指差しのよすが

或るアイドルへの大難

21

 二日が過ぎた。コズプロから茜に対する動きは何もなく、マネージャーとの会話も特に怪しい部分はなかった。彼もコズプロに使われている身なので上層部の事情を知らない可能性はある。それとなく巽とHiMERUの話題を振ってみると、「大きな声では言えないんだけど二人とも他の学生の暴力事件に巻き込まれたみたいで……」と小声で教えてくれた。まさかその場に自分がマネジメントしている生徒がいたなんて思ってもいないだろうことに、茜はそうなんですかと笑いを隠した。

 授業を受け、模範的な優等生で一日を過ごした茜は、日が暮れると共に地下墳墓を訪れた。雨で湿度の高まった地下空間は土のにおいが蔓延している。この雨が明日まで持ち越さないことを願うが、天気予報で明日の正午は快晴だと確認済みだ。せいぜい予報が外れないよう祈るしかない。

 階段を降りて広場へ向かうと、非特待生たちが集まって茜を待っていた。


「ご苦労様。はい、報酬。一人一束ずつね」


 以前も持って来ていたショルダーバッグを開くと、生徒たちは餌を撒かれた鯉のように我先にと中の札束を掴み始めた。生まれて初めて手にする百万の感触に浸る者も、偽札じゃないかと光に透かす者もいる。当然、茜は道徳に逆らうことはあっても法律に逆らうことはないので偽札などではない。


「じゃ、あとは適当に私のライブの話を広めておいてよ。それで私からの依頼はおしまいね」
「待てよ、足場を作るだけじゃなかったのか」
「おまけみたいなものだよ。別に広めなかったからって金を回収したりしないし、私にとっても念押しみたいなものだからね」


 明日の昼休みに行われる茜のライブは事前告知が一切ないゲリラ形式だ。知名度からしてたとえ噂が広まっていなかったところでライブに人は集まるだろうが、できれば観客は多ければ多い方が計画の成功率が上がる。

 全員に金が行き渡ったことを確認して、茜はショルダーバッグを投げ捨てた。そして散っていった生徒たちを横目に男子部への出入り口へ向かう。


「どこ行くんだよ」
「確認。君たちがちゃんと仕事をしてたか」


 茜へ何らかの恨みがあって仕事を不十分なまま放棄した可能性を考慮しなければならない。だがそんなものはただの言い訳だった。

 本当は、最後に男子部へ行っておきたかった。全てが茜の予想通りに進んでも、進まなかったとしても、明日以降この男子部の敷地に足を踏み入れることはできない。茜と巽、HiMERUとジュンで深夜に歩いた雑木林。茜の、ほんの僅かな青春の跡地。それを最後に感じたかった。

 外に出ると一気に雨の匂いが強まった。地下墳墓にいる間に雨は本降りになってしまったらしい。傘を持ってきていなかったが、それでもいいと全身に雫を浴びた。

 視線をあげ男子部と女子部を分ける塀を見ると、一部がシートに覆われていた。ライブが始まるよりも前に一般生徒にステージの存在が知られてしまっては困るので、あくまで修復作業のていを装っている。それも学園側に知られてしまえばそれまでなので、ライブを行う前日に急いで作り、翌日に撤収するスピードが重要だった。

 明日、茜はここでライブを行う。来栖茜のファンが茜に見た夢はそこで終わる。

 ならば――自分の夢は、一体何だったのだろうか。

 アイドルとして金を稼ぐことだろうか? 社会的地位を手に入れることだろうか? どちらを達成しても満たされないこの空虚さは一体何なのだろう?


(……もしかして、私、普通の女の子みたいになってみたかったのかな)
「――茜!」


 その時、雨音の中でも凛と響く声を聞いた。


「……………………え」


 漣ジュンだ。茜に初めてファンサをくれた男の子。アイドル来栖茜の原点で、心臓。


「ジュン……?」


 思えば全部、彼の指差しから始まったのだ。

 自分でもよくやった方だと思う。少し前の玲明で金が欲しいなら、風早巽の信者になるのが最も手っ取り早かった。もしもあの日、非特待生寮でジュンに会えていなかったら、自分も巽を失って彷徨うゾンビになっていたかもしれない。その彼が、どうしてこんな天候の中、こんな時間に。よりによってこんなタイミングで。疑問は絶えず茜の中に湧いて出てきたが、それらはたった一瞬で全て白紙へと還ってしまった。


「どうしたの、こんな時間に? 早く寝ないと、――」
「それはこっちの台詞ですよぉ! こんな時間に傘もささないで何やってんすか! 風邪引きますよ!」


 突如、全身にかかる雫が止んだ。気づけば彼が持っていた傘を強引に握らされている。かと思えば、上半身がふわりと温もりに包まれた。愛しさすら誤認してしまうほどの懐かしいにおいがペトリコールに混ざる。それがジュンの上着であると認識した時には、すでに全身の血が沸騰しそうだった。


「……え、えっ!? これじゃジュンが風邪引いちゃうでしょ!? 早く着て!?」
「いいんですよ、オレはわりと頑丈な方なんで。でもあんたはたぶん違うでしょう? ああほら、こんなに冷たくなっちまってますし……あ、汗臭いとかは言わないでくださいよ〜?」


 茜のジャージが吸った雨が上着へ移って湿るのも厭わずにジュンは決して上着から手を離さなかった。

 体温が上がって体が緊張状態から抜け出したせいだろうか。ジュンが見ている自分はさぞ無様な格好をしているのだろうと思うと、羞恥よりも先に悲しみが心に滲んできた。ジャージであるのは仕方ないとはいえ、全身雨に濡れてびちゃびちゃで、メイクも落ちてしまって、髪も度重なる不摂生で傷んでしまっている。いつの日か、堂々と男子部でジュンに会えると舞い上がっていた日の自分とは雲泥の差だ。


「…………ありがと、ジュン。でも傘は入ってね。君が風邪引いたら私が罪悪感で寝込むよ」


 茜がそう言って傘を持ち上げると、ジュンはまるで他人の部屋に入るようによそよそしく頭を低くした。身長差があるので茜が傘を持つ手に力を入れていると、その傘も流れるようにジュンに奪われる。

 いくら日頃体を動かしている男子学生とはいえ、冬の雨は体に堪えるだろう。頑丈だからと口では言いつつもその腕が寒さで強張っているのを茜は見つけた。

 そうだ。ジュンはやさしい子だった。ここで何をしていたのか聞きたいだろうに、あえて口に出さないことも含めて。


「塀の様子を見に来たの。女子部の方からじゃこっちの様子はわからないから」
「塀? ああ、なんか今工事やってるみたいっすねぇ」


 ジュンがこれといって不審に思っていないことから、非特待生の彼らは想像以上の成果をみせたようだ。風早巽の働き蟻と揶揄される彼らにも彼らなりの意地があるのかもしれない。


「工事なんて見てどうするんです? 特段珍しいものでもないでしょうに」
「ねえジュン。明日の昼、この塀の前に来てくれる?」
「? どうして?」
「ライブするんだ。私の。本当はゲリラだから内緒だよ?」
「ライブ!? なんでまたいきなり……? いくら特待生でも学校側が認可してないライブは怒られますよねぇ……?」
「やりたいし、必要なことだからやるんだよ」
「必要? 何のために?」


 それはもちろん、安心で安全な自殺のために、とは言えるはずもない。だが茜には、適当な理由で誤魔化すという考えは頭には浮かばなかった。

 彼には色々な事を偽った。もう、不必要な嘘はつきたくない。


「ジュン」


 茜が名前を呼ぶ。


「よかったら、地下墳墓まで一緒についてきてくれない?」
「はあ……そりゃ、別にいいっすけど。っつか、元々そのつもりでしたしね」


 ジュンは少し目を見開いたが、何も聞かずに茜と共に歩き始めた。

 そこから何を話したのか茜ははっきりと覚えていなかった。あえて言葉にするなら、楽しかった。メディア用に作られていない自分の話をするのは初めての経験で、少しこそばゆい。俗に呼ばれる青い春というものがどんな形をしてるのかは知らないが、その切れ端を一瞬でも掴めたような気がした。死ぬなら今がいいとさえ思ってしまうほどに。


「そういえばお礼をしないとね? 何かしてほしいこととかある? 欲しいものでもいいよ。特待生の私なら大体のものは買えるし」


 帰り際、茜はふとジュンに問いかけた。今までのお返しに何かしてあげたくなった。プレゼントを直接渡すことはできないけれど、適当な非特待生を使って届けさせればいい。

 だが、ジュンの口から出た答えは茜にとっては意外なものだった。


「別にそういうのが目当てなわけじゃなかったんですけどねぇ……ああ、なら、ファンサしてもらえます?」
「ファンサ?」


 真っ先に思い出したのは、茜がせがみ、ジュンが送った指差しのファンサービスだ。まさか彼から求められる日が来ようとはと笑みがこぼれる。


「……じゃあ、明日のライブは絶対に来て。どこにいても君を見つけるよ」
(そこで見るものは、決して君が歓迎できるようなものじゃないと思うけど)


 おそらく、ジュンは巽とHiMERUの件をまだ知らないだろう。だから、茜も何も話さない。


「……明日、何が起こるんです?」


 何かを感じ取ったジュンが茜に問う。


「夢のおわり」


 ジュンは知らなくていい。玲明の冬の時代の裏側なんて、今はまだ知らなくていい。春になって、寒さに耐えた新芽が太陽に照らされる頃にゆっくりと知っていけばいい。




(だから、君がそんな顔をする必要はないよ)




 どうせこんなものは茜のエゴでしかない。どこかでこのライブを見ているであろうコズプロ関係者も、きっと今頃せせら笑っていることだろう。なんだ、来栖茜はそんなものかと。

 野外の音割れ気味なスピーカーを伝って茜の声が届く。塀を挟み込むように支柱を立て作られた足場からは玲明の女子部も男子部もよく見渡せた。こんなに大掛かりな非認可ライブならすぐに教師がすっ飛んできて中断させられるかと思いきや、以外にも何の音沙汰もない。ならばと、いっそ好きにやらせてもらうことにした。


「しっかり撮っていってね――『ダイヤモンド』!」


 昼休みという短い時間を使っているため、MCパートは控えめに。このライブの目的はそれじゃないからだ。


(私がライブで怪我をすれば活動休止はやむを得ない。その流れで精神的ショックにより活動継続不可能と判断され、引退……の流れが理想的だけど、コズプロ上層部がそれを許すかは正直分からない)


 上層部どころかマネージャーも他の生徒達もこぞって茜を止めに来るだろう。今辞めてもらっては困る。まだ私たちを救ってくれてないじゃないと。

 だから、事故の様子をファンに撮影させることでそれを証拠映像とするのだ。その映像は事務所の情報統制が入る前にSNSを通じて拡散され、ファンや、インターネットを通じてファン以外の層に「あんな事件があったのだから仕方ない」と認識させる。事務所と対立するなら味方はファンだ。散々応援していたのにこんな使われ方をされるファンは気の毒に思うけれど、茜の天秤は常に自分が一番重かった。


(普通に考えて人が飛び降りるところ間近で見ちゃうのは気味が悪いと思うけど、そこはごめん。でも、やっぱり私、巽先輩とHiMERUのようにはなりたくない)


 来栖茜を知っていれば一度は聞いたことがあるイントロが流れ始めると、ステージ下に集まっている生徒たちがわあと歓声をあげた。玲明生徒のライブは基本的に撮影禁止であるぶん、今のうちにと次々とスマホを構え出す。無数のカメラが茜に向けられ、茜は内心安堵した。

 これならば大丈夫そうだ。あとは自分が、最後の一歩を踏み出すだけ。

 だが――問題が起こった。


(……やば。手、震えてきた)


 曲がサビに近づくにつれて、茜の脳に徐々に恐怖が這い寄ってきた。


(思ったより高いな、ここ。飛び降りるの? ここから? 本当に?)


 男女の交流を妨げる高い塀の上にいるのだ。下を見ても見えるのは人のつむじとカメラレンズのみ。真下にいるとステージの陰になって茜が見えないので、観客は皆数歩離れた場所で集団を形成している。ここから落下しても、茜を受け止められる人間は誰もいない。

 一応、落下地点には観客から見えない配置でマットが敷かれている。打ち所が悪ければ当然死ぬが、隕石が頭にぶつかるような確率だ。上手くマットの上で受け身が取れたらせいぜい打ち身で済む。

 だが、それも確実とは言えない。


(声、震えませんように)


 落下の恐怖は全身にまで及んだ。眩暈すらしかけたが、今この場でバランスを崩してマットの外に落ちでもしたら本末転倒なので必死で耐える。

 けれど、それでもべっとりと肌に張り付く悪寒を切り離すことができない。

 ここは玲明のライブステージでありながら、施設の牢屋でもあった。茜が玲明学園に入学する以前、まだ音の届かない閉ざされた楽園だと知る前の半地下牢。壁の染みが自分を叱責する院長や職員の顔に見えて膝を抱えて震えた。遠くに聞こえる自分を追いかける犬の鳴き声に慄いた。

 いや。怖い。誰か助けて。私を助けて。茜の過ごした幼少期はずっとそうだった。

 今も、そう。


「茜――!」


 ジュンの声が聞こえた。


 このスピーカの音量と、この歓声だ。自分の名前を呼ぶ声なんて無数に聞こえてくる。カクテルパーティ効果だったとしてもこの規模では聞き間違いだと思うだろう。

 だけど、茜は懸命に瞳を動かして男子部の集団の中からあの紺色の髪を探した。


(見つけた)


 どこにいても見つけると約束をしてしまったからな、と内心苦笑した。

 制服を着た彼は他のファンたちに押されながらも喉が潰れそうなほど何かを叫んでいた。目をかっと開いて、ひどく緊迫した様子で死に物狂いで前に進もうとするたびに他のファンに阻まれている。


(……もしかして、バレた? いやいやいや、勘良すぎでしょ!? 巽先輩やHiMERUのことも、私のことも何にも知らないくせしてさぁ!)


 茜が買収した非特待生たちも茜の真意に気づいていない様子だったのに。変なところで直感が冴えている彼が面白く思えて、つい顔が綻んでしまった。より正確には、ジュンにだけは何も気づかれまいと注意を払っていたのに、こうもあっさりバレてしまった自分に、だった。

 途端に、身体が軽くなって。最後の四歩を踏み出す足が軽くなった。

 マイクを持つ手とは反対の手を上げ、人差し指と親指を立てた。人差し指の先端を、悲壮な表情を浮かべるジュンに浮かべる。

 来栖茜はジュンの指差しで始まった。

 それはたしかに、茜にとってのよすがだった。

 だから、終わる時もそう終わりたい。


(アイドルのことは結局最後まで好きになれなかったけど、私はね、ジュン。君のことは結構好きだったよ。女性アイドルの象徴としてじゃなくて、アイドル来栖茜のファンになってくれたこと、今でも夢みたいに思ってる――だから君は、立派なアイドルになってね)


 ステップを踏む。二歩、三歩と後ろに下がり――四歩目が、空を踏んだ。

 体がぐらりと傾く。重力に従って、浮遊感に包まれる。悲鳴と、音響のハウリングが鼓膜を突き刺した。


(さよなら、ジュン)


 さよなら、アイドル!
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