商人の魔法使い



2



 地面に落ちた影が伸び、日が傾きかけた頃。来たばかりの時と同じように、フランチェスカは上下左右に首を振りながらバザールの路を歩いていた。しかし露店に目移りしてばかりだった前回とは違い、フランチェスカは明確な目的をもって進んでいる。
 その半歩後ろを仕方なしに歩くことになったドレイクは、一生懸命なところ悪いがと控えめに彼女に提言した。


「嬢ちゃんが頑張る必要はないんだぜ? 探してくれるのはありがたいが、嬢ちゃんに怪我でもさせようもんなら……なあ……?」
「フランカ、もう転んでも泣かないから大丈夫だよ。そんな子供じゃないし」
「いやそういうことじゃ……嬢ちゃんの師匠とかがな……?」


 ごにょごにょと口籠るドレイクにフランチェスカは変なのと小首を傾げたが、その程度で立ち止まることはない。フランチェスカの頑固さは石にも勝るのだ。


「どうしていきなり猫を探そうなんて思い立ったんだ?」
「ん〜……フランカのお家にも猫ちゃんがいて、突然いなくなったらすごく悲しいから」


 ファウストの家に住みついている二匹の猫は、フランチェスカの毎日の遊び相手だ。もう転んでも泣かなくなったが、猫が消えた日にはきっと大粒の涙を流して泣いてしまう。だからドレイクも、フランチェスカを不安にさせないために笑っているが、本当はとても心細い思いをしているのかもしれない。


「……………………」


 師匠によく似た真っ直ぐな弟子だ。ドレイクは口にはしなかったが、他者の為に、他者の前を歩く彼女の小さな背中が、かつての聖者の姿と重なって見えた。

 だけど、その聖者の結末をドレイクはよく知っている。フランチェスカに渡した歴史書には書かれなかった、物語の終わり。

 幸いなことに、フランチェスカは東の魔法使いらしく人間嫌いとして育っているようだ。まさに師匠たるファウストの英才教育に違いない。――むしろ、ファウストはそれが狙いなのかもしれない。自分と同じ道を歩かないように。自分と同じく信じた者に裏切られないように、人間に対する嫌悪を過剰なほど植え付けている可能性も否めなかった。

 ドレイクの注意がフランチェスカの背中から離れてぼんやりと思考に纏わりついた頃、前方であっとフランチェスカが声を上げた。


「いた! ぺちゃ鼻!」


 ばっと指を差した木箱の上で黒猫がぶにゃぁと鳴いた。鼻が潰れたその顔はドレイクが見せた似顔絵とそっくりだ。
 つい駆け出してしまったフランチェスカに驚いたのか、猫はびくんと跳び上がると彼女と反対方向に走って行ってしまう。人通りの多い路でも猫の小さな体であれば潜り抜けるのは容易い。少しでも目を離せばまた見失ってしまうだろう。


「あっ、待って!」


 すかさずフランチェスカは園芸鋏を取り出す。
 今朝、ファウストと一緒に決めたフランチェスカの魔道具だ。


「《ロクァークス・フェレス》!」


 そう唱えた瞬間、ぽんっと猫の尻尾に小さな鈴が括りつけられた。細いリボンで結ばれたそれはただのアクセサリーに見え、事実、魔法で生み出したという以外に鈴に特殊な力は宿っていない。

 だが、しゃらんと冴えた音を鳴らすそれは、周囲の喧騒の中でも掻き消されずにフランチェスカの耳に届いた。猫の姿は見えなくなっても微かに聞こえる鈴の音でどの方向に向かったのかは把握できる。

 猫はどこかに隠れる様子もなく、ひたすらにフランチェスカとドレイクから距離を取り続けた。このまま猫を追い続けていれば、きっとバザールを一周できてしまうことだろう。せっかくの催しも人混みをかき分けて走っているのでは露店を眺める暇もない。

 その時、周囲の人が一斉にわあと歓声をあげた。何事かと思いフランチェスカが目を向ければ、彼らの視線の先には大玉を三つ重ね、さらにはその頂上で逆立ちをするピエロの姿があった。
 はっとファウストの言葉を思い出す。そういえば、このバザールには魔法使いのサーカス団も来ているのだ。

 しかし普段であれば両手を叩いて喜んだであろうそれも、今のフランチェスカにとっては悪い方向に働いていた。サーカス団の奏でる音楽と観客の声で、猫につけた鈴の音が完全に消されてしまったのだ。これ以上の追跡は難しい。


「う〜、分かんなくなっちゃった……」
「……嬢ちゃん。もういいんだ。ありがとな」


 立ち止まったフランチェスカにドレイクが静かに声をかけた。ぽん、とフランチェスカの肩に置いた手はずっしりと重く、そして氷みたいに冷たかった。


「でも……」
「あいつが自分から姿を消して、しかも俺に気づいていながら逃げたってことは、きっと俺に見られたくないことがあるのさ」
「見られたくないこと?」
「知ってるか? 猫って生き物は、死ぬ前になると飼い主の前からいなくなるんだ」


 がんがんと鼓膜を叩いていた音楽が消えたような錯覚を起こした。フランチェスカの子鹿のような瞳が開かれる。


「え……」
「あいつももう長いこと生きたんだ。いつかそういう日が来るとは分かってた。あいつが一人で死にてえっていうなら、黙って見送ってやるのが相棒ってもんなのさ」


 そうなるのがむしろ自然なんだというように、ドレイクは静かに告げた。


「わ……分かんない……」


 フランチェスカはくしゃりと眉を寄せ、混乱する頭でなんとか言葉を発する。よく耳を澄まさなければサーカス団の音楽に溶けて消えそうなほどか細かった。


「フランカは猫ちゃんが死んじゃったら悲しいよ。最期まで一緒にいたいよ。ドレイクは違うの?」
「……ああ。俺はな、嬢ちゃん。実は――」


 その瞬間、すぐ傍で演目を行っていたサーカス団の天幕が轟音と共に突き破られた。

 陽気な音楽はぱったりと途切れ、代わりに観客たちの悲鳴が周囲に響き渡る。
 鳥の群れが飛び立つように、魔法使い達は一目散に箒に乗って上空に駆け上がった。状況を飲み込めていないフランチェスカとドレイクだけが取り残され、陽気な空気から一変した周囲に戸惑っている。


「なっ、何何!?」
「っ! 嬢ちゃん、逃げるぞ!」
「えっ!?」
「あのサーカス団、マンティコアを連れてきてやがった!」


 ドレイクは精一杯の大声でそう叫んだ。同時にぱっと魔法で箒を出して跨り、後ろにフランチェスカを半ば無理やり乗せて他の魔法使い達のように上空に避難する。


「ねえ、マンティコアって何!? あのサーカスのテントで暴れてるやつ!?」
「そうだ! 人喰いの魔法生物で、魔法使いだってひと呑みしちまう! 俺も嬢ちゃんも適わねぇ! 逃げるぞ!」


 フランチェスカはドレイクの背中にしがみつきながらそろりと地上を見た。

 怒り狂う男のような人面を携えた巨大なライオン。長い尻尾はおよそライオンのそれではなく、蠍の尾のように見える。見ただけで震え上がるほど凶暴な獣が、サーカステント前の広場をめちゃくちゃにしている。ピエロが乗っていた大玉も鋭利な爪でぼろぼろに切り刻まれ、管楽器も一踏みでぐしゃりと潰れてしまっていた。

 魔法使いだって、誰もが戦いに秀でているわけではない。もしもあの獣の前にフランチェスカが放り出されでもしたら、きっと助けを乞う間もなく石になることだろう。


「あっ、あれ! どうするの!?」
「うちの警備で対処できりゃいいがな! できないなら逃げ一択しかねえ! とりあえず、嬢ちゃんを安全な場所まで……」


 その時、ドレイクは地上のある一点を見つめて息を呑んだ。
 どうかしたのかとフランチェスカも続いて同じ場所を見下ろし、目を見開く。


「あ! 猫ちゃん!」


 ドレイクが飼っていた、鼻の潰れた黒猫。フランチェスカに追いかけられてぶにゃあと気だるげに鳴いていたあの猫が。自身の死期を悟って飼い主の前からも姿を消した猫が。マンティコアの前に立って毛を逆立てている。まるで、ドレイクが開いたバザールへの道を阻むように。己の何十倍も大きい相手に向け、精一杯の威嚇を示していた。

 だがそんな一匹の勇気ある行動も、マンティコアの前ではおもちゃに等しい。


「! 危ない……!」
「!? 待て、嬢ちゃ――!」


 衝動的に、フランチェスカは箒から飛び降りた。
 ドレイクが伸ばした手はほんの数秒遅く、するりと抜けて空を掴む。さっと全身から血の気が引いた。

 対して、帽子を押さえて落下するフランチェスカは、目の前の猫を助けることしか頭になかった。マンティコアの凶暴さも、自身がどれほどの高度から落下しているのかも考えが抜け落ちていた。

 だけど不思議とフランチェスカに恐怖はなく、どうすれば着地できるかも分かっていた。
 なぜなら箒から落ちるなど、嵐の谷でもう何回も経験していたのだ。

 マンティコアが前足を猫に向かって振り上げる。それを阻止しようと、フランチェスカは喉が枯れるほど声を張り上げて呪文を唱えた。


「《ロクァークス・フェレス》!」


 フランチェスカの園芸鋏の先端に小さな氷の塊が生まれた。その大きさはは瞬く間にフランチェスカの背丈ほどになり、射出される。
 流れ星のようにサーカステントの上を通り過ぎた氷塊はマンティコアの背に見事に命中した。ぎゃおんと悲鳴をあげたマンティコアは体をうねらせ、その殺気を猫からフランチェスカへと向ける。

 続けてフランチェスカが園芸鋏の先端を地上に向ける。どこからか風がぶわりと舞い上がる。フランチェスカはその風に乗り、徐々に落下を緩めた。やがて怪我をしないぎりぎりの落下速度で着地し、マンティコアと対峙する。

 マンティコアの人面は般若のように歪んでいた。きっと攻撃を受けたことで、フランチェスカを単なる餌ではなく敵とみなしたのだろう。本能に任せ、猛烈な勢いでフランチェスカに襲い掛かる。
 だがフランチェスカは逃げなかった。


「ドレイク! 猫ちゃん連れてって!」


 向かってくるマンティコアに鋏を向け、冷静に、しかしその瞳に熱を宿して、力強く呪文を唱えた。


「《ロクァークス・フェ》――」


 急接近する気配。フランチェスカは何が起こるかよく分かっていなかったものの、直感的に呪文を切って後方に飛びのいた。精霊がそうしろと囁いていた気がしたのだ。

 その予感は正しかった。今この時までフランチェスカが立っていた場所は激しい土埃を舞い上げ、マンティコアの尾が突き刺さっている。上空から見たときの印象よりもはるかに長いようだ。節足動物らしい艶が夕日に照らされ、ある種の美しさすら放っていたが、蠍がどういう生き物かはフランチェスカも知っている。その先端に針に触れでもすれば、ものの数分でマナ石になること間違いない。

 あの針は危険だ。できることなら早めに切り落としておいた方がいい。
 そう考えたフランチェスカが鋏の先端を開き、片目を瞑る。レモンを切り落とした時のように焦点を合わせ、パチンと閉じた。


 「《ロクァークス・フェレス》!」


 だが蠍の尾は硬く、切断魔法は少し表面を傷つける程度だった。傷口から青色の血が噴き出したが、致命傷とは言えない。フランチェスカの魔力量は同年代よりもはるかに多いとはいえ、戦闘に活かせるほどまでは届いていなかった。

 続けてマンティコアが四肢を振るう。前足で地面を叩き、人面は涎を垂らして牙をむいた。幸いなことに、人間が通るには過酷とされる嵐の谷を毎日遊び場にしていたフランチェスカは逃げ足には自信があった。サーカス前の広場を駆け回り、マンティコアを翻弄する。

 どうしよう。反撃をしなきゃ。

 じわりとフランチェスカの心に焦りが滲む。逃げ続けるには限界がある。箒がないから上空には退避できない。だが今のフランチェスカの魔力でマンティコアを倒すのは難しい。

 これまでのファウストの授業の記憶を掘り起こす。ファウスト先生ならどうするだろう。この前魔法を教えた貰った時、ファウスト先生は何と言っていたっけ。

 すると、フランチェスカの上着のポケットの中で、こつんと石のぶつかる音がした。











「この石は君に渡しておくが、一応知識として使い方も教えておこう」
「使い方? きれいなお守りじゃないの?」


 フランチェスカはファウストから貰った鉱石入りのサシェを見下ろした。何百年も前は香りがする不思議な石だったらしいが、今となってはただの石ころ同然だ。香りが消えてしまったのならてっきり使い道はないと思っていたのだが、ファウストはそれは違うとかぶりを振る。


「香りが消えてもそれは劣化しただけで、石が石であることに変わりはない。触媒として儀式には使える」
「儀式?」
「魔力を最大まで引き出せるようになる儀式だよ」


 フランチェスカは小首を傾げた。ファウストの言う意味がいまいち理解できなかったのだ。


「それ、儀式しなきゃいけないの? 普通にばーって出しちゃえばよくない?」
「そうでもない。全力を出すというのは簡単なようで難しい事だ。特に力が不安定な魔法使いの場合、最大限まで魔力を引き出せば無理をしすぎて体に悪影響を及ぼすかもしれない。そうした懸念から、大体は本能が制限をかけている」


 儀式というのは、その制限を取り払うためのものだ。必要な道具、手順により魔法使いの心を安定させ、魔力を引き出す回路を広げさせる。

 無論、何十年も魔法を使い続けた者であればそんな儀式は必要ない。主に行うのは若い魔法使いで――かつての戦争では、魔法使いの新兵が戦の直前に受ける祭祀だった。


「だが、これを用いたところで体にかかる負荷が減るわけじゃない。フランチェスカ。僕はこれをあくまで知識として君に教えるが、決して一人で行わないように」
「うん。わかった」
「よし。ならまず、時刻は黄昏時に――」











 バサバサと、フランチェスカの背後の林からカラスの群れが飛び立った。マンティコアの猛追から逃げつつふと空を仰げば、眩かった青空はいつの間にか夕暮れに染まりつつある。夜の帳が降り始めるまでもうまもなくだろう。きっとあのカラスたちも、日没を察知して山に帰る頃なのだ。


「……時刻は、黄昏時…………」


 うわ言のようにフランチェスカが呟いた。
 ぐるんとサーカスの大道芸に出れそうなほどの健脚でマンティコアの攻撃を避ける。足を止めることなく、フランチェスカは周囲を注意深く見渡した。


「触媒は香り石と、猫の毛……」


 ドレイクの猫はもういない。フランチェスカがマンティコアを引き付けている間に彼が保護し、上空に避難したようだ。


「ドレイク! 猫ちゃん連れて向こうに立っててくれる!?」
「!? いきなりどうし……」


 そこで、ドレイクはフランチェスカの手に収まっているものを見つけて目を疑った。

 北の国で採れる香り石。それを入れたサシェは、ドレイクの古い記憶の中にも存在していた。


「それは、フィガロ様の……おい待て、嬢ちゃんまさか……!」


 フランチェスカが何をしようとしているのかはっきりと分かった。なぜ急に猫が必要になったのかも、それを行う危険性も。

 だが打開策があるとすればそれだろう。集団行動の苦手な魔法使いは避難させるのも一苦労だ。用意した警備も魔物との戦闘など想定していなかったため、彼らがマンティコアを打ち取れるとは考えにくい。

 見たところ、フランチェスカはその歳では考えにくいほど強大な魔力を持っているようだ。ドレイクが前に出られないのなら、彼女に任せるしかない。ドレイクは何かあれば自分が肉壁になれるよう箒だけは常に出しておき、猫を連れてフランチェスカの指示に従った。


「それと、魔法使いの髪の毛と……」


 ぷつんとフランチェスカは自身の髪を一本抜く。
 魔法使いなら絶対に自分の髪と爪と血を落としたりしてはいけないと、ファウストには耳にタコができるほど聞かされていた。それを自分から抜くだなんて、少し新鮮な気分だ。

 走る足を徐々に緩める。ざり、力強く地面を踏みしめて振り返った。
 青い血液の滴り落ちる、マンティコアの尾を注視して。


「――蠍の血!」


 魔力を流す。
 触媒は揃った。条件は整えた。精霊を従え、儀式を発動させる。ファウストがいつも行っているように。

 その精霊のいたずらか、ふと強い風が吹いた。魔法に集中していたフランチェスカは帽子を押さえることを忘れ、とんがり帽子は風に乗って飛んでいく。同時に、ファウストの守護布の加護も外れた。

 その一部始終を見下ろしていたドレイクは、猫を抱える手に無意識に力を入れていた。
 フランチェスカから目が離せない。周囲の精霊が皆彼女に引っ張られているのが分かる。あのマンティコアでさえも、今だけは彼女の虜だ。

 ――なんだ、あの呪いは。

 鳥肌が立った。仮にドレイクが西か東の魔法使いであれば、心を翻弄するあれにも多少は耐性を持てたのだろう。だがその二国とは関わりの少ない彼の眼には、今のフランチェスカはおぞましい竜巻にしか映らなかった。
 彼女が帽子を外せば、その周囲が狂わされる。自然も、精霊も、祝福もごっそりと巻き上げて、彼女が頂点に君臨する。

 そして、あの膨大な魔力。今までドレイクが感知できなかったのは、おそらく帽子に何か仕掛けが施してあったからだ。
 彼女の歳であれだけ宿しているのなら、成長すればどれほどになるだろうか。少なくともあと百年もあれば彼女の師匠を優に超す。五百年すれば北のオーエンに並ぶだろう。千年後にはもしかしたらミスラにも届くかもしれない。

 だが今のところ、彼女は初歩の魔法しか教えてもらっていないようだ。傷一つない上品な身なりから、よほど大切に育てられていることは分かる。きっと一度教えてしまえば、強い魔法だって簡単に操れるだろうに。

 もしや、彼女の師匠は彼女を使って――?
 その考えがドレイクの頭を過ぎった時、フランチェスカは愛用の鋏を目の前に掲げた。


「――《ロクァークス・フェレス》!」


 じゃきん。
 マンティコアの首が景気よく空高く飛ぶ。青い血をそこら中に撒き散らす様子はきっとバザールの入口からもよく見えるだろう。上空に避難していた魔法使いたちはぽかんと口を開けて、放物線を描く首を見つめていた。


「マ、マンティコアを倒した……?」
「あの子供が……?」
「嘘でしょ? 間違いじゃない?」


 ざわめきが広がる。その気持ちはドレイクにも理解できた。ドレイクだって、今日彼女と出会わなければきっと彼らと同じ反応をしただろう。
 その中で、一人の魔法使いが呟いた。


「俺、あの子供知ってるぞ……」


 誰が言ったのかは分からない。けれどその声ははっきりと、皆の耳に届いていた。


「呪い屋の、お弟子様だ」











「フランチェスカ!」
「あっ! ファウストせんせー!」


 方や血相を変えて駆け寄る男。方や返り血を浴びながらも満面の笑みで両手を広げる少女。
 迷子の親子の感動の再開かと思いきや、交わされたのは抱擁ではなくファウストによるデコピンだった。


「いっ……たぁ〜〜い!」
「迷子になるだけならまだ仕方ないで済まそう。だが魔法生物と戦うなんて以ての外だ!」


 ファウストがここまで顔をしかめるのは久しぶりだ。それも、その対象が自分であることで、フランチェスカは初めて自分が何をしたのか思い知った。


「儀式が成功したのは偶然だ。触媒を即席で揃えた程度じゃ成功しない。君が起こした奇跡がなければ、今頃君はマナ石だった」
「う……」


 そうでなければ呪い屋の立場がない。触媒を揃える程度なら誰にでもできる。それを儀式として整え、実行するための専門的な技術を求めて、皆嵐の谷へやってくるのだから。
 ぱさ、とフランチェスカの頭に帽子が乗せられる。風で飛んでいってしまったそれは、ファウストが回収してくれていたらしい。


「危ないことはするんじゃない」


 君がそうする必要はないのだから。
 いずれフランチェスカも、戦わなければならない時が来る。他の魔法使いから見れば彼女は良質なマナ石に他ならないのだから。彼女を石にするべく多くの魔法使いが彼女に挑み、そしてまた、彼女も多くの魔法使いを石にするだろう。

 でもそれは今じゃない。彼女には健やかに生きてほしいのだ。やがて力を使い果たして石へと還る、そう遠くない未来のその日まで。


「…………ごめん、なさ……」


 ばつが悪そうにもごもごと口を動かしたフランチェスカだったが、言い終わる前にかっと目を見開いた。ファウストの後方、抉れた地面の中心でどっかりと丸くなった猫を見て。


「猫ちゃん!」


 あ、とファウストが何かを言う前に、フランチェスカは彼の隣をするりと抜けて駆け出した。猫の隣にしゃがみこんで怪我がないかどうか確かめている。
 おそらく、反省も後悔もしていない。しているとすれば『次はやめよう』ではなく『次は上手くやる』だ。

 はあ、とファウストが長いため息を吐いた。頭痛の種が増えたような気がする。彼女をバザールに連れてきたのは間違いだっただろうか。


「……ファウスト様」


 なんだ、と反射で返事をしようとして、ファウストは息を呑んだ。
 呪い様と呼ばれることはあっても、ファウスト様などと呼ばれることはもうない。その呼び方は三百年前に途絶えたはずだった。
 顔を上げる。懐かしい顔が立っていて、瞳が揺らいだ。


「……ドレイク」
「やっと、バザールに来てくださいましたね」


 ドレイクはくしゃりと笑った。悲願が達成されたと泣きそうでもあった。


「気が向いただけだ。丁度、あの子の箒を作りたいと思っていたからな」


 ファウストが猫と戯れるフランチェスカに視線を向けると、ドレイクもそれを追った。


「君が面倒を見てくれていたんだろう。ありがとう」


 きゃっきゃと猫の相手をする彼女は、こうして見ると嵐の谷にいる時と何も変わらない。その体に強大な魔力を宿しているなんて微塵も思えない、無邪気な少女だった。


「……あの子を使って、復讐なさるのですか」


 ドレイクは一瞬言おうか迷ったものの、勢いに任せて問う。ファウストはドレイクの顔を見ないまま、数秒の無言を貫いた。


「あの子をマナ石にすれば、呪い殺せない人間はいません。力の強い魔法使いであっても呪詛返しに遭うことはないでしょう。それこそ、フィガロ様が相手でも――」
「ドレイク」


 ファウストがドレイクを向き直る。その声は鋭く、棘を孕んでいるように聞こえた。つい口走ってしまったとドレイクは己を戒めたが、口から出てしまった言葉は戻らない。喉の奥がくっと鳴るのが聞こえた。

 だが予想に反して、ファウストの表情は険しさなんて一つも抱えていなかった。お前は何を言っているんだ、とただ呆れた顔でサングラスを上げる。


「復讐? そんなものを気にかける暇なんてないよ。毎日あの子の奔放っぷりに振り回されるだけで精一杯だ!」


 魔法なんて使わなくても、フランチェスカはまるで猿みたいに嵐の谷を駆け回るのだ。土と葉っぱまみれで帰ってくる彼女を眉間を押えた回数は数えしれない。フィガロなんて名前もつい最近まで抜け落ちていたくらいだ。

 ファウストはそれ以上語らなかった。踵を返し、途中フランチェスカに帰るぞと告げ、バザールの出口まで足を進める。


「えっもう? じゃあね猫ちゃん! ドレイクー!」


 快活な笑顔でぶんぶんと腕を振るフランチェスカにドレイクはただほほ笑みかけるだけだった。ばたばたと、いつもより歩幅が小さいファウストに追いつき、今度ははぐれないぞと言うようにその手を握る。

 去っていくかつての主人とその弟子を見つめ、ドレイクは言葉を漏らした。よかった、と。

 約三百年前。親友に裏切られた聖人は隣国に逃げ、この世の全てを恨んだ。
 ドレイクが彼の居場所を知った時、彼に会いに行こうとした。だが部下たちを地獄へ誘ってしまった彼は合わせる顔がないと、ドレイクの立ち入りを禁じたのだ。以来、ドレイクはファウストに会うため、毎年東の国でバザールを開き続けた。

 毎年届く昔の部下からの招待状を見て、ファウストがどう思っていたかはドレイクには分からない。だが今年になって、初めて彼は招待に応じてくれた。

 ファウストの傷は時間が癒すようなものではない。原因となったアレクが死したことで、治せも抉れもしないものとなった。ただ今までと少し違う点があるとするなら、それはあの少女を弟子にとったことだ。


「ありがとう。ありがとな、嬢ちゃん……」


 フランチェスカの存在は、荒野と化したファウストの心に一粒の種を植えた。それは少しずつだが芽吹き、成長し、やがて元の豊かな光景へ戻っていくことだろう。本人たちに自覚はなくとも、ドレイクにはその様子が目に見えるようだった。

 間違いなく、フランチェスカと嵐の谷で過ごす時間は、ファウストがここ三百年の間で最も悪夢に魘されない時だろう。心労が耐えなくて悪夢なんて見ている暇もない。彼女がいるから、ファウストは過去の呪縛を緩めることができるのだ。

 それが分かったのなら、ドレイクはもうファウストに招待状を送る必要もない。ドレイクが猫の名を呼ぶと、黒猫はぶにゃあと面倒くさそうにのそのそと近寄った。


「俺らも帰ろう。お前も、最期は生まれ育った場所にいたいだろう」


 ドレイクが猫を抱える。猫はドレイクの言葉を理解したようにもう一度鳴き、しっぽの先でフランチェスカがつけた鈴が揺れる。
 ドレイクは赤くなった目元を誤魔化しながら、仲間のいる場所へと戻って行った。ここより北西――北の国までの旅費を頭の中で数えながら。


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