普段なら気にも留めないようなことで急激に落ち込んだかと思えばそんなこともあったな、などと胸にぽっかりできた窪みが跡形もなかったかのように歓喜する。
恋は忙しくなくて、やっかいで、不思議だ。
――――俺は君が笑っているのも、泣いているのも、おんなじくらい好きだよ
幸村くんは急に泣いたりはしゃいだりなにかと過剰に反応する私のようすをおもしろがっている。だからこそ出てきた台詞でしかなく、大それた意味はない。頭では解っている。しかし、彼が言った二文字だと思うだけでおかしいくらいときめいてしまうのだ。
(好きって、言ってくれた…)
ふいに思い出しては、ぼうっと物思いにふける。最近はずっとそんな調子だ。
いつもは気乗りしない家事も脳内お花畑マジックのおかげで途端にルンルン気分に浸れ、それはもう捗るのだからコスパ最高だ。家だとにやけた顔を隠すのをつい忘れてしまうので、お父さんに見られると余計な心配をされるのが少々面倒だけれど、まぁその程度ならなんてことない。ちょっと変に笑ってるくらいのはずだ。多分。そこまでひどくないはず。多分。あまり好きじゃない午後の時間割もお花畑のおかげ余裕でこなせそうだ。
一度嵌ってしまうとかんたんに抜け出せないばかりか、傷ついてもなお手を出してしまう。恋は麻薬みたいだ。
などと、ポエミーな考えごとを巡らせていたときだった。
「だーれだ」
突如塞がれた視界に、背後から忍ぶ声。「へっ……!?」狼狽えるも一向に反応がない。じっとしていられず手首を掴んでみるもそれもまた反応なし。誰かもわからぬ声で困惑していると
「もうちっと色気のある声出しんしゃい」
ぱっと目の前が開けた。ぐりんと首を捻ると、後ろの机の上に座った彼が目を覚ましなさいと言いたげにひらひら手を振っている。さっきは誰の声を真似していたのだろう。彼の喉は変声機さながらだ。
「びっくりした……」
「こんだけすぐ後ろにおって気づかんお前さんにびっくりナリ」
「ま、まぁ」
幸村くんの妄想に夢中になっていました、なんて口が裂けても言えない。動揺を抑えつつ「なにかあった?」訊ねてみたけれど「なんとなくマイナスイオンを求めてのぅ」のひと言。つまり、深追いしなくてもよさそうだということは理解した。彼が私のもとへふらふら立ち寄る行動にはたいてい目的も意味もない。
「仁王くんはむやみやたらに気配隠すのが上手ね」
「神出鬼没っちゅうのも余興にちょうどええじゃろ」
「心臓に悪いからやめてほしいな」
「あいかわらず、そういうんが好きそうじゃな」
彼が目線を落としたさきは私のスマホに表示された、とある喫茶のスイーツだった。スーパーの買い物リストをメモ帳に残したあと、それとなく開いたSNSの画面のまま放置していた。とあるカフェの投稿を眺めていたのがぼんやりしているうちに巡り巡って幸村くんを思い出してしまうのだから本格的に重症かもしれない。とはいえその症状が出る直前までは、いたって真面目に場所やメニューを調査していたのだ(これがはたして真面目なのかどうかという議論は横に置く)。
仁王くんにスマホの画面を見せた。
「ここのカフェ、あんみつが有名らしくてすっごくおいしそうだよねっ。ほかにも抹茶ティラミスとかぜんざいとかいろいろあるみたいで……どれも食べてみたいなぁ」はぁ、と投稿を見ながらうっとりしたため息が漏れる。
「誰かと行く予定でもあるんか?」
「丸井くんは興味ありそうだけど、ここの甘味処、学校からだと電車も乗り継がないといけないの。部活終わりだと遅くなるし誘うのもなって……」
全国大会が迫っているのもあってテニス部の練習はいつも以上に密度が濃くなっている。さらに帰宅時間が遅くなっているいまは誘いにくい。チェーン店とは違い閉店時間が比較的はやいのも誘うハードルを高めていた。どこかの土日にでも行こうか。などと考えていると
「今日にでもどうじゃ?」
画面から顔をはなすと、ぴたりと視線がまじわった。
「今日?」
「今日」
「……誰と?」
「俺と」
彼は単調に述べた。
いったい、どうして?
「もしかして、お誘い…?」
「それ以外なにがあるんじゃ」
「だ、だって」
「詐欺にでもかかりそうっちゅう疑いぶりじゃのぅ」
口の端を上げる彼に「そうじゃないけど」と口では否定してみたけれど、実際、勘ぐってしまう。彼の場合、動機がいまいち掴めないのだ。彼は甘いものを特別好んでいるわけでもないし、万が一もし気分が乗っていたのだとしても人選がなぜ苗字名前に至ったのか理由がさっぱり不透明だ。
「仁王くんはそこまで興味なさそうだと思ってたから…でも、部活は?」
「素振りでもよぅないっちゅうわけじゃき、まだ出れん」
彼が包帯の巻かれた腕へ目を寄越した。
「遠出はあまりよくないんじゃ……」
「足と胃袋は、腕と無関係ぜよ。派手な動きでもせんと特に響かんし」
「ほんとのほんとに? 仁王くん、怪我、大丈夫?」
「それ、今朝も聞いとったのぅ。しわい女は嫌われるぜよ」
「だって心配にもなるよ」
「なんなら柳生にも俺の容態を聞いとるじゃろ」
「だって私からいくら聞いても仁王くんなら平気だって言いそうだから…」
「お前さんはいつもまるで信用ならんって言いかたしちょる」
「仁王くんは一番うたがってかからないといけないひとなの」
「それはたいそうな褒め言葉ぜよ」
けっして褒めたつもりではないけれど、彼のご機嫌だった。机から腰を下ろし「じゃあ、また校門での」と言って去っていった。約束をとりつけたと解釈して問題ないのだろうか。
終礼後。
校舎を出て歩いていると、校門に着く手前のところでほんとうに彼と鉢会ったのだった。いや、鉢会うという表現は語弊があるのか。だって、彼とは事前に約束していたのだから。
「いま、ほんとうにいるって思ったじゃろ」
「そ、そんなことないよ。すっごく待ち遠しかったよ」
彼のじっとりした目から逃れるように首を何回も横に振った。
事前に乗り換え案内を調べておいてよかった、なんてとても口に出せない。
*
宇治抹茶アイスつき白玉クリームあんみつ。
おいしさ満点間違いなしの単語しか並んでいない、なんと贅沢な響きだろう。
「かわいい…おいしそう…すべてが完璧…!」
「……なんちゅうか、見るだけで胸焼けしそうじゃ」
「仁王くんでも食べられる量だと思うよ?」
「量の問題だけじゃないぜよ」
写真を撮る私の前で仁王くんが引いてる気がしなくもない。撮影タイムを切り上げ「いただきます」ひと口スプーンを運んだならそこはもう天国。もちもちの白玉団子につぶつぶの甘い小豆、真っ白いホイップクリームが口のなかでなめらかに溶けあう。
「しあわせ…」おおぶりな器を前に昇天している私の前で「満足そうでなによりじゃ」彼はほうじ茶アイス単品をちびちび食べている。彼から誘ったのだから甘いものを無性に食べたい欲が湧いてきたのかと思っていたけれど、がっつり食べる気はなかったみたいだ。
「ちょっと食べてみる?」器を彼のほうへずらすと彼が口をちいさく開いた。首を傾げると、彼が呆れがちに視線で促した。
「あーん、じゃ」
「えっ」
「まだ腕が使いにくいき」
気怠げな態度も相まって半開きになった唇がやけに色っぽい。ぎこちない手つきで白玉をひと粒掬って口もとへ運ぶ。「うまい」彼はこれといった反応はなく淡々と咀嚼していた。そういえば、彼はさっきまで右手で器用にアイスを食べていたのに私が手を動かす必要はあったのか。ぐるぐる包帯で巻かれた左手の影響で右手もあまり動かしちゃだめとか? 怪我の経過は気になるけれど、実際ほんとうのことはわかっていない。というより彼がまともに教えてくれるわけがない。
「断られるとばかり思ったぜよ」
ほのかに笑う彼のようすからして、嵌められた気がしなくもない。
「……ほんとうに痛むならしかたないから」
カフェに行く。甘いものを嗜む。あーんするくらい幼馴染とはよくしていたものだ。特別な意味はない行動も彼と共有した途端どことなくぎこちなくなる。
ふと、隣からひそめきあう声が耳に入る。視線のみで辿ると、ふたつテーブルを挟んだ向こうの女性客ふたりが私たちをちらりと見て、くすくす笑いあっている。いまの私たちは大人からしたら微笑ましい中学生カップルに映るのだろうか。本人たちにそんな意識はないのかもしれないが、こっちとしてはからかわれた気がして、ちょっとだけむず痒い。
彼も気づいたらしく「お似合いに見えるんかの」と、ぼやく。
「そう、なのかな」らしい相槌を打つ。
気恥しさをまぎらわすよう器に集中していると、ふいに目前にスプーンが迫ってくる。
「あーん」
「…わ、私はいいよ。こっちにもアイスあるから」
「とことん見せつけたらええじゃろ」
ぶわっと顔に熱が集まる。
「私は大丈夫だから。ほら、仁王くんもせっかく食べないともったいないよ?」
瞬時に目を逸らし、グラスに手を伸ばした。
「つれないお嬢さんじゃ」
行き場をなくしたスプーンが彼のもとへ戻っていく。彼はさもつまらなさそうな口ぶりをするが本心かどうかはわからない。
お似合い。口では肯定とも否定ともとれない言葉で誤魔化したけれどいざ頭のなかで単語を復唱してみると、頭に浮かべた天秤は一気に否定へと傾いた。彼の隣にぴったりなのはどんな子だろう。
「もうちっとばかし素直にならんと人生損を食らうぜよ」
「素直もなにも、私はどこも怪我してないから自分で食べられるよ」
「お前さんは俺の扱いが若干つめたい気がするんじゃが」
「そんなことないよっ。慎重になるのは仁王くんのせいというか……いろいろ勘繰りたくなる理由は、仁王くんもお察しの通りだと思うよ」
「そういえば、さくらんぼのヘタを舌で結べると口遊びが上手い証拠らしいのぅ」
わざわざ私がヘタをつまみ口へ運んだ途端にそんな悪知恵を言うのだから確信犯としか言いようがない。睨み返すも彼はくつくつ笑うだけでなんのその。なんだか暑いし、味も堪能できない。あんみつに罪はない。罪状は仁王くんに突きつけるべきだ。今度もしなにかあれば柳生くんにチクろうと、小心者の私は誓いを立てた。
外を見やると、こぢんまりとした庭園が広がっている。陽あたりのいい窓際のテーブル。脇にはちいさな瓶に生けた花が添えられている。息をととのえ、スプーンを置いた。
「ねぇ、仁王くん」
窓越しの景色を眺めていた彼の、つんとした銀色の髪がうすい光に反射する。
「仁王くんがみんなに言ってくれたんだよね?……その、私が悩んでそうなこととか、いろいろ……だから助けてくれたんだよね」
じわじわと彼の目が見開く。瞬間的に焦りが募った。
「違うの。誰も悪くなくて、私が無理やり聞き出しただけで……その、」
あぁ、ほんとうにしまった。聞かれてもいないことをべらべら喋りすぎた。柳くんからも「あいつのことだからほぼ確実に知られたくないだろうな」と聞いたとき、慎重になろうと決心していたのに。とはいえ自他ともに認める馬鹿正直な私がなんとなく勘づいたふうを装うのははじめから無理な話だったとも思う(「もしなにか言われるようだったら俺の名前でも出せばいい」と柳くんからあらかじめ助言をもらったあたり、私がありのまま話してしまうことも予想できていたのだろう)。
「どうしてもお礼は言いたかったから。ほんとうに、ありがとう」
「あれは俺だけがどうこうしたわけでもない」
「でも、きっかけを作ってくれたことには変わりないよ。仁王くんがみんなに言ってくれなかったら、きっといま頃私は学校に行けてなかったから」
彼はなんともいえない表情のまま視線をテーブルへ落とした。表立って活躍した、と思われることに抵抗があるのだろうか。
庭に生えた一本の木がそよそよと揺れる。
「いまもこうして仁王くんとあんみつ食べられなかったかもしれないし」
「辞書も借りれんかったかもしれんし」
「辞書くらい私以外からも借りられるよ」
真田くんは怒りそうだけど、ほかのみんなは快く貸してくれると思うよ。そう笑いたかったのに、
「あいつらはおまんのこと、俺よりもよほど心配しとった」
瞳を伏せながらそんなことを呟くから、私は口を噤んだ。
付箋だらけの辞書が頭を過ぎる。ぎゅっと胸の奥が締まった。そんな言いかたしなくてもいいのに。彼だって、きっと。
「仁王くんは意外と世話焼きよね」
「そんなふうに言われたのははじめてじゃ」
「言わないだけでみんなも思ってるよ。仁王くんは部活のこともみんなのこともいろいろ見てるんだなって、私でも思うから」
彼の器は空っぽになっていた。
「それに、仁王くんは私のこととくに興味ないのかなって思ってたから、今回のことちょっと意外で……うれしかった」
しみじみ思い返していると、テーブルの向かいから怪訝な視線を浴びる。彼にしては露骨な、あきらかに呆れている態度だ。なにか地雷を投下してしまったのか?
「あ、あの?」
「お前さんはまこと質が悪い」
「……えっと、ごめんなさい?」
「適当に言っちょるな?」
「うっ」
「ちっとは自覚しんしゃい」
「……? なにを?」
「とっくに忠告済だに。はい、あーん」
「え? えっと、」
「詫びはええから行動で示してもらわんとのぅ」
右肘で頬杖をしながら、あ、と、口を開く仁王くん。負けじと抵抗する素振りを見せても引く気配がまるでない。あざとく見せる作戦にだまされたくないのにあっさり堕ちてしまうのがかなしいかな、世の常だ。ちらちら店内を見渡す。お隣は歓談が盛り上がっているようだし、あと一回だけなら。スプーンに盛りつけられたアイスとあずきが彼の口に運ばれた。
「もうこれっきりだからね」
「美味い美味い」
「ほんとうに思ってる?」
「思っとるよ」
悪戯っぽく上がった唇。やわらかさを纏う伏せられたまなざし。もっと言いたいことがあったはずなのに、なにも言えなくなった。
スプーンを置いたのはそれからもう少しあとのことだった。満腹だとすぐに立ち上がる気にはなれず、まだ店内に居てもいいか彼に訊ねると了承してくれた。彼もまた、ぼうっとしたいみたいだ。器が下げられるとテーブルのうえにはお冷とおしぼりだけが残る。自ずと腕に巻かれた包帯に目が留まる。
「腕、はやく治ったらいいね。関東大会ももうすぐだし、今年は試合にも出られるかもしれないんだよね?」
彼は無言だった。私の話をただ聞きながしているというよりは咀嚼したうえで熟考しているようだった。重たくはないが、張りつめた沈黙が匂い立つ。
不安が過って、口を開きかけたときだった。
「万が一にもオーダーの候補に入っとったとしても、まず本命からまっさきに外されるじゃろな」
自分が試合に出るなんてとてもじゃない、などと謙遜で話しているようには聞こえない。予想でもなく、断定に近い口ぶりだった。もはやうたがう余地がないのだといった口ぶりで、なぜそんな考えに至ったのか私には推しはかれない。
テーブルに置かれたグラスは、汗ばんでいた。
「まだ決まってもいないのにそう考えるのははやすぎるんじゃ、」
「ヘマしたことには変わらんからの」包帯の巻かれた腕へ目線を配せた。「結果いまも練習に出れんからブランクになっとるのは事実じゃし」
「そんな、一週間しか経ってないのに……完治するのももうすぐでしょう?」
「いざ本番を迎えたとして『俺だけが』はい残念でしたで済ませられたら、よかったかもしれん。じゃがあいにくこれは単身で乗り込むゲームじゃない」
からん。客が店内へ入ると同時に扉についていた鈴が鳴る。
真正面に彼は座っている。彼と目が合っているようで合っていなかった。おそらく彼が見つめているのははるか向こうの景色だ。
「勝つなら徹底的にリスクは除かんといかんぜよ。オーダーを練る参謀もそう思っとるじゃろうし、俺でも思う」
目がすっと細められる。
「それに、幸村も」
最後のひと言が、色濃くふたりのあいだにただよう。椅子の背もたれに体重をあずけてゆったりとくつろいでいる姿勢と、まなざしの鋭さとがアンバランスだった。
「代わりはいくらでもおる」
そんなことはない。
そう否定したかった。けれど、できるはずもなかった。
あの三人なら。もしあの三人のうちひとりでも欠けるような状況に遭えば、代わりはいないと言い切れたのかもしれない。なにがなんでも確保しなければいけない戦力だ。そしてそれは圧倒的な三人に対して太刀打ちできるその他の戦力はほとんど不在であることと同義で、そのなかでも勝利に繋がる最適解を取捨選択していくしかないのだ。
彼はとっくの前に呑み込んでいた。どれだけ意思を固持しようとも、いま自分の持ちうる最大限を捧げようとも、なにひとつとして説得できる材料にはなり得ないこと。いま臨んでいるものが誰にも均等にメダルが与えられるようなお遊戯ではないこと。だからこそ、寸分の隙も許されないこと。
ひとつのわだかまりがドミノ倒しのようにつらなって綻んでいく。そういう脆さをくまなく潰していくのが、彼らだった。
どんな言葉をかけようとうすっぺらいエールにすらならないのだと、部外者の私でも解る。口を噤んでいたときだった。
「まぁ、明日には無理やりでも部活には出るつもりじゃ」
反応するまでに三秒ほどかかった。「え?」拍子抜けした私を見て、彼が肩をすくめた。
「こんな程度でいちいち休んでられん」
「……でも、まだ素振りもしないほうがいいでしょ? 大事はとったほうがいいんじゃ、」
「大袈裟に言われとるだけぜよ。身体が鈍るんも嫌じゃし、とやかく言われたら適当にボール拾いでもして誤魔化せばええ」
「……そんなにうまくいくの?」
「右利きで打つ練習も本格的にせにゃいかんと思ってたところやき。こんな状況にでもならんと慣れた利き腕ばかりでプレイしがちになる。ちょうどよかった」
ふっと、彼がちいさく息をついた。彼は無意識にとった行為だったろうけれど私の耳にはたしかにきこえた。余分な力が抜けたようにかんじられるのに、空気はぴんと引き締まっている。
「最後の最後まで悪あがきするんも、たまにはええじゃろ」
たまには、じゃない。きっと彼はいつでもそうだ。横顔を見て、直感でそう思った。
「代わりはいくらでもおるかもしれん。じゃが、それだけで投げやる理由にはならん。可能性がゼロじゃないかぎりはいくらでも賭けられる」
すがすがしかった。特有の気怠げな雰囲気も一掃していた。しずかな力強さを秘めている。鋭さ以上に、まっすぐな瞳を携えながら。彼は、粛々と現実を受け容れる彼自身にあらがっているのかもしれない。たいてい誰もが剥き出しにしている闘争心を彼は巧妙に隠しているだけ。はなから静観する気などなかった。
「仁王くん、かっこいいね」
彼がやや面食らったような顔をした。
「いきなりなんじゃ?ご褒美はなぁんにも出んぜよ」
「そう思ったから言いたくなっただけ。仁王くんはやさしいところも、かっこいいところも、いっぱいあるんだなって」
現実味を帯びない励ましの言葉をかけるのは憚られるけれど、感想を述べるくらいならゆるしてほしい。
窓際から差し込む細長い光がテーブルに反射している。
彼はため息をこぼして「まぁ、お前さんはいつもそうじゃったの」と言った。
「ほんとうにそう思ってるんだよ」そう念押ししたら「そういうところじゃ」念押しで返された。
「でも無理はだめだよ? もっとひどくなるかもしれないし」
「ピヨっ」
「ほんとうは痛いのに無理やり動かしたり、大丈夫って言って嘘つくのもだめだからね?」
「あんなお前さん見たら嘘つくにもつけんぜよ」
口酸っぱく言う私をはいはいとあしらうのかと思っていたのに、意外にも、金輪際そんなことはしませんとでもいった雰囲気で彼は生真面目に宣誓した。
それからふたりで店を出た。私たちのいる歩道はあかるいのにずっと向こうの海のうえの空は低く垂れこめていた。大きな起伏はなかったが、彼との会話は途切れなかった。
「今日は仁王くんと行けてよかった」
「あんだけうたがっとったのに」拗ねた顔で彼が零した。
「…ごめんなさい」引き攣った私の顔を見て、彼がひとしお意地悪な顔をした。もう一度謝ろうと思ったときだった。
「たまには、おまんとゆっくり話してみたかった」
ふいに彼が足を止め、遅れて私も足を止めた。理由を訊ねた。
「どうしてじゃろうな」彼はしばらく逡巡した。「お前さんの周りには、なかなか隙がないんじゃ」
私を見ずに、彼が言った。平然とした横顔にはアンバランスな情感が声には滲み出ていた。難儀しているようにも、諦めたようにも、もしくは気に食わないと文句を零しているようにもきこえた。追求はしなかった。のぞまれているとは到底思えなかったから。
翌日の終礼後、彼がひとりで歩いているのを見計らって声をかけた。ラケットバッグを背負っているあたり、さっそく手慣らし程度には練習を再開するつもりなのだろう。まだ包帯が巻かれた腕を見るとつい止めたくなるが、いまの彼には不要な労いにしかならない。ぐっと言葉を呑み込んだ。呼び止めると、彼が振り向いた。
「差し入れ、です」
「……」
「……も、もしかして苦手だった?」
「なんで、どら焼き」
彼が手にとってまじまじと眺める。どうも、程度のひと言でささっと受けとってくれたらよかったのに、そうも不思議そうに見ないでほしい。つまりそれくらい私のチョイスがおかしかったのかな。仁王くんに、どら焼き。
「あのあと行きつけの和菓子屋さんに寄ったんだけど……あんこは糖分補給にいいから運動してるひとにいいって聞いたことがあってね。なかでもおはぎは最適みたいなんだけど持ち運びには不向きだからいろいろ迷って、それなら個包装のどら焼きだとちょうどいいかなって…」
「……·」
「そこのどら焼きすっごく美味しいんだよ。しかもそれは中に栗も入ってるから特別などら焼きで、私も欲しかったけど昨日結構贅沢したから抑えちゃった…やっぱり買えばよかったな」
「……」
「…え、えっと。ごめんなさい。私の話はどうでもよかったよね。とにかく、その、」
「わざわざこれ買うために店まで行ったんか?」
こくんと頷くと彼がもう一度どら焼きを見つめた。だからそう何度も見ないでほしい。
「あれだけあんこ食っといてまだ食い足りんとは、さすがにおどろく」
「ち、ちがうよ。昨日は食べすぎたからその代わり晩ご飯もちょっとは少なくしたし、それは全然別で、」
「おはぎを断念したつぎがどら焼きっちゅうのも、あんこを重視するなら大福やらまんじゅうでもよかったじゃろ」
「……あっ」
「やっぱりほんとはお前さんが食べたかっただけじゃったか」
「ち、ちがいます……多分」
「すまんすまん。わかっとるよ」
必死の弁明も意味なく、彼にはくつくつ笑われる始末。真剣に選んだつもりが結果的にいまいち説得力に欠けるチョイスになってしまった。
「わざわざこのために寄り道したんかと想像するとおかしくての」
「…これでも真面目に選んだんだよ?」
「差し入れだけでも律儀っちゅうのに適当に済まさんのもお前さんらしい」
そう言って袋を見つめる目もとは、勘違いじゃなければ、安堵感とやわらかさとが交じりあっていた。なんともいえないくすぐったさをおぼえた。
「ありがとさん。ええ栄養補給になりそうぜよ」
「最初からそう言ってくれたらな」
「うれしさのあまりふさわしい言葉が出んかったんじゃ」
「はいはい」
「まーた信用ならんっちゅう顔しちょる」
「だって仁王くんですから」
「なんでもひと様をうたがっとると人生損ばかりぜよ」
「素直になってうたがわず。突き詰めるほど悪い詐欺師に引っかかる理屈ね」
そこまで言って思わず笑いが溢れると、すぐあとから彼も砕けたように笑った。
「うれしいのは、ほんとうじゃ。ありがとうな、苗字」
彼は飄々としてなにを考えているのかいまだにわからない。でも、わかったこともたくさんあった。自分本位で動いているように見えて、ほんとうは友達思いなところ。興味がないように繕って、実は貪欲なところ。こんな拙い気遣いにも、気づいて、やさしく受けとってくれるところ。そういう一面を知られることが、ちょっと苦手なところ。
見送っていると、彼は一瞬だけ振り返り手を軽く上げた。ふたたび背中を向けてコートのほうへ足を進めていく彼を私はずっとながめていた。
彼によって救われた猫は登下校中、ときどき彼のあとをついてきてよく懐いているらしい。
そんな噂が回ってくるのは、もうしばらくあとのこと。
*
一階の中庭へつづく廊下のそばには、笹が立てかけられている。先日まで生徒たちが集って思い思いに願いごとを吊るしていた。
首を上げると、しっかり上のほうにまであざやかな短冊が飾られている。ときどきこうして立ち寄っては書かれた願いごととその字を眺めるのが好きだった。ユーモアに富んだものから、真剣な悩み、恋愛成就、誰かに向けたメッセージととれるものまでさまざまだ。
笹が設置された当日は私もまっさきに丸井くんを連れて七夕イベントに飛びついた。丸井くんは『ホテルビュッフェに行きたい』、私は『今年こそダイエットに成功しますように』。家族揃ってビュッフェに行くとなると出費が嵩み、外食としてはハードルが高いらしく、彼にとっては切実なお願いだった。私も至極真面目なお願いのつもりだったけれど、これを書いたあとさっそく昼ご飯にクリームパンを食べてしまった。彼には「もう神さまに見捨てられちまってるかもな」なんて盛大にからかわれてしまった。実際のところ願いというのは願うだけではなにも変わらない。本人の努力および実行なくして叶わず、なのだ。「明日からがんばるよ」胸を張って(意地を張って、に近いかもしれない)返したけれど、彼にはふーん?とうたがわしく笑われた。実現には程遠くとも完全に諦めていないだけましだよね。と、思いたい。
提灯を見上げながら、丸井くんとの会話を思い出した。
『もう一個なんか書くか』
『願いごとはひとつまでだよ』
『そんなルールあったか?』
『ないけど、暗黙の了解じゃない?』
『案外書いてみたらついでに叶えてくれるかもしんねぇだろぃ』
『いまでもこんなに飾られてるのに神さまもオーバーワークになっちゃうよ』
『でもよ、それくらいしてくれねぇと神さまって言えなくね?』
神さまの許容範囲はわからない。少なくとも人間と同じものさしで測ってしまえば日本中からかき集めた願いごとの量だけでも残業になってしまうだろう。でも、人間よりはるかに優れているであろう神さまだから『これくらい』あともうひと踏ん張りはしてほしいと乞い願われてもしかたないのかもしれない。神さまを丁重にあつかうべきなのか、いっそ甘えて多少わがままを通してもいいのか、さじ加減が難しい。
ふと、廊下の窓を挟んだ向こうの、中庭を歩く人影に目が留まった。
幸村くんだ。
歩く方向からしてこれから屋上庭園に行くのだろうか。
テニス部のみんなとは少しずつ距離を縮めている。けれど、幸村くんに声をかける瞬間はいまだに喉の奥が窄んでしまう。ほんとうは、まだこわい。もういけるだろうと思っても、いざ動こうとするとあの日落とされた声や手紙が思考をさえぎり、急速に鈍くなる。
幸村くんも、私の心情を察してあれからはひとつ遠い位置から接してくれている。きっと、慎重に距離をとろうと気を張る私の歩調に合わせている。私がいまだに周りの視線に過敏になっていることにも気づいてくれている。安堵感も胸に浮かぶのに、同時に後ろめたさも滲む。
けれど、いつまでもうじうじしたくない。幸村くんが励ましてくれたからこたえていきたい。
顔を上げると、窓越しに彼と目が合った気がした。
やっぱりいまがチャンスなんだ。
大丈夫。いまなら――――と、奮い立ったときだった。
ひとりの女の子が駆け寄り、彼に声をかけた。彼も気づいて振り返る。そのままつづいた談笑は終わる気配がなさそうだ。
肩を落とした。
「(タイミングが……!)」
あぁ、いざってときにうまくいかないな。今日は頑張れそうだったのに。
でも、あの音楽室なら彼とゆっくり話せる機会もできるはず。音楽室なら。そう思う時点で、私はずるい。
こころのどこかで、あの音楽室があるから、彼が待っていてくれるから大丈夫だと思い上がっている。彼に向かってあかるく話しかける女の子。あの一瞬のなかでどれだけの勇気が詰まっているんだろう。
やさしく彼女に笑いかける幸村くん。そっと目を逸らしたさきに視界に入ったのは、色とりどりの提灯と短冊が飾られた笹だった。
隣に設けられた短冊とペンを手にとる。つま先と腕をめいいっぱい伸ばして、枝に固く固く紐を結んだ。
――――いつか想いが届きますように
届かなくてもいい。だから、そばにいるだけでいい。
諦めていたつもりなのに、未練がましくこんなことを書いて、私はなにしているんだろう。
願いごとはひとつまで。
きっと、わざわざ口に出さずとも理解されている共通認識は探そうと思えばいくらでもあるのだろう。物事のたいていは思い通りにいかないこと。いくつも手に入れようとしてもいつかは手放さなければいけない瞬間が訪れること。そして、たとえひとつだけを選択しようと、必ずしも叶う保証にはならないこと。どれだけ強く祈っても叶わない願いがあること。
神さまじゃなくても誰もが知っている。それでも、願わずにはいられない。だから人間の抱える欲には際限がないことを見計らって、人間がなんとなくで決めた謳い文句なのだと思う。きりがないと神さまから匙を投げられないよう押さえつけて。一生のお願い。
この笹を見守っているのが、案外ついでに叶えてくれるような甘い神さまだったらいいのに。
吊るされた短冊をもう一度見上げ、その場を後にした。
*
体育はいつも隣のクラスと合同で行われる。
男女別に別れてはいるが、場所が運動場同士なら男の子側の授業風景も遠目で覗くこともできる。ちょっとした空き時間を狙って隣のクラスの仁王くんを観察するのを楽しみにしている女の子もなかにはいた。運動音痴が祟り実技をこなすのにせいいっぱいで彼をゆっくりながめる余裕がない私でも、彼は体育でも注目の的になっているのはよくわかった。普段の彼からは活発な空気はかんじられないし授業でも自ら前に出る気質でもないが、あたえられた課題はさらりとこなしてしまう。とくにクラス対抗戦にもなると彼が得点を決めたらまたたくまに女の子たちが色めき立つ。テニス以外の運動神経も抜群なのだ。若干クラスでは遠巻きにされている彼も体育になると男の子たちからあてにされている(ただし彼の気分次第ではたいした戦力にならない日もあって一概に彼がチームに加わると有利になるというわけでもないらしい)。丸井くんみたいなきらきら全開オーラを振りまいていなくとも、ほかとは際立って一線を画した雰囲気を醸し出している。危ないひとだなと、あらためて思う。
「仁王くん、どうしたんだろ?」
「ねー」
クラスの子のなにげない会話に、ふとあちらを見やる。
仁王くんが鼻のあたりを抑えていた。周囲からからかい気味に飛ばされた野次を、彼は適当にあしらいながら先生に断りを入れた。それから俯きがちにのんびりとした足取りで校舎へ向かって歩いていった。
職員室と保健室のドアはなぜだか必要以上に慎重に開く癖がある。
扉を開くと同時に鼻を掠める消毒液の匂い。保健室の先生の机には「まもなく戻ります」の立札が置かれていた。
最奥のベッドのカーテンだけが唯一閉じられている。スリッパが擦れる足音がやけに聴こえるくらい静寂だ。極力音を立てないように近づく。
「仁王くん、いるんだよね?」返事はない。眠っているのだろうか。「開けるね?」
そうっとカーテンを開いたときだった。惜しげもなく素肌が曝け出された背中。ゆったりと銀色の頭が振り返る。
「のぅ、来てくれるとは」
全身めがけて氷水をかけられたかと思いきや頭頂部から熱風が噴き出す。わけのわからない乱高下に襲われた。
「すすすすすすみません!覗こうなんてけっしてそんなつもりでは…!ももも申し訳ございません、その、おおおお邪魔しました!」
お辞儀をして立ち去ろうとすると彼がすばやく私の手首を掴んだ。「落ち着きんしゃい」やれやれといった顔で引き止められるが、私の反応はまともだと思う。しかしだってこんなの落ち着けるはずがない。
「そうすぐおさらばせんでももええじゃろ。もうちっとばかし雅治くんを労わってくれんか」
「だ、だって、まさか、服着てないなんて知らなかったし、いるなら返事してくれないと困るよ」
「暑さに参ってのぅ、ぼーっとしちょった」
彼がベッドへ腰を下ろした。しずかにため息をつく仕草が、日頃醸し出される彼特有の雰囲気などではなく、あきらかな倦怠感を物語っていた。
「…体調、大丈夫? やっぱり鼻血だったの?」
「まぁの。血が体操服にもついちょったきに、軽く洗ってた」
体操服のトップスがベッドフレームにかけられ、干されていた。今年に入って一番の夏日和になりそうだとニュースで放送された通り、今日は猛暑日に迫る気温を更新していた。熱中症になってもおかしくない早々に訪れたきつい陽ざしのせいでのぼせてしまったのだろう。いまはもう血も止まっているみたいでほっとしたけれど、心なしか彼の顔色がいつもよりも白く映る。
「気分悪くない?横になってもいいんだよ」
「ピヨっ」
いつもの返事。おそらく大丈夫だと解釈していいのだろう。
「あのままつづけようと思えばできんこともなかったがどうも戻る気にはならんくての」
「私も暑いの苦手だからわかるな。無理もよくないし万全じゃないうちはここにいたほうがいいよ」
ふと彼が私の片手に視線を寄越したのに気づき、本来の目的を思い出した。さきほど自販機で買ったポカリを彼の頬にぴたりと寄せると「つめた」彼が単調に呟いた。
「おみやげ。首とか冷やしてね」
「この前からつづけてすまんの。なにかお返しせんといかんな」
「別にお返しは……あ、それなら新作の付箋がほしいな」
「懲りんやつじゃ」
軽く笑いながら彼は忠実にしたがい首筋にペットボトルを押し当てた。すでにペットボトルは汗ばみかけている。
タイミングを見計らい、私は言った。
「あの、仁王くん。私そろそろ戻らないと……」
さきほどから左腕を掴まれたまま彼がはなしてくれない。会話の合間を狙い解こうと僅かに力んでみるもがっしりと手首を掴まれているために敵わない。掴まれた箇所を境に私の手が重力にしたがってだらんと垂れている。彼がすっとした目つきで、私を見上げた。
「気のせいならええんじゃが、さっきからお前さんと目が合わん」
気のせいなどと言いながらほとんど断定した口ぶりだった。心臓が波打つ。視線が泳いでいる自覚は、あった。
「……それは、」
彼が立ち上がった拍子に、ぎし、とパイプ脚の軋む音が鳴った。「仁王くんが、」シーツの上でバランスを保っていたペットボトルが倒れる。「俺が、なんじゃ」手首をはなす素振りもなく、押し黙る私を探るように彼が追い打ちをかける。静寂がただよう。頭ごと逸らしてほかの対象物へ目をやることに意識を集中させた。光沢を帯びた茶色いスリッパ。擦れ傷がほとんど見当たらないグレイの床。
「やましいことでも考えゆう顔しちょる。悪いよのぅ」
「そんなこと、」
頭を上げかけて、固まった。比較的線の細いとひとだと思っていたけれど、やはりどう足掻いても体格が違うのだとまざまざ知らされた心地だ。ほどよく引き締まった腹筋が目に入り、すぐさま逸らした。こんなにも間近で同年代の異性の身体を見る機会などない。自分の頬が赤らんでいくのがわかる。極力ここから上は見たくない。
「だって、仁王くんが、男の子だから……」
押し寄せる気まずさを処理しきれない。
「そうも意識されるとこっちまでおかしな気にふれそうになる」
「またそんなこと言って」
戸惑うあまり、気づくのが遅かった。
「おまんはその気がなくとも、俺が『そう』じゃとしたら、どうする?」
さきほどから彼の声には気を赴くままに仕掛ける悪戯めいたものが微塵も含まれていない。
「ほら、はやく座ったほうがいいよ」
躍起になって空いた片手を彼の肩へ伸ばした。骨を覆い隠すうすい皮膚。彼の肌へふれた途端、私は怯んだ。それがいけなかった。隙を狙ったように彼が私の腕を掴んだ。あぁ、と、抑揚をつけて彼が相槌を打つ。意図的に置いた距離がぐっと詰められる。ひんやりとした掌の感触が伝わる。
「仁王くん、腕が、」
彼の腕が完治していないことを思うとむやみにふりほどこうとして怪我を悪化させるような動きはとりにくい。私があきらかに狼狽えようとも彼は譲歩する気などなかった。
「たしかに、どうもうるそうてたまらん」誰に言うでもない、さまよう世迷い言。「あつさに参ったのはお互いさまかもしれん」
耐えきれず、抵抗しようと顔を振り上げた。瞬間、息が詰まった。つめたく光る瞳の奥には熱を含んでいる。こちらを見下ろす彼の顔つきには喜怒哀楽のどれもが当てはまらない。しかしはたしてこれを無表情と呼んでいいものなのか判然としない。飲み込んでいた感情を粛々と発散させているとしか思えなかった。脳内で奮い立たせても口の機能が退化したみたいに言葉が窄んでいく。茶化すな、と、言われたみたいに。
ふいに彼が目を伏せた。唾を呑み込み、言葉を待った。
「つめたくてやわらかいのぅ。なかなかいいつまみ心地じゃ」
「へっ」
むぎゅっと彼の指が二の腕に食い込む。唖然としているそばで、彼はというと黙々と感触をたしかめるように私の腕を何度も握りなおす。あれ、なにがどうなってこうなってるんだっけ。「とくにこの内側あたりが」かさついた掌の質感が二の腕越しに伝わる。いま自分のおかれた状況をじわじわ理解しはじめると最高潮に顔が火照りだした。
「ちちちちちちょっと…!なに触って、」
「見た目のわりに意外と弾力はあるんじゃのぅ。癖になる」
「こと細かく実況しなくていいからっ。贅肉があるの気にしてるのに!」
「むしろ細すぎじゃ。俺は多少肉感があるほうが好みぜよ」
「しし知りませんよ仁王くんの好みなんて!さっきからセクハラな言動が酷すぎます!」
「そそのかしたのはそっちナリ」
「そ…!? なんでそうなるんですか!? あ、あのっ、いいから、とにかくはなれないと、」
後退りをしようにも時すでに遅し。手首と二の腕、両腕とも拘束されたようなものだ。想像以上に力強く、彼は揺れもしない。「こわれそうじゃ」彼が思いめぐらすように、呟いた。彼の顔が耳の真横からなだらかな動作で首もとにまで接近する。
「前から思っとったが、なにかつけとるんか?」
どうしてこんなときに、特別色づいた声を出すのだろう。ぎゅっと固く瞼を閉じた。
「なにも」
ひ弱な声がふたりの隙間に潜り込む。
「なるほど」
しっとりとした低い囁き。彼が喋る度に吐息が首筋を撫でる。反射的に肩を捩った。
「仁王くん、ほんとうに、待って」
どうしよう。ほんとうにだめな気がする。
どうしたら――――
勢いよくカーテンが開いた。
心臓がびくりと跳ねたのと、仁王くんが顔を上げたのは同時だった。
「幸村、くん」
もしもタイムスリップをして、長い旅を終えたらこんな感覚なのだろうか。別世界からこちらの現実に引き戻された途端に襲う脱力感と若干の浮遊感。よかった。けれどまだ頭がぼうっとする。
ほっとしたのもつかの間、私たちを凝視する幸村くんを見てはっと気づいた。保健室のベッドのそば。上半身裸の男子生徒とその彼に二の腕を掴まれている女子生徒が向き合っている。しかも超絶至近距離。もし私なら見てはいけないものを見てしまったと思う。多分、誰でも思う。
(よりによって幸村くんの前で…!)
まずい。なんてことだ。このままベッドにダイブして熱中症で寝込みたい。
「ちちちちち違うんです!これには海よりも谷よりも深い理由がございまして、けっしてやましいことなどなくてですね、どうか勘違いしないでください…!」
「仁王」
一瞬にして、空気がはりつめた。
「はなすんだ」
幸村くんが、顔を顰めた。はじめて見るから知ったかぶったことは言えないけれど、おそらくいま目の前にいる彼の険しさはほんとうに微々たる程度のものだ。しかしそれでも日頃すずやかで、ときには聖母様にも見間違うほどおだやかな人間の顔立ちが少しでも歪む様は、凄まじかった。彼の視線は仁王くんだけに向けられているのに、ただ傍観する自分のほうがたじろぎそうになる。あれだけ急上昇した体温がじっとりと降下していく。
仁王くんを見やる。彼も、彼を見つめている。臆する気配はない。互いが互いを黙視していた。空調の音と外からわずかに漏れる生徒の声がいっそう静寂を際立たせた。一刻でもはやくこの空気をこわしたい。しかしわずかな横槍でさえも断ち切る厚みがこの場を包んでいた。こんなとき、どう立ち回ればいいんだろう。なにか、なにか話さないと。口が渇く。頭を忙しなく回転させていたときだった。
「すまんかった」
すっと腕が解放される。腕に伝わった掌の熱が徐々に冷めていく。誰にも気づかれないくらいのか細いため息を吐いた。手が解放されたことよりも、幸村くんの表情が幾分ゆるんだことに安堵していた。
「姫サマのまえでそうおそろしい顔しなさんな」
「からかいすぎはいけないよ」
「プリッ」
仁王くんが降参とでも言いたげに手をひらひらさせた。気まぐれで、ときには場をなごませる彼の飄々さがいまに限っては焦燥を煽った。不穏な空気はたるんだが、幸村くんの顔はまだどことなく強ばっている気がする。いや、それこそ気のせいだろうか。払拭しきれない不安感が客観性を阻んでいた。
ちょうどそのとき、保健室の先生が戻ってきた。たったそれだけのことでここがまったくの別空間に変貌したみたいだった。
幸村くんは部活で使用する救急セットの備品まわりの件で保健室の先生に相談があったらしい。やりとりは数分足らずで完結し、仁王くんを残して、幸村くんと私は保健室を後にした。仁王くんはまだしばらく休むようだ(サボりではなく、大事をとって)。カーテンを閉める手前、彼は体操着を手にとっていた。
「大丈夫だった?」
扉を閉めて早々彼が訊ねた。
「なんとも。さっきはありがとう。仁王くん、変ないたずらよくするんだよね。自由気ままにというかなんというか」
早口にならないよう普通に喋る。思っていた以上の労力を要した。幸村くんと並んで廊下を歩く。安全点検のように、彼の横顔を伺う。
「ほんとうになにもなかったかい?ちょっと、おどろいてしまったよ」
ちょっと。それがまさかあんなことになるなんて。
眉根を下げて笑う幸村くんはいつもの、私のよく知る幸村くんだった。幸村くんは日頃から心配性な一面があるとはいえ、あの場はやんわりと諌める程度に留めるものだと思っていた。今回の件は単なる仁王くんのからかいに過ぎず、私もいたって平気だと何度も説明を施した。うまく伝わっているだろうか。
「またなにかあったら言うんだよ」
はじめて、彼の笑顔を見ても安心できなかった。
その日の放課後、こっそりテニスコートを訪ねてみた。遠目で会話をしているふたりを見かけたけれど、特別不穏そうな空気はながれていなかった。変わらない部活動の風景。翌日も仁王くんはふらふらとちょっかいをかけてくるし、幸村くんともいつもの調子で言葉を交わした。まるでなにもなかったみたいに。ふたりはもともと積極的に絡んでいた間柄ではないにしても、気は晴れない。
ときどき思う。私の知る彼らはほんの一部でしかなく、私が思う以上に彼らのことなどほとんど知らないんじゃないか。それもそうだ。一から十まで知らなくてあたりまえ。どうにもならない事実はどうこうしようとするものじゃない。考えすぎてはいけないと、胸の内で言い聞かせた。
*
それから数日後の昼休み。仁王くんは教室にやって来た。私が教室で食べる日はたいてい彼が目の前に座るようになった。そしてこれは不定期だけれど彼は私のお弁当箱をちょんと指さして「これ、ほしいんじゃが」ちゃっかりおかずを頂いている。好きなときに好きなものを強請る姿はほんとうに猫みたいだ。(このあいだ丸井くんにそんな話をしたら「なんであいつにもあげるんだよ」頬を膨らませていたけれどそんなので私が怒られるのは理不尽だ)
「最近教科書借りること減ってきたね」
「たまに抜き打ちで柳生に忘れもんチェックをされるんじゃ」
「仁王くんは面倒見がいい友達に恵まれてることにもっと感謝しなくちゃ」
そう仁王くんと話していると、時折彼が前髪をながすような仕草をした。しかししばらく経つとはらりと彼の視界をさえぎってしまう。
「前髪伸びたね。もともと長いほうだったけど」
「切ろう思って、いつも忘れる」
「目に入って痛くない?」
「まぁちっくと」
なにかピンでもあったら、と思ってポーチを取り出し中を探ってみる。
「あ、こんなのは?」
キャラクターものの前髪クリップだ。彼の前髪を横へ流してからぱちりと止める。彼がもともと整った顔立ちだからか意外にもマッチングしているから、思わず笑ってしまった。
「すごく似合ってるよ」
「撮影許可まで出しとらんよ」
「思い出は残しておくものだから」
「公開するなら報酬はしっかりいただくぜよ」
「みんなに見せたりしないよ。 …多分」
「お前さんはなにかと信用ならんの」
「どこかの誰かさんに比べたら全然でしょ」
「なんじゃ、いろいろ入っとるのう」
「あっ、勝手に覗かないでっ」
「お。俺もこのリップは持っとる」
「……仁王くんも、メイクするの?」
「ん」
「ほんとに? どんなの使ってるのっ?」
「……まぁ、お前さんのとはまるで目的が違うじゃろうが」
「どういう……?」
「まぁ、なんでもない」
「あの…仁王くん。その、今度よかったら仁王君のおすすめ教えてほしいな。も…もしできたら一緒に買いに行ったりとか、なんて」
「まぁ、いつでもええが」
「いいの? ほんとのほんとに?」
「ついでにお嬢さんのおめかし姿も見せてくれんかの」
「……?」
「お前さんのことじゃ」
「えっ、私?」
「ほかに誰がおる?」
「で、でもメイクは校則違反だよ」
「放課後、外でやればばれんじゃろ」
「……まだ全然下手だから、見せるのはちょっと……」
自分の気分を上げるためではなく、誰かに見せてと言われて見せる前提でメイクを施すのは変に気負いそうでもあるし、なにより恥ずかしい。
「ほんならワシがしてやろうか」
「な、なんでそうなるの」
そんな話をしていると、柳生くんがやって来た。おや、と彼が眼鏡越しに目をこらす。
「随分と可愛らしいものをつけてますね、仁王くん」
「チャーミングな雅治もたまにはええじゃろ」
「柳生くんは仁王くんがメイクしてるところ、見たことある?」
「…そうですね。見違えるほどの変化ではありますが」
「へぇ…仁王くんそんなに上手なんだね。今度いろいろ教えてほしいな」
「…ただ、苗字さんの想像する変化とは異なるといいますか」
「え?」
「あぁ、いえ!なんでもありませんよ!にしても最近おふたりでよくいらっしゃいますね。仲がいいようでなによりです」
「(あからさまに逸らしよった)」
弁当箱を巾着に収める私を見て、柳生くんがため息をついた。視線は仁王くんへ注がれている。
「仁王くん、あまり苗字さんに強請ってはいけませんよ。ご自身で昼食も持ってきてるでしょう」
「丸井だってしとるじゃろ」
「彼はあれでいいのですよ」
「贔屓は反対ナリ」
「仁王くんは丸井くんほどがめつくないから全然ましだよ」
「苗字さんにそう言われてしまうと私が叱る余地がなくなるのですが……」
「ピヨっ」
「ところで仁王くん。来週の交流試合のダブルスで少々相談したいことがあるのですが、」
柳生くんが話題を転じたときだった。はっと頭が冴えた。
「あっ」
頭の隅から記憶が浮かび上がると同時に反射的に席から立ち上がる。私としたことが忘れかけていた。
「どうかされましたか?」
「七夕の笹、空き教室に戻さないといけなくちゃ。先生に頼まれてたのに」
「そういえばそんなのもあったのぅ」
「七夕から一週間も経ってるからそろそろね」
「おひとりですか? 私も手伝いますよ」
「ありがとう。でも軽いし教室まで距離もそんなにないから大丈夫だよ」
そう返しても柳生くんは気にかけてくれたけれど、気持ちだけ受けとった。柳生くんと、彼の隣でのんびりとクリップを留めなおしている仁王くんを背に私は早足で教室を後にした。
職員室から鍵を借り、笹を持ち上げ慎重に運んでいく。歩く度に葉と短冊が擦れる音が心地よく鳴る。
鍵を使って扉を開く。クーラーが効いていない空間特有のむわっと熱のこもった空気が充満していた。窓際には段ボールが所狭しに置かれているため窓を開けるのは容易じゃない。気持ち程度にしかならないけれど換気のために扉は半分程度開いたままにした。中は海原祭の出し物で使われたであろう小道具や衣装が雑多に並べられていた。照明をつけるためスイッチを押してみるも反応がない。ただの物置と化しているせいで優先度が低いのか電球の交換はされていなかった。
教室の奥まで進み、壁に笹を立てかける。段ボールの隙間を塗って腕を伸ばしカーテンを開くと、照りつける陽ざしが入り込んだ。光にあてられた埃が点々と反射している。近くにあった木製の台座に登ると、ぎしっと木特有の軋む音がした。上から順に短冊や折り紙でつくられた提灯をひとつずつ外していく。人工の笹とはいえ外す最中に枝が折れたり痛まないよう慎重になるため、運ぶことよりもこの作業に時間がかかりそうだ。とはいえ上に飾られていた短冊までは見えなかったからこうしてゆっくり読めるのは結構楽しい。……ひとのをこっそり読んで楽しむなんて、趣味悪いかな。でもあくまで善意で手伝っているわけだからこれくらいはゆるしてほしい。そう、あくまでも善意。
誰もいない教室。ほの暗く、ものしずかな空間。少し椅子を引いただけの音すらも響く。
短冊を一枚ずつ外していると、ふと目に留まった。
――――いつか想いが届きますように
間違えるはずがない、正真正銘私の字だ。自分で書いたくせに疑問が浮かぶ。どうしてこんなことを書いたんだろう。私の字体を知っているひとが見たら気づかれてもおかしくない。あからさまに書きすぎた。自分の行動を全肯定はできない。けれど、不思議と後悔もしていない。
悲観的な感情と淡すぎる期待とがこころのなかでひしめき合う。だめもとでもこの紙に綴ったら、いつしか遠い未来にでも実るんじゃないかと――――
背後から扉の開く音がした。
「誰かと思ったら、君だったんだね」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
「幸村くん、どうして…」
「特別用事があったわけじゃないんだけど、扉が開いてるのに中は暗いから気になってね。こんなにもいろいろ置かれていたなんて知らなかったな」
そう言って幸村くんは興味深そうにあたりを見渡しながら入ってくる。そして私の背後に視線を向けた。
「それ、一階で飾られていたやつ?」
「うん、七夕も終わったから片付けようと思って」
「これぜんぶ外すのかい? 俺も手伝うよ」
「えっ、でも…」
「俺のほうが身長はあるから上からやっていくよ」
彼が短冊へと手を伸ばす。脳内警報がけたたましく鳴り響き、心臓がこれでもかと飛び跳ねる。
「ゆゆゆゆ幸村くんっ!」
「? どうかした?」
「ま、ま、待ってください! 大丈夫! 私がします!私がさきに手をつけたわけですし!」
ちらっと上を見やる。
「(さきに外せばよかった…!)」
万が一にも彼にさっきの短冊を見られたら。
幸村くんはほかの誰かさん(赤い彼とか銀色の彼とか)と違い、忘れものなどまぁしないので私がノートや教科書を貸した経験は一度もない。が、過去にちょっとしたお土産や幸村くんへのお返しのため数枚ほど短いメッセージカードを渡したことはある。万が一、めったにないだろうけれど、彼が私の字体を記憶していて、なおかつあの上のあのあたりにある短冊を見つけてしまったら。
考えすぎかな。必死に隠そうとするほうが怪しまれるかな。幸村くんが私の字をおぼえている可能性なんて著しく低いし、なんならメッセージカードなんて読んでその場で捨てている可能性のほうがありえる。……想像してみたらそれはそれでさみしい。いやでもふつうはそんなものだよね。本人にとても言えないけれど私なら幸村くんから貰ったらずっととっておく。いや、そんな話はどうでもいいんだ。あぁもうどうしよう。こんなことなら柳くんに幸村くんが私の字を記憶している確率を聞いておけばよかった。
「でもふたりでしたほうがはやく終わるよ?」
「でも、ほら。幸村くんもい、忙しいと思うし、」
「ちょうど暇だったから別に問題ないよ」
「そう、かな。でも、えっと、その…」
彼がえんじ色の提灯を手にとった。外され、するりと紐がほどけていく。その一連のながれをぼんやりながめていると、彼と目が合った。
「大会ももうすぐで練習も大詰めになってるから最近は放課後も時間はとりにくいし、ちょうどよかったかな」
「?」
「ちょっと暗いけど、ここならひと目は気にしなくても大丈夫そうだし」
「…?」
彼は疑問符を浮かべる私を見かねて「きみの場合もっと直接言ったほうがいいかな」彼自身に言い聞かせるみたいに呟いた。あたりを軽く見回したあと、彼が私を見て、ふっと微笑った。
「きっかけはなんでもよかったんだ。君とこうしてゆっくり話せるのがひさしぶりだから、うれしくて」
ちょっとだけ悪戯っぽくて、そしてはにかんだ笑顔。目を細めた彼と目が合って、ぎゅっと胸がくるしくなった。
「……私も」
声がうまく出ないから口を何度か開け閉めしてやっと言えたのが、なんて安直なこたえ。
それでも彼は笑っていた。すごく満足したみたいに。
いまこの瞬間、何日分の運を使っちゃったのかな。
ごめんね、柳生くん。せっかく手伝おうとしてくれたのに結局幸村くんに甘えてしまいました。今度柳生くんになにかあったら絶対助けに行こう。
「あ、手伝いたいのはほんとうだよ? ちょっと下心があるのは否定できないんだけど」
「…それは、」
「でも、もし苗字さんがひとりのほうがいいなら「ままままさかっ!そんなことないよ!えっと、私も…その、幸村くんと一緒がいいと、思うから」
「なら、よかった」
幸村くん、私の心臓は全然よくないよ。今日も今日とてまんまと彼のペースに乗せられてしまうのだ。
「暑くないかい?」
「も、もともとこういう顔だから」
彼が覗き込もうとするのに対抗して私はぎゅんと顔を急降下させた。
「この教室、クーラーもついてないから気をつけないとね」
最大限顎を胸のほうに向ける私の頭上でくすくす笑う声が聴こえる。
「幸村くんは、意地悪だね」
「ついこの前まではやさしいって言ってくれたのに?」
ほんの少しだけ顔を上げてみると、からかい気味に笑う彼と目が合うのだからたまったものじゃない。多分この教室にクーラーが設置されていたとしてもまるで意味がなかったんだろうな。
とはいえ、例の短冊を見られるのはなんとしてでも阻止したかったので上から外していく役だけは譲らなかった。「高いところが好きだから」とかなんとかそれらしい理由を言えば彼はすんなり信じてくれた。彼の配慮を無下にした罪悪感もあるけれどやむを得ない。
ふたりが手を動かす度にさらさら揺れる笹の葉の音。手際よく飾りと短冊を外していく幸村くん。
――――君とこうしてゆっくり話せるのがひさしぶりだから、うれしくて
この言葉を思い出すだけで二ヶ月は余裕でやり過ごせそうだ。
私が秘めている想いとは全然違う意味だってわかっている。でも、うれしくてしかたない。少なくとも幸村くんもずっとそういう機会を伺っていたんだ。幸村くんは意地悪だけれど、でも、どこまでもやさしい。
本来なら手早く済ませたほうがいいのだろうけれど、せっかく幸村くんとふたりきりになれたのにはやく終わらせるのはもったいない。わざとゆっくりしたほうが…なんて、邪なことばかり考えている。
「なにかあった?」
幸村くんが気づいたようにこちらを見上げた。
「ううんっ。なんか…こうやって幸村くん見下ろすのって新鮮だなって思って」
「あ……そういえばそうだね」
彼がやんわりと笑う。内心で胸を撫で下ろした。
「俺も今年は結構伸びたと思ったんだけど真田にはまだ勝てないんだ」
「真田くんのほうが高いの? そんなに変わらないと思ってたけど」
「二センチくらいね」
「二センチならほとんど差はないような?」
「ちいさいときからいつも負けてるんだよ。テニスなら負けたことないのに」
「…幸村くん、対抗心燃やしてるの?」
「そういうわけじゃないけど。……いま、子どもっぽいって思ったね?」
「そんなことないよ」
「顔がそうだって言ってるよ」
幸村くんがわざと拗ねたような顔をするから、私が耐えかねて笑うと、彼もつられて笑っていた。いつもは真田くんを言い負かしている(といったら失礼かもしれないけれど)彼でも些細な身長差を気にするなんて、微笑ましい。
そういえば、いま私が話しているのは私がよく知る幸村くんだ。気品とやわらかさを内包した笑顔と立ち振る舞い。
保健室での、彼じゃない。
あの日の幸村くんは気のせいじゃなかった。しかし深刻に捉えすぎていたのかもしれない。厳かな一面は彼にもある。特に試合にもなると顕著だ。それが偶然にも間近に見られる距離で発生しただけ。
「つぎはもっと伸びますようにって書いて飾らないとね」
「たしかに今年は書いておけばよかったな。でないと来年も追い越せないかもしれないし」
彼の台詞に、ふとした疑問が浮かんだ。
「幸村くんはなにか願いごとは書いたの?」
彼は手を止めずにこたえる。
「去年も今年もなにも書いてないかな」
「幸村くんは欲がないんだね」
「俺だって人間だし、いたって欲はあるほうだよ」
「私はいっぱい書きたくて何枚あっても足りないよ」
幸村くんは笑った。そして一枚短冊を取り外したあと、なにか思いめぐらしているようだった。いま彼の掌には誰の、どんな願いが載っているのだろう。
「なんだろう、俺には願うっていうこと自体がぴんと来ないんだ」
「願掛け自体、信じていない?」
「否定するつもりはないんだ。こういうイベントはいいと思うし、初詣のときも祈ることは祈るし。でも思い返すとほんとうに実現させたいことほどそこまで真剣に祈ったりしてないなって」
遠くを馳せるような語調で、彼が話す。
「俺にとっての夢とか願望は、自分でコントロールできない運ももちろんあるけど、結局は行動でしか成しえない要素で出来上がるイメージなんだ。実現した自分を想像して行動をあてはめていくかんじ。叶えたいなら動いたほうが手っ取り早いしね」
願うだけでは叶わない。叶えたいなら、行動するのみ。彼はまさしくその通りのひとだ。
全国三連覇。もし彼が笹に吊るすとしても、そこに他力本願な思いは微塵もないのだろう。必ずものにしてみせると考え抜いて、実行する。もはや願いではなく、野望に近いのかもしれない。
「冷めてるって思われるかな」
苦笑する彼に、私は首を振った。
「そんなことないよ。幸村くんの言った通りだし、現実主義的でむしろいいなって。
私は結構夢見がちだから、こういうイベントも形式的なものだってわかっても本気にしたくなるの。昔もいまも大切にしたい価値観は変わらないんだなとか、どんなことを思ってこんな行事がつくり出されたんだろうとか、ここにある短冊もみんながどんなこと思って書いたのかなとか、いろんなこと想像するのが楽しくて。どんなことにも…ぜんぶ意味があるんだって信じたくなるから」
届くはずがないと、わかっているのに。
到底叶わないと悟った願いでもいつか遠い未来で実ってほしいと思わずにいられないのは、きっと昔もいまも変わらない。せつなさもむなしさも幾度も繰り返しながら、何百年も何千年も。
「私のは子どもじみてるよね。ごめんね、ひとりでいっぱい喋って」
「ううん。君の感性、俺は好きだよ」
ありがとう、と、言いながら提灯を外していく。
「でも、私も案外現実的なのかも」
ぽつりと零すと、彼が不思議そうな表情をした。
「叶えるための手段とか実現できそうな未来が想像できるものはわざわざ書いたりしてなかった。叶いそうにないってわかるから残しておきたいんだと思う。どうにもならないから、なにかにたよりたくて、こんなふうに願うだけ願ってそれっきり。いま幸村くんと話して気づいた気がする」
笹の擦れる音が止む。
「君は」
彼が僅かに口を開いた。そして、言いとどまった。辛抱強く待ってみたけれど発話する気配がない。聞き間違いじゃないはず。しかし追求し難い雰囲気を纏っている。
聞きあぐねていると、彼がゆったりと顔を上げ、視線を寄越した。
「君は、なにを願ったの?」
息が止まった。
口を開きかけた瞬間だった。
音楽室が、脳内を過ぎった。グランドピアノの後ろではためくカーテン。じりじり鳴く蝉の音にまぎれる音階。
壊れたロボットみたいに口がじっくりと閉じていく。
どれだけ願おうとも、かなうはずがないもの。
目の前の短冊に、睨まれたような気がした。
握っていた短冊へ視線を下ろした。
――――いつか想いが届きますように
掌に収め、しずかに折った。
「『ダイエット成功しますように』ってそんなちっちゃいことだよ。でも私にはすっごくハードル高くて、お菓子やめるだけでも変わるってわかってるのになかなかやめられなくて…諦めかけてるからやけになって書いちゃった」
我ながら呆れたように、といったかんじで笑って言ってみせたら「そっか」彼はやわく笑い返した。
あまりにも固く結ばれた紐ははさみで切るしかない。はさみを手にとり、刃先を紐へ引っ掛ける。枝を傷つけないように慎重に。
「でも、俺もそんなふうに言っておいて、思うだけで終ることもいっぱいあるよ」
彼の目が、落ち着き払った声が、せつなく映った。
「幸村くんでも、そうなんだ」
それ以上どう返答していいのかわからなかった。ぐるぐる頭のなかを駆け回りながら、つぎの言葉を捻りだす。
「もしかしたらそっちに私が書いたのがあるかも」
「ほんとう? 君の渾身の願いごとならなんとしてでも見つけないとね」
「そ、そんなに意識して探さなくていいよっ」
慌てる私に幸村くんは笑っていた。
「真田くんもこういうのは書かないのかな」
「ストイックだからね。願いというよりは目標? みたいなことなら書きそうだけど。毎年書き初め大会もかなり真剣に挑んでるし」
「真田くんが私の短冊見たら怒りそう…あ、私の近くに丸井くんのも飾ってあるから一緒に見つけられるかも」
「なんとなく丸井の書きそうな内容は想像できるな」
「仁王くんも書いたらしいけど、聞いてもまたはぐらかされちゃった。仁王くんはどんなこと書くんだろうね」
そもそも書いたという事実さえもあやしいのでいまいち信用できないけれど、気になるといえば気になる。
「普段書くのとは違った字体に変えてきそうだから見つけるのは難しいかもね」
「そうだよね……仁王くん、絵が上手いからそういうのも得意そう」
「絵?」
「そう、動物とかみんなのイラストも描いてくれてね」
ちょきん、と、紐が切れる音がする。
「最近、仁王くんといっぱい話せてるんだ。はじめて会ったときは正直よくわからないひとだなって思ってたの。そんなに他人に興味ないのかなって……でもほんとうはそんなことなくて、友達思いでやさしくて、観察好きな分いろいろ気にかけてくれたり……意外と繊細なのかなって思ったりもして。こんなこと仁王くんに言ったらまた悪戯されそうだけど」
鋭い目がほんの少しやわらかくなる瞬間。
その一瞬を見かける時間が増えていくことがうれしかった。
「あ、たまに仁王くんも私のお弁当のおかずつまみに来るんだけどね、意外とがっつりしたおかずも好きみたい。でも量はそんなに食べないのがちょっと心配だけど……部活であんなに動くのに大丈夫なのかな?」
目を見張った。手が止まった。ぴんと糸を引かれたかのように筋肉が硬直した。
これまでも彼が無表情になる瞬間は何度もあった。一時も欠かさず微笑みつづけているわけじゃない。
ならばどうして、こんなにも彼をこわいと思うのだろう。
つめたい影を落とす横顔。目が合わない。笑わない。
この部屋が暗いからそう見えてしまうだけだ。
ほんとうに?
うまく喋られなくても、つい顔を背けても、彼はつねに向き合ってくれた。やさしく頷いてくれた。いつだって安心できた。
知っている幸村くん。
知ったつもりでいた、幸村くん。
得体のしれない不安と焦燥が全身にめがけて迫り上がる。
「幸村くん、」
台座から片足を下ろすと、一弾と大きく木の軋む音がした。途端、身体が大きくバランスを崩す。
「苗字さん!」
焦りの交じった声で彼が叫んだ。急速に視界が下りると同時に、かくんと折れ曲がる膝。
かしゃんとはさみの落ちる音がした。ぱらぱら散っていく短冊。忙しくなく鳴る胸音。
「…………ごめんよ、咄嗟だったから。大丈夫?痛くない?」ぎこちなく頷くと彼がほっと息をついた。「脆かったみたいだね」
彼の視線のやる方向には片脚が折れた踏み台が転がっていた。足の裏に力を入れ、もたれていた身体を起こすと、背中越しに固い感触にふれた。首を僅かに捩るとすぐ後ろは壁だった。
腰にまわる長い腕。二の腕を掴む大きな手。幸村くんのシャツ。幸村くんのネクタイ。幸村くんのにおい。幸村くんの息遣い。ぐんと五感が研ぎ澄まされている。あらゆる音やにおいが身体のなかに吸収されるような感覚。彼に、抱きしめられている。状況を再認識していくうちにじわじわ顔が赤らみはじめる。
そういえば、海で会った頃も足がもつれた私を彼が支えてくれた。似たような状況なのに違った景色にみえる。場所だけじゃない。胸の鼓動も込上がる熱も。あの頃といまとでは彼に抱く感情がまるで違うから。私はよろけた拍子に彼の腕へしがみついていた。一年前、華奢な印象があった腕はあらためて見るとほどよく筋肉がついている。しかし女性のものと遜色のないなめらかな肌の質感はあの日から変わっていない。あぁ、こんなときになんてこと考えてるんだろう。心臓がパンクしそうだ。邪な考えを払拭しようと瞼を固く閉じる。手をはなそうとした。
「……幸村くん?」
異様な静寂がこの空間を包んでいることに、ようやく気づいた。私の顔のすぐ横で彼は俯いたまま静止している。少しでも顔を捻ると頬にふれてしまうことを思うと、なにもできない。一切の身動きもゆるされない無言の制約が課されているようだった。
「君は」
彼の台詞は、そこで途切れた。ぐっと息を潜めて待機する。しかし一向につづく気配がない。背筋に汗が伝っていくのがわかる。数センチしかゆとりのない彼との隙間が蒸し暑さを助長させる。もう一度口を開こうとした瞬間、人形のように固まっていた彼の指に力が籠った。
「君は、仁王のことが好きなの?」
感情の読みとれない、低く掠れた声。「そんな、違うよ」ほぼ条件反射的にこたえていた。
「私は、」
彼が僅かに距離をとった。
彼と焦点が合った。
息を呑んだ。
剥き出しになったせつなさを必死で押し込めている。微かに眉間に皺を寄せ、射抜かれるのではないかと錯覚しそうなくらい真摯で、熱を孕んだ瞳。捕らえてはなすまいと訴えかけるように。私の知らない幸村くん。
腰を支えていた手がはなれ、ゆっくりと頬へ伸びる。ふれるかふれないかの絶妙な指の感触にもどかしく思っていると、そんな私の心情を察したかのように耳から頬にかけて手を添えられる。輪郭をたしかめる掌。親指が肌を撫でる感触がくすぐったい。思わず身じろぐと、するりと手が降りていく。彼の長い指が肌の上を滑る。ふいに親指が私の唇にふれた。ぎこちない動きで唇のかたちをなぞる。すっと細められた彼の目の奥に眠る感情を知ったら最後、どうなるのだろう。吐息をかんじる距離で私を見つめている。きっと今頃私はひどい顔をしているに違いない。見られたくない。なのに、逸らせない。
どうして、こんなことになってるんだろう。
どうして、そんな目をしているんだろう。
どうして、幸村くんははなれないんだろう。
はやくはなれないとおかしくなるのに。心臓が破裂しそうなのに。
なら、どうして押しのけないの?
ほんとうは、いっそこのまま――――
「……·わたしが、すきなのは」
彼の唇が微かに開いた。
「集会ってどこのホールだっけ?」
「あー、ほら。東館の……·」
生徒の声が廊下から聴こえてすぐ、チャイムの音が鳴り響く。
彼の手がはなれていく。彼は私を一瞥した。さきほどの瞳は、跡形もなく消え去っていた。
「いっぱい落ちたね」
彼は苦笑しながら、腰を屈めて短冊を拾い上げていく。慌てて私も彼にならった。
「ごめんね、せっかく手伝ってくれたのに」
「ううん。これ、苗字さんのはさみ?」
「ありがとう」
一枚一枚拾うのと同時進行で意識を引き戻すのに無理くり集中していく。隙を縫って彼を盗み見る。おだやかとも無感情ともとれない絶妙な表情をしている。
すべて拾い終ると、彼は立ち上がって笹を見やった。
「まだ取りきれてないところがあるけど、昼休みも終わるから…また放課後でも、」
「これくらいの量なら私ひとりでもできるから大丈夫だよ。幸村くんは部活もあるでしょ?」
「…そうかい?でも、ここからまたどこかに運んだりは…」
「あとは飾りをぜんぶ外したら終わりだから。それに踏み台も壊れたからあとで先生にも言わないといけないし、ほんとうに大丈夫だよ」
「中途半端にしてごめんね」
「ううん、むしろかなり進んだからありがとう。ここの鍵返さないといけないから、さきに帰っていいよ?」
「また手伝えることがあったらいつでも呼んでくれていいから」
彼が背中を向けて歩いていく。扉を開くと、一瞬振り返って、やわく笑った。私の知る、いつもの幸村くん。
扉が閉まる。しずまり返った、ほの暗い教室にぽつんと取り残される。
背骨をすっぽり抜きとられたみたいにへたりと床に座り込む。両手で口を抑えどうにか平静を保とうと試みるけれど、無尽蔵にあぶれ出す困惑と羞恥心とにはまるで効果がない。おどろくほど冷めていた熱が一瞬にしてぶり返す。
「いまの、なに……?」
勘違いだ。きっと夢だ。頭のねじが飛んでおかしな夢を見たんだ。
ならば、いまだ腕と唇に残る熱はどう説明がつくのか。畳みかけるように記憶がなだれ込む。幸村くんの吐息。熱いまなざし。頬を滑る手の感触。
夢だと、思えるはずがなかった。