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ファントムハイヴ伯爵の屋敷からそう遠くない、森。その、深い深い場所に、それはあった。
古びた墓石を前に、黒猫は上機嫌に尻尾を揺らした。植物の蔓がまきつき、今にも朽ち果ててしまいそうな、お墓。
「こんなところに墓があるとはな…」
「えぇ、私も気付きませんでした」
聞こえて来た声に、黒猫は驚くこともなく、首だけで後ろを振り返った。
「この墓はお前の契約者の墓か?」
少年はきっと、黒猫は契約により、この場所にいるのだ、と思っているんだろう。
残念ながら、はずれだ。
否定の意味を伝えようと、2回、ぱちぱちとゆっくり、瞬きすれば、そうか、違うのか、と少年は正しく意味を汲み取ってくれた。
『わたしの、はんりょが、ねむっている』
ああ、きっと今、少年は弾かれたように黒猫を見て、そして自分の執事を見たのだろう。
たった一言、けれど確実に黒猫から放たれた言葉は、少年と執事を驚かせるのにじゅうぶんだったようだ。
今まで、言葉を発しなかった黒猫の声は、透明であった。鈴を転がしたような愛らしい声でもなく、ピアノが紡ぐような落ち着いたトーンの声でもなく、透明で、何の意思も感じられない、声。
「何年、ここにいるのですか」
執事と少年が顔を見合わせて、黒猫に問うてみる。ぱちぱちぱち、と3回、黒猫が瞬いた。
「3年……30年?」
ぱちぱち、と否定。
「300年、か」
瞬きすらせず、無言で、少年の言葉を肯定する。少年が息をのむ向こうで、執事が嘲るように、息をはいた。
「悪魔である私たちにはその程度の時間など取るに足りません。ですが、あなたはなぜその怠惰な時間をここで過ごしているのですか?人間と契約し、そして報酬として魂を食らう、それが私たち悪魔でしょう?」
執事の言葉に、呆れたような侮蔑の色が浮かんでいて、少年が不愉快そうに目を眇める。
黒猫をはっきりと侮辱したのにもかかわらず、とうの黒猫は、どこか、人間じみた表情をしてみせた。
口角を上げ、お墓の周りにちらほらと咲く、紫と、白の花を愛しげに見つめ、やがて執事を見据えた。
赤い眼は、執事をしかと捉えて、そうやって、哀れんでいた。
透明な声が、また脳を揺らしたような。少年と執事が、それぞれ瞬くそのほんの僅かな隙に、黒猫はぱくり、と1つの花を飲み込んだ。
たしりたしりとお墓の前に、お行儀よく座り込み、愛おしむように墓石を眺め、そしてくるりと丸くなる。
「なるほど…ライラックの花、ですね」
「どういうことだ、セバスチャン」
黒猫の行動に、ようやく合点がいった、というふうに、執事が納得する。主人である少年から説明しろ、と視線で命令されて、くすりと笑って口を開いた。
「古くからライラックの花には言い伝えがあるのです。通常、ライラックのはなびらは4枚ですが、まれに、ごくまれに、5枚に裂けているものがあるのです。その花を見つけたことを誰にも言わず飲み込むと、愛する人と永遠に過ごせるという、そんな絵空事ですよ」
鼻で笑うような、そんな声音に、少年は丸くなった黒猫の背を、撫ぜる。
温度の感じられないそれに、興味を失ったように、少年がくるりと踵を返す。
「命令だセバスチャン。こちらのご夫婦に、花束を」
「イエス、マイロード」
さくさくと青葉色の草むらを踏みしめて、少年と執事が去っていく。
そうして訪れた静寂の中、きっと黒猫は、幸せなのだろう。
翌日、古びた墓石と、その墓石とともに眠る黒猫を埋め尽くす勢いで、たくさんのライラックの花束が、ファントムハイヴ伯爵から届いた。
それを届けた悪魔は、はたして、どんなかおをしていたのだろう。