drei
「おい、起きろ黒羽。雨が酷くなりそうだから俺帰るわ」
新一がどこか遠いところ、マンションの壁を1枚間に挟んだ場所からそう言っているような感覚。意識が薄くぼんやりとしていて、快斗は自分が眠れたことに驚いた。頭の中もすっきりしていて、細く細く開いた視界も何だかクリアに見える。
「…泊まってけば?」
体を起こすと、どこから探し当ててきたのかブランケットが1枚肩から落ちた。クリーム色のブランケットを脇に寄せて、ぐっ、と背を伸ばして腕を回すとパキパキと小気味よい音がする。
テーブルの上の空き缶を片付けながら、窓の外を眺める新一にそう提案したらきょとんとした顔をして、それから眉を少し下げた。あっ今の顔、名探偵みたいだった。その幼い感じ、懐かしいな。
「わりーな、じゃあ1晩世話になる」
「いーよ、腹減ってない?なんか食う?」
「いや、大丈夫だ。起こして悪かったな、まだ暗いし寝とけ」
ふわふわと霞みがかったような、そんなまどろみに身を委ねてもういちどソファに沈む。瞼を撫でる新一の手はもう冷たくなくて、ちゃんと人肌のぬくもりがあった。
よく眠れそう、そんな予感に快斗は駆け足で夢の世界へ駆け込んだ。目が覚めたとき覚えていないとしても、夢の中でなら新一に言える言葉がある。
ほんの少しの安らぎを切望して、離れていく体温をひきとめた。夢の中でぐらい、好きにしてもいいじゃん。
「…終わりにしてやれなくて、ごめんな」
唇に掠めるように押しつけられた人肌は、眠る快斗をそれはそれは愛おしそうに。
横殴りの雨が窓ガラスを叩いて、開けろと催促してくる。台風の影響かはたまたただの梅雨の影響か。
ひどい雨は夜の間も続いていたようで、灰色の景色が窓枠に切りとられて飾られていた。
何だかぼんやりとした気分のまま目を開くと、薄ら寒い中でテレビもつけずにぽつんと1人、アルコールを呷る新一がいた。新一の周りに雑多に転がる空き缶の数は、もしかしてずっと1人で飲んでいたのか。
「工藤、飲みすぎだって。今水持ってきてやるからこれは没収な」
快斗が起き上がって新一の手から梅酒の缶を取り上げると、そこでようやく新一が顔を上げた。とろりと潤んで熱っぽく眇られた瞳が快斗を捕まえて、絡みつくように離れない。
相当酔いがまわってるな、と思わず視線を逸らして台所へ爪先を向けたのに、その努力も虚しく酔っ払いが快斗に絡む。
新一に掴まれた手首がじっとりとした欲を纏い始めて、慌てて距離を置こうとしたのに、とうの酔っ払い本人が逃がさないとさらに手のひらに力を込めた。
「……な、快斗」
黒羽、と呼ぶ声よりも低い音が快斗の理性を揺らす。ただ単にいつもより低いだけならたかが声にここまで動揺したりしない。
だけど今の新一の声には明らかに獲物を見つけたとこちらを伺う蠱惑的な情欲がある。鎖で雁字搦めにして沈めたはずの心臓を鷲掴みにされたように、快斗の脈拍が段々と苦しげに速度を上げる。
やめてくれよ名探偵。
そんなことされたら、俺は。
手を振り払おうとした快斗の動きを予測してか、先手を取った新一が力任せに掴んだ手首を引っ張った。うわ、と漏らした声に新一が不機嫌に眉根を寄せて、こんな状況じゃなければ素直に謝っていたところなのに。
「ん、む」
がち、と歯と歯がぶつかって痛かったのも数瞬の間だけ。控えめに上唇をやわやわと食んで、端をなぞるように舐められた。
むせかえるように濃いアルコールの匂いがこんなにも近い。
ぞわりと素肌を這う欲と、酔っ払いの戯言に本気になるなと警告してくる自制心が戦っている。
頑なに口を開かない快斗をどう思ったのか知らないが、やがて新一はくたりと体の力を抜いてもたれかかってきた。顔を見えないが、どうやら寝落ちたらしく意識はないようだ。
まったく、本当に…
「勘弁してくれよ…」
暴いてしまいたくなる。
女々しいなぁと思うけれど、もう快斗は大丈夫な気さえする。だって酔っ払いとはいえ新一からちゅーされた。ちゅうされた!
ソファに座る快斗の肩に頭を乗せて眠っている新一が目を覚ました時、覚えていたら酔っ払ってたんだからノーカンだろ?と笑い飛ばして、覚えていなかったら何も言わないでそっと口を閉じる。吐く言葉なんてない。
思い出にしてしまおう、ようやく決心がついた。
幼馴染みの蘭ちゃんと一緒に出かけているのもよく見るし、大学内ではお似合いのカップルだともっぱらの評判。
密かに見守って、ピンチの時にはさりげなく手を貸して。俺の本心になんて一生気付かないでいて。
軋んだ音をたてて壊れていく淡い色をした恋心が名残惜しくなって、快斗はそぉっと延命措置を施した。
良き友人関係のまま大学を卒業したら、そうしたら外国へ行こう。マジシャンとしての活動の拠点を外国へ置いてしまえば、家からも出られる。
もっと早く、母さんとも距離を置くべきだったんだ。
どうか、元気でいてほしい。病気なんてしないでくれ。怪我はもう何度言っても仕方ないのかもしれないけど、それでも怪我なんてしてほしくない。
どうかどうか、俺以外の誰かと幸せになってほしい。
快斗はきっと、これから出会う人に新一を重ねては1人で落胆してそんな自分が大嫌いになって自己嫌悪して、ふらふらっと煙草だけ持って出かけるんだろうけど。
煙草が美味いとは思わないけど、たゆたう白煙が空に食べられていくのを眺めるのが好きだからシガレットケースを持ち歩く。今何してるんだろう?危ない目にあっていないだろうか、ちゃんとご飯は食べてる?電話して声が聞きたくなって声を聞いたら会いたくなって、そんな資格を取得していないことを自覚させられて悲しくなることの繰り返し。
さて、そうと決めてしまったら趣向を変えて過ごしましょう。
新一が望むなら快斗は伏兵になって布石になる。だけど報われないと分かっているから、1歩さがったところから新一と蘭ちゃんの幸せを願ってます。
幼い頃、快斗が願う前に散っていった願いのようなことにならないようにと全力を尽くす。
「…1回じゃ」
足りないなんて知らなかった。
※※※※
酒は飲んでも飲まれるな、とは先人達の残した言葉の中でも的を得ている。目が覚めた新一は2日酔いの症状に悩まされて、そして快斗に口付けたことなど覚えていなかった。曖昧で朧気な記憶をどうか思い出さないでほしい。
思い出したらきっと、罪悪感なんて的外れものを抱えてしまうだろうし。
そうやって、だらだらと1日が過ぎて、1週間が過ぎて、1ヶ月が過ぎて。
大学1年生としての生活もあと少しとまで迫った頃、いつものように快斗が暮らしているマンションに入り浸ってはコーヒー片手に読書に耽っている新一が、珍しく本を開いていなかった。傍らに閉じられた本はアガサ・クリスティのオリエント急行殺人事件だろうか。
有名どころだが、なかなか味わい深くて読み返すのには最適だ。
目が疲れたのだろうか、活字中毒かと思うくらい読書好きな新一が。蒸しタオルでも持ってきてやろう、そう思って快斗はソファから立ち上がった。
嗚呼、今行ってしまってはいけないとソファのスプリングが快斗を引き止めるように静止の声をあげる。ギシ、という音に反応した新一が顔を上げて、快斗を見た。
「昨日、蘭から逆プロポーズされてさ」
唐突な告白だが、快斗は思ったよりも自分が傷ついていなくてほっとした。約1ヶ月という空白の時間は、どうやら延命措置を施した恋心を殺すのに十分な時間だったらしい。
バイバイと諸手を挙げて決別を歓迎した恋心と、レモンイエローのストラップが恨みがましく快斗を睨む。
「マジで!?おめでとう!やっべ、何かお祝いしねーとな!!」
大丈夫、笑える、祝福できる。
良かった、本当に良かった、これで名探偵は幸せだ!
今までたくさん苦労してきた分、新一は幸せになるべきなんだ。
バタバタと台所に走り、冷蔵庫の中になにか無かったかと探す。ちょうどいい、珍しくて綺麗だったからと買った洋酒のボトルを開けよう。
米花デパートにちょっとした買い物に行った時に一目惚れした酒で、アルコール度数は高くないが食用の花びらで着色された淡白な色が好きだった。グラスを2つ、指と指のあいだに挟んで器用に持ち上げる。椅子に座ったまま、少しも体制を変えずにこちらを見ていた新一が、にこにことまっすぐに笑う快斗を見てくしゃくしゃっと顔を歪めた。
「、かいと」
グラスをテーブルに置いて、さあボトルを開けようと手をかけた快斗のワイシャツ、ワイシャツに新一が手をかけた。
――――かしゃん、と。
薄く薄く引き伸ばされたガラスで作られたボトルが、フローリングに落ちてあっけなく割れた。
もったいない、透明なガラスに守られて漂っていたのは、とても小さな花だった。茎へ向かうにつれて雪のように白く、そして裂けている。ランドセル色のルージュを溶かしたような、宝石にだって見劣りしない透明な赤を着た液体からほんのりと酒精の匂いがして、くらりくらんと快斗はめまいがした。
はくはく、と新一がなにか言おうとして、でも言えなくて、苦しそうに歯を食いしばった。おめでたいことなのに、どうしてそんな苦しげに快斗に縋るんだろう。
死んで腐り落ちたはずの心臓の欠片が、どくりと生々しい音をたてて動いたような気がした。
「俺はずっと、快斗が」
眉根を寄せて、あおいめに精一杯の熱と水分を溜め込んだ新一が何かをいうよりも早く快斗が動く。
よりにもよって気付かなければいいことばかりに毎度毎度気付いて痛い目に遭うから、もう何にも気づかなくて済むように、見ないふり知らないふりをしていたのに。
願って、報われなかったら悲しいだけだから願うことさえやめたのに。
割れたガラスを踏んずけて、新一との僅かな距離を詰めてその腰をかき抱く。見た感じだけでも細いのに、実際に触れてみたら見た目よりも細く感じられて、強い力で引き寄せていた快斗は僅かに力を緩めた。
新一がうわ、と漏らした声が耳元で聞こえる。
「…俺のこと、好きでいてくれたの?」
新一をかたく拘束して、掠れた声で尋ねたら、快斗の肩に顔を埋めていた新一がほんの少し身じろぎした。喉が震えて引き攣りそう、そんな沈黙の中で、大人しく快斗に捕獲されていた新一は喋らなかった。
新一の肩をつかんで優しく引き剥がしても、その顔は俯いたままで表情を見ることもできない。
「俺、誰にでもこういうこと言うわけじゃないし、思ってもないこと適当に言ったりしないよ」
俯いている新一の耳がうっすら色付いているのを横目に、快斗は泣いてしまいそうでぐっと目尻に力を込めた。
ここで気付かないでいたら、快斗は延々後悔すると悟っていた。
「こっち見て、ちゃんと言ってくれなきゃ分かんねーよ」
頬をつるりと撫でたら、ビクッと肩が跳ねた。
そうやってようやく口を開けた新一が紡いだ言葉は、粗く削られただけのたどたどしいまでの恋情。言ってしまった、だけど期待してもいいのかとこちらを見てくる姿はなんとも言えない。だけど今までで1番、快斗は幸せすぎて死んでしまうんじゃないかと思った。
報われないと思っていたから、ずっとずーっと見ないふり知らないふりを貫いていた想いが、殺した重りが、息を吹き返した。
「愛してんぜ、名探偵」
もうすでに顔をツンとそらしてぼろぼろ泣いていた新一が、快斗の泣き笑いのような表情を見てうそだ、と呟く。
もっとお互い、素直になればよかったのにわざわざ遠回りをしてなんてまどろっこしい。
最初から最後まで、怪盗紳士と名探偵との間に間違いなんて無かったのに。