札を持ち寄って飽き足らず遊びつづけているようだ。机を挟んだ対角線上で真田くんと柳くんは将棋の検討会に勤しみ、幸村くんはそばで見守るようにしずかに本を読んでいた。私はそっと障子戸を閉じた。

向かいのガラス戸を開くと、すうっとゆるやかな風が入り込む。膝を抱えて、縁側に座り込む。微かに木の軋む音が鳴った。目の前には丁寧にととのえられた日本庭園が広がっている。意味もなく石畳を数えるなどしても、うっかりするとうとうとしそうだ。完璧な静寂というわけでもなく、障子戸越しにときどき漏れ出るみんなの声がいっそう心地よいノイズになっている。ひんやりとした空気が火照った身体を包んでくれる。

戸の開く音がした。

「ここにいたんだね」

振り返ると、幸村くんが私を見下ろしていた。

「なかなか帰ってこないから迷ったんじゃないかって思って」

「ちょっと暑かったからぼうっとしたくて」

「隣、いいかい」

「うん」

戸を閉めると、彼も隣へ腰を下ろした。片膝を立て、膝に手を置きながらラフな姿勢をとっていた。

「いっぱい大声出したから喉が痛いな」

「いつも以上にはしゃいでたね。見てておもしろかったよ」

「七五三のときに伸びる幸村くんの手がこわかった」

「そう? 君の手は叩かないように配慮はしたつもりなんだけど」

「幸村くん、容赦ないんだから」

「いまさら知った?」

「前から」

冷えた空気が眠気を覚ますにもちょうどいい。隣にいる彼との距離も、ちょうどいい。少し前までなら彼の近くにいるだけでそわそわしてばかりだったのに、いまじゃもう気張らずにいられる。音楽室の狭い椅子にふたりで座るのはまだ慣れないけれど。

この一年で、ずいぶんと変わった。

「ありがとう、幸村くん。誘ってくれてうれしかった」

「俺はなにも。みんなだって最初からそのつもりだったよ。つぎもそのつぎも、君も一緒に集まろうよ」

さらさらした葉っぱがたくさん生えた細長い木。そばには手入れのされた小ぶりな植木も供えられている。

「少し前までは、こんなところに私がいるなんて信じられなかった」

彼もひと言も発しなかった。私の表情を伺うこともしなかった。
しばらくして、私はようやく口を開いた。

「今日みたいなお鍋も友達とできるなんて思ってなかった。きっと頭のどこかではいつかできたらいいなって考えてたのかもしれないけど、少なくともまっさきに思いつく夢にはなかったの。想像もできなかったからだと思う。去年のいま頃はそもそも友達ができるとも思ってなかったから。だから幸村くんに訊かれたときもびっくりして、私なんかがいいのかなって……でもそうやって『自分なんか』って謙虚がいき過ぎて卑屈になるのはだめだって、遅すぎるけどやっと気づいた。みんなのやさしさを無碍にしているような気がするから、もっと積極的になっていこうって」

しかしときどき、そこにいられたらあとはなにもいらないと思えていたあの頃の自分と乖離するのではないかと考えてしまうのだ。

「でもそのうちいつか、こんな奇跡みたいなことにさえ慣れてしまうんじゃないかと思うと、ちょっとこわい。もっともっとっていま以上のことを欲張って、前までなら満足できていたことでも見過ごしてしまうんじゃないかって」

しあわせばかりがあたえられるわけじゃない。幸福も不幸も平等に巡り巡るのだ。最大限の幸福に飽き足らずにこれ以上を求めてしまえば、取り返しのきかない後悔に苛まれるのではないかと考えてしまうのだ。ほんとうに大切なものを置きざりにしていく、そういう後悔に。

彼は私を一瞥した。

「大丈夫だよ」

そしてまもなく前を見やった。

「それなりに貪欲なくらいがしあわせになれるんだよ。きっと、なにも悪いことだけじゃない。もっとって思うから成長もできることもある。無欲だからうつくしくて完璧なものとも限らないだろうしね。
積みあげていったからといって上書きされて、まっさらになるわけじゃない。そのぶんだけ深みも重みも背負っていくことになるよ」

「幸村くんらしいね」と言えば、「君が教えてくれたんだよ」と彼は言った。
おだやかで、そしてたしかに意志的な力強さを密めている。

それに、と彼がつづける。

「このさきもずっと君はこの景色をあたりまえにはしない。なんとなくだけど、そんな気がする」

素直に受けとめられない臆病さも、なにものでもないものを求めてしまう貪欲さも、そんな弱さを見守ってくれる。彼はこういうひとだった。きっとこのさき何遍も彼との時間を噛みしめては、せつなくなって、むなしくなって、いとおしくなる。

私がくしゃみをすると、幸村くんはすぐに反応して「そろそろ入ろうか」すくっと立ち上がった。差し伸ばされた彼の手を取ると同時に彼が苦笑した。
「冷えてしまったかな」
腰の重い私を軽々と引き上げる彼の手は、ほんのりとあったかかった。

障子戸を開くと、机の上には人数分の湯のみと箱に収まったトランプと花札だけが置かれている。ひとの気配も熱気も清々しいまでに消えていた。

「あれ?みんな…」

「アイスが欲しいとかってさっき言ってたから買いに行ったのかも。蓮二と真田は家にある骨董品を見にどこかに行ってたからふたりはすぐ戻ってくるんじゃないかな」

膝を折って足をこたつへ忍ばせると、幸村くんは私の斜め向かい、L字型の位置に腰を落ち着けた。手も一緒に中へ入れるとぬくもりが肌の上で痺れるように広がっていく。

「さっきまでさわがしかったせいか、なんだかやけにしずかに感じるな」

「ほんとうに。でもみんなが帰ってきたら一瞬で騒がしくなるね」

「こたつで温まったかと思えばすぐゲームがまた開催されるだろうし」

「私はそっちのほうが好きだよ」

戸から漏れる微かな風が背中を掠める。人気がなくなったせいかいままで気にしなかった時計の秒針の進む音もよく聴こえる。なにもしないこの時間がまったりとして、心地いい。

「やっぱり決めた。いつか私もこたつ、置くことにする」

「決意表明?」

幸村くんの得意げな表情に、私は潔く頷いた。

「今年もお父さんにねだったんだけど、なかなか折れてくれないの」

「そうなんだ?」

「だらけるだろうからって許してくれなくて。今日みたいにお鍋もそうだし、こたつに入ったまま漫画読んだり、映画観たり、そのまま寝たりしたいのに」

「だらける気満々じゃないか」

幸村くんがおかしげに笑うから私はかっと顔が熱くなった。なんて幼いんだろうと自分でも思うけれど、ちっぽけな意地を見せつけて「幸村くんだって将来家にこたつがあったら病みつきになるはずだよ」言い返した。

「もちろんそれだけじゃないよ」しゃんと背筋を伸ばして弁明の姿勢を見せたら、幸村くんは「へぇ?」からかいながらも先を促した。

「冬にぴったりだからっていうのもそうなんだけどね。こたつを囲みながら話して、ときには思い思いに過ごして……絵本とか漫画で見る度そういう世界にいつもあこがれてた」

この和室もそうだ。外から逃げるようにして帰ってきたら、きっとまっさきに駆け込む先はこの空間だ。たとえそれぞれが違うことをしたっていいからみんなが集まる居場所。戸の隙間から覗いたあの光景が思い浮かんだ。

「自然とそこにひとが集まるような、あったかくて、帰ってきたらほっとできるような場所をつくりたいの。友達はもちろん、将来もし旦那さんとか子どもとか家族ができたら一緒に入って過ごして……おばあちゃんになってもこんなふうに大切なひとと一緒にまったりしたいな」

幸村くんは、私の顔をじっと見ていた。また私はひとりでべらべらと喋っていたんだ。彼がつまらなさそうな顔をしていたわけではないけれど、無性に気恥ずかしい。
「こんなふうっていうのはなにも幸村くんがおじいちゃんみたいとかじゃなくて」慌てて言うと、「なにもそこまで思ってないよ」彼が吹き出した。

「とてもいい夢だと思うよ」
彼はしみじみと冴え渡る響きで、そう言った。
「俺も将来はそんなふうに過ごしたいな」

たしかに私の目を捉えていた。
どうしてそんなにもやさしく笑ってくれるのだろう。

「でも幸村くんがおじいちゃんって想像できないね」

「おじいちゃんか…あ、でも名前おばあちゃんは結構かんたんに想像できるよ。こたつにはお饅頭とか煎餅とか、おやつは常に置いておかないといけなさそうだよね」

「そ、そんなこと…!」

「そんなこと?」

「……ある」

「ははっ、ほらね」

「ついでにみかんも置いてほしいな…なんて」

「精市おじいちゃんは買い物が大変だ」

「テニスをしていた名残できっと腕力は残ってるよ」

「あ、そんなときだけ都合よくテニスの話を出すんだから」
彼は軽やかに笑った。
「ひとりで買い物は大変だから付き合ってほしいな」

胸の奥が締めつけられた。

「朝の庭仕事はどうしても寒くてね、一気に身体が冷えてしまうんだ。だからすぐに駆け込めるこたつがあったらちょうどいいんだろうな。家だとたまに家族とボードゲームもするから、そういうこともしたら楽しそうだよね。リビングで妹に絵を教えたりもするけど……こたつだと絵は描きにくいかな? 俺も君みたいに動きたくなくなったら大変だけど。
ずっと籠って過ごすのも悪くないけどひとりはつまらないだろうから、せっかく満喫するなら、一緒じゃないと。もちろん机周りの準備は手伝うからさ」

私は、唇の端を上げて頷くだけでせいいっぱいだった。
ほんとうにそんな未来があったらいいのに。
彼の思い描く未来に、その隣に座ってもいいのだろうか。どうしたって尋ねられなかった。ありもしない話をひとりではしゃいでいるだけの稚拙な問いかけにしかならなかった。

「つくってくれたら、すぐにでも行くよ」

それでも、実体のない夢物語に付き合ってくれているだけだと解っているのに、彼も私と同じようにのぞんでくれているのだと勘違いできた。いきいきとした語調で、時折肩を揺らしては、ほがらかに目を細める彼をこんなにも近くで見られたことがただうれしかった。





「みんな遅いね」
「ここからスーパーまでちょっと距離があるからね」

木製の枠の掛け時計を見上げると、彼もならって顔をあげた。瞼をぐっと閉じてから、何度かまばたきを繰り返す。口に手を当てた仕草に気づいたのか「眠い?」彼が尋ねた。

「お腹もいっぱいだから余計にね」

そう言うと、幸村くんは満足げに口を緩めた。

「じゃあ、せっかくだから」

幸村くんは背を畳へ預けたかと思えば、上半身をこたつのなかへ収めはじめた。しかも最大限こたつ布団が胸もとにかかるまで足を折り曲げているのだから、私の眠気は一瞬で覚めた。

「君もどう?」

「え、でも」

「足、ぶつかるからこっちにおいでよ」

幸村くんが寝転びつつ、もぞもぞと肩を動かしながら机の端にまで移動する。たじろいでいる私を幸村くんは視線だけで促した。おずおずとあたりを一通り見回した。慎重に彼の隣へ移動する。誰もいないのに極力音を立てないようおもむろに上半身をこたつへ潜らせた。
開けてはならない扉を開いてしまった気分だ。
ふたり揃って仰向けになって寝転んでいた。格子状に巡らされた木製の天井とまあるい蛍光灯。左へ顔をやると立派な壺と掛け軸。すずめのような小鳥が細い枝にとまっている日本画だ。至ってなにも変わっていないのに、視点が変わるとなぜだか部屋の構造やインテリアが気にかかる。そして右へ首を捻ると、幸村くんがいる。
すっとした鼻筋。重力にしたがってなだれ落ちる癖毛。かたちのいい唇。「あったかい」瞼を閉じたまま、彼がそっと呟いた。綺麗な横顔。なめらかな大理石の彫刻物のようだ。どこかに展示でもされていたら一瞬で惹きつけられる自信がある。

ふいに、彼が目を開いた。心臓が跳ねた。

「はじめての感想はどう?」

顔をこちらへ傾けて、彼が訊ねた。悟られないようしどろもどろになりそうになるのをぐっと堪えた。なにを焦っているんだろう。こんなの、やましいことを考えているみたいだ。

「あったかくて、とけちゃいそう」

「ほんとうだね」

座布団だけでは物足りないのか彼は自身の腕も折ってこめかみの下へ敷き、枕代わりにした。自然と彼の全身は私のほうへ横向きになった。私が天井を仰いだままでは違和感があるので、彼にならって私も身体を横へ傾けた。隣で座っているときは特別どうというわけでもなかったのに、いまは妙に意識してしまう。彼がふっと目を細める些細な仕草でさえも胸を高鳴らせる。

「俺も昔は冬になると真田とこたつで寝てたんだ。風邪引くからって親にもよく怒られたっけ」

「…真田くんが戻ってきたら、怒られるかな?」

「そのときは君がしてみたいって言ってたからって言っておくよ」

「そんな…!幸村くんも同罪だよ」

「あれ? そうだっけ?」

肩を揺らして笑う彼は悪戯をしかけたちいさな子どものようだ。

「行儀が悪いもの同士、よろしくね」

私があえなく観念するしかないことも彼は承知の上だから質が悪い。

「年始は蓮二も呼んでここで書き初め大会もやったんだよ」

「新年らしくていいね」

「来年は君も呼ぶよ」

「ほんとう? 季節の節目でそういう行事ごとはみんなでしてみたいな。春はお花見とか、夏は流しそうめんとか、秋はお月見とか…」

「ふふ、いいね。来年はもしかしたらここに誰か増えているかもしれないし」

「そっか…幸村くんたちに後輩ができるんだよね。もっとにぎやかになってるのかな」

お花見によさそうな公園はどこだとか、流しそうめんをするなら竹がいるかとか、そういえばアイスはなにを買ってきそうかとか、ゆったりとした歩調でいろんなことを話していた。喋っている最中にも幸村くんが足を使ってちょっかいをかけてくるから、私も負けじと足で何回も彼の足をつついた。くすぐったくて、おかしくて、何回も笑った。

しかしそうしても、少しでも会話に間があるとその隙を狙って睡魔は襲ってくる。重たい瞼をどうにか閉じまいと意気込んでもたいした抵抗にならない。そんな私を見かねて彼が言った。

「みんなが帰ってきたら起こしてあげるよ」

いつもなら遠慮していたのだろうけれど、今日はどうにもならなさそうだ。

「ありがとう」

うまく言えただろうか。瞼を落とすと同時にあえなく意識は遠のいていった。
彼がなにか言ったような気もするけれど、よくきこえなかった。問いかける気力も湧かない。



はしゃいでいたさきほどとは打って変わって、しんしんと眠るいまの彼女は途端に大人びて映った。長い睫毛。ほのかに赤みを帯びた唇。僅かに上下する華奢な肩。こたつ布団を引っ張り、なるべく彼女の肩を覆うようにかけた。

「花見の前には、バレンタインがあるんだけどな」

深く沈んだ彼女の耳には届いていない。
指さきで彼女の頬にかかった髪を掬い、そっと耳にかけた。

「おやすみ」









襖を開けると、騒がしさの余韻もほとんど残っていない空っぽの和室が広がっている。

「これは…」
「おおかた買い出しにでも行ったんだろう」

部屋の隅へとおかれた鞄を見やり、柳が言う。

「どうやら留守番もいたようだ」

ふと、こたつのそばで柳が足を止めた。顎へ指を置く仕草は彼が対象に深く興味を抱いている証だ。真田も気にかかって覗き見ると、真下に広がる光景に軽くため息をついた。

「まんまと嵌められているではないか」

ここに一度入れば、たるんでしまうのだと忠告しておいたのに。一瞬眉を顰めたが、ほどなくして表情を緩めた。

「ほかに部屋に空きはあるか?」
「そうだな…二階にはなるが、あそこなら構わんだろう」

それは助かる。柳は自分ごとでもないのに礼を言った。携帯をとってメッセージアプリを開く。和室に入るのは控えておけ、と、先立って連絡しておかなければいけない。買い出し組が戻ってきたら途端に騒々しくなるだろうから。

「当分はそっとしておこう」

柳の台詞に、厳格な真田もめずらしく意義を唱えなかった。

この空間にはしあわせがとけだしている。頭を寄せ合いながら、夢に包まれたふたりを残して、そうっと襖が閉じられた。
  

神さまの通り道

scene