中庭でお弁当を食べるのも、昼休みを友達と過ごすのも、大それた日が経過したわけでもないのにずいぶんとひさしぶりのことに思える。
「うま!」
丸井くんは私が昨晩つくった唐揚げをとても満足そうに頬張っている。
「やっぱこの味だよな。うまいからすぐなくなっちまう」
「まだいる?」
「え、まだあんの?」
「鶏むね肉、セールだからいっぱい買っておいたの。ちょっと贅沢して多めに作っちゃった」
もうひとつ、唐揚げがぱんぱんに詰まったタッパーの蓋を丸井君に見せるようにして開いた。せっかくだから違うレシピにしようかとも迷ったけれどやっぱり唐揚げにして大正解だった。そう思わせてくれるくらいには丸井くんの目はわかりやすくかがやいた。追加で頬張る丸井くんが「食う?」こちらへお弁当箱を差し出した。箱のなかで綺麗に陳列された真っ黄色の卵焼きをお箸でつまむ。ほんのり甘くてみっちり巻かれているこの卵焼きの味もひさしぶりだ。「おいしい」とこぼすと、彼が自信たっぷりに笑った。
「数学のテストは大丈夫そう?」
「まぁまぁいけるぜ。多分な、多分」
「何回もノート貸してあげてるんだからいい点とってほしいな」
「テスト前の部活休み期間、教えてくんね?」
「うん、みっちりしようね」
「みっちりは嫌だ」
私が気を張りすぎるあまり一方的にぎくしゃくしかけたけれど、そう時間が経たないうちにテンポよく会話が弾むようになった。丸井くんが私の不安を汲みとってくれたうえでいつもと変わらない調子で接してくれるからだ。あらたまってお礼をしたら丸井くんは嫌がるだろうからしないけれど、ほんとうに、丸井くんには頭が上がらない。
毎年この時期は外に出ることが億劫になるのに、目を細めるくらいまぶしい陽ざしも、微かに湿り気のまじった空気も、いまはどれも胸を安らげてくれる。少し前までは校舎のなかに極力閉じこもっていたせいか息が詰まって、特に昼休みは重苦しい感情に苛まれる時間でしかなかった。一秒でもはやく過ぎてほしいと、そんなことしか考えていなかった。
「お弁当、やっぱり丸井くんと一緒に食べたほうがおいしいな」
丸井くんを見て言ったつもりなのに、彼からいっこうに反応がない。首を傾げて促すけれど、私の顔を見つめているだけ。驚いているのか、考え込んでいるのか、ぼうっとしているのか、彼の胸中が読みとれない。なにか変なことでも言ってしまったかな。
「丸井くん?」
近づいて顔を覗き込むと、丸井くんがぐんと腕を伸ばした。かと思えば私の頭に手を置いてぐしゃぐしゃに掻き回した。不定期にやってくるこれは、撫でる、ではなく、掻き回すと呼ぶことにしている。
「ちょ、ちょっと丸井くんっ。いきなりなんで…!」
「無性にやりたくなったんだからしかたねぇだろぃ」
「り、理不尽だよ。もう、せっかく今日の前髪セットうまくいったのに」
「毎日変わんねぇから大丈夫だって」
「前髪にも調子のいい日と悪い日があるの」
「んーそうか?」
乱れた前髪を手櫛でとかす隣で丸井くんが不思議そうにながめる。前髪セッティングは女の子にとって死活問題なのだ。私が文句を垂れていると丸井くんが手を伸ばして私の前髪をささっと気持ち程度にととのえるので、くすぐったくて目を瞑る。「これでばっちしだって」丸井くんがカラッと笑いのける。反省する気は到底ないらしい。そういえば、こんな些細なやりとりもいつぶりだろう。
「でも、丸井くんにこうされるの、好き。……ちょっとだけ」
自分で言っておきながらなんだかこそばゆくなった。思わず目を逸らすと「ちょっとだけってなんだよ」彼はからかうようにまた頭を掻き回した。
「ま、なんだかんだ気に入ってるってことだよな」
「ちょっとだけね。ちょっとだけ」
「へいへい」
そのときだった。
どっと笑い声が中庭に響いた。顔を上げると、体育終りの複数の生徒がはしゃぎながら前を横切った。意識が遠のいていく。景色も音もはっきり認識できるのに、霧を浴びたみたいに思考がかすんでいく。
ぐっと肩を掴まれる感触がした。振り向くと、丸井くんがいつになく固い表情で私を見つめていた。
「大丈夫か?」
肩に伝わる熱がやたらと熱い。丸井くんの手のせいじゃない。自分の体温が急降下しているからだ。
「どっか移動するか?」
最低限の音しか拾わないように閉じていた鼓膜が急に解放されたみたいだった。声があちこちから聴こえてくる。気にならなかった音も耳の奥にまで届いてくる。
「ううん、このままでいいよ」
「でも、」
「ここがいいの」
いまこの場を立ち退いてしまうと、二度と戻れない。そんな気がした。
「ここがいいんだよ」
丸井くんの目がなにかを訴えたいようにも見えたが、引き下がるつもりはなかった。長い沈黙のあと、丸井くんは何事もなかったように箸を進めた。
「ほんとに、無理しなくていいからな」
念押しする彼の口調は最大限やわらかさを保とうと努めていた。私は頷いて、会話を促した。
こんなのは意地でもなんでもない。ただ、虚勢を張っているだけだ。
朝一番に交わす切原くんの挨拶然り、みんなとはすれ違えば挨拶もするし、声もかけてくれる。いつもと変わらない毎日。私は、いつものように笑えているだろうか。
そういえば『いつも』はどうして過ごしていたんだろう。意識すればするほど言葉が喉の奥に詰まって、うまく喋れない。ほんとうはどんな音が好きで、苦手だったんだろう。
風の音。話し声。ボールの跳ねる音。地面を蹴る音。教室から漏れるホルンの音。
おはようと言って、みんなと会って、お昼を一緒に食べて、放課後もみんなと会って、帰っていく。まるでなにもなかったみたいに。
ほんとうに、笑ってもいいのだろうか。
*
ゴミ袋を置くとどさっと鈍い音が鳴る。むっとする熱気と臭いを閉じ込めるように重たい金属の扉を閉めた。
校舎へ向かって歩いていくと、大きな鞄を肩から下げて体操服を着た子たちとすれ違う。これから部活へ向かうのだろう。
日陰を選んで、敷地内を歩いていく。立ち止まって、真向かいにある白いフェンスを見上げた。このフェンスの向こうにはプールがある。今日は塩素特有の匂いがうすいから水泳部は休みだろうか。
ふと、頭がすっと生えてきたようにプールから人影が現れる。プールサイドに立った人物を見て、目の前が一気に開けた感覚が襲った。
幸村くんだ。
彼とばっちり目が合うと、ひときわ大きく胸が跳ねた。彼も気づいたように「あ、」と口を開いた。
「苗字さん」
彼が声を張りながらこちらへ手を振る。ワンテンポ遅れて、私もほんの少しだけ手をあげて合図をする。彼がフェンスの際まで寄り、網へ手をかけた。
「こんなところでどうしたの?」
「えっと、いまゴミ捨てに行って…」
あぁそっか、と、彼は納得した表情で「俺もプール掃除なんだ」と言った。彼のスラックスの袖は膝のすぐ下にまで捲られている。裸足ということもあってか彼にしてはラフな格好が特別新鮮な光景に思える。
「苗字さんはもう帰り?」
「えっと…その、今日は特に残る用事もないから」
私の返事に、よしと言いたげに幸村くんの目が光った気がした。
「よかったら手伝ってくれるかい?」
「え?」
「いま人手がいなくてね。あと少しだからそんなに時間もかからないとは思うんだけど」
プールサイドを一瞥してから、私へもう一度視線をよこした。
「君もおいでよ」
幸村くんお得意のやわらかくも有無を言わせない譲歩ではなかった。純粋に、こちらへ選択を委ねていた。
それでも、私にとってそれは得体のしれない引力のように思えた。
*
火傷をおそれて慎重にプールサイドへ素足を伸ばしたけれど最後の授業の名残があるからかプールサイドは微かに濡れて湿っていた。ぱりっとした陽ざしに青いのプールのコントラストは強烈で、目がちかちかする。
フェンスの向こうでは陸上部のユニフォームを着た二人の部員が木陰で休みながら談笑していた。よその方角からも生徒たちの声がぼんやりと聞こえる。
「苗字さん」
幸村くんが、私を呼んだ。
「降りてきなよ」
彼がプールの底から私を見上げていた。
銀色のはしごを伝って降りていく。プールの清掃ははじめてだ。ほとんどは水泳部に任せられるうえ、一生徒には水泳授業のある二ヶ月程度しか割り当てられないなか、さらに担当クラスが絞り込まれるので滅多に回ってこない。一年生の頃奇跡的にクラスに清掃当番が回ってきたけれど、出席番号の兼ね合いで私個人には振られることはなかった。そのめずらしさからプール掃除は生徒たちのあいだでは一大イベントとして崇められているらしい。
見渡すかぎり真っ青な世界のなかに赤と青の線が規則的に巡らされている。すでに濡れているプールの底に素足をつける。歩くとぴちゃぴちゃと水が跳ねた。プールサイドの地平線と視線とはほぼ同じ高さだ。上からながめていたよりも浅いのだな、と思う。
「幸村くん、ひとりなの?」
「みんな委員会とか先生から呼び出しがあるとかで…さきに行ってもらったんだ。終わったら戻ってはくれるみたい」
彼が腰を屈めて、ずれ落ちた裾を捲り直す。
「でも、苗字さんが手伝ってくれるからもう大丈夫そうかな。あとはここからあっちまで磨いたら終わり」
彼が額の汗を腕で拭いながらあちらの方角へ指をさした。面積でいうと全体の残り三分の一ほどといったところだ。幸村くんは汗をかきながらも涼しい顔をしているけれど、こんな直射日光のもとひとりでこなすのは重労働だろう。
「よろしくね」
ぐいっと渡されたデッキブラシを、私は弱々しく受けとった。
幸村くんは中央から向かって右側を、私は左側と、半分に分担することになった。ブラシの擦れる音と、ブラシの動きにならってぱしゃっと跳ねる水の音がふたりを匿っていた。さえぎるものがあるとするなら、遠くからきこえる部活の掛け声くらいだろうか。
顔を後ろへやる。彼の真っ白なシャツと後頭部だけしか見えない。背中を屈めて黙々と磨いている。あれから幸村くんとは偶然すれ違った折に軽く言葉を交わした程度でしかまともに話していない。彼から屋上庭園にも誘ってくれたけれど、訪ねられずにいる。
ふたたび手を動かして、ブラシを縦に往復させた。
「昼休み、また丸井と一緒に食べてるの?」
「え?」
首をもう一度後方へ捻る。彼はというと、変わらず手を動かしつづけている。こちらへ振り向く素振りは見せなかった。会話は進行している、と思っていいみたいだ。
「うん…この前、ひさしぶりに」
「ちゃんと食べてるのかなってみんな心配してたよ」
食欲が戻ったのは最近のことだ。徐々にお腹が空く感覚も戻って、いまは三食摂取できている。
「いまは、大丈夫。お昼は丸井くんがいっぱいおかず分けてくれるからすぐお腹いっぱいになっちゃうけど…家に帰ってからも食べてるよ」
「丸井が分けるなんてめずらしいね」
「瘦せたぶん食えって言って。私は痩せたままでもいいんだけどな」
そう返すと彼は笑いまじりに「そっか」と返した。
「ひさしぶりに中庭に君がいるのを見てほっとした」
私に言っているというよりも、独白にも近かった。
いままで幸村くんとはどんな話をしていたんだろう。私からはどうやって誘っていたんだっけ。少し前の私ならこの状況をどう思っていたのかな。どうしていまの私はこんなにも冷静でいられるんだろう。
幸村くんが声をかけてくれたのに、私は―――――
「まだ、こわい?」
ふいに、彼が言った。その瞬間だった。
なにが起きたのか、わからなくなった。
まっしろになった。一瞬にしてなにもかもなくなった。一本の線が身体の真ん中を突き抜けて、ちらばっていく。
いつだってそう。私のちっぽけな器を彼はとっくにわかっている。私が知られたくないこともわかったうえで、訊ねてくるのだ。
「まだ」
息を大きく吸った。ブラシを持つ手に力を込めた。ふるえを抑えるために下唇を噛んだ。
お願いだから、どうか耐えて。
「まだ、わからない」
知らないうちにどれくらいの空白がうまれたのだろう。隙間を埋めるため、なんともないように繕って、何気ない日常を取り戻していく。
そうするつもりだった。
できなかった。
前向きになんて、いられなかった。
「私、幸村くんが声をかけてくれたのに『来ないで』って思ってたの」
最低だと思った。
絶望もした。
好きなひとを好きだと想えなくなるどころか、拒んでしまう自分がいることに。
それがいまだに、胸の隅で息づいていることにも。
丸井くんとのお昼はあれから数回きりで、最近はまたひとりで過ごしている。せっかく誘ってくれても、足が竦んで動けない。
そんな自分を責めた。
彼女たちに直接なにかされることはなくなっても蔑む視線が完全に消えたわけじゃない。机のなかを探る度、教科書やノートがなくなっていないか確認する癖が抜けきれない。教科書を開くのがこわくなったのはいつからだろう。落書きが増えていないことにほっとすると同時に、ひどくむなしくなる。大きな音と声はもともと苦手だったけれど、ここまで過剰に反応していなかった。みんながこれまでと変わらず声をかけてくれるのに、脳裏にかつての視線や声がちらついて会話に集中できない。そんなぎこちない私のようすを理解してくれる、みんなのやさしさがわかるからこそ、つらかった。
朝。靴箱の前に立つといまだに頭を過ぎるのだ。また、あの日々がはじまるんじゃないかと。
みんなが救けてくれたいまの自分は、こんなにもなさけなくて、こんなにも弱い。
「ばちが当たったんだと思う。調子に乗りすぎたから、なんの努力もしないで友達ができたのをあたりまえみたいに過ごしてたから」
思い返せば、すべてが他力本願だった。
いま私の周りにいる友達はどれも、幸村くんがつなげてくれた縁だ。私から行動を起こして出来上がったものじゃない。幸村くんの、彼らのやさしさに甘えすぎていた。いつだってそうだ。友達のつくりかたがわからないと思っていた。そう、思い込ませたかった。ひとりになるのはしかたのないことだと、ただ『できない』理由をつくりたかっただけだ。できることはいくらでもあったはずなのに、過去のせいにして逃げてばかりだった。
そんな自分がいとも簡単にきらきらした世界にふれられた。なんてことはない、疎まれて至極あたりまえのことだ。悲劇でもなんでもなく自分のこれまでの行いの報いそのままだ。
けっしてフェンスの向こう側に入ったわけではないと、自分にしつこく言い聞かせていたはずだった。本来なら空っぽな自分が留まることができない場所なのだと。
なのにいつからか、こんな私でもいつかきっとここに溶け込める日がくるかもしれないと、こころのどこかで期待してしまった。あさはかな思い上がりだった。
─────付き纏われて、可哀想
内心では彼らもそう思っているんじゃないか。疑ってはいけないのに、知らない声が頭のなかを覆い尽くす。侵食されないようあらがっても何度でもささやいてくる。
「そんなふうに言っちゃだめだよ」
ブラシの肢を持つ私の手の上に彼の手が重なった。
「ばちが当たったなんてそんなこと、あるわけない」
見上げた瞬間、すんでのところでせき止めていた感情が決壊したみたいに溢れ出した。
どうして、彼がそんな顔をするのだろう。
お願いだから、そんな瞳で見つめないでほしい。とことん突き放してくれないと甘えてしまうのに。同情の余地なんてどこにもないのに。
顔を背けて俯くと、床にぽつぽつとちいさい波紋が出来上がっては消えていく。
以前のような日常を望んでいるわりには、たじろいでばかりでたいした行動も起こせない。ひとつ進もうとする度、余計なことばかりが頭を掠めて身動きがとれなくなる。
いつか隙間なく空白を埋められるのだろうか。形も色も変えず、なかったことにできるのだろうか。
私に、そんなふうに過ごしていい資格なんてあるのだろうか。
「蓮二がつかってる日傘、君と買いに行ったものなんだってね」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。ゆっくり顔を上げると
「最近は朝から暑いからね、万全な日よけ対策だって気に入ってるみたい。また君とお揃いが増えたって言ってたよ」
幸村くんがほがらかな面持ちで話をつづけた。どうやら、聞き間違いではないらしい。
乱れた感情のままぼんやりと思い出す、柳くんの日傘。私が指しているところを彼が興味を持ったのがきっかけだった。直射日光は彼も苦手だったようで、本格的な暑さがやって来る前にと学校付近の雑貨屋さんへ一緒に買いに行ったのだ。放課後は日が落ちかけているのもあって彼が指している姿を見かけないけれど、朝は使っているんだ。
にしても、どうしていま柳くんの日傘が話に出たのだろう。
「お揃いが多くてうらやましいな」
「……あれは、その……私が勝手にそう思ってるだけで……」
「蓮二もまんざらでもないみたいだよ」
丁寧な口調で、彼が返していく。
「真田が初心者用の将棋セット買おうかどうかって考えてたよ。対戦もしてるんだっけ? 君が真剣に勉強してるって感心してたな」
「……まだ全然、戦法とかうまくこなせないけど……」
「赤也とはゲームもしてるのかい? 苗字さん、はじめは弱かったけどちょっとずつ上達してるから面白くなってきたって」
「······ぼこぼこにされて、いつも馬鹿にされるよ······」
「意外にも君は負けず嫌いなんだって言ってた」
愉しげに話す彼の隣で違和感を覚える。いままで、なんの話をしていたんだっけ。
私の逡巡を察したように「思い出したんだ」彼がこたえた。
「はじめて会ったとき、苗字さんは俺のことをこわがってたよね。俺のことが苦手だってはっきり言ってたし」
「······その節は誠に申し訳ございませんでした」
「あれはあれでわかりやすくてよかったよ」
「……そうですか」
「意外と図太いんだなって結構びっくりした」
「えっ」
「いい意味で君の印象がくつがえされたよ」
「ほ、ほんとうにいい意味なんでしょうか」
私のせいで靴を濡らされたあげく、あからさますぎる本音を堂々と披露された幸村くん。こうして連ねてひとつの単語にするとただただ不憫でしかない。実に耳の痛い昔話を純粋になつかしんでいるのだと、彼の表情を見るかぎりはそう信じたい。
「でもあのあと、君は近づこうとしてくれた。あれ以上俺を遠ざけたりはしなかった」
彼の声には、固くてぶれのない筋が通っていた。
「···先入観でひとを見る癖があるから、そんなのだめだと思って、」
「そうやって変わろうとしたんだよね」彼の声がしみじみとさえ渡る。「この子は俺のことをもっと知ろうと頑張ってるんだってわかったんだ。あの日君が話してくれたことはいまでもよくおぼえてるよ」
重ねられた彼の手に、僅かに力がこもった。
「蓮二がさ、はじめは赤也と君がぎこちなかったから心配してたんだけど俺はあえてふれなかったんだ。君ならもう大丈夫だと思ったから」
「…でも、私はなにも」
「前の君なら赤也に話しかけようとも思わなかったんじゃない?」
彼の問いかけに、ふと想像してみる。一年前の私が切原くんに会っていたとしてはたして友達になれていただろうか。
「実際大丈夫だったし、いまじゃすっかり懐いてるみたいだしね」
「…小馬鹿にされてることのほうが多いよ」
もっと先輩らしくいたいのに、切原くんからはそんな態度を感じとれないのが悩みだったりするのだけれど「つまり順調なんだね」彼からしたら些末なことらしい。
「たしかに苗字さんはひとよりも慎重で、緊張したがりかもしれない。はじめから器用に人付き合いがこなせるほうではないのかもしれない。それでも一度関わったら、相手のことをもっと知ろうとするよね。歩み寄ろうとする。それはまぎれもなく、君の努力だよ」
努力、なのだろうか。たいしたことはなにもできていないのに。
「真田や蓮二以外のみんなも、さっきみたいにたまに君のことを話したりするんだ。ほんとうにいろいろね、ちいさいことだけど。そういう瞬間いつも実感できるんだ。君がここにいて、たしかに俺たちといて、あぁそれがあたりまえになってるんだって。
すぐに目に見える大きな変化じゃない。でも、そういう些細な積み重ねがないと俺たちと君の関係は出来上がらなかったと思うんだ」
なつかしみ、安堵するかのように紡がれる彼の言葉。渇きかけていた目の端が滲みはじめた。
みんなと歩く海岸沿いの線路脇の道。商店街に寄ってあったかいものを食べた日。休み時間の合間にも、放課後もつまらない話をして、ときには騒ぎながらそうやって日々が過ぎていく。
みんなのなかに居る。たったそれだけでも、けっしてかんたんなことじゃなかった。
はたから見ればそんなくらいでと思われる程度の行動にも大それた勇気が必要だった。いつだって踏み込むまえにうじうじ考えてしまう。踏み込めたとしても許容される境界線を判別できている自信もない。こんなに時間をかけても、失敗ばかりだ。
「君がこうして手の届く距離にいることがほんとうにうれしいんだよ」
それでも、ほんの少しだけの実った努力でも、気づいてくれるひとがいる。
「だからどうか、はなれないでほしい」
彼の声は切実だった。たまらなくなった。
『いつも』のようにここにいてもいいのだろうか。まだ、笑ってもいいのだろうか。
「君が思うよりもずっと、君のとった行動で変わったことがたくさんあるだろうから」
謙虚も行きすぎると卑屈になってしまうのに「そんなことは、」などと口から零れてしまう。
「いまでも全然うまくできないから···距離感も測れなくて、なんでも変にはしゃぎすぎるときがあるし、なおさないといけないのに」
ひととの関わりを極力控えていたせいか、誰もが通ってきた日常の一部にさえも過剰に反応してしまう。馴れ馴れしいと煙たがられる理由のひとつだろう。世間知らずな自分は、好きじゃない。もっと器用に立ち回りたいと、最近は特にそう思う。
「どんなことにも喜怒哀楽をおもてに出せるのは苗字さんの長所だと思うけどな」
「でも、すぐに泣いたりするし···」
「俺は見てて楽しいよ」
「切原くんには情緒不安定なんすかって言われたよ」
「なるほどね」と幸村くんがくすくす笑う。感情ゆたかといえば聞こえはいいけれど、つまり忙しないということだ。「でも、変わらなくていいものだってきっとたくさんある」
彼の指さきが私の目元をそうっと拭った。
「俺は君が笑っているのも、泣いているのも、おんなじくらい好きだよ」
うんとやさしいまなざしが、私を包んでくれる。
そうだ。とても自分の口からは言えないけれど、もしも仮にほんとうに微々たるものでも成長できていたとしたら、それはこのひとがいたからだ。彼がいなければ、なさけなく泣いた日もおかしいくらい笑った日も迎えられなかった。それこそ、ロボットのままだった。
「私はなにも……ぜんぶ幸村くんのおかげなんだよ。幸村くんが引っ張ってくれたから、ほんのちょっとだけ、まともになったの」
─────ゆっくりでいいよ
─────一回、君から誘ってみたら?
─────君も一緒に帰ろうよ
お昼を誘うのも、ノートを貸し借りするのも、話しかけることでさえも、あの頃の私からしたら信じられない行動ばかりだ。言葉につまずく頻度もかなり減ったとは思う。ときには彼は強引なやりかたを用いたけれど、そうでもなければいま頃友達と呼べるひとなんて私の周りにはひとりもいなかっただろう。
「でも…それも振り出しに戻った気がする。はじめて喋る子の前でも吃る回数がやっと減ったと思ったのに、最近はひどくなったような気がして……せっかく幸村くんと練習したのに、また私は、」
そこまで言いかけたところで、額に真正面からブラシの柄が降ってきた。反射的にぎゅっと目を瞑って身構えると、コンッとやさしく骨のぶつかる音が鳴る。なにがなんだかわからず目をぱちぱちさせている私の向かいで、彼の表情はキリッとわかりやすく凛々しくなっていた。
「根詰め禁止」
「え? え、えっと」
「休憩だって大切だろ。なんでもすぐには上手くなれないし、上手くできたと思っても案外自分が思うよりも実力不足だったりするものだから」
「…幸村くんでもそんなことがあるの?」
「俺? 俺は…」
「…?」
「……あんまりないかも?」
「な……!そんな幸村くんに言われても説得力ないよっ」
「あれ?そう?」
そう首を傾げるふりをしながら、平然と笑いのける。
幸村くんは、ときどきいい加減なひとだ。
「あ、でもこの前の調理実習でクッキーが上手く焼けなかったんだ。二回目だし俺なりに調整したつもりなのにまた焦げてしまってね」
「そ、それなら…その、今度家庭科室借りて一緒に焼いてみようよ。リベンジしてみないとわからないし、なにをどうやったらそんなことになるのか見てみたいし」
「……それ、俺がまた失敗する前提で話しているね?」
「そそそそんなことないよっ」
幸村くんがわざとらしく柄を構え出したので、私はぶんぶんと手を横に振った。
「暴力反対ですっ」
「うそうそ」
どこまで冗談でどこまで本気なのか彼の場合わからないので、おぞましい。
彼がふっと笑って、言葉を溜めた。
「いま、『今度』って言ったね」
今度。
そういえば、ひさしぶりに言った。
もう彼とは会っちゃいけないんだと思って、『今度』という単語を口にはしなかった。そうすることで自分にも暗示をかけていた。今度なんて、もう来ないのだと。
安心して目を細める彼に、胸が締めつけられた。
ブラシがけが終わったので、ようやく床一面を洗い流す番だ。丸まったホースを伸ばして手に持つ。蛇口を捻ってみるが、しばらく待っても口から水が出る気配がない。ホースのどこかに穴が空いている、というわけでもなさそうだ。
「どうかした?」
幸村くんも気にかけ、蛇口のそばへと近寄った。
「うーん、なかなか水が出なくて…」
さらに蛇口をぐっと捻ってみるが変化なし。
幸村くんが腰を屈め、水道管の繋ぎ目を確認した。
「水漏れしてるようには見えないけどな」
「ちょっと先生呼んでくるね」
私が腰を上げた瞬間だった。
「へっ!?」
ホースの口から凄まじい水量が噴射された。
咄嗟にホースから手を放すも、時すでに遅し。
彼の顔から肩一体がずぶ濡れになって、ひどいあり様だ。彼の癖毛も水の重さにただれて直毛に変わり果て、毛先からぼたぼた水滴が落ちている。水も滴るいい男とか、そんな次元じゃない。
「あ、あの、ここここれは、その……」
「……………」
不幸かな、彼にホースの口を向けたまま作業をしていた自分の注意力のなさ。全身から血の気が引いた。今日、こんなに寒かったかな。
「ほんとうにすみませんすみません!申し訳ございません!もうどうしたらいいのか……!!地獄の果てまでどんな罰でも受けます!!」
土下座しか選択肢がない。謝る。とにかく謝る。それしかない。
額が床にくっつくくらい頭を最大限深く下げた。海でもこんなことがあったけれど、あのときより突き抜けて悲惨な状況だ。あぁ神さま、神の子に犯してしまった無礼はいったいどうして償えるのでしょうか。
「苗字さん」
頭上からきこえる声は普段と変わらない調子だ。……と、信じたい。少しだけ顔を上げると、彼の両足が見えた。いま彼はどんな心情で私の土下座を見ているのだろう。あぁ想像したくない。彼の顔をものすごくとてつもなく見たくない。しかし、ここは意を決するしかない。
「あ、あの、幸村くん。その、ほんとうに…」
おそるおそる背中を起こす。
「えいっ」
「ひゃっ!?」
一直線に激しい水流が顔に降りかかる。水中にいないのにまるで溺れているみたいだ。
「…………あ、あれ?」
なにが起こったのかわからない。何度もまばたきをして、おぼつかない視界を拭う。自分の姿を見やるとバケツをかぶったように顔がずぶ濡れになっていた。ホースを手にしてしゃがんだ幸村くんが、真顔で私を見つめている。私も冷静に状況を把握できているのかできていないのか、じっと見つめることしかできない。
どれくらいそうしていたんだろう。
我慢比べに負けたのは、幸村くんだった。
「あははっ! すごいや」
彼はスラックスが濡れるのも躊躇わず、すとんと腰を落ち着かせた。顔をくしゃくしゃにして、手の甲を口もとへ当てながら、耐えきれないといったように盛大に笑っていた。「さっきの君、すごい顔だったよ」濡れた顔を拭いもせず、私を見てはからかってくる。
「ひ、ひどいよ幸村くん!」
「やられっぱなしは性に合わないからね。もともとは君が仕掛けたんだし?」
「それはわざとじゃなくて…!」
「ほらっ」
「きゃ…!」
「これは海のぶんのおかえし」
幸村くんは胡座をかきながらざぁざぁ噴き出すホースを嗜んでいた。私が混乱するあまり逃げる余裕もなく、顔を防ぐだけで必死なのを理解したからか、座りながらも照準をしっかり定めて噴射してくるのでとにかくたちが悪い。散々攻撃を喰らった私は最後の手段として彼の背後へと回った。彼の背中を盾にして最大限背中を丸めて座り込む。
「あ、ずるい」
「だってこうでもしないと幸村くんがかけてくるから…!」
「もう一回頭からいこうか?」
幸村くんのホースを持ち上げる仕草に、私は首をぶんぶん左右に振り、彼のシャツをこれでもかとぎゅっと握った。全身全霊で表現した抵抗のサインを汲みとってくれたかはわからないが、彼は肩を揺らして降参した。
「なんだか疲れちゃった」
急に襲うしずけさがおかしくて、吹き出してしまった。必死に逃げ回ってやいやい騒いでいるのも、私も幸村くんもほぼ全身ずぶ濡れになっているのも、ぜんぶめちゃくちゃだ。大声を出しすぎて喉が痛い。なにがどうなってこんなことになったんだろう。
ふと顔を上げると、彼が首を捻ってこちらを見下ろしていた。
「やっと笑ってくれた」
胸がちぎれそうになった。
そんな声で、そんな目で見つめられたら、私がどうなるかなんて、このひとは知りもしない。
「もうちょっとだけ、いい?」
私は首を下へやった。
彼はもう一度、前へと向き直した。
「いいよ」
それからはずっと彼のシャツを握りつづけていた。私がはなすまで、彼は喋ることも、振り返ることもなかった。
底に沈んだまま水のながれる音に包まれているようだった。この時間に身を委ねさえすれば、すこやかな記憶を残して、荒んだ感情を漂白してくれる。そんな気がした。
仕上げの最後の最後まで水をかけてかけられの繰り返しだったので、肌を焼く陽ざしに晒されても乾くどころかむしろ濡れる一方だった。ふたりとも笑い疲れて、散々だった。楽しい思い出になったといえばそれまでだけれど、幸村くんの全身を見直すとわりと洒落にならなかった。これから部活だと言うのに大丈夫だろうか。さっきまではしゃいでいた彼も「さすがにはめを外しすぎたかな」苦笑していた。
「君は?」
ちら、と私を見やる視線に促され、あらためて自身の制服を見返す。彼に負けず私もたいがいの状態だ。このまま帰るのは控えたい。
「えっと…体操服に着替えて、乾くまでは教室で過ごそうかな」
「ちょっと待ってて?」
理由を訊ねるまもなく、幸村くんは小走りでどこかへ行ってしまった。しばらくプールサイドの出入り口で待っていると、テニス部のユニフォームに着替えた幸村くんが駆け足で戻ってきた。
「はい、これ。着て行きなよ」
肩にふわっとかけられたのは、長袖のレギュラージャージだった。
「その格好のままだと出歩きにくいだろ」
制服はジャンパースカートなので下着が透けるようなことはないけれど、水にかかった跡は色濃く染み込んでいるうえ広範囲に及んでいるのでぱっと見ただけで濡れていると気づかれてしまうだろう。ここから教室まで数分足らずの移動とはいえ覆い隠せるのはとてもありがたい。
しかし彼はあきらかに濡れた状態のまま周囲の視線も浴びながら部室とプールまでを往復してくれたのだ。その姿を思い浮かべると、非常に忍びない。
「ごめんね幸村くん…みんなに、なにか言われなかった?」
「びっくりされたけど、まあそれらしく言っておいたよ。髪ももう乾きかけてるし大丈夫」
「…ごめんね」
「こんなことしたことないからね、楽しかったよ」
彼がくすっと笑う。
「ありがとう」といえば、「どういたしまして」と彼が言う。
こんなやりとりも、いつぶりだろう。
「あの、幸村くん」
口を開いては閉じての繰り返し。心臓がばくばくする。幸村くんが不思議そうに首を傾げる。あぁ、こんなにも下手くそになったなんて。
「その…あとでジャージ返したいから、えっと…幸村くんがよかったら、その……あの、」
私の声がみすぼらしく沈んでいくのに反して、彼の顔色はじわじわとあかるくなる。
「一緒に帰ろうよ」
彼がさらりと言う。「あ、さきに言っちゃった」ほんの少し悪戯っぽく笑う彼に、心臓が小刻みに鳴る。ひさしぶりの感覚。忘れかけていたものは、私が思っていたよりもずっと多かったのかもしれない。
教室に戻り体操服へと着替えたあとは、こっそり幸村くんのジャージに腕を通してみた。当然、私が着ると肩幅も広くて指さきまですっぽり隠れるくらいぶかぶかだった。そういえば、去年は彼の薄い身体にはこのジャージは大きく見えたけれど、いまの彼にはふさわしい。体格もその威厳も、まるでジャージのほうが彼に寄り添っているみたいに。
放課後、彼とはあの音楽室で待ち合わせた。ほんとうにひさしぶりのことだった。
思い立って何度も音楽室の前まで立ち寄っていたけれど、毎度扉にふれたところで引き返していた。ひさしぶりにこの椅子に座ったいまも鍵盤の蓋は閉じたままだ。音を奏でたその瞬間、隠しきれない臆病なこころがおもてに漏れてしまいそうで、こわかった。
彼もあとから来て、隣へ座った。身構えていたけれど、リクエストもなければ、ピアノに関するなにかしらにも彼はほとんどふれなかった。私たちはいたって普通の会話をしていた。わざわざここでなくてもいいような些細な内容ばかりだった。でも、それでよかった。椅子の端っこへ座り、彼のための空白を用意して待つ時間。彼が手を差し伸べてくれるから、つなぎあって、狭い椅子で平穏に過ごすだけの時間。どれもが恋しくて、ちいさな光の粒みたいにかがやいていた。
彼の手のひらは知らないうちにさらにかたくなっていた。こうして好きなひとの手の感触も温度も声もそばでふれられる時間が大好きだったことを思い出した。
一風変わったことといえば、ふたりの制服がまだ湿り気を帯びていたことだろうか。
「ありがとう、幸村くん」
うしないかけていた煌めきをすくいあげる。ほんとうに少しずつ、でも確実に。そんな行程をひとつずつ噛みしめていく度、世界は色を取り戻していく。
「つぎは一緒にきらきら星を弾きたいな」
と言えば、
「前よりはうまくなったんだよ」
はにかんで、彼はそう返した。
のどかな夕陽が街並みを染めていく。少しずつ、ゆったりと、はかなく。