一年夏


ジリジリと暑い夏だった。

 拭っても湧き出る汗に嫌気がさす。張り付いた前髪を拭ってため息をつく。高専の真っ黒な制服は日差しを丸ごと吸収して焼けるように熱をもつ。これじゃいつか丸焦げになる。夏は嫌いだった。

 腕を捲って気休め程度に肌をさらしながらふらふらと自販機の方へと足を向ける。適当に100円玉を2枚突っ込んで、入れた後に10円玉が複数枚集まって財布に厚みを作っていたことに気がついた。最悪だ、ついてない。しかしもはや10円玉をちまちまと数えることすら億劫だった。

 ぴ、とボタンを押して重たい音と共に水が落ちる。拾おうとしゃがみ込んで、それが最後決め手になった。

「あー…………」

 完全に脱水症状だ。重たい頭を抱えて蹲る。
 遮るところの何もない地面の真ん中で、真っ黒い服に一身に光を集めながら、私は顔を覆った。最悪だ、だから、夏は嫌いだ。

「大丈夫?」

 茹だる日差しの中、しゃがみ込んだ私の頭の上でやわらかい、低いとも高いとも取れない声がした。聞き覚えのない声だ。無理やり顔を上げて、指の隙間から空を見上げる。視界が揺れて、輪郭がぼやけていた。

「誰」
「夏油傑。覚えてる?東京校のきみと同じ一年生」
「ああ……」

 夏油傑、と言われて、ようやく彼の輪郭が形を持った。
 春先に顔合わせをした時に、変わった名前で目立つ見た目だったからよく覚えていた。そうでなくとも東京は3人しかいないのだから嫌でも覚える。
 わずかに頷いた私に、彼は同じようにしゃがみ込んで自販機に手を伸ばした。大きな手が水を掴み、そして反対の手が私の手を引き上げる。握らされたペットボトルの水滴が私の手首を降りて、地面にシミを作った。

「どうぞ」
「……ありがとう、助かる」
「どういたしまして。立てるかい?」

 肩貸すよ、と言って夏油は私の腕を引いた。
 ふらついた足でその体にありがたく甘えて寄りかかり、花壇のヘリに腰を下ろす。焦る手つきで開けたペットボトルを思いっきり飲み干した。

「あ〜〜〜〜〜死ぬかと思った………」

 ぼたぼたと顎を伝う水を手の甲で拭って、私はようやくはっきりした頭で空を仰ぐ。

「よかったよ、死んでるかと思った」
「ありがとう、おかげで生きてる、呪術師史上一番バカな死に方するところだった」
「はは、由布さんでも自然の前では無力なんだ」
「なにそれ?」
「いや、きみって怖いものなしなんだと思ってたから」

 首を傾げた私に、夏油は心底おかしそうにして軽く笑った。抜けるような声が蒸した空気にゆれる。

「由布さんほら、顔合わせでも他の人には全く興味ありませんみたいな顔してただろ。悟とそっくりだ」
「……五条悟?」
「うん。自分が強いこと以外、真実じゃないって顔してる」

 夏油はそう言って私の方をじっとみた。
 
 私はあの五条悟を、対等に悟と呼んで隣に並べるこの男がひどく気になった。きっとすごく強い、とも思う。実際に彼のことは呪霊操術を使うこと、一年にして特級に至る器を噂されていること、せいぜいその程度しか私は知らないが実際にみて強くそう思う。傷の刻まされた手の甲、目尻に少し浮かんだほつほつとした治りかけの僅かな火傷の跡、それらが全て、彼の強さを物語っている。

 ひしと目を離さずに合わせて捉えた私に、夏油が緩く目を細める。

「やっと私に興味持ってくれた?」
「あなたは私に興味あったの」
「そうだね、今すごく興味がある」
「どんな風に?」
「きみがどんな考え方をしていて、どんな過去を歩んできたのか、にかな」
「面接官かよ」

 思わずふ、と笑った私に、彼も同じようにして屈託なく笑い声を漏らす。

「由布さん、口悪いな」

 はは、と遠慮なく笑って、彼はそう言った。
 2005年、夏の盛りの真ん中のことである。その夏は茹だるような暑さと乾いた風の吹く、晴れ晴れとした夏だった。


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 茹だるような夏と乾いた風の吹く、鬱陶しい夏をすぎて、2ヶ月と少しが経つ。
 今年の夏の東京は過去最高気温を記録したらしい。昨年のこの時期も同じことを言っていたな、と思ったが、「今年は最高気温だったらしいよ」と悟に告げてやると、心底どうでも良さそうな顔をして「ニュースなんか見てんのかよ」と言われた。ぜったいに来年も伝えてやろうと思った。来夏も暑くなることを願う。

 今日の任務は比較的難しい内容ではないが、珍しく私たち3人だけに任されたものではなかった。夜蛾先生曰く、京都校から2人するらしい。二手に分かれて連携する。それが今日の課題だった。

 京都校、と聞いて浮かぶのは彼女のことだった。まるで自分以外何も正しくないと言う顔をして、至極何事も面倒くさそうにしている彼女の面持ちを思い出す。生き急ぐように飲み干されていくペットボトルの水が、ぼたぼたと彼女の顎から垂れて緩くあいた襟元に吸い込まれていく姿が、強烈にあの夏に焼き付いている。

「京都のやつ来たみたいだぜ」

 こつ、と悟が肘をついて目を汚した方向にいたのは、庵歌姫先輩と、由布ミナリ、彼女だった。

「げっ五条悟……」
「歌姫じゃん」
「先輩だ!」

 いつも通りのやり取りをする2人を横目に、私は数ヶ月ぶりに見る彼女の顔を見つめる。

「久しぶり、由布さん」
「……お久しぶり、デス、夏油さん」
 
 それはすごく妙に片言の敬語で、思わず私は吹き出した。

「きみ、どうしてそんな変な敬語なの」
「敬語下手です。……そんな笑うな…さい」
「笑わないでください、だろ」
「うわ、だる」

 げ、と言う顔をして由布が苦虫を潰したような声を出す。だる、だなんて口の悪い。これは面白いものを見たと思って彼女の背丈に合わせて腰を曲げると、すうと顔を逸らされる。

「歌姫さんに、怖いって言われました」
「顔が?」
「全部」
「はは、かわいそうに」

 伏した黒目がじいと睨む。

「夏油、さんは」
「傑で構わないよ、言いにくそうだし」
「いやです」
「いやとかあるんだ……」

 今度は面食らったのは私の方だ。少し考えて、私は続ける。

「なら私はミナリでもいいかな」
「いいですよ、好きにしてください」
「傑は?」
「いやです」
「なんで」

 なんだかでかい犬でも頑張って手懐けようとしている気分だ。まさか、そんな、自分の愛想のなさを指摘されて気にして健気に頑張るような柔い心の持ち主だとは思わなかった。ますます興味が湧いてくる。相変わらず白い喉を少し震わせて、彼女は下を向いた。たまらなく、その喉に噛みつきたくなる。可愛いものを潰してしまいたくなるような衝動に似ていた。私は彼女を、可愛いと思った。

「傑!ミナリ!早く行くぞ!」

 なーにやってんだよという悟の声に、私は今行くよと返して顔を上げる。意地になったようにさくさくと先を進むミナリの横顔は、すっかりいつもの何も自分以外正しくないと言う顔をしている。

 多分、そのときはからかいがあるとか、そう言う気持ちだったと思う。
 けれど、たまらなく気になった。隣を歩く親友の横顔を見ながらふと思う。私はもしかしたら、柔くて脆い唯我独尊が、そういう人が好きなのかもしれなかった。