息継ぎ接いだ

それは、まさに帰る直前。靴箱からローファーを取り出そうとした瞬間のことだった。

「苗字、少しいいか」

振り返ると、真田くんが立っていた。

「すまない、すぐ終わる」

あらためて仕切り直す意気込みなのか、真田くんは黒いキャップを深く被りなおした。その仕草に私も鞄を持つ手に自然と力がこもった。
こうして彼と面と向かいあうのはひさしぶりだ。鉢合わせたとしても軽い挨拶程度でしか言葉を交わしていない。彼と直接なにかあったわけじゃない。あの一件以来、いまだに私が一方的に彼を含むみんなから距離を置いているだけのことだ。元来厳かな顔立ちをしている彼だが、いまはさらにその表情はおろかただよう空気も強ばりを増している。下校のピークということもあって周囲は生徒が当然のように行き交っている。
どこか場所を変えようかと考えたところで、

「幸村、なぜお前がいる」

「いちゃだめなのかい?」

訝しげに睨む真田くんを構わず、幸村くんはひらひら手を振っている。「やあ苗字さん」この状況にかろやかな挨拶はどうも似つかわしくない。

「……そういうわけではないが、」

「真田がよからぬことをしかけそうだから気が気がじゃなくて監視してるんだよ」

「…ったわけが!!どういう意味だ!!」

「さささ真田くん!ゆ、幸村くんも…!」

真田くんの怒号がフロア中に響き、あたりがどよめく。あぁ、視線が痛い。険しく顔を顰める彼を物ともせず白い目で見つめる幸村くん。幼い頃からの仲がゆえなのか、幸村くんは真田くんをぞんざいに扱う節がある。ときどき、しかし露骨に。そのテンポの快調さからして彼らにとってはただの日常会話なのだろうけれど、鑑賞する側としては少々心臓に悪い。にしても幸村くんの懸念しているポイントがなんなのか私にもわからない。警戒を強めているというより、おもしろくないとでも言いたげな口調だ。せめてもの譲歩(?)からなのか私たちから一歩距離を置いた位置で監視はしてくれるみたいだ。

「まぁいい」空気を立て直すように真田くんが咳払いをした。どうやら本格的に諦めたらしく、幸村くんの監視を承諾したみたいだ。これはこれでそわそわするけれど「お前に言わねばならないことがある」彼の射抜くような視線と合うと、背筋がぴんと伸びた。
しばらく間をおいて、彼が口を開いた。

「あのとき、無神経な発言をしてすまなかった」

「え?」

「お前の心境や立場も考えず、責めるようなことばかり言ってしまった。ほかにもっとかけねばならない言葉があったはずだった」

─────なぜはやく言わなかった

すぐに思い至った。

「いまさらだと思うかもしれんが、どうしても謝りたかった」

眉間に皺を寄せ、思いつめるような彼の表情に、胸の奥がぐっと詰まった。

「真田くんが謝ることじゃないよ」そう言ったが、彼は納得しきれないようだった。私はつづけた。「誤魔化せないところまできてたのに、どうにか隠し通そうってそれしか考えてなかった。それが、結果的にみんなに迷惑かけることになったのに」

「迷惑などではない」間髪入れずに彼が言う。「必要以上に自分を責めるな」

真摯なまなざしが、私を捉えた。その瞬間、胸の奥を何度も小刻みに突かれるような感覚がした。
いまさらなんかじゃない。
きっと彼は、距離をとり続ける私にいつどのタイミングで声をかけようかずっと見計らっていたのだ。もしかしたら幸村くんに相談もしたのかもしれない。どれも、怯えたままの私を推し量ってくれているから。
どうして私はいつも、私のことしか考えられないんだろう。

「たしかに厳しい言いかただったかもしれないけど、それが真田くんのやさしさだってちゃんと伝わったよ。私は弱くて、なおさなくちゃいけないところがいっぱいあって……その度に真田くんははっきり言ってくれるよね。あの瞬間はつらかったけど、でも、それ以上に真田くんがこころを込めてくれたことが、うれしかった」

言わなければいけないと思うなら、言ったっていい。静観していれば平和になると思っていた私に、いつしか彼が言ってくれた言葉だった。とびきり肝心で単純であたりまえのことは、なによりも難しかった。どの場面でも実践できているとは到底いえないし、うまい塩梅も使い分けもタイミングも掴みきれていない。突き詰めてしまえば、世渡り上手にこなすための方法とは呼べないのかもしれない。
それでも、あの言葉がきっかけで変わろうと思えた瞬間は、このさきもずっと大切にしていきたいと思った。

「真田くんに言われると落ち込むこともあって、でもその度に頑張ろうって思えるんだよ。まだ全然足りないかもしれないけど真田くんのおかげで、我慢するだけじゃなくて…ちょっとずつ思ってたことが言えるようになったの。真田くんと友達でいられてほんとうによかったって、思ってるから」

涙を抑えきれなかった。胸の奥に押し込んだ感情がいくつも迫り上がってくるのに、不思議とちぎれそうにはならなかった。
あたたかくて、ふわふわする。なつかしくて、恋しい。そういえば、ここはそういう場所だった。

「···…だから、その、また、真田くんと将棋したいです······」

鼻を啜り、声を絞り出しながら途切れ途切れに喋る。時折そばを通り過ぎる生徒が不思議そうな目で私たちを見やる。真田くんが変な目で見られないようはやく泣き止まないといけないのに。瞼に手の甲をこすりつけるのに夢中になっていると、すぐそばから彼のため息が聴こえた。

「毎度のことだがお前は極端に涙脆いな」

「ご、ごめんなさい。こんなのたるんどるだよね。もっと練習しないと、」

「いや、それでいい」

口もとを僅かに緩めた彼は、呆れながらも、安堵した表情を浮かべた。私が彼へ手を差し出すと、彼も自然と手を伸ばした。太くて大きな硬い手。彼の力強い握手は私を毅然とした態度にもさせ、同時に胸のうちをやわらいでもくれた。

「腕は鈍っていないな? あっけなく詰まんよう、ひさしぶりに指す前に鍛錬しておくんだな」

「将棋崩しなら真田くんに負けないもん」

「…はさみ将棋で慣らしてからでもよさそうだな」

真田くんがやれやれと呆れる一方で、私はまなじりを拭いながら、笑っていた。
ふと振り返ると幸村くんと目が合った。よかったね、と、そう言われたような気がした。するすると肩の力が抜けた。

しかし、そんなおだやかな時間も束の間のことだった。突如、幸村くんの表情がすうっと冷める。ぽんと私の肩に手を置いた。

「真田に告白した苗字さんがフラれて泣いているように見えるみたいだからさっさとはなれてくれるかい」

「へっ!?」
「な、なにを言う!?」

私の奇声と真田くんの怒号が綺麗に重なった。「そんなわけがなかろう!」真田くんの顔はかっと赤らみ、握りしめられた拳はわなわな震えている。そんな馬鹿なと反論したくなるが、捉えようによってはそう見られてもおかしくないのかもしれない。女の子たちにしきりに見られているのには物珍しさ以上の理由があったらしい。私はどう思われても問題ないが(なくもないけれど)、私の涙腺の貧弱さが真田くんに甚大な被害をあたえているのはあまりにも不本意だ。さあおいで、と幸村くんが背後から私の肩を掴み、じりじりと真田くんと私を引き剥がしていく。

「ごめんなさい真田くん、私のせいでよからぬ噂が広まったらど、ど、どうしよう」

「大丈夫。そんな噂は俺が跡形もなく打ち消しておくからね」

首を捻ると、満面の笑みで私を見下ろす幸村くんが待ち受けていた。
「あ、ありがとう、ございます」
善意は無碍にあつかえない。にこにこ。大丈夫。跡形もなく。如何様な手段をとるのか非常に気になる。が、この言葉を深掘りする度量は持ち合わせていない。
「さっさと散らんかあ!!」
向こうでは真田くんが眼光を尖らせてあたりに叫びまくっている。注目をこれ以上浴びないための彼なりの配慮なのだろうけれど、逆効果でしかないのでどうか控えてほしい。

込み入った話をするなら慎重に場所を選ぶべし。今日も今日とて教訓を得たのであった。


*


二歩進んで三歩下がるくらいなら、歩幅が狭くとも一歩ずつ着実に。少しずつでいい。彼の言葉に甘えすぎていると思いながらも、いまの私にはしっくりくる。前までなら日常を取り戻そうとひとつ行動する度に負の感情ばかりが先行してくたびれていた。けれど最近は、胸が浮き立つような感情が大きく匂い立つ。光の粒にふれている感覚。せつなさとなつかしさにみちている。拾い上げて、いつしかまた大きなかたまりになる日を願って。

「また、柳くんのおすすめの本をお借りしたい、です」

ごくんと唾を飲み込む。この数分の合間に何度繰り返したかわからない。廊下で向こうから歩く彼を見かけ、咄嗟に声をかけた。ひと目のつきにくいいまが絶好の機会だった。とはいえこのひと言を発するだけでうじうじしすぎだ。彼はそうとう辛抱強く待ってくれたと思う。手汗が滲みかけたところで、彼がふっと微笑った。

「俺もちょうど買ったばかりの新刊を読み終えたところだ。明日にも持ってこよう」

「……ぁ、ありがとう」

「苗字からもおすすめはあるか?」

「あ、ありますっ。私も明日…持ってくるね」

「感想ノートもそろそろ再開しないといけないな。柳生も気にかけていたぞ」

心音がゆったりとテンポを落としていく。きっと彼は、以前と同じ近しさに戻すことに躊躇している私の心情を思慮深く考えてくれている。

「表情筋が異常に緩んでいる。少なくともひとりでいるときは抑えておいたほうがよさそうだな」

「……私?」

「俺のことだと思うか?」

ぶんぶんと首を何往復も振る。柳くんがにやにや笑うわけがないのにわかりきった質問をしてしまった。勢いよく頬を抓り、正常な顔へ戻そうと試みたが、そこまでしなくていいと柳くんにやんわりと制止されてしまう。なんだかいろんな意味で、熱い。

「ごめんね。その···柳くんと本の交換できるのひさしぶりだから、うれしくて」

彼は黙り込み、しばらく思案していたかと思えば「放っておけないのも無理はないな」苦笑気味につぶやいた。どういう意味だろう。尋ねるべく口を開こうとする手前「こちらの話だ」案の定先回りをされるのが常だ。毎度のことだが、今回も真意は迷宮入りだ。

「精市とは話せているか?」

少しずつ、幸村くんと話す時間は増えている。美術室、音楽室、海。ひとの気配を極力感じない空間限定にはなるけれど、気張らずに幸村くんと話せることはなによりうれしかった。できれば以前のようにもっと私からも誘ってみたい。彼もきっと気を揉む私の心情を察しながらもあえて待っているのだろう。
柳くんの問いに頷くと、予想通りといった具合に彼は満足げに頷いた。

「お前のことになると精市も案外わかりやすくてな。意外性もあって、データの修正も度々起こる」

データの修正とは?柳くんの関心ごとはちょっと不可解だ。たいていは明快な彼でも時折複雑な説明を寄越してくることがある。おそらくそれはわざとで、いま詳細を求めたところでそんな結果にしかならない予感がした。

私はもう一度息をととのえた。ひとつ、これだけは訊ねておきたかった。

「あの日のことなんだけど」曖昧すぎると我ながら思うが、彼ならこれだけで事足りる。「私が校舎裏に呼ばれたとき、みんなが来てくれたのは…柳くんが気づいて、いろいろ考えてくれたんだよね?」

撮影していたのも、靴箱から手紙が取られていたのも、事前に段取りを練ったうえで手を回したに違いない。柳くんの閃きでみんなが動いていたと、切原くんから聞いていた。

「あのきっかけがなかったら、私はいまでもきっと誰にも言えないままやり過ごしてたと思うから…あらためてお礼を言いたくて」

柳くんが、ああ、と思い至った声を出す。

「俺も関わってはいたが……そもそも、はじめに持ちかけたのは俺ではないんだ」

「え?」

「柳くん!」

柳くんの背後から、非常に響きのいい呼び声が聴こえた。振り向くと、いつもなら廊下を走らぬようにと注意を呼びかける側の彼が私たちのもとへ駆け寄った。彼が声を張り上げること自体がめずらしいが、なによりはその表情が異常事態をあらわしていた。ただならぬ雰囲気を柳くんも察知し、俄然冷静を保とうとしていた。

「申し訳ございません。大声を出してしまって」

「いったいどうした?」

落ち着いてからでいい、と柳くんが添えた。それほどまでに柳生くんの表情はあきらかに焦燥と困惑でみちていた。最大限動揺を押し殺し、発すべき第一声を慎重に考えているようだ。たった数秒のあいだの沈黙が胸騒ぎを掻き立てる。
ゆっくりと、彼が口を開いた。

「仁王くんが事故に遭ったようなんです」


*


みんなとの距離を掴めないまま過ぎていく日々。そんな毎日のなかでも、以前とほぼ変わらぬ態度でもっとも自然に関わりを保っていたのは仁王くんだった。よくも悪くも、彼は無遠慮だった。
すれ違っても特段言葉を交わさなかったかと思えば、何ごともなかったかのように唐突に話しかけられる。昼休みにふらりと私のいる教室を訪ねてのどかに過ごしていたかと思えば、ふとした拍子に去っていく。あいかわらず気まぐれだった。彼がなにを考えていたかはわからない。少なくとも私にとっては、彼との時間は意気込みも気遣いも不要で、ただながれるように日常を過ごせる感覚を取り戻すための準備運動のように思えた。気楽だった。

「辞書、借してくれんかの」

先日柳生くんから「仁王くんは少々苗字さんに甘えすぎているようですので注意致しました」きりっという擬音がいかにも似合う宣言を聞いたばかりだが、ほとんど彼に効果はないみたいだ。柳生くんのことだからしかと忠告したはずだろうけれど。
貸すこと自体は構わなかった。これまでなら。

「私のは汚れてるから、ほかのひとから借りたほうがいいよ」

喉の奥がつっかえた。うまく笑えている自信がない。

「またジュースでもこぼしたんか」

「……そうじゃないけど、」

臆面もなく彼は訊ねる。言葉に詰まろうとも、依然として態度を変えない。泥まみれの文庫本を拾ってくれたのは彼だ。察していないわけがない。そのうえで敢えてさきを促しているのだと思った。

「やぶれてたり···…落書きも······いっぱいあるから」

声が掠れていく。すべて自分の不注意だと取り繕うのに無理があるくらいには、傷だらけだった。買い替えたくても、辞書は特に値段が跳ね上がるから手が出せない。それらしい嘘をついてお父さんに買ってもらえた教科書もあるけれど、それが何冊もつづけば誤魔化すのにも限界がくる。取り替えなかった教材は、まだいくつかある。このさきも誰かに貸したり見せたりする度にこうして断っては気落ちするのだろうか。想像するだけで胸の内が黒くうねる。
それなりの沈黙がつづいていたのか、やけにしずかなことにはっと気づいた。彼は無言で私を見つめている。私は席に座り、彼は立っているので自然と見下ろされている構図になる。

「お前さんのがいいんじゃ」

だから私のはやめたほうがいいよ、と、言う隙もあたえてくれない。意思を曲げる気のない語感だった。彼ならあっさりと身を引いてほかのあてを探すものだと思っていたのに。どうしてそうもこの辞書にこだわる理由がわからない。断るべきか迷った。けれどもう一度粘るのも億劫になって、私はあえなく白旗を揚げた。
切れ目が何本も入った表紙。何ページ不足しているのか数えるのも途中で断念した。できれば中の落書きはまじまじと見てほしくないけれど、どうだろう。

「すまんの。助かる」

「ほんとうに見にくいよ」

彼の手に渡った。辞書の重みから解放されると同時に、胸にひびが入ったみたいだ。

「ごめんね」

「お前さんが謝ることなんか、なんもないじゃろ」

目の奥が痛くなった。

「俺のと交換せんでええか?」

「それは仁王くんの辞書だよ」

「じゃが、ずっと見てられるか?」

なにも言えなかった。
間を置いて、彼が言う。

「わしのは新品同様みたいなもんじゃき、品質は担保されてるぜよ」

「だからこそ使わないともったいないじゃない。ちゃんと持ってこないとまた柳生くんに怒られるよ」

「プピーナ」

反省はしている。けれど、改善する気があるかどうかは怪しい。

「いまもう、されとらんか?」

慎重な口ぶりだった。
私は頷いた。
彼の表情が、微かにやわらいだ。




翌日の授業で、彼から返された辞書を開いたときだった。

(あれ?)

まっさきに目に飛び込んだのは、正方形の黄色い紙きれだった。手描きであろう三毛猫のイラストが描かれている。ページを傾けてもずり落ちない。爪先で角を折ると綺麗に剥がれた。紙ではなく、付箋だった。ページを捲っていくとまたひとつ付箋。ここには犬。二ページ後にもまたひとつふたつ。ざあっとひと通り開く。どうやらあちこちに貼付されている。適当な花、太陽、雲、ゾウ、鳥、その他動物など、大きな付箋を大胆に使って各一枚ずつに描かれている。モチーフはさながら絵のタッチもちいさな子が絵を描くときのようにいたってシンプルなイラストたち。これが案外かわいらしい。思わず顔がゆるんでしまい、授業中だと忘れそうになる。
後半のページに貼付された付箋にはヒトも描かれていた。ハチマキが特徴のにこにこした男の子。帽子を被った怒りマークをたくさん飛ばしている子。目を閉じたおかっぱ頭の子。燃えたぎるスキンヘッドの子。風船ガムを膨らませている子。眼鏡を光らせた子。うねうね癖毛の子(角と羽が生えている?)。どれも的確に特徴を捉えていてわかりやすい。貼られているページは不規則で、次第に間違いさがしみたいにぱらぱらと捲って付箋を見つけていくのに夢中になっていた。

何度も捲ってたどり着いた最後の付箋には『ありがとさん』とだけ書かれていた。もう一度先頭から捲りなおした。付箋はどれも、落書きの上から隠すように貼られていた。
また、ゆるんでしまいそうだった。



授業が終わってすぐ隣の教室を覗いた。銀色の髪は実に見つけやすい。私から彼の席へ訪れるのはじめてのことだった。

「めずらしいお客さまじゃの」

椅子に背を凭れていた彼は、私の手もとへ視線を寄越した。

「ありがとう、仁王くん」

彼は目を見開き、そうして苦笑した。

「礼なんぞもらったら仕掛けた甲斐がなくなるじゃき」

「ぜんぶ残しておくね」

「そんな落書き、さっさと剥がしてええもんを」

「もったいなくてとてもできないよ」

「それを見られると場合によっちゃちっとまずいのぅ」

「えっ、どうして? こんなに可愛いのに?」

「バレたらなにかと言うやっこさんがなんとなく想像つくじゃろ」

「うーん…じゃあこれからは仁王くんにだけ貸せば大丈夫なのかな」

「そうきたか」

「また付箋増えたらうれしいなぁって」

「遠回しに『辞書を忘れろ』って言っちょるんか?」

仁王くんに辞書を貸すということは、仁王くんが辞書を忘れるということになる。なるほど、突破口の難しい話だ。
「これ以上柳生からお叱りを受けるのはたまらんぜよ」
ふと仁王くんが鞄のチャックを開けて中を探りはじめた。取り出されたのは、辞書だった。

「今日は持ってきたのね」

「言いつけを守った雅治くんを褒めてくれんかの」

「偉いえらい」

「やっぱり俺のを使いんしゃい」

仁王くんが差し出した辞書の表紙はよく見ると角が僅かに折れ曲がっている。しかしつるりとした表紙は見事に使用感がない。
私は首を横に振った。

「これが好きなの。私、これからもずっと使っていくね」

いつも鋭い彼の目は、やわらかくなっていた。

「お前さんも物好きぜよ」

否定はしなかった。
彼はまぁそれでいいかと言いたげに笑っていた。

ページを開いて、ここの付箋の絵が好きだとか、これは似ているとか、これはちょっと似てないだとか、各付箋の感想を伝えた。仁王くんからは解説付きで自信作や見てほしい箇所を教えてもらった。

立ち直ることのできない私に、彼はまったく違った方法でもって教えてくれた。私の周りにはいろんなかたちの、そしてもったいないくらいの量のやさしさとあたたかさにみちているのだと。


*


「いまからご家族が病院に向かうそうですが経過はわからずじまいのようです」

「少なくとも大事には至っていないらしい、とまではどうにかわかったが···」

「とはいえ、本人の姿を見ないとなんともいえないからすぐに安心もできないね」

仁王くんは、今朝からいなかった。
朝練にも姿を現さないうえメッセージを送っても既読すらつかない。朝練は強制参加ではないが欠かさず練習に励んでいた友人が突然不在となるとどうも引っかかる。違和感をおぼえた柳生くんが早々に仁王くんのクラスの担任の先生へ訊ねてみた。体調不良だろうと見込んで先生が家族へ連絡を入れるも、彼はたしかにほぼいつもの時間に家を出ていったとのことだった。玄関の扉を開く彼の背中を、確実に見届けた。
それからは騒然としたようすだったらしい。先生も家族も彼の状況を探るも一向に連絡がとれない。捜索願いを出す手前のところで、警察から事故の一報が入った。彼は派手な言動こそとらないが、奇抜な髪色を抜きにしても、ととのった容姿はもちろん纏う空気も常人とはかけ離れているのもあって、校内では有名人だ。同学年のあいだでははやくも話題が広まりつつあり、あたりはざわつきはじめていた。

当然幸村くんたちにも即座に事の次第は耳に入った。
落ちて沈んでしまいそうな、しかしぴりぴりと微かに隆起した空気が私たちのあいだにただよっている。

「苗字さん、大丈夫かい?」
床へ向けていた顔を上げると、心配そうにこちらを見つめる幸村くんがいた。
「顔色が悪いよ」

胸騒ぎがやまない。指摘されるくらいなのだからはたから見てもひどい顔をしているのだろう。余計な気を遣わせるだけならいっそここから立ち退いたほうがいい。そう言い聞かせても、できなかった。無駄だと解っていても表面上でもなにかしていたほうがましだった。なにも得られないまま、ただ教室で座って待つだけのほうが耐えきれなかった。彼に関することなら少しでも詳細を掴みたい。

「『大事に至ってない』って、どのくらいのことなのかな」

「···それは、」

柳生くんが神妙につぶやく。むやみに不安を煽るものじゃない。しかし漏らさずにはいられなかった。

「ごめんなさい。でも、すぐに治る怪我なのかなとか、これからもテニスできるのかなとか、ほんとうに大丈夫かどうかいっぱい考えて、」

命に別状なし。ひどくあてにならない一文だと、いつも思う。息ができているだけでどうにかなるわけじゃない。取り返しのつかないことというのは、残酷なまでに淡々と横たわっている。

「みんなも君と同じように考えていると思う。でも、憶測だけで嘆いてもどうにもならないこともある。いまはなにもできないことも認めないといけないと思うんだ」

幸村くんの実に歯切れのいい物言いは、自分の不毛さを痛感させた。
彼の言う通りだ。仮に病院へ駆けつけたとしていちからリセットできる魔法をかけられるわけじゃない。いまできることと云えば、隙をみて、先生や友達に仁王くんの容態で少しでもわかったことを尋ねて、心労する。無事でありますようにと祈る。ほんとうにそれだけだ。無力だった。
「そうね」
蚊の鳴くような声で頷いて、ただ終わった。

無機質な部屋。うなだれる背中。つめたい手。二度と握り返さない。どれだけ呼ぼうと微動だにしないかたまり。
否応なしに脳内をよぎる。断ち切るようにかたく瞼を閉じた。

しばらくして切原くんが焦りと驚きの混じった表情で私たちのもとへやって来た。柳くんが落ち着きはらって説明しているのを、私は無心になって聞いていた。




























「プリッ」

「じゃ、ありませんよ! あなたというひとは···!どれほど心配したと思ってるんです!」

「って、言ったら絶対怒られると思ったぜよ」

「じゃあ言うなよ」

「事故っつーからマジでビビりましたよ! にしてもその腕、大丈夫なんすか? てかなにがあったんすか」

「·········猫」

「猫?」

「猫が轢かれそうじゃった」

「はぁ?」

「轢かれそうな猫を助けるつもりが、自分も巻き添えになったといったところか」

「なんすかそれ!そんなのが理由でって言っちゃあれっすけど…」

「既読もつかねぇし、学校からも連絡とれねぇっていうからそうとうまずいんじゃないかって考えちまったから···とにかく無事でよかったぜ」

「親御さんからもまったく連絡がつかないと聞いていたが、やはり携帯を忘れていたのか?」

「朝練遅刻しそうでの、いろいろ焦ってたナリ」

「まったく、たるんどるにも程があるぞ! グラウンド百週···と、言いたいところだがその怪我では当分部活もできんか」

「病院から直接来たのかい? 腕だけで済んだとはいえ、ひとまずは家で安静にしたほうがいいとは思うけれど」

「今日提出期限のプリントがあったんでのぅ。出しに行くついでに先生に謝ってこいって親にめっぽう怒られた。怪我したばっかちゅうのに鬼じゃ」

「怒られてもしかたねぇだろぃ。でも宿題のために来るなんてめずらしく真面目だよな」

「保護者会のなんかのプリントぜよ。宿題だけなら絶対行かん」

「正直すぎだろぃ」

目を見開いた。
職員室沿いの廊下に寄せ集まるみんなのなかに、彼がいた。
気配を察知したのか、彼の視線がすっとこちらに向いた。いまにも腑抜けそうな身体を奮い立たせて、彼のもとへ駆け寄った。

「仁王くん、なの?偽物とかじゃ……ないんだよね?」

「そんな死人が生き返ったみたいな顔せんでも」

声がふるえる。慎重に訊ねる私をよそに彼はけろっと返した。彼の左腕は包帯で巻かれ、首から吊るすように固定されている。
「苗字先輩がしにそうな顔してましたもんね」
「あなたのことを一番心配してたんですよ」
切原くんと柳生くんの声がぼんやりと聴こえる。視界に飛び込んだ白い包帯がゆっくりと歪みはじめる。頭のなかがどうにかなりそうだ。絞り出す言葉を必死に探そうにも、口から吐息がこぼれるだけでまともに話せたものじゃない。

「すぐには動かせんが、そのうち治るもんじゃき」

私の考えていることを予言したかのように、彼がつづけた。包帯のない、はだかの右手をそうっととった。彼はなされるがままだった。拒むこともなければ、握り返すこともない。

「だめだよ」

めいいっぱい張りあげようとしたのに、なんて弱々しいんだろう。

「そんなの、だめだよ。ほんとうに心配したんだよ。仁王くんがいなくなったら、万が一があったら、なにか取り返しのつかないことになってたらどうしようって、ほんとうに、こわくて」

そこまで言って、口を噤んだ。もっともっといっぱい言いたいことがあったのに、これ以上話すと子どもみたいに泣きじゃくりそうでどうにもならない。そう思うそばから瞼の端から落ちてゆく。無事でよかった。そうひと言伝えたらいいのに、ちっとも素直じゃない。
彼の手はひんやりとしていた。けれど、けして氷みたいじゃない。神経を注げばわかる。息づくひとの手だ。たったそれだけのことがこんなにも安心させてくれる。私の手に包まれた、華奢な彼の手。

「ほんとうに大丈夫じゃ」

「ほんとの、ほんとに?」

「ほんとは痛くてしかたのうて···ちゅうたら、お前さん失神するじゃろ。まぁ、ほんとうに平気ぜよ。なんともない」

証明するかのように、彼が握り返した。

「ほんとうに怒ってるんだからね」

「そんじゃ誠心誠意謝らんとのぅ。顔、上げてくれんか?」

「……見たら、仁王くん、こわがると思うから、見ないほうがいいよ。いますごい顔してるから」

いま私の視界は彼の手と、それを握る私の手と、床とで埋めつくされている。
「それは残念」
わざとらしい口ぶりが頭上から聴こえてくる。やっぱり反省していない。だから柳生くんも怒るんだ。私ももっと怒りたい。そう思ってやまないのに、ほかの感情が優って、ぐんぐん追い越していく。

思い出していた。
いつだって彼は無遠慮なやり方で私のこころを汲んでいた。場合によっては勘違いされかねないのに。きっと彼のことだ。それもよしと思っていたのかもしれない。
付箋に彼の似顔絵を書いたときの、下手くそだと言いのけた彼の顔が思い浮かんだ。
きっといま頃、呆れながら、悪戯めいた目つきを添えて、やさしくゆるんでいるんだろう。

「ちっとええか」

手がほどかれると、頭に微かな重みがのしかかった。

「すまんかった。ほんとうに大丈夫じゃから、泣きやんでくれんか。お前さんがそうも痛々しいと目の毒になるんじゃ」

声がきこえる。重みを感じる。それだけでもう涙が止まらなかった。覆い尽くすように両手で顔を塞いだ。

「仁王くんがいなくなったら、辞書貸せないよ」

彼が、笑った気がした。

「それは一大事ぜよ」

真正面から彼と向き合うまでにもう少しだけ時間が必要だった。
いざ顔を上げたら、彼はどんな表情で私を見るだろうか。
呆れるか、意地悪く笑うか、それとも─────
泣き飽きてからの、お楽しみ。
  

神さまの通り道

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