マイナスドライバー1本分の幸福
41
目を覚ますと最近やっと見慣れてきた天井が視界に映った。三日間ほど旅行に行っていたかのような疲労感が残る体を起こし、茜は瞼を擦る。代わり映えのない部屋だ。記憶が正しければ、今日は休日――「あ、起きました?」
「わーーーーーーーーーーっ!!」
ぬっと開きっぱなしのドアから突然顔を出したジュンに声をかけられ、茜は驚きのあまりびくりと肩を揺らした。はくはくと口を動かすも上手く言葉が出てこない。
「え、え、あ、ジュ、ジュン!? なんで家に……」
壊れたおもちゃのようにどもる茜を見た彼は数回瞬くと、落胆するように眉を下げる。
「覚えてないんすか……?」
「え」
「オレにあんなことさせておいて…………?」
「――――――!!」
その瞬間、茜は全身から血の気が引くと共に昨夜の全てを思い出した。
甘えたがりの幼い子どもみたいに添い寝を強要するなんてどうかしている。そう、昨日はどうかしていたのだ。ひとつ思い出すたびに茜からは「ああああ」とゾンビのような呻きが漏れてくる。とうとう耐えきれなくなった茜はベッドの上に正座し、顔面を両手で覆った。
どうしよう、合わせる顔がない。この恥辱から逃れられるなら今すぐ頭をかち割って死んだっていい。
そんな様子の茜をジュンは肩を震わせて見守っていた。普段は茨と真正面から衝突するくらい毅然とした態度の彼女が、今はまるで子犬のように弱々しく見える。手で隠しきれなかった耳が真っ赤に染まったのを確認した瞬間、とうとうこらえきれずに「ふはっ」と吹き出してしまった。
「ははははっ、冗談っすよ。ちょっと意地悪言ってみたくなっただけです。……そんだけ慌てられる元気があるなら、心配はなさそうっすねぇ」
茜は指の隙間からちらりとジュンの顔を盗み見た。からかうような笑みから安堵の色が見えたことで、茜は恐る恐る両手を下げる。
「ご迷惑を、おかけしました……」
「なんすか、急に他人行儀になっちまって。あんたにかけられる迷惑なんて、あんたがステージから落ちた時よりひどいもんはありませんよ」
「反論の余地もない……!」
睨まれて罵られるならまだしも、満面の笑顔で告げられてしまえば茜にはどうしようもない。すっかり肩身が狭くなってしまった茜にジュンはくるりと背を向ける。
「とりあえず、腹空きません? キッチン借りて軽く飯作ったんで食います? 温め直しになっちまいますけど」
「は、はい……いただきま…………え、今何時?」
ジュンがすっと壁掛け時計を指す。短針がもうまもなく頂上に達するところだった。
「午前潰れてんじゃん! ってかジュンは合鍵持ってるんだから、そのまま帰ってもよかったのに……」
「ああ、今日は元々オフだったんで別にいいんすよぉ。……無意味に時間を潰したってわけでもありませんでしたし」
「?」
「…………」
無防備に昼まで爆睡する寝顔が見られたと言ったらきっと怒られてしまうので、「久々にゆっくりできたって意味です」とはぐらかしておいた。もちろん、いつもの意趣返しとしてわざと怒らせてみてもきっと可愛らしいものが見られるという確信はあったけれど。
「じゃ、オレは飯準備してきますねぇ。……あ、そうそう。冷蔵庫の中空っぽだったんで適当に買い足しに行ってたんすけど、嫌いなもんあったら言ってくださいねぇ」
「……う、う〜〜〜!」
本来なら礼を述べて然るべきところだと分かっているが、至れり尽くせりの姫対応は感謝ではなく罪悪感を刺激される。再び呻いてベッドに倒れた茜を見て、ジュンはからからと笑ってその場を後にした。
リビングのローテーブルを挟んで茜とジュンが向かい合って座る。テーブル上には温め直したばかりのフレンチトーストがそれぞれ置かれていた。トッピングにはカットバナナが添えられ、淹れたての紅茶は芳しい香りと共に湯気を立てている。
切り分けたフレンチトーストを口に運ぶ。ごくりとジュンが喉を鳴らした。
「…………うん。とっても美味し……」
茜はそう言いかけて、やめた。茜を見つめるジュンのは視線は安心するどころか物悲しさを孕んでいた。
「……ごめん。やっぱりよくわからないや」
そう茜が苦笑すると、ジュンは「そりゃそうっすよねぇ」とやっと息を吐く。
「まあ、無理せず食べられる分だけでいいっすよ。料理上手には程遠い出来ですしね」
「食べるよ。ジュンが作ってくれたんだもん。全部食べる」
間髪入れずにむっと反論してきた茜にジュンは一瞬面食らった。あまり食に興味がないのだと思っていたので、完食するとわざわざ宣言をするほど固執していたことに驚いていた。
「フレンチトースト、砂糖多めに入れたでしょ。味覚馬鹿の私でも感じるくらいだもん。味はまだ分からないけど、ジュンが私のために作ってくれたことはよく分かるし、嬉しいよ。……誰かが自分のためにご飯を作ってくれるのは、当たり前のことじゃないから」
ジュンよりも中の色が濃い自分のマグカップを見て、茜はふっと花のように顔を綻ばせた。
味覚が分からない人間に食べさせる料理の味を凝るのは全くの無意味だ。どうでもいい人間の料理に果物は出さない。紅茶の抽出時間を分けるなんて余計な手間だろう。それなのに、ジュンはどうにか茜が少しでも無味無臭から脱却できるよう手を尽くしている。茜にはそれが嬉しかった。
そう言って真っ直ぐ見つめられ、今度はジュンの方が羞恥に見舞われる番だった。「……おひいさんがそういうのうるさかったんで」と目を逸らすと、彼女は再び拗ねたような表情で唇を尖らせる。
「またおひいさんの話してる! 今日はおひいさん禁止にして!」
「ええ……? なんでです……?」
「いいから! 嫌ったら嫌!」
まただ。昨日からずっと、駄々をこねる子どものような顔を見せている。だけどそれらは全て、ジュンには至福の喜びに変換されてしまうのが致命的だった。
「……ところで、ジュンは午後からどうするの?」
茜は一度咳払いをした後、フレンチトーストを切り分けながら問う。
「う〜ん、どうしましょうかねぇ……? さっきも言った通り元からオフですし、おひ……特に用事もなかったもんで。かといってこれから寮帰って寝るのももったいねぇ気はするし……」
昨夜からアドレナリンが出っぱなしで寝られる気もしねぇし、とジュンは心の中で訂正した。
「じゃあ、気分転換にもうちょっと付き合ってよ」
「いいっすけど、あんただってせっかくの休日でしょう? 休んでなくて大丈夫です?」
「今は一人でいるより人といたい気分なの」
ジュンとしては昨夜の出来事を思えばゆっくり療養をしてほしいところだったが、たしかに彼女の場合はぱっと気晴らしをするほうがよほど良い薬になるかもしれない。それなら、とジュンは快く頷いた。
「そんで、どこに行きたいんです?」
「水族館」
「……水族館?」
さすがに水族館まで足を伸ばすのに昨夜の身なりのままというのは避けたい。そういうわけで支度を整えるために一度解散し、再び集合した頃には空は夕暮れに差し掛かっていた。
「こんくらいの時間になると夜のライトアップに変わるんすねぇ。オレ初めて見ましたよ」
「うん……そうだね……」
「?」
「………………」
館内照明は日中よりも落とされ、ロマンチックな空気が漂っている。視界の大半が青色の世界で、客層が家族連れよりもカップルの方が多いのはきっと見間違いではないだろう。ジュンは一切気にしていないようだが、誘った張本人である茜は少し気恥ずかしい部分があった。
それでも歩いてみると周囲はさほど気にならないもので、長い通路に現れる展示に茜もジュンもいつの間にか目を奪われていた。観光の目玉になれるほど大きな施設ではなかったが、この調子なら館内を回りきるのに予想よりも時間をかけることになるだろう。時折写真を取りながら進む中、ジュンはちらりと茜の顔に目を向ける。
なぜ彼女は突然水族館を望んだのだろう。元々好きだったというのであれば初耳だ。たが彼女の様子を見るに、水の中を泳ぐ魚たちを楽しんではいるものの胸を躍らせるまではいかないようだった。どちらかというと、笑顔の裏で淡々と眺めているだけのようにも見える。その理由はジュンには見当もつかなかったが。
館内最大のアクアリウムを通り抜けると、クラゲの展示エリアにやってきた。壁際に並ぶ円柱状の水槽の中には、種類ごとに数匹のクラゲが水流に乗って漂っている。ライトに照らされながらふわふわと浮かぶ姿が魅惑的だった。
「あ、これいいな。私、小さい水槽の方が好きかも」
「たしかにこうして見ると可愛いもんっすよねぇ」
「ジュンはどっちが好き? 大きな水槽と小さな水槽」
その突発的な質問には些か引っかかる部分があったが、ジュンは世間話の一環だとみなして答える。
「う〜ん……オレは大きな方っすかねぇ。自由に泳いでる感じがして」
そう述べながらジュンは目の前のクラゲを見つめる。先程の巨大水槽を見た後では、クラゲの水槽がジュンの言う"自由に泳ぐ"からやや外れていると感じるのも納得かもしれなかった。
茜はジュンの回答に満足したのかしていないのか、「そういうと思った〜」と微笑んだ。
クラゲは二人の問答など一切気にせず、悠々と水中を漂っている。
「…………。……………………オレ、ガキの頃…………ちょっと、おかしな親に育てられてて」
ぽろりと、考えるよりも先にそれはジュンの口から出てきた。不思議と息苦しさはない。
「アイドルだった親父は引退までずっと佐賀美陣の引き立て役にしかなれなくて、その復讐……みてぇなもんをするためにオレをアイドルにしました。その教育も今考えるとなかなかひでぇもんで……何もない時は押し入れに隠れてるのが一番楽だったんすよねぇ」
だから、広い世界には常に憧れがあった。学校帰りに公園に寄れる同級生が羨ましかった。膝を抱えて甲羅に籠もる亀のようにじっと耐えるしかない自分に嫌気が差し、佐賀美陣に的外れな恨みを向けた。
「オレ、思っちまうんです。水族館にいる魚たちは、本当ならもっと広い海の中を、自分の力でどこまでも自由に泳げたのに、って――」
ハッと我に返ったようにジュンは途中で言葉を切った。即座に隣に目を向けると、何とも言えないような顔でクラゲを見つめる彼女がいた。
「す、すいません! せっかくあんたが誘ってくれたのに……ひ、引きましたよね……!」
「気にしないよ、そんなこと。ジュンの言ってることも一理あるんじゃないかな? 飼育っていうのは、少なからず生物としての自立を奪ってしまうものではあると思うし」
茜はさして気にしていない様子だったが、ジュンは自身の心臓が鉛のように重さを増すのを感じた。空気を払うように「茜はどうなんです?」と聞き返すと、彼女は数秒考えてから述べる。
「どっちも一緒」
「最初に聞いた意味……」
「泳げる範囲は私にとっては重要じゃないからね。大事なのは敵がいないこと」
茜につられるようにジュンも再度アクアリウムに目をやった。
ここには生命の危機がない。食事は保証され、天敵はおらず、水温は保たれている。ジュンはガラスで囲った檻の中を見ているようでも、もしかしたら彼らはガラスに守られた楽園からジュンを見物しているのかもしれない。“この世で最も外部からの攻撃に強いのは軍事基地でもシェルターでもなく、牢獄だ”――と、以前茨が言っていたのを思い出した。
「呑気に泳いでまあ……………………羨ましくもなるよ」
彼女のその言葉は水槽のクラゲを慈しむようでいて、どこか吐き捨てるようでもあった。
どれほどの時間クラゲ展示の前で立ち尽くしていたのかは定かではない。しばらくの無言ののち、「そろそろ行こっか」と茜が口火を切るとやっと足を動かし始めた。
展示エリアを抜けるとそこは広めの休憩ラウンジだったようで、スツールや観葉植物などが点々と配置されていた。館内限定のカフェスタンドが併設されているためか今までよりも人が多い。その中で偶然にも空いている席を見つけたジュンは、今日は運が良いと内心微笑んだ。
「オレらも休憩しません? 結構喋ったから喉乾いちまって。オレ何か買ってくるんで、茜はそこに座っててください」
「え。なんか悪いし、私も一緒に……」
「いいですって。この客入りじゃちょっと目を離した隙に席埋まっちまいますし、茜は場所取りお願いします。お利口さんにして待っててくださいねぇ」
茜が反論を告げる間もなく、ジュンは颯爽とその場を離れカフェスタンドの列へと歩いて行ってしまった。二人がけスツールの前でぽつんと佇む茜は、ジュンの背中が見えなくなるとふっと糸が切れたようにスツールに座り込む。
(……………………ず、ずるい……! ずるいずるいずるいずるい!)
アクアリウムを眺めていた時の憂いは、ほんの僅かな時間で全て吹き飛んでいた。相変わらず彼は茜から牙を抜き取るのが上手い。これも全部日和から叩き込まれているのだとしたら、茜は彼を称賛しなければならないかもしれない。尊敬ならば、今も昔も向けてはいるけれど。
熱の集まる頬に手で風を送ってみるが変化は見られない。叶うことならカフェの列が想像よりも長く、ジュンが返ってくるまでに元通りになれると良いのだが。
その時、茜の隣にどさりと腰掛ける影があった。体重分の振動が茜にも伝わる。
「な、なぁに? 忘れ物でも――――」
顔を上げた瞬間、茜は声が出せなかった。
舌が凍りついたように動かない。頭が真っ白になり、とても簡単な名称すら浮かんでくることはなかった。重力が茜を押さえつけるような目眩と共に感じたのは、ポケットの中がずしりと重さを増したような感覚。
「元気そうね、茜ちゃん」
「――院長、先生………………」
そういえば茜に何を飲むのか聞いていなかった、とジュンは列に並びながら初歩的な問題を思い出した。茜にメッセージを送ってみるがスマホを見ていないのか反応はない。壁面水槽沿いに並ぶジュンの後ろには最後尾を確認するのが億劫なほどずらりと続いており、一度列を離れて茜に確認しに行くのは現実的ではなかった。幸い前方はまだ五、六人ほどいるので、メニューを見ながら考える時間は十分にある。きっと今の茜は口に入るものを自分で選ぶ方が気が進まないだろうと思い、ここはジュンが適当に選ぶことにした。
たしか、茜の好物はチョコレートだったはずだ。彼女に付き合ってもらい入った喫茶店でも、当時とっくに味覚を失っていたという彼女はチョコレートケーキを頼んでいた。
(館内限定チョコレートドリンクがいいっすかねぇ……? 上にアザラシの顔が描かれたマカロン乗ってるし、茜は結構可愛いもの好きなところありますしねぇ)
根拠はというと、茜がジュンのマスコットを見て目を輝かせていたという以外に自信を持って言える部分はないが。ジュンの脳内辞書には“女子は可愛いもの好き”とわざわざ赤文字で書いているので間違いない。これなら彼女も視覚で楽しめるだろう。
わざわざ彼女の分のみ豪勢な限定メニューにするのも恥ずかしい気がして、ジュンは自分も同じものを頼むことにした。心の中で正座し、“好きな子と水族館に来られて浮かれました”と書いたプラカードを首から下げながら順番を待つ。けれど、せっかくのデートスポットなのだ。周囲も似たようなものだと思いたい。
ふと横に目を向けると、ガラス近くを泳いでいたエイと目が合った気がした。目が合ったというのはあくまで気のせいで、ジュンが先ほど見た解説パネルによるとジュンが咄嗟に目だと認識した部位は実際は鼻孔であるらしい。とても愛らしいと思うその姿が実際には人間の勘違いであるとは、エイからすればなんて身勝手なんだ、とジュンは思う。
(身勝手、か……オレも人のことは言えねぇけど)
茜に二度と消えてほしくない。単純明快でシンプルな本音は口から出せないくせに、願望だけが歪な形で実現した。どんな言葉で表そうと、茜をコズプロという檻に再び入れる最後の一押しをしたのはジュン自身だ。
ただそばにいてほしいという、それだけの手前勝手な理由で。
(……茜は……狭い
泳げる範囲は重要ではない。大事なのは敵がいないこと。彼女はそう言っていた。
すると、ジュンが見ていたエイの近くに別のエイがやってきた。まるで友人に呼ばれたように、二匹はガラスから離れて漂うように泳いでいく。
狭くて、明るい、箱庭みたいな水槽の中を、悠々自適に泳いでいく。
その瞬間、ジュンの中で何かが弾けた気がした。
(…………ああ! ちくしょう、ちくしょう! なんで分かんなかったんだ、オレの大馬鹿野郎! 最初から茨が教えてくれてたのに!)
まるで世界の真理に辿り着いたかのように、パッとジュンの思考は明瞭になった。
『もし、本当に彼女のことを思うのなら、その盲目フィルターを早めに外すことをおすすめしますよ。――
茨は全部わかっていた。遠回しでもなんでもなく、ほとんど直接忠告してくれていたようなものだった。
一人でなんでもできる人だと思い込んでいた。だって、ステージの上ではあんなにも眩しくて、ステージの下でもあんなに力強くて、指差しひとつで雷を落としてしまうようなかがやきがあったから。最後の最後まで、それが彼女だと思っていたから。
だけど。
茜は怖がっていた。いつだって悪意に傷つき、脅威に怯えていた。裏側はちっともかがやいてなんていなかった。
自分だって本当は分かっていたはずなんだ。突き飛ばされた後に平気だと笑いながら夜は眠れなくなるような、痛くないふりをするのが特技の普通の女の子だと。ジュンに縋りつくことでしか安眠を得られなかった夜が何よりの証だと。
だから、自分が彼女を縛り付けてしまったと思い込んでいたものは全て。
(……茜に聞こう)
あの日のコイントスをどう思っているのか。聞きたいことは山のようにある。結局、数年にわたって爛れてぐずぐずになるほどの熱情を抱えていても、ジュンは彼女のことをまだほんのちょっとしか知れていないのだから。
チョコレートドリンクを注文して受け取り、足早に茜の待つ席へ戻る。人とぶつからないように慎重に歩くジュンに逆らって、ジュンの気持ちだけが前へ前へと急かしてくる。人混みと背の高いインテリアで視界が悪いが、この角を曲がればすぐのはずだ。
「茜――――」
はた、とジュンは足を止めた。あれをこれをと考えていた頭が一瞬でフリーズする。
――スツールには誰も座っていない。もぬけの殻の空間があった。
茜がいない。
指先から全身に霜が降りたような感覚だった。視界がちかちかと明滅し、呼吸が浅くなる。まるで、ジュンの足元にぽっかりと穴が空いてしまったような。
「茜、」
もつれそうな足をなんとか前に出す。
きょろきょろと周囲を見渡すが、彼女の姿はどこにもない。忽然と消えてしまった彼女を探してジュンはつんのめるように歩いた。クリームの崩れたチョコレートドリンクを両手に持って、茜、と何度も呟きながら。
走ってもいないのにどんどん息があがる。周囲の客は自分たちだけの空気に浸って気づいていないのか、あるいはジュンの異様な雰囲気を察して避けているのか、茜を探すジュンとぶつかるようなことはなかった。
けれど、当のジュンの脳内には茜の名前しかない。あまり目立つ行動はするなと口を酸っぱくして言われていたことも忘れ、ジュンはラウンジを出た。
それから二、三分ほど経った頃、彼女は案外早く見つかった。
「茜!」
彼女の見慣れた後ろ姿を見てほっと胸を撫で下ろす。こんなにも心の底から安心したのはいつぶりだろう。休憩スペースからトイレへと向かう廊下の途中、自動販売機の前にいた茜が驚愕と絶望を孕んだ顔で振り向いた。
「…………ジュ、ジュン……………………」
彼女の正面には、やけに仕立てのいいスーツを着た見知らぬ女性が立っていた。
「助かるわ。人の多いところは苦手だったから、ここならゆっくりお話できそう」
「人の多いところが苦手な人間が児童養護施設なんて運営してんじゃないよ。ま〜あんたの場合はまともに支援する気がないから関係ないか」
「ふふふ。減らず口は相変わらずなんだから」
ラウンジから少し離れた地点で茜は苛立ちのままに言い放った。美しい青の世界とは一変し、古い自動販売機と経年劣化で点滅する誘導灯の光が茜と院長の二人を照らしている。腕を組んだ茜の指先がトントンと腕を叩いているのを、院長はにこやかに観察していた。前回言葉を交わしたのは通話越しだったが、繊細で気品のある佇まいは施設で暮らしていた頃から変わっていなかった。
「せっかくのデートを邪魔しちゃってごめんなさいね。さっきの男の子が、漣ジュンくん?」
「デート? 冗談やめて。仕事の下見をいちいちデートなんて呼んでたら、年に何十回デートしなきゃいけなくなんだよ」
「あら。それは失礼したわ。七種くんも人使いが荒いのね」
のらりくらりとした態度でからかっているだけに思えるが、これには別の側面があることを茜は知っている。世間話を装って相手の親しい人間の名前を出し、揺さぶりをかけるのは彼女のよく使う手だ。どちらにしても、神経を逆撫でされることに変わりはないが。
「あんたが直接来たってことは、何か私に言いたいことがあるんでしょ? さっさとしてくれる?」
「そうね。それじゃあ手短に。……あなたに渡したUSBメモリ、返してもらえるかしら」
「…………」
心当たりなら当然ある。茨のタブレットに保存されているDNA鑑定結果を盗むため、スパイウェアを仕込んだ例のUSBメモリだ。その必要がなくなってからはめっきり触ることもなくなっていた。
「持ってない。捨てた」
「そう………………裏切りがすっかり特技になっちゃったわね」
「裏切り〜? 私がこういう奴だって分かってたから、ほとんど脅しみたいな真似をしたんでしょ? ご立派なお考えなことで」
「ありがとう。私、これでもあなたの院長先生だもの。あなたのことなら何でも分かるわ」
「照れるな〜、そんなに子供思いな人が私の先生で。吐きそうなくらいだよ」
おどけたように言う茜の目は唾棄にまみれていた。対して院長の表情もそう変わらず、柔和な顔には常に冷酷さが見え隠れしている。
「つーか、あのUSBってわざわざ回収しないといけないほど大事なものだったの? まさか、データを盗むプログラム以外にもう一個隠されてるとか!」
茜がそう言い放った途端、院長が軽く目を見開いた。そして、口元に指を当てて愉快に笑う。
「……今のは迂闊だったわね、茜ちゃん。おかげで確信したわ。あなた、USBを捨てていないでしょう」
今度は茜が無意識に眉を寄せた。それを見て、彼女はやっぱりねとさらに口角を上げる。
「私にカマをかけるほど疑っているものを、あなたほど用心深い子がみすみす捨てるはずがない。本当はどこかに保管しているんでしょう? どこかしら。自宅? それとも事務所?」
「さあ? 当ててみなよ。私のことは何でも分かるんでしょ?」
茜が煽るように肩をすくめると、院長の琴線に触れたのか僅かに瞼が動いた。どうやら、茜がUSBメモリを捨てていないと確信はしたらしいが、隠し場所については見当がついていないらしい。彼女がこんなに躍起になるほど重要な秘密が隠されているとは予想外だったが、良い収穫だ、と茜は内心ほくそ笑んだ。探りを入れるならば向こうのペースに飲まれる前の今しかない。
「ところで、あんたの本名を見たことってほんの数回しかないよね。私の進学手続きの署名とかがそうだけど、逆に言えば、それ以外では施設の子たちには頑なに“院長”って呼ばせてた」
「……それで?」
「で、つい最近、もう一度見る機会があったの。とあるルートで見せてもらった、昔の人間の手記でね」
院長の顔が曇る。
「その人はかつてアイドル業界を牛耳ってたドンみたいな人だったんだけど、あちこちから素養がありそうな人を引き抜いては育ててるような人だった。そんな人たちの名前が、手記にはたくさん書かれてた。そのうちにひとつに――」
「茜ちゃん」
今まで聞いた中で最も低く、最も冷徹な声色だった。山頂の吹雪のようなそれを、茜は麓から見上げる冒険家のように微笑み返す。舌戦の女神は自分の方を向いていると茜は信じて疑わなかった。
「好奇心は猫をも殺し、藪をつつけば蛇が出てくるわよ」
「丁度よかった。うちにも毒蛇なんて呼ばれてるのがいるから、試しに戦わせてみようよ。共倒れになってくれても私は全然構わないわけだし」
「なら、挨拶はそのうち、ね。だから今は……」
「――茜!」
耳障りの良い、すっと通った声が茜の名を呼ぶ。後ろから大岩をぶつけられたようなショックが茜を襲った。女神は、最後まで茜の方を向いてくれてはいなかった。
「…………ジュ、ジュン……………………」
茜は恐る恐る振り返る。両手にドリンクを持ったままの彼は深く息をしながら、アクアリウムの光を背に通路の入り口に立っていた。突然消えた茜を探してよほど焦っていたのだろうか、首筋には汗が伝っている。
「ったく、も〜……勝手にっ、……いなくならないでくださいよ……!」
「…………ご、ごめ……」
足早に近寄ってくるジュンに咄嗟に謝ろうと口を開いたが、すぐ傍に立っている院長を思い出し言葉が詰まってしまった。ジュンもすぐに院長の存在に気づいたようで、不思議そうな視線を茜の真後ろに向ける。
「ええっと……この人は……?」
「ん〜? なんか、トイレの場所が分からないって…………」
「あなたが、漣ジュンくん?」
「…………ちっ」
茜の声を遮って、院長は一歩前に出た。遠目で見れば人畜無害で穏やかな女性という印象だが、間近で観察すると身が引き締まるような寒気がする。何も知らないジュンはきっと本能に近い何かで感じ取ったのだろうか、名前を知られていることも相まって微かに肩を揺らすのが見えた。
茜の隠すこともしない舌打ちを無視して、彼女は続ける。
「はじめまして。茜ちゃんがいた児童養護施設で院長を務めていたのだけど、茜ちゃんから聞いていなかったかしら」
「……! ってことは、あなたが
「え……」
茜が目を見開くのを置き去りに、ジュンはドリンクを落とさないよう深々と頭を下げる。
「はじめまして、漣ジュンっていいます。来栖さんとは事務所が同じで、いつもお世話になってます」
「あら、礼儀正しい子。茜ちゃんに爪の垢を煎じて飲ませたいくらい」
院長の皮肉も耳に入らないほど、茜は凍り付いて動けなかった。動揺のままジュンの顔を凝視するが、ジュンはそのことに気づいていないらしい。
院長はジュンと茜の様子を見比べてふっと口元だけで笑うと、コツコツとヒールを鳴らして二人の横を通り過ぎた。
「あまり
まさに歩く姿は百合の花といった具合に、彼女は優美に通路を曲がって消えていった。
その奥で、小学生ほどの子供の声が聞こえた。
「院長せんせー! どこ行ってたの?」
「ちょっとお手洗いに。そろそろ行きましょうか……」
遠ざかる院長と子供の声が完全に消えるのを待ってから、ジュンは改めて茜に向き直った。事情を知っているためか心配そうに目を合わせようとする。
「茜、今の人……」
「ジュン」
絞り出すように名前を呼ばれ、ジュンは動きを止めた。
深い海の色の瞳は混乱と疑問で渦巻いていた。なぜ、と問い詰めたいのを必死に抑え込んでいるかのような。
氷を一粒落としたような声で、茜は尋ねた。
「どうして、橄欖院の名前を知ってるの……?」