ワードパレット/濃密・ちゃんと言って・視線
Voxtekエンタープライズの社長兼CEOの彼とは、所謂ビジネスパートナーであり、地獄一親しい友人でもあった。ひょんなことから出会って、話してみたら馬が合い、気づけば会社の設立時から幹部として働く現在に至るまでと、それなりの付き合いになる。
……そしてそんな中で、私たちはこれまたひょんなことから、たまに体を重ねる関係になった。最初に誘ってきたのは彼の方。あれは確か、次の事業についてああでもないこうでもないと、彼の部屋で夜中まで考えあぐねていたときのこと。
「あー! もう今日は無理! 解散!」
ベッドに大の字で飛び込み、目を閉じていると、ぎしり、ベッドがさらに沈み込む感覚がして。ふと目を開けてみれば、彼の顔が目と鼻の先にまで近づいていた。顔の横には彼の腕が、脚の横には彼の膝が立てられていて、身動きが取れない。何より、彼がこのような行動に出るとは思わず、驚きのあまり固まってしまっていた。
「……ヴォックス?」
「……」
声を絞り出し、なんとか彼に尋ねるものの、返事はない。一体、彼はどういうつもりなのか。この後、どうするつもりなのか。彼の真意を図るため、彼の顔を覗き込むと、口元に笑みはなく。少なくとも、ふざけているわけではなさそうだった。すると、次には彼の顔がどんどん近づいてきていることに気がつき、思わず瞠目した。
「え、ちょっと……!」
咄嗟に彼の口に掌を押し付ければ、彼はあろうことかその押し付けていた掌に軽く口付け、続いて指先、手首にもリップ音を鳴らしてきた。艶やかに細められた双眸と視線が重なった瞬間、ぞくりと背筋が粟立つ。
「……君は嫌か?」
やっと口を開いた彼が言い放ったのは、そんな言葉。やっぱりそういうつもりだったんだ、と目を見開きながらも、嫌かと言われると別にそんなこともない。特に深く考えず首を横に振ると、その日私は彼と初めて、キスもセックスもしてしまった。
……今思えば、私はなんて浅はかだったのだろうと、そのときの判断を後悔している。一度そういう仲になってしまえば、何もなかった頃に戻ることはできない。ずるずると、その関係は続いていく。もう子どもじゃないし、私だってそれはよく分かっていた。けれど、想定外のことが起きてしまったのだ。私が彼を恋愛的な目で見るようになってしまうなんていう、一大事が。
*
「そういえばさ、アンタとヴォックスって結局のところどうなの? やっぱ付き合ってるワケ?」
休日。私の部屋に訪れていたヴェルと、各々のスマホを見ながら寛いでいると、彼女が突然そんなことを尋ねてきた。どきり。思わずスマホから目を離して彼女を見れば、彼女の方もこちらに視線を向けてくる。
「……私たちって、傍から見るとそういう風に見える?」
「質問を質問で返さないで。アタシはそこハッキリさせたくて聞いてるんだけど。まぁでも、少なくともウチで働いてる社員たちは揃って"暗黙の了解"って認識なんじゃないかしら」
「そっか。……でも実際、ヴォックスと私は恋人じゃないんだよね。ただの友人だよ」
ばち
「あら意外。アンタってセフレとか作るタイプだったの」
「あ、そこまでバレちゃってたのか……今までそんなに意識したことなかったけど、そう言われるとそうなのかな。ヴォックスとの関係って」
ばち ばち
「ただヤるだけってんならセフレ以外に何があるっていうのよ?」
「……そうだよね。ヴォックスは私のこと、ただのビジネスパートナーとしてしか見てないだろうし……はぁ。こんな関係、本当は終わりにしたいんだけど……」
刹那。
電気が弾ける音とともに、眩しい閃光が迸る。次に瞬きした後には、目の前に彼が立っていた。ただし、ものすごい形相で。
「……ヴォックス? 私の部屋にはドアから入ってきてって何度も、きゃ!」
急に部屋へ来たかと思えば、彼は私を半ば乱暴にベッドへと突き飛ばした。すかさず私を組み敷いた彼は、私の手首を頭上で拘束すると、荒々しく唇を重ねてくる。あまりにも性急な彼の行動に動揺し、身を捩るけれど、彼は逃がさないと言わんばかりに口付けを深くしていくから適わない。ヴェルヴェットに助けを求めようと横を見れば、彼女の座っていた場所には既に誰もいなかった。
「……そんなに逃げたいのか?」
僅かに唇を離した彼が呟く。私がヴェルを探していたのを、逃げる気だと感じたようだった。
「……なぁ、さっきの君の言葉。あれは本気で言っているのか? セフレ? ビジネスパートナー? 終わりにしたいだと? ふざけるのも大概にしてくれないか!? 俺がいつも、どんな気持ちで君を……!!」
ぎりりと彼の拘束する手が強く締められて、痛みに顔が引き攣る。けれど、なぜか私よりも苦痛を感じているのは、彼のようだった。液晶に映っているのは、怒っているはずなのに、どこか悲哀を感じさせる彼の表情。ぐるぐると廻る彼の目は吊り上がっているのに、今にも涙が零れ落ちてきそうで。彼とは長い付き合いだと自負しているけれど、彼のこのような顔は見たことがなかったから、動揺を隠せなかった。しかし、ワンテンポ遅れて彼の放った言葉を咀嚼すると、私の頭は急速に冷静に働き始めた。一度深く息を吸い、吐き出し、彼に向き合う。
「……ヴォックスの言いたいことって、何?」
そして、努めて落ち着いた態度で、彼に問う。
「セフレでも、ビジネスパートナーでもないの? なら、私たちの関係って、なに? ヴォックスは、あの日どういうつもりで私を抱いたの?」
「……」
「……ねぇ、ちゃんと言って、ヴォックス。どんな気持ちでって、どういうこと? 私、ちゃんと言ってくれなきゃ、分からないよ……」
彼との間に流れる静寂を、こんなにも重苦しく感じるのは初めてだった。期待と不安に苛まれ、上手く息ができない。彼の瞳が、何かを迷うように揺れる。けれど、私が負けじと見つめ返し続ければ、徐々にそれは薄れてゆき。やがて彼はその瞳の奥に決意を宿すと、私を拘束する手をわずかに緩め、空いた手で私の頬に柔く触れた。
「……好きだ。君のことが、好きなんだ」
───────。
「初めて体を重ねた日よりもずっと前から、俺は君を一人の女性としてしか見ていなかった。君を友人として見ていたときなんて、ただの一度もない。君を惰性や慰み目的で抱いたことだって、一度もない。俺は君を、愛している」
求めてやまなかった言葉をもらったというのに、あまりにも刺激が強すぎて、すぐに飲み込むことができなかった。彼が、ヴォックスが、私の好きなひとが、私よりも前から私を好きだった? 地獄に落ちた私に、こんな幸せがあっていいのだろうか。
嬉しい、嬉しい。じわりと涙が滲み出す。でも、私も彼に負けないほど素直になれない天邪鬼だから。気持ちに反して、口先には既に、彼を批難する言葉が出かかってしまっていた。
「っ……なんで、そんな大事なこと……もっとはやく、言ってくれなかったの……?」
ああ、かわいくないな。それよりももっと伝えるべき言葉が、他にあるだろうに。しかし、彼は私の言葉に対して嫌な顔ひとつせず。零れ落ちそうな涙を、優しく指先で掬ってくれた。
「……すまなかった、本当に。俺は多分、君との関係が終わるのを恐れていたんだ。俺たちは"いい友人"として長いこと上手くやってきた。だが、もしも俺が君に思いを告げたことで、君が俺から離れていったら? 君が望んでいるのは友人の俺であって、恋人としての俺は求めていないかもしれない。……そう思ったら、怖くなった。君を失うことだけは、耐えられなかった。その均衡を揺るがすきっかけも、俺にあったというのにな。……臆病な俺を、どうか許してくれ」
確かに、あの日一線を越えて、私たちの関係を変えたのは彼だ。けれど、彼の気持ちも理解できる。変化を恐れる気持ち。私だって、彼が"友人として"私を抱いたと思っていたから、彼は"恋人として"の私を求めていないのだろうと憶測し、気持ちを告げることができずにいたから。
「……名前?」
口を噤んだ私に、彼が不安げに私の名前を呼ぶ。謝罪しつつも未だに私の拘束を解かない彼の傲慢さを、どうしようもなく愛おしく思った。
「……ヴォックス。あのね、私、あなたの言葉がとても嬉しい」
「!」
「今ならわかるでしょう? 私が、あなたとの関係を終わらせたいって言った理由。私はヴォックスと体だけの関係がある友人じゃなくて……愛を囁き合う恋人になりたかったんだよ」
私がそう言い切ると、彼はゆくりなく私に唇を重ねた。ただただ、触れ合っているだけのそれ。彼とはもっと濃密なキスだって何度もしてきたけれど、こんなにもあたたかで、しあわせを感じるキスは初めてだった。
「……まるで、夢を見てるようだ」
「ふふ。実は私もそう思ってる」
「……君は本当に、恋人になっても変わらずそばにいてくれるか?」
「もちろん。ヴォックスが、望んでくれる限りは」
「……言ったな? 今のはもしも≠フときが訪れたときのために、録音データに残しておこう。言質は取った、せいぜい覚悟しておけよ、darling?」
抜け目ないなぁ、と微笑めば、絶対に逃がす気はないからな、と言い放った彼に、再び唇を重ねられる。愛おしげにこちらを見つめる目が、確かな彼の愛の証明だった。