末っ子狸の疑念
桃玄が茶封筒を手渡すと、母は受け取ったそれを両手でぎゅっと抱き締める仕草をした。「ありがたいありがたい」と小さく口に溢すと母は彼女に再度感謝をした。
「桃玄、いつもありがとうね」
「いいえ、ご縁があって、尚且つ気が向いただけですから」
「それでもだよ。今日は何処で働いて来たんだい?」
矢三郎も人間と関わりを持つ事が多いが、桃玄はそれ以上に沢山の人間と関わっている。
そのお陰で、彼女は気が向くと人間に紹介された仕事場でフラッとバイトをして家計を支えるのだ。父が亡くなる前は朱硝子も手伝ったりしていたが、最近ではもっぱら人間から紹介された場所でバイトをしている。
ちなみに前回は下鴨神社近辺の喫茶店で働いたと言う。
「今日は四条通りのお土産屋です。藤井さんという方の紹介で」
「本当に桃玄は色んな人間と関わっているのだね」
小さな毛玉の頃から桃玄はよく洛中を歩き回っていた。その際に人間と沢山の関わりを持って来て、それを経て今に至る訳だ。友人もいれば仕事を回してくれる人間もいる。
そんなこんなを続けた結果、桃玄は狸界の中で"人間かぶれ"と呼ばれていた。
「けれども、全員を信じてはいけないよ?人間というのは天狗や狐よりも陰険でタチが悪いのだから」
「はい。しかし関わってみると、人間も狸と殆ど変わらないと感じますよ、私は」
「全く、矢三郎も桃玄も私は心配よ。貴女の好きにしたら良いとは思うけれど、程々になさいね」
母もその昔人間に救われた事がある過去を待つ為、心配はするも桃玄の人間好きにはとやかく言うつもりは無かった。母の言葉に短く返事をすると、桃玄は「そういえば」と話を変えた。
「矢四郎から電話は来ましたか?」
下鴨家の末っ子、矢四郎が修行の為に今朝から夷川家のニセ電気ブラン工場に働きに出たのだ。夷川家の狸たちと下鴨家の狸たちは昔から大変仲が悪く、特に夷川の金閣と銀閣は下鴨家の狸たちに必要に絡んで来ては意地悪をして来る。
故に、矢四郎は家族の中で特に弱っちくて小っこいので桃玄は心配していたのだ。
「昼過ぎに電話をして来たよ。金閣と銀閣に意地悪をされているんだー!って」
「そうでしょうね。本当にあの二匹は…」
はぁ、と深い溜め息を吐き出す桃玄。
ニセ電気ブランの工場は金閣と銀閣が総括していた筈なので、矢四郎はきっと朝から阿呆染みた意地悪を受けていたのだろう。
両眉を八の字に下げた母が桃玄を呼んだ。
「仕事終わりで疲れているだろうけど、夷川発電所へ矢四郎を迎えに行ってやってくれないかい?貴方が行けばすぐに帰してくれるだろうから」
「わかりました。矢四郎の助太刀に参りましょう」
▪︎
下鴨家と夷川家の因縁は、桃玄たちの父・下鴨総一郎の弟が夷川家に婿入りしてからより一層強まった。下鴨総二郎は本来下鴨家と夷川家の仲を取り持つ為に婿入りした筈なのだが、彼は総一郎を毛嫌いしていたそうな。
そうしてその後総二郎は早雲と名前を変え、自分の子供たちと一緒に下鴨家を目の敵にして見掛ければ嫌味を言って意地悪をする。
というのが現在までの下鴨家と夷川家の関係性であるが、金閣の桃玄への対応は他の狸への物とは少し違っていた。
「こんにちは、ウチの末っ子は何処ですか?」
夷川発電所、兼ニセ電気ブラン工場、兼夷川邸の門をトントン叩き開けて貰った桃玄の第一声である。
門を開けた夷川親衛隊たちは、ひょっとこ顔をぴょこぴょこ動かしながら同時に工場の建物を指差した。
小さな感謝を告げてニセ電気ブラン工場への扉をギィと開くとそこから身体を滑り込ませた桃玄。辺りはガコンガコンといった機械が動く音が響いていた為に彼女は少し大きめな声で金閣たちを呼んだ。
「金閣銀閣、矢四郎を迎えに来ましたよ」
するとニセ電気ブラン!とロゴが書いてある段ボールの山から矢四郎がぴょっこりと顔を出した後、見るからに安堵の表情を浮かべた。
「姉ちゃん、来てくれたんだ」
「矢四郎、沢山意地悪をされた顔をしてますね」
両手で抱えていた段ボールを地面に一旦置くと矢四郎は桃玄の胸に飛び込んで来たので精一杯受け止める。
どうやら朝から大いに嫌がらせを受けた様だ。
「そうなんだ。姉ちゃん、金閣と銀閣は朝から僕を苛めるんだ」
「矢四郎は沢山頑張ったんですね。それで、その意地悪な金閣銀閣は何処にいますか?」
矢四郎の頭をぽんぽん撫でる様に叩いてやっていると、似た様な姿に化けた阿呆の双子が工場の奥から現れた。
「全く酷い言われようだよ。修行したいって言うから働かせてやってるっていうのに。狂言綺語だね」
「凄いぞ兄さん、また難しい言葉を知っている」
「それはそうさ。だって僕は聡明な狸だからね」
この二匹のこういった本気の茶番は昔からお馴染みなので、呆れた様子の矢四郎にも触れずに桃玄はさっさと挨拶をする事にした。
「金閣銀閣、こんにちは」
「やぁ桃玄」
「こんにちは、桃玄」
「もしかして、君はこの小っこい弟を迎えに来たの?」
「はい。まだ掛かりそうですか?」
「うーん。まぁ、その置きっ放しの箱を片付けたら今日はもう終わりでいいよ」
「え?」と矢四郎が不思議そうに声を漏らした。
何故ならまだまだ仕事があるのにうんたらかんたら、と先程まで金閣銀閣にウダウダ意地の悪い指摘をされていたからだ。
桃玄の横で三匹の顔を交互に見比べていると、彼女に促されて今し方地面に置いた段ボールを再び抱えて作業を再開させた矢四郎。
帰れるのなら万々歳である。しかし引っ掛かる物があった矢四郎は、トボトボ歩きながらも三匹の小さな会話を視界に入れるのであった。
▪︎
「姉ちゃん」
糺ノ森への帰り道。秋月橋を渡り切って住宅街をカランカラン歩く桃玄の背中へ矢四郎が声を掛けた。
ふいっと振り返った桃玄は、怪訝な面持ちで立ち止まる矢四郎へ問い掛けた。
「どうしました?そんな顔をして」
「金閣銀閣はどおして姉ちゃんには意地悪をしないんだろう?」
矢四郎は不思議で不思議で堪らなかった。
工場を出た後歩きながら色々と考えてみたが、彼には全くその理由が思い付かなかったのだ。
桃玄は少し考えた後、ふわっとした言葉を返した。
「阿呆だからでは?」
「僕は納得がいかない。兄ちゃんも言っていたよ、金閣は姉さんに邪な気持ちがあるのだよって」
「矢四郎、そんな矢三郎みたいに不埒な言葉を使ってはいけないですよ」
矢三郎の真似をしながら発した言葉で怒られた矢四郎は「ごめんなさい」とすぐに謝罪した。
金閣銀閣だけでなく夷川親衛隊すらも桃玄には目立った意地悪をしないのだから、そりゃあもう矢三郎や矢四郎も疑問を抱くだろう。
もちろん当の桃玄であっても疑問でしかないのだが。
「金閣銀閣の思考なんて私にはわからないですが、」
カランカランと歩きながら、且つ言葉を選びながら桃玄は続けた。
「意地悪をされないのなら、私が間を取り持って良い関係を築いていけばいいんですよ」
そう言って桃玄が微笑むと矢四郎は少し驚いて立ち止まってしまった。彼女は感情の起伏が激しくない為、表情を動かすのを得意としないからだ。
そんな姉が表情を変える程思うところがあるのだろう。矢四郎は「うん」と頷くと桃玄へ駆け寄る。
「姉ちゃんのお陰ですぐに帰して貰えたもんね」
「はい。それに、夷川には海星もいますしね」
金閣銀閣の妹の夷川海星は、下鴨家にとても親切にしてくれる夷川家の末っ子である。
桃玄と海星がいれば、この親戚同士での啀み合いはいずれ終止符を打つだろう。可能性は限りなく低いが。
………
2025 10.10