指差しのよすが

さよなら、ダイヤモンド

02

 スマホからイヤホンを通し、茜の歌がジュンの鼓膜を揺らす。消灯時間を過ぎたタコ部屋では誰もがぐっすりと爆睡しており、ただ一人ジュンだけが頭まで被った布団の中で起きていた。明日だってハードなスケジュールだから眠らなきゃいけないと頭では分かっているのに、きらきらと光るスマホの画面から目が離せなかった。

 今ジュンが寝ているこの場所で「同級生にいじめられている」と泣いていた女の子がライブを行ったと聞き、何の気の迷いか配信映像を買った。特待生ならば無料で支給されるのだろうが、非特待生は一般人と同じ扱いなのだ。もちろん、腹も膨れない映像なんてジュンの少ない所持金からすれば手痛い出費だった。

 だけどこうして夜な夜な彼女の姿を見ていると、買ってよかったと思う。

 才能の原石ってこういうことを言うのだろう。歌や、踊りや、パフォーマンスの全てが高い水準で仕上がっているのに、どこか一箇所、ミスと呼ぶまでもないがある。だがそれがあるからこそ、もっと応援したくなる。頑張れと、スマホを握る手に力がこもる。来栖茜はそういうアイドルだった。風早巽や佐賀美陣とは違う魅力を持っていた。

 スマホの中の彼女が歌い、軽快なステップを踏みながらペンライトの海に向かって手を振る。ありきたりなファンサービスを、受け取った側はきっとみんな自分だけの宝物だと思うのだろう。

 だけどそんな彼女に、自分はファンサを送った。アイドルとも呼べない無名の自分が、まだ芽が出る前の彼女に。そう思うと、不思議と優越感が込み上げて頬が緩みそうになる。そんなものはくだらないと分かっているのに。

 ……だめだ。寝よう。

 寝不足だからそんなことを考えるのだ。スマホの画面を消し、イヤホンを外す。非特待生用の薄い布団から頭を出すと、ひんやりとした空気がジュンの頬を撫でた。聞こえるのはルームメイトの寝息だけで、一瞬で来栖茜のライブ会場からタコ部屋へ戻ってきた実感を得た。

 だけどまだ歓声が、音楽が、歌声が耳の奥深くで鳴っていたので、乱雑に寝返りを打って無理やり中断させた。すると今度は心臓がどきどきと変なリズムを刻み始めたので、ぎゅうと胸のあたりを手で押さえて丸まった。

 何か、変だ。自分のからだが変わっていく。電源が壊れた玩具みたいに言うことをきかない。薄い毛布なんて要らないくらい顔が熱い。

 どうしてだ、とジュンは睡魔を寄せ付けないくらいはっきりと冴えた頭で考えを回した。おかしなものを食べた訳じゃない。体調が悪いわけでもない。そうしてぐるぐると思考を巡らせていくと、やがてひとつの結論に至った。

 きっとこれが、『ファン』になるということなんだ。





 寮舎裏の適当な地面にしゃがみ込んだジュンは、自らの影を見つめてふうとため息をついた。

 結局、気合いで何とか眠りについたものの、そんな寝ているのか寝ていないのか分からない頭がまともな働きを見せるわけがない。ついに自分らしくもないミスを犯し、特待生に殴られた頬を触る。口の端が切れて血が滲み、ぴりっとした痛みが走って顔をしかめた。この程度の痛みなら慣れたものなので、後で適当に処置すればいいのだが。

 つくづく、アイドルとは麻薬みたいだ。目の前にいればまるで楽園に踏み込んだような心地になるし、いなくなれば偶像を追い求めるだけの木偶になる。教室やらレッスン室やらの片付けをしている間に何度来栖茜の幻を見たことか。今だって、こうして視線を上げると目の前にジャージ姿の来栖茜が立っているように見える。


「……人のこと、そうやって凝視するのはよくなくない?」
「……へ」


 幻が喋った。ならこれは幻聴か。それが本当ならいよいよ自分は巽の元でカウンセリングの真似事を受けるべきだ。

 しかし目の前の茜は一言も発さないジュンを不可解に思ったのか、うーん、と首を傾げてジュンを見下ろす。立っていても分からないと思ったのかわざわざしゃがんでジュンと目線を合わせ、スマホの中で見たものと全く同じかんばせを少しだけジュンに近づけた。

 その瞬間、我に返ったジュンが、かっと目を見開く。


「あんた、来栖――ッ!?」
「しーっ! 名前叫んだらバレるでしょ!」


 ゴツンッ。咄嗟にジュンの口を塞いだ茜だったが、勢い余ってジュンの後頭部が校舎の外壁に激突した。


「いってぇ!?」
「あ」


 両手で頭を押さえて横に倒れ込んだジュンは、獣のような切れ目に涙を浮かべてきっと茜を見上げた。「ごめ〜ん……」と罪悪感の混じった苦笑を浮かべる茜は、倒れたジュンに向かってすっと手を差し伸べる。

 映像の中でずっとマイクを握っていた手だ。白くて華奢で、棘ひとつ刺さったことがなさそうな。凹凸の目立つ自分のそれとは正反対だ。

 反射的にその手を取って起き上がると、ぐっと全身の血が沸くようだった。

 推しアイドルの手を握ってしまった。この頭痛が握手会のチケットになるなら、あと百回殴られたっていい。

 だけどジュンの脳は思ったよりも冷静になるのが早かった。一時は茹だるようだった思考も徐々に現実を直視し始める。


「ああ、こっちこそすんません……じゃなくて! なんであんたがこっちにいるんです!?」


 茜は暫しきょとんとしていたが、すぐにジュンの言いたいことが分かったようだ。さすがにそっちもバレてるかあ、と嬉しいような悲しいような顔で表情をなごませる。

 玲明学園は男女別学だ。男子部と女子部の敷地の間には高い塀が建てられ、生徒の行き来は禁止されている。女子生徒の茜がジュンの通う男子部内に忍び込んでいることが教師に発覚すれば、いくら彼女が特待生でも相応の処分を受けることになるだろう。


「この間だってこっちに来てたじゃん? もしかして、私のこと忘れちゃった?」
「いや覚えてます! 覚えてますけど! つーか、どうやって男子部の方に来たんです? まさかあのたっかい塀よじ登ったわけじゃないですよね?」
「そんな脳筋みたいなことまでして来ないよ! 巽先輩の知り合いなら知らない? 地下墳墓カタコンベのこと」


 知っている。あまり好ましく思っていないのでジュンが足を運んだのは二、三度程度だが。
 玲明学園の敷地内には立ち入り禁止とされている区域が存在する。生徒どころか教師すら近寄ろうともしないそこの地下では、風早巽が非特待生の為に毎夜集会所を開いていた。場所自体は巽が用意したわけではなく、玲明学園が設立される以前の施設をそのまま再利用しただけらしい。


「巽先輩が地下墳墓カタコンベを開いたあの地下空間、出入り口は女子部の立ち入り禁止場所にもあるんだよ。つまり地下では繋がってるってこと。最初はびっくりしたよ。うっかり迷い込んだら、薄ら笑い浮かべた知らない男子生徒がより集まってこっち見てるんだもん。巽先輩がいなかったらパニックになってたところだった」
「……ってことは、あんたは地下墳墓カタコンベの連中の一員なんすか?」


 ジュンの瞳に、微量の嫌悪を失望の色が差し込んだ。ジュンが巽を尊敬していることは確かだ。だけど巽が作ったあの宗教染みた組織だけはどうも好意的に思えない。何も考えず、それに付き従って快楽のような安堵を得ている生徒達も。

 だが、茜はジュンの疑問にかぶりを振って答えた。


「いや、私はあそこを通り道として利用してるだけ。巽先輩は仕事でも何度か顔を合わせてるし信頼できるけど、他の人たちはどうか分かんないし。だから私がこっち側に来られるのは、日が昇ってる間だけ……って言えば、信じてもらえるかな?」


 地下墳墓カタコンベに人が集まるのは放課後だ。非特待生に授業や雑用の仕事が課せられる日中は地下も無人になる。茜が集会に遭遇することなく通り抜けられるのはその時間だけだった。その証拠に、以前茜がタコ部屋を訪れた時も放課後になる前に帰ってしまったと巽が言っていたのをジュンは思い出す。


「なるほどね……でも、気ぃつけてくださいよ〜? 昼間でもあそこが無人って確証はないんですし、むしろ授業サボってまで地下に潜ってる連中なんて何するか分かったもんじゃないですから」
「ははは。ご忠告ありがと。まあ追いかけられるのは経験アリだから、たとえそうなったとしても何とか逃げられる自信はあるけどね」
「……? 本当に分かってんですかねぇ」


 多少引っ掛かる物言いだったが、パパラッチやら記者やらで人気アイドルは大変なのだろうとジュンは軽く流した。実際、そういうことに悩まされている特待生の話は風の噂でよく聞くのだ。

 じ、と茜の顔を観察する。スマホの中で見たアイドルが目の前にいる状況に適応してしまったのか、ジュンの脳から遠慮だとか照れの感情が薄まってきていた。


「……よく見たら、あんた少し痩せました?」


 二ヵ月前にタコ部屋で会った時と比べ、顔周りや手首がほっそりしているように見える。ジュンは多少眉を寄せながらそう言葉を漏らした。


「分かる!? ダイエットしてんの!」


 ジュンとしては心配の意を込めて言ったはずなのだが、茜はそれを褒められたと解釈したらしい。男女の認識の差が顕著に表れていた。


「事務所からはもうちょっと痩せろって言われてるんだけどね。人間ってカメラを通すとちょっと太って見えるから、アイドルやるならまだまだ足りないらしいよ?」
「いやいやそれ以上落とすのはさすがに不健康ですって! 舞台上でぶっ倒れますよあんた!」


 棒立ちの彼女を遠くから眺めたら、たぶん線にしか見えない。それくらい彼女の身体は細かった。女子の適正体重だとか詳しいことは知らないが、これ以上は健康被害が出ることくらいジュンにも分かる。

 男女で違いはあるが、基本的にアイドルは体力勝負の仕事だ。もちろん中には芸術性を極めていて身体づくりなんか二の次といった人間もいるだろうが、少なくとも茜の場合は違うとジュンは断言できる。彼女のライブでは踊りやパフォーマンスと、彼女が懸命に動く様子を一番のエンターテインメントとして売り出していた。寝不足になるくらいそれを見ていたのは他でもないジュン自身だ。少し押しただけで折れそうな体で長く続けられるわけがない。


「心配いらないよ。私の体調のことは、私以上に事務所がきちんと管理してるからね」


 茜がそう言っても、ジュンはなおも納得がいかないようだった。愛想笑いしか生まれない話題を変えようとしたのか、「それよりも」と茜が口を開く。


「その頬っぺたどしたの? だめじゃんアイドルが顔に傷作ったら」


 す、と茜がジュンの左頬を指差した。特待生に殴られた箇所はうっすらと腫れ、未だにじんじんと鈍い痛みを発している。自然にぶつけてできる傷ではないので、誰かに殴られたということは茜も察しているだろう。


「別にいいんすよこれは、慣れてますから。つーか、オレはあんたと違ってアイドル扱いされてないみたいだし? 顔に傷作ろうが誰も何も――」
「なら、なおさら早く治さなきゃだめじゃん? 見下される要因自分から受け入れてどうすんの。それとも誰も言ってくれなかったの? あなたは、あなたを不当に貶めるものを拒んでもいいんだって」


 玲明学園において非特待生はアイドルじゃない。だけど顔の傷を易々と受け入れる人間は玲明学園を出てもアイドルにはなれない。だからジュンを殴った特待生は、自分がもっとも屈辱を受ける方法をジュンにぶつけたのだ。お前なんかよりも自分のほうがアイドルなんだと、ジュンの頬に烙印を押した。

 茜はおもむろに人差し指を立てると、指先をジュンに向けた。タコ部屋でジュンが茜にせがまれて行ったもののお返しと言うように、銃のポーズを作る。


「あんなやつらにまけるなよ、ジュン」


 特待生が何を勝手なことを。入学したばかりのジュンならきっとそう言って、茜を拒絶していただろう。だけど見えない手に顔を固定されているみたいに、ジュンは茜から視線を逸らせなかった。どくどくと心臓が鳴る。一度は手放した熱が再び戻ってくるのを感じていた。

 彼女の美しい瞳が、指が、自分に向けられている。ライブ映像のカメラに向けたそれとはわけが違う。

 トップアイドル来栖茜の、世界中でただ一人、漣ジュンだけに送ったファンサービスだった。
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