マイナスドライバー1本分の幸福
40
落ちる。落ちる。硬く、冷たい地面へ、真っ逆さまに。状況を飲み込めないまま、茜の脳裏にある光景が蘇った。
万来の歓声と悲鳴。スピーカーのハウリングと、それすらかき消すほどのひどい耳鳴り。
視界を埋め尽くす冬空の直前に見たものは、一体何だったっけ?
しかし茜の身に突然始まった落下は、終わりもまた唐突なものだった。
「――おっと! ギリギリ間に合ったみたいだなあ! 怪我はないかあ?」
「!? え? え……? は、はい……?」
がっしりとした無骨な手が横から伸びて茜の腰に回される。バレエのようにのけぞった中途半端な体勢のまま支えられた茜は、衝撃に備えて閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
黒のバイクヘルメットを被った大柄な男だった。顔立ちは不明だが、半透明のシールド部分からうっすらと目元が伺える。先ほどまでは確実に近くにいなかったため、おそらく階段から突き落とされる茜を見て走ってきたのだろうが、それにしては息切れの一つもしていなかった。
(……誰?)
茜が疑問を口にするよりも早く、彼はぐっと力を入れて茜を引き戻すと、歩道橋の上へ向かって叫び出した。
「こはくさああん! こっちは大丈夫だぞおおおお!」
「そないに叫ばんでも聞こえとるわ! 時間と場所を考えんかい! 近所迷惑やろが、たわけ!」
一体どれほど強靭な肺活量を持っているのか、彼の叫びは茜の鼓膜をびりびりと震わせた。続けて返ってきたのはまた別の人物の声で、今度は歩道橋の上、茜を突き飛ばしたであろう女の隣から聞こえてくる。こちらもヘルメットを被っていたがシールドを上げており、藤色の瞳をきっと茜を支えた青年に向けて睨みつけていた。が、呆れたようにため息をつくと、僅かに表情を緩め――ある種別の冷淡さを纏って女に目を向ける。
「堪忍な。正義の味方気取りってわけとちゃうけど、目の前であんなんを見て素通りもできひんねん」
「君が、歩道橋を歩く彼女に後ろから駆け寄っていく現場に偶然通りがかってしまってなあ。知り合いに声をかけるにしてはあまり穏やかじゃない雰囲気だったから、物陰からしばらく見ていたんだが……」
正解だったようだ、と茜の隣にいた男がヘルメットを脱いだ。栗色の髪と深緑の瞳がようやく露わになるが、茜に見覚えはなかった。
けれど茜を押した女は違ったようで、その顔にかんばせに目を向けると苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた。
「三毛縞斑……!? あんた、いつの間にニューディまで引き込んだの……!?」
「は……?」
次の瞬間、彼女の口から恨みや憤りが濁流のように溢れ出す。
「――あんたが! あんたが悪いのよ、来栖茜! あんたの革命の真似事を信じ切って名義を貸して、私の友達は退学するしかなくなった! あとちょっとで卒業だったのに!」
その友達とやらの名前は知らない。仮に名前を出されていたとしても、茜には分からなかっただろう。玲明には茜に付き従う生徒が無数にいたのだから。
だが、名義と、退学と、卒業。これらのワードから、ある可能性は導き出せる。
「………………あの日、私がステージ資材を借りる申請に名義を貸してくれた……」
茜が小声で呟いた言葉は彼女の耳にもはっきりと届いたようで、きっと睨む両目からぼろぼろと涙を溢れさせた。
「でもあの子は、どうせもうすぐ退学が決まっているからって……」
「嘘に決まってるでしょ!? 私とあの子は入学する前から一緒で、卒業するときも一緒だって……アイドルになるときは一緒にユニットを組もうって、約束したのに! それをあんたが! あんたに唆されたせいで!」
彼女は――彼女たちは、屍だ。茜がアイドルの玉座にたどり着くまでに積み上げた無数の屍のうちのひとつだ。茜を突き落とそうと、過去が追いかけてきたのだ。つまりは、壮大なしっぺ返しを食らっているに過ぎない。
――きっと、私を恨んでる人はたくさんいる。
――きみを恨んでいる人は少なくない。
(…………本当だった。私を恨んでる人は、本当にいたんだ)
失望していた。彼女に言われた言葉にではなく、茜自身に対して。
ひどいことをたくさんしてきた。玲明をめちゃくちゃにした。消えない傷を負わせた。
でも、全部が全部そうだったわけじゃない。茜の影響でアイドルとしての活躍機会が増えた人間がいるのも事実だった。
だから、もしかしたら。一人くらいは、自身の行いに希望的な言葉をくれる人物がいるかもしれない、なんて。
そう、この後に及んで未だ楽観視していたことに気づいて。
「引退したならさっさと消えてよ! のこのこコズプロに戻ってきて、何がしたいの!? また平気な面でアイドルやるつもり!? あの子はもう、二度とアイドルになれないの――」
「――そこまでだ」
彼女の叫びを遮ったのは斑と呼ばれた男だった。飄々とした態度でいるものの、隙のない視線を向けられると彼女も黙ってしまうほどの風柄がある。けれど極端に怯えさせることも彼の本意ではないようで、彼女が口を閉ざした瞬間ふっと警戒を解いて微笑んだ。
「それ以上はやや込み入った話になってくるからなあ。人気がないとはいえ往来ですることでもないだろう。第一、君は彼女を階段から突き飛ばした加害者だ。然るべき対応となると、やはり警察に通報をするのが一番なんだが……」
「……ま、待って!」
茜は咄嗟に斑の腕を掴んだ。彼の目が僅かに見開かれ、茜に向けられる。
「警察は……ちょっと、まずいかも…………」
瞳を左右に泳がせる茜を見て複雑な事情を察したのだろう。彼はう〜んと数秒考えたのち、「なら、続きは署の代わりにESで聞かせてもらおうか!」と述べた。
女は咄嗟に逃げ道を探そうとした様子だったが、自身の隣にいる少年がこちらもまた隙がなく、自分がどう逃げようと追い付かれるのは必然だと諦めたのか大人しく階段を降りる。続けて少年も降り、茜のすぐ側を通り過ぎる直前、「んん?」と彼は立ち止まった。
「ぬしはん、もしかしてジュンはんの……」
「おお〜〜っと! こはくさん!」
斑がすっ飛んできては、急いで彼の口を塞いだ。
「本人同士が頑張って隠そうとしているんだぞお? ここは意図を汲んで……」
「あ……ああ、せやね。堪忍な、ぬしはん。何でもあらへんよ」
「ぐっ…………お気遣いど〜も!」
「茜!」
息を切らしたジュンが事務所内のとある一室に飛び込むと、テーブルに頬杖をついて座っている茜と目が合った。玲明寮からわざわざ走ってきたのか、あるいは晩のランニングの途中だったのか、トレーニングウェア姿のラフな格好だった。
「ジュン……!」
目を丸くする茜の旋毛から爪先まで視線を一巡させどこにも怪我がないことを悟ると、ジュンは「はぁぁ……」と扉に手をついて脱力する。
「茨から話は聞きました。どこか痛いところありません? 足平気っすか? 病院は?」
「大丈夫大丈夫。実際には落ちてないんだし大げさだ……」
「大げさなんかじゃねぇでしょう!」
ビリ、と空気が震えた。無意識に叫んだジュンは茜よりも苦しそうな顔をして、拳を握る。
「だって……だって、あんたの足は……っ!」
茜の両足には、爆弾が埋まっている。
一度骨折した部位は完治した後でも再び骨折しやすく、また治癒しづらくなってしまうらしい。もしも、階段から落ちるほどの大きな衝撃が再び彼女の足に伝わったら。そうほんの少し想像するだけで、ジュンは全身から血が抜けていくような感覚に襲われた。
そんなジュンに茜は何も言えなかった。無意識に叫んでいた彼を凝視し、口を開いたまま静止する。指先まで凍りつき、一瞬、思考までもフリーズしていた。
その時、ぽん、とジュンの肩に手を置かれた。
「……ジュンはん」
ジュンが振り返る。そこには、ジュンと同様に難しい顔をしたルームメイトの姿があった。
「サ……サクラくん!? どうしてここに……あ、もしかして茨が言ってた、茜を助けてくれた通りすがりの人って…………」
「そっちはどっちかっちゅうと斑はんの方やけどな。最初に気づいて動いたのも斑はんやし。今は副所長はんと一緒に相手の話を聞きに行っとるからおらんけど、礼ならそっちに言っとき。……まあ、そらさておき」
こはくは茜に目を向けながらジュンに顔を寄せ、彼女に聞こえない程度の声で耳打ちする。
「茜はんっちいうたか。気丈に振る舞っとるけど相当まいっとるで。家知っとるなら送っていった方がええんとちゃう」
「……………………………………………………」
「相手の事情聞くのや背景調べんのはわしらや副所長はんがなんぼでもできるけど、今あの人支えられんのはジュンはん一人しかおらんねん。……大切な人なんやろ?」
「…………………………はい」
深く吸った息は重い返事として吐き出された。「すんません、サクラくん。ありがとうございます」とジュンが言うと、彼は礼はいいというように微笑んだ。
「…………茜。怒鳴ってすみませんでした。……帰りましょう」
茜は何も返さない。喉元まで出かけた言葉を言おうか躊躇って、飲み込む。その間、視線は自身の両足へと落とされたままだった。
代わりに、ジュンが差し伸べた手を握り返した。力強く、まるで命綱を掴むように。
一旦状況を整理したい。まずはジュンが茜を家まで送るためにESを出たあたりから。
タクシーを呼び共に茜の住むマンションへ向かったまではいい。車内では一言の会話もなく気まずい空気に押し潰されそうだったが、マンションが見えてくると茜も気が緩んだのか安堵の表情を浮かべていた。
「ジュンさ。この後ちょっとだけ時間あったりしない?」
「? いいですけど……」
茜が少しは落ち着いてきたようで緊張の糸が切れていたジュンは二つ返事で了承した。そのまま深く考えずにタクシーを降り、エントランスを抜ける。
流れが変わったのはエレベーターに乗りジュンと茜が部屋へたどり着く直前だった。突然茜の両目が覚醒したようにかっと開き、目に見えてわかるくらいに狼狽えだした。
そして震える声でこう述べた。
「……………………ヤバい。部屋、なんにも掃除してない……」
こつんと星が頭にぶつかった気分だった。え? 掃除? とジュンの脳内に思いつく限りの疑問が浮き出ては消える。
「いや……別にオレは気にしませんよ。こっちが突然押しかける形にもなっちまってますし。つーか、用ってなんです? あんたも今日は疲れてるだろうし、もしあれならまた後日ってことでも……」
「え!? えっと、それはあんまり意味がないっていうか、お話があるっていうか、ちょっとした相談があるっていうか…………」
「相談?」
「だからっ……そ、その………………!」
尻すぼみに言葉を紡ぐ茜だが、肝心の内容は一切出てこなかった。「ああ」だの「うう」だのと情けない呻きがしばらく続き、半ば投げやりになりながら叫ぶ。
「……と、とりあえず五分で片付けるから、ジュンは玄関で待っててっ!」
――以上が、ジュンがリビングを隔てる扉に背を向けて待機するまでの経緯だ。扉の奥ではばたばたと物音が断続的に聞こえているが、具体的に何をしているのかはさっぱり分からない。玄関とリビングを繋ぐ僅か二、三歩程度の短い廊下は空調こそ届いているものの、固いフローリングの上にかれこれ十分ほど立たされ続けてそろそろ足が疲れてきた頃だった。
「茜〜? 何度も言いますけど、オレは別に気にしませんって……オレだって部屋散らかすことくらいありますし」
「ジュンはこれが見えてないからそんなことが言えんの! 一人暮らしには一人暮らしの尊厳ってもんがあるの!」
先ほどからジュンが何を語りかけようともこの調子で、一向に扉が開くことはない。まるで神様が引きこもったという岩屋のようだ。いっそこのまま歌や舞を披露してやろうか。何せ、それらに至ってはジュンの本職なのだから。
そう考えてからさらに五分ほど経ったところで、やっとジュンが背にした扉が開いた。
「お。やっと終わりまし、た――」
硬直。振り返りかけたジュンは全身が氷漬けにされたように動きを止め、息さえも忘れた。
ドアノブに手をかけ茜がジュンの目の前に立っている。けれどその服装は先程までの私服とは様変わりし、オーバーサイズのTシャツとドルフィンパンツをゆるく着こなす非常にラフな装いだった。玲明のジャージとは比べ物にならないほど気を許したプライベートな姿だ。
「えっ…………き、着替っ、え、て……………………」
「ああ、うん。突き飛ばされたときにスカート擦れて汚れてたんだもん。ど〜せ安物だからいいんだけどさぁ」
掃除をしていたはずではという思考はものの数秒で吹っ飛んでいった。やわらかな生地に落ちる影のひとつひとつに目を奪われそうで、実際ジュンの視界は頭を抱えたくなるほどくらくらしていた。
(GODDAMN! ちくしょう…………可愛い………………っ!)
ああ、可愛い、可愛い、可愛い! こんなことがあってもいいのか!
開いた口が塞がらないジュンを訝しんだ茜が、彼の目の前でひらひらと手を振ってみる。「ジュン?」と名前を呼ぶが応答はない。完全にフリーズしていた。
「ひ、引いてる……?」
「……………………………………はっ、い、いや、なんでも…………き、着替えてたんすね…………?」
「うん、さっきも言ってたそれ…………」
動揺のあまり、ジュンの発言には整合性が著しく欠けていた。ウィンドウが激しく出たり消えたりする劣化PCのように、今現在ジュンの頭はまともにものを考えられる状態にない。ひとたび気を抜けば本音が全て口から流れ出てしまいそうで、それをなんとか喉の奥に押し込めるので精一杯だった。
ジュンが言葉を失っているのをどう捉えたのか、茜はむっと唇を尖らせて拗ねるように述べる。
「似合ってなくても文句言われる筋合いはないからねぇ? ただ適当に持ってた服に着替えただけだし」
「いや! そういうんじゃないんすけど! ちょっと驚いちまっただけ…………あ〜、っと、それより、相談ってのは一体なんなんすかねぇ……?」
茜は彼がわざと話を変えたことを簡単に見破っていたが、まあいいかと適当に受け流す。これこそが彼女が大雑把と評される所以でもあるが、生憎とこの場でそれを指摘できる人間は一人もいない。
茜が両手を前で重ねる。
「……明日、オフだって聞いたから。嫌なら別にいいけど……泊まっていってくれない?」
「…………………………………………はい?」
さらりと告げた茜に対して、ジュンはそろそろ爆発四散しそうだった。
「……………………………………………………」
なんだこの状況、と声に出してツッコめたらどれほど楽になれるだろう。ジュンは思考を放棄するようにベッドに仰向けになって寝ていた。
その隣でぴっとりとジュンの左腕に身を寄せてすやすやと寝息を立てている茜には何か一言言ってやらないと気が済まない。さすがに無防備がすぎる、とか。警戒心の欠片もない、とか。
だけどそういう小言もまあ起きたらでいいかと先送りにしてしまっている自分がいるのだから、恋ってものは厄介極まりない。
(何が"眠れるまでそばにいて"っすか……! いざ寝たら動けねえし…………!)
少しでも身動きをすれば彼女の綿のような安眠を壊してしまいそうで気が気じゃななかった。なので今のジュンには天井を眺めるか、少し首を動かしてベッドサイドのテーブルやクローゼットを見るしかできることがなかった。寝返りなんて以ての外だ。
第一、シングルベットに二人で寝ることの方が間違っている。
(…………クイーンサイズ、買っときゃよかったな……)
ショッピングモールでの彼女の浮かれ具合に、自分も引っ張られてみるべきだった。今更後悔してもあとの祭りだったが。
その時ふと、サイドテーブルの上に鎮座するものが目に留まった。以前茜と共に入ったゲームセンターで入手したジュンのマスコットだ。アームと仕切り板に挟まれ首が破れるという無惨な姿になってしまっていたが、あの時のまま修繕はされていないようだった。
「"あ、こいつ直すのサボったろ"って思ったでしょ」
「っ!? 茜、起きてたんすか……」
隣ですやすやと寝息を立てていると思っていた茜が、いつの間にか這い寄るように顔を寄せジュンに耳打ちした。口から心臓が飛び出そうになったジュンが上擦った声で答えると、彼女はくすくすと笑う。
「ジュンのマスコットには悪いけど、なかなか時間がとれなくて。学校行きながら週五バイトって結構ハードスケジュールでさ。下手したらアイドルやってた頃より忙しいかもね?」
「………………………………」
彼女にとっては何気ない言葉だったのかもしれない。けれどそれは、ジュンの胸にナイフのように深く突き刺さった。
「……今日の子、私がゲリラライブ用の資材を借りるのに名義を貸してくれた子の友達なんだって。私のせいで一緒に卒業できなくなったって怒ってた」
「けど、……それは、あんたが無理に強要したわけじゃねぇでしょう?」
「うん、まあね。同意は得てたと思うよ。でも、当時の私ってそれなりに影響力持ってた側だし。そんな人間からの“お願い”って、本当に強要じゃないって言えるのかな……?」
「……」
「もうすぐ退学するから別にいいって言ってたのも、もしかしたら本当に嘘で、」
「考えたってキリがないでしょう。オレたちは全部の真実を知れる神様じゃないんです。……それは、あんたを傷つけるだけですよ」
茜の言う女子生徒が何を考えていたかなんて、茜やジュンには何も分からない。分からないものを探し求めるなんて、砂漠から存在すら怪しい砂金を探すようなものだ。
そして、それが行き着く先をジュンは知っている。与えられる言葉に毒は入っていないか。差し伸べられる手に棘は仕込まれていないか。やがて何も信じられなくなって、疲弊し、擦り切れる。精神がブチブチと音を立てて千切れていく。――そんなものは、ジュンが耐えられない。
「……私さ。私のこと恨んでる人がいるっていうのは頭では分かってたんだけど、引退してから実際に会うのは初めてだったの。きっと巴さんとか佐賀美先生とか、いろんな人が頑張ってくれてたんだね。無関心は身を滅ぼすって本当かも」
「なんすかそれ。茨が言いそうではありますけど」
「たしかに茨が言いそう。でも、言われたのはもっと厄介な人」
「厄介な? ……もしかして、今日の…………」
「ううん、あの子じゃないよ。私の……育った施設の、院長先生」
児童養護施設出身だという彼女の保護者にあたる女性。彼女が詳細を語りたがらないためその人柄は不明だが、施設を飛び出して家を転々とするほどなのでおおよその察しはつく。きっと茜の体に流れる呪の原点が彼女なのだろう――ジュンにとっての父親のように。
それをぽろりと口に出しているということは、起きてはいるものの案外眠りに落ちる直前なのかもしれない。
「ジュンのマスコット……いつか、ちゃんと直すから。部屋も綺麗にするし、茨と喧嘩しないし、……もっと、上手くやるから……」
「……」
「きらいにならないでね……」
縋るように、あるいは祈るように、茜はジュンの服の袖を握った。
「茜?」とジュンが呼びかけても返事はない。しばらくするとすやすやと寝息が聞こえてきた。どうやら今度こそ完全に眠りの世界に行ってしまったようだ。
「……なれるもんなら、苦労はしねぇんすよ…………」
この持て余すしかない感情を簡単に手放すことができたのなら、もっと単純に生きられただろうに。
あんたって人は。
本当に、何もわかっちゃいねぇんだから。