さよなら、ダイヤモンド
01
雑多で窮屈な部屋でも空いた時間ができる度に戻ってきてしまうのは、ひとえにこの学園全体に蔓延る息苦しさが原因だ。それすら既にジュンの体は適応してきているが、この場合は麻痺と言った方が正しいかもしれなかった。特待生と非特待生との格差による冷遇は、もはや学園全体に流れる神経毒に近い。そして、麻痺を通り越して呼吸困難になりかけた人間がやって来るのが、非特待生の住まうこのタコ部屋だった。とはいえジュンの場合はただ自分に割り当てられた部屋がここだっただけで、単なる帰寮でしかない。だけどよく、別室の非特待生が縋るようにこの扉を叩くのだ。最近は、特に多い。
この日もジュンの他に誰かがタコ部屋にやって来ているようだ。ジュンが廊下を歩いて扉の前に立った時、中から啜り泣く声と、それからそれを慰める声が聞こえてきた。後者はジュンもよく知っている人物のもので、状況はおおよそ察しがつく。
泣いている人物には悪いが、ジュンもジュンでこの昼休みを逃すと暫く帰ってくる暇がないのだ。せめてこの後必要な物だけでも取っておきたい。全員が全員忙しないせいで片付けという発想すら浮かばないタコ部屋の扉をガチャリと開ける。
目に飛び込んだのは思った通りの光景だった。共用ローテーブルを挟み、二人の人間が向かい合って座っている。その一人である風早巽は、さもこの部屋の住人であるかのような振る舞いで客人のために用意した茶を淹れていた。ここまではよく見る構図だ。
だが今日は、その客とも呼べる人物がやけに目を引いた。ぶかぶかのジャージを着て膝を抱えたその人物は、ジュンや巽に比べてかなり小柄だった。中性的な顔立ちは端麗の一言に尽きる。アイドルとしてならジュンや巽とは違うファン層を掴めそうだ。
「……おや、ジュンさん」
入口で立つジュンに気づいた巽がそう呼びかける。客人も涙で腫れた目をジュンに向けると、一瞬だけ視線が合った。
「あ……っと、邪魔してすみません。荷物だけでも取って行っていいですかね〜?」
「いえいえ、邪魔だなんて。むしろ邪魔しているのは我々の方ですからな。ジュンさんが遠慮される必要はどこにもありませんよ」
ただの会話も、巽が話せばまるで天の啓示のように聞こえるから不思議なものだ。自分の部屋でもあるというのについ「失礼しま〜す」と声に出せば、巽の向かいに座る客人がぷっと吹き出す。
「失礼しますって、自分の部屋でしょ? 普通に入ればいいじゃん」
その客は顔が中性的どころか声まで高かった。まるで女みたいだ。先程まで泣いていたのが目に見えて分かるが、感情を瞬時に切り替える才能があるらしい。玲明のおかしな特待・非特待生システムに組み込まれていなければ、間違いなく芸能界で花を咲かせられただろうに。
「なんとなくっすよぉ。つーか、アンタはここでのんびりしてていいんですか。特待生のお世話とか、色々あるでしょ」
非特待生は基本的に特待生の小間使いだ。ジュンがこの時間に部屋に戻ってこれたのは偶然によるもので、本来なら特待生の洗濯物を回収して廊下を走り回っている頃だった。なのにこの客人ときたら、時計を見ることもなく悠長に風早巽の懺悔室に入り浸っている。最初に目を引かれた原因は、もしかするとその不可解さによるものだったのかもしれない。
「わ、私はそういうの必要ないから」
失言したかのようにそっぽを向いた客人にジュンは引っかかりを覚えた。この玲明で、雑用をしない非特待生がいるはずがない。
「……もしかして、あんた特待生?」
「…………」
ジュンから背けた顔が強ばるのを感じた。おそらく、ジュンから無意識に発せられた敵意を感じ取ってのことだろう。冷や汗が頬を伝う。
「ジュンさん」
「……あ、いや……すみません。悪気はなかったんですけど……」
「別に……非特待生から特待生への態度はそんなもんって分かってたし……別に初めてのことなんかじゃないし……」
気にしてないと言う割には表情はどんよりと暗くなる一方だった。遂にオーバーサイズのジャージを頭まで引っ張って顔を覆い始めた頃には、背中にキノコでも生えているのかと思うほど陰気なオーラを放っていた。この数秒で湿度が格段に跳ね上がった気がする。
「非特待生には目の敵にされるし……同期からは目の上のたんこぶ扱いだし……先輩には居ないものとして扱われるし……」
「……………………」
「ほ〜んと特待生っていいことない……なんで玲明なんか入っちゃったんだろ……なんで……アイドルなんか…………」
「…………………………………………」
ジャージの中から聞こえるくぐもった声は涙で震えていた。どうやら、ジュンは地雷をピンポイントで踏み抜いたらしい。スイッチが壊れたように恨み言と愚痴を吐き続ける傀儡と化した客人を見て、ジュンの額にだらだらと汗が流れた。
――これってオレが悪いことになるのか。いや九割くらいはオレが悪いな。いくら相手が普段散々こき使われている特待生だとしても、別にオレの苦労はこいつが原因なわけじゃない。風早先輩ならきっとそう言う。
でもまさか、巽の元を訪れる特待生がいるとは思っていなかったのだ。彼の話を聞く限り、彼の周りには非特待生と交流を持つ彼を疎ましく思う生徒が多いようだった。タコ部屋を訪れる特待生も彼くらいなもので、思えば彼以外の特待生がここを訪れるのは初めてだ。
「げ、元気出せよ〜。あんたはオレと違って特待生なんだから、教師だって味方してくれるだろ?」
「先生は基本的に序列に従うから、一年の私のことなんて気にかけてくれないし……」
「序列に従うってことは、つまり向こう一年我慢すればそれなりの待遇を受けられるってことだろ? いいじゃねえか、
「……自分の持ち物が、ひとつずつ減っていっても?」
ジャージの襟を少し下げ、目元だけをジュンに向けて言った。不安そうな目は捨てられた子犬のようだ。野犬と揶揄されるジュンとはまるで正反対に見える。
「最近、持ち物がよく無くなるんだ。文房具だったり、化粧品だったり、あったはずの小物がいつの間にかなくなってて、かと思えば絶対に捨ててないはずなのにゴミ箱に落ちてる」
「それは……」
典型的ないじめだ。アイドルだから、直接手を出せば特待生同士でも必ず教師が庇う。だから大人の見えないところで少しずつ、本人でも最初は気のせいかと思うほど小さなところから心を摩耗させる。
なぜ、なんて聞いても無意味だ。芸能活動始めたての新参者は、基本的に仕事の奪い合いになる。頭数は少なければ少ないほど自分に有利なのだ。
だけど、仮にジュンがその立場になったとしても、おそらくマイクを握る手だけは離さないだろう。そのためだけに、鈍色の幼少期を歩いてここま来たのだから。
「そりゃ、いよいよ立てなくなるくらい追い込まれてんなら別だけど。人の足引っ張んないと前に立てないクズに好き勝手されるの、悔しいだろうが」
「…………」
「あんたは特待生なんだ。学校や教師に、あんたの実力は既に認められてる。自信持っていいんだよ」
顔色ひとつ変えず、ジュンはさらりとそう述べた。
なんて言ってしまったが、初対面の人間に向かって吐く台詞ではなかったと後から猛省した。向こうがジュンの事情を知らないように、ジュンだって向こうの事を何一つ分かっていない。いじめに耐えられるかなんて人によって違うのだから、自分と他人は同じくくりにできないのに。同じことを、父を見て思っていたはずなのに。
だけど目の前にいる客人は、まるで初めて満月を見上げたような顔でジュンを見た。大きな瞳をまん丸に開いて、驚きつつもどこか安らぎを得た表情だった。
「なら、ファンサして」
そんな顔で告げられた言葉の意味を、ジュンは一瞬理解できなかった。
「…………………………はっ!?」
つい素っ頓狂な声がジュンの喉奥から飛び出す。だが客人はそんなジュンが見えているのかいないのか、ぺらぺらと回る舌が止まることはなかった。
「ファンサだよ、ファンサ。ファンサービス。アイドル目指してるなら意味は分かるでしょ? なんでもいいよ。あっでもリクエストを聞いてくれるなら、私は指差しがいいな! 個人を特定されてる感じがして私は好き」
「いや、そんなこと言われてもオレ、ファンサなんかしたことねえんだけど!?」
ジュンの反応は当然だった。特待生のアイドルなら授業なりステージなりで覚えてくるようなことだが、ジュンを含む非特待生の授業にそんなものはない。人前に立つ経験すらないのだ。これが歌や踊りを要求されたのなら、父のしごきの成果をいくらでも披露してやったものを。
「か、風早先輩〜……」
「ふむ……そうですな。こう、くいっと」
試しに巽に助けを求めてみたが、人差し指を立てて銃のようなポーズを作るだけで、正直全くあてにならなかった。ファンには牧師と呼ばれる彼のことなので、人に指を差すことは気持ち的にマナー違反という面が強いのだろう。
なのでジュンは、己にとっては忌々しく、腹立たしい記憶を無理矢理引っ張ってくることにした。
子供のころに何度も繰り返し見せられた、佐賀美陣の映像を真似て。
「下手でも笑うなよ〜……?」
日頃の雑務のせいでお世辞にも綺麗とは呼べない指をぴんと伸ばして、ジャージを羽織る客人に向けた。
「ばん」
まともに掃除もされていないタコ部屋がまるでライブ会場のように広く感じた。ステージ上ではジュンただ一人がスポットライトを浴びていて、そして客席にもただ一人、泣きながらジャージを握る人物が座っている。音楽はなく、歓声もない。だけど無音の指差しは確かに、漣ジュンのたった一人のファンの心臓を撃ちぬいた。
「ふふ、ははは。あははは」
すすり泣いていた声が笑いに変わる。細めた目には涙が滲んでいた。
そうしてひとしきり笑い転げた後、顔をあげてやわらかに言い放った。
「へったくそ」
客人の名は来栖茜。
彼女が玲明学園女子部からこっそりと忍び込んできた女子生徒であると巽から聞いたのは、彼女が涙を拭ってタコ部屋を出て行ったそのすぐ後のこと。
新人女性アイドル界のトップスターとして名を馳せる、ちょうど二ヵ月前の出来事だった。