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「歓迎致しますよ、レディ」
執事の案内の元、猫がたどり着いたのはおそらく書斎。たくさんの本に囲まれた部屋の最奥で、執事に何かを耳打ちされた少年が、友好的な笑みを浮かべる。
それに対して、礼を言うかのように一礼してみせた黒猫に、少年がまたもふわりと、わらう。
「素敵な手土産までいただいてしまって申しわけない。セバスチャン、丁重におもてなししろ」
「御意に」
こちらへどうぞ、と執事に促される。おそらく、客間にでも通されるのだろうか。書斎を出る際に、もう1度、少年に頭を下げてから、執事のあとを追う。
柔和な、人懐っこそうな笑みを浮かべていた少年が、黒猫が退出したとたんに、その口元を引きつらせていたのを、きっと、黒猫は知っている。
「こちらの部屋を自由にお使いください。私は昼食の準備がありますのでこれで失礼致しますが、なにかご用の際はどうぞお気軽にお申し付けください」
それでは、失礼いたします。
きっちりと一礼して、部屋を出ていった執事は、黒猫を案の定、きらびやかな客間へと案内した。
豪奢な部屋は、伯爵家にふさわしい内装で、どれをとっても一級品ばかりだ。その手の者がみれば、卒倒するような、高価なものばかりだ。
「にゃうん」
客間の内装をぐるりと、観察し終わった黒猫が、たしりたしりと、殊更優雅に扉に歩み寄り、そしてするりと部屋を抜け出す。この部屋を自由に使っていい、とは言われたが、部屋を出てはいけない、なんて、黒猫は言われていないのだ。
長い廊下を進み、そしてひとつの部屋へと、するりと侵入する。その部屋は思ったとおり厨房のようだが、如何せん様子が、おかしい。
執事の姿はなく、かわりに厨房にたっている男は、あろうことかゴソゴソと火炎放射機をいじり、それを使って調理をしようとしているようだ。
ここにいては危ないような、そんな気がした。するりと音もなく部屋を抜け出し、また、ふらふらと歩き出す。
次に入ろうとした部屋では、何だかメイドが洗濯機にありえない量の洗剤を入れていて、泡だらけにはなりたくなかったので、はいらなかった。
もうだいぶ屋敷の中を見てまわったようで、そろそろ客間に戻っておこうとして、黒猫は進路を変更した。
さきほど窓からちらりと見えた、無残にも刈り取りつくされた庭など、見なかったことにした。突っ込んだら、負けな気がする。
客間に戻る途中、執事がものすごいスピードですべての仕事をこなしていて、このファントムハイヴ伯爵家は、色々とすごいな、と思った。
「……あなたは」
「なおん」
かたわらの手に、黒猫が持参したパイ菓子入りのバスケットを抱えた少年が、黒猫の姿を見るなり歩み寄ってきた。
特に思うこともなく少年を待っていれば、黒猫から2、3歩離れたところで足を止めた。
「もしお手隙なのでしたら、休憩に付き合ってはいただけませんか?」
猫を嫌っている伯爵からの、予想外のお誘い。断る理由もなく、返事を聞かずに歩き出した少年の後ろをたしりたしりとついていく。
たまにちらりと、ちゃんとついてきているのか確認されて、やはり手土産をガレット・デ・ロワにして正解だった、と尻尾を揺らした。
ほどなくして招かれた書斎で、黒猫用に、と用意された椅子にお行儀よく座り、横から少年を眺める。
ぱくりと、手掴みで、パイ菓子のひときれを頬張る伯爵の、なんと子供らしいことか。
表情にはでてこないものの、どうやら気に入ってくれたようで、黒猫も満足気に耳をひくりと動かす。
砂糖菓子の王冠に、齧り付こうかと迷っている瞳の、なんと愛らしいことか。
じっと見られていることに居心地が悪くなったのか、少年が口を開こうとする前、少年の言葉を待たずに、黒猫はひらりと椅子の上から身を踊らせた。
そして少年には目も呉れずに、たしりたしりと部屋を出ていく。
だって黒猫は、もう用事を済ませたのだ。
怪訝そうな顔をした少年を残し、黒猫は足音を消して、玄関の扉へとその足を進める。
しゅたりと、服と服とが擦れ合うような音をリボンが奏でて、扉は黒猫が外へ出るのを許した。
門を過ぎ去り、いつの間にかだいぶ高くまで登っていた太陽をまぶしそうに見つめ、霧の出てきた道をたしりたしりと歩んでいった。
ゆるやかな風が、霧を運んで黒猫の姿を隠し、そしていたずらにリボンをほどいた。
風が赤いリボンと戯れているその頃にはもう、黒猫は霧とともに消えてしまっていた。
「にゃおん」
気高く、しなる背の美しさよ。