件の水無月事情
6月。梅雨入りした頃、矢三郎は高額な報酬に釣られて京都市動物園の檻の中にいた。
慰安旅行に出掛ける岡崎の狸たちからの依頼で"動物園の狸役"を引き受けたのである。
「矢三郎はしっかりやれているかしら」
出町柳駅から京阪本線に揺られながら、宝塚風の姿に化けた母が心配そうにそう呟いた。
流れて行く京都の景色をボウっと眺めていた桃玄はその呟きを聞くと「大丈夫ですよ」と笑った。
「だって矢三郎ですよ」
「けれど、檻の中に何日も放り込まれるだなんて…。考えるだけでヒヤヒヤしちゃう」
言うと、母は常に自信満々そうな宝塚風の美青年とは縁遠い表情を浮かべた。
狸というものは檻に入ることを大変恐れる。
檻に放り込まれてしまうと自由を奪われ、得意とする化け術が発揮できない為だ。
しかし京都市動物園の狸役を常に交代制で務める岡崎の狸たちは、その点に置いてプロフェッショナルを極めている。
桃玄以外の下鴨家の狸たちは昨年の偽右衛門選挙騒動で体験している為、母はそれを思い出してしまった様であった。
「それにしても、檻に放り込まれる不快感を知っているというのに矢三郎もよく仕事を受けましたよね」
「そうねぇ。ただ、タケノコ探しよりかは幾分マシと思うけれどもね」
興味が無いが過ぎる為、母は未だにツチノコの名前があやふやである。桃玄が「ツチノコですね」と補足すると母は「どっちでも良いのよ」と至極平然と返した。
母からするとそうだろう、と桃玄は思った。
そうしている間に下車する予定の清水五条駅に到着した。
母と桃玄。連れ立って態々電車に乗っている二匹の目的地は、矢二郎のいる六道珍皇寺である。
「兄さん、来ましたよ」
「やぁ桃玄。母上も」
桃玄の放浪癖で時間を喰った為、二匹が六道珍皇寺に到着したのは夕方にかかる前であった。
井戸の縁に両手を付いて身を乗り出し、底にいるであろう矢二郎に桃玄が声を掛けると返事が返って来た。
「どうしたんだい?母上と来るなんて珍しいな」
「兄さんに頼み事があるんです。と言っても母上からですが」
「母上が俺に頼み事だって?」
昨年の偽右衛門選挙の一件から矢二郎と母も良好な関係に戻っている。
母も時折矢二郎に会いにこの六道珍皇寺へ足を運んでいるそうな。
桃玄の言葉を聞くと、井戸の底から「母上からのご用命、俺で良ければ預かりましょう」と矢二郎が返事をした。
「矢二郎、ありがとう」
母からの矢二郎への頼み事というのは、京都市動物園へ派遣に出た矢三郎に関連する物である。
檻の中に何日も放り込まれては矢三郎でも不安で可笑しくなってしまうかもしれないので、矢二郎も一緒に付き合って欲しい、というもの。
矢二郎は「お安いご用意ですよ」と二つ返事で了承した。
▪︎
ふらふらと歩き回る桃玄と、矢二郎を肩に乗せた母が京都市動物園へ到着したのは閉館直前の夕刻であった。
真っ直ぐ狸のコーナーへ向かうと、ボケェと通り過ぎる人間を観察している矢三郎がいた。彼は案外疲れている様子だった。
流石の矢三郎も一日中檻の中から出られず、更には人間に四六時中見学されれば疲れるのだろう。
「いい狸ぶりですね、矢三郎」
檻の前へ辿り着くと、此方に視線を向ける矢三郎に開口一番桃玄がそう言った。流石に喋るべきではないと判断したのか口は開かなかったが彼は「姉さんは来ると思ったぜ」という呆れた様な顔をした。
「桃玄ったら。私たちは面白がりに来たわけじゃないのよ」
「私は面白がりに来たんですよ」
「全くもう」
そんなやり取りを二匹がしている間に、母の肩に乗っていた矢二郎がピョンと飛び跳ねてその後モゾモゾと矢三郎のいる檻の中に入って行った。
その様子を伺っていた矢三郎が不思議そうな表情を母に向けると、彼女は言った。
「矢二郎と一緒なら淋しくないでしょう」
というわけで、下鴨矢三郎派遣二日目からは頭に蛙を乗せた狸が京都市動物園の目玉となった。
▪︎
矢一郎が取り組む狸将棋大会の準備は滞りなく進み、6月中旬には予選が行われていた。
言わずもがな桃玄は将棋には微塵も興味が無い為、見事に予選敗退し不貞腐れた金閣銀閣の愚痴を聞くのみであった。
「全く。何を不貞腐れてるんですか、子供じゃあるまいし」
偽電気ブラン工場で矢四郎の業務終了を待ちながら桃玄は二匹の不満をひたすらに受け流していた。
普段なら矢四郎の業務もそろそろ終わる頃なのだが、下鴨家の末っ子はムシの居所が悪いこの阿呆双子に八つ当たりされている様である。痺れを切らした桃玄は矢四郎の為に苦言を呈したところだ。
「「だって!」」と口を揃えて文句を継続しようとする金閣銀閣へいつもより鋭い眼差しを向けると、彼らは漸く押し黙った。
「いい大人が将棋大会の予選に負けた腹いせに坊やへ八つ当たりして。恥ずかしく無いんですか?」
「桃玄は将棋に興味が無いからだよ!」
「そうだよ!だから僕らのこの悔しさがわからないんだ!」
「不貞腐れるのは勝手ですがね、うちの矢四郎に当たられては困りますよ。貴方たち全く英国紳士じゃないですね」
棘のある桃玄の言葉に二匹は「「ウッ!」」と一斉に自身の胸を押さえた。
金閣と銀閣はあの天狗の決戦以来二代目に付き纏っており、彼に英国紳士のなんたるかを指導して貰っているらしい。
その為二匹はここ最近不気味な程紳士ぶりを発揮していたのだが、将棋大会の予選に敗退した事により過去の意地の悪い狸に逆戻りしてしまった様だ。
桃玄に指摘を受けた金閣は「ぐぬぬぬ」と暫く悔しそうに唸っていたが、観念したのか溜め込んだ空気を思いっきり吐き出した。
「わかったよ!僕らは英国紳士だからね!」
言うと「早く連れて帰りなよ!」とぷりぷりしているのをなんとか隠そうとそう続け、背を向けて歩いて行ってしまった金閣。と、その後ろにピッタリくっ付いて同じ様に歩いて行った銀閣。
二匹の背中を見届けると「本当に阿呆だな」と桃玄は無意識にクスリと笑ってしまった。
「矢四郎、帰りますよ」
「あれぇ?もう帰っていいの?」
段ボールをひたすら運んでいた矢四郎に近寄り桃玄が声を掛けると、彼は不思議そうな顔をする。
「やい矢四郎!なに帰ろうとしてるんだ!まだまだやる事がたっくさんあるんだから!」と金閣、そして「桃玄が迎えに来たからって終わりじゃないよ!」と銀閣から数十分前にかっかかっかと怒鳴られていた為だ。
「英国紳士らしく時間通りに帰してくれるそうですよ」
「金閣銀閣は英国紳士になれるの?」
ここ最近は耳にタコが出来る程「僕らは英国紳士だから」と口にする金閣銀閣。
その"英国紳士"を茶化す様に言った桃玄に、矢四郎は純粋な疑問を投げ掛けた。
「見込みは無さそうですねぇ」
そう返事する姉の表情は一見無表情であるが、何処か楽しそうだった為矢四郎は複雑な感情を抱いた。
2026 08.19