ワードパレット/反応・駆け引き・潤む
ざあざあと。身を穿つような、地を抉るような、流れる涙を掻き消してしまうほどの、激しい雨に打たれた、とある日。愛していた人に裏切られて、打ちひしがれて、死にたくて仕方がないのに死ねなくて。けれど、私だってもっと幸せになりたいと、この期に及んで浅ましくもどこかで希望を抱き続け、じっとりと赤黒く澱んだ空を、意味もなく見上げたときのこと。
「こんなところで、一人で何してるんだ?」
知らない男の声が、聞こえてきた。次いで、視界には鮮やかな煙が広がってくる。相も変わらず絶え間なく雨は降り続けているというのに、そこに存在し続ける桃色と、漂う煙草の香りを、不思議に思った。
「随分と汚れた濡れ鼠だな。これじゃあ、せっかくの美人が台無しだ」
その言葉を受けて、私は初めて男の声のするほうへと視線を向けた。屋根の下、サングラス越しにこちらを見据えているだろう長身の彼は、びっくりするほど"いかにも"という感じの格好をしていたから、彼がどんなヒトで、どんな目的で話しかけできたかは一目瞭然だった。こういうのは、無視するに限る。別に、今更身を売るくらいどうだっていいけれど、お金を得たところでしたいことなんて何もなかったから。
「……なあ、居場所がないなら俺と一緒に来ないか?」
どくり。心臓が軽く跳ね、息が詰まる。これには、再び彼の方を見ざるを得なかった。
「俺なら、お前の才能を十二分に引き出してやれる。断言する、お前はこんなところで泥に塗れたままでいていい代物じゃない。もしも俺の手を取ってくれれば……俺に尽くしてくれさえすれば、お前はその瞬間から、誰もが羨む地位と名誉と……噎せ返るほどの"愛"を手に入れられる」
揺れる。瞳が、心が、ゆらゆらと。彼は、私が何を求めているのかを一目で見抜いてしまった。もしかしたら、地位も名誉も提示していたから、何かしらには反応するに違いないという算段だったのかもしれないけれど、例えそうだったとしても、彼が駆け引きの上手い悪魔であることには変わりないだろう。
「……私は、大人数からの愛はいらない。ただ私は、たった一人からの愛が貰えれば、それで十分なの」
「けど、その願いが叶った試しはなかった。そうだろ?」
「……」
「ならいっそ、有り余るくらいの"愛"を受けてみりゃいい。きっと、今とは違う景色が見られるぜ? もしかしたら、そこにお前の求める本当の答えがあるかもしれない」
どうしてだろう。長らく雨に濡れたせい? 哀しみで頭がどうにかなってしまったせい? この悪魔の言葉が、すべて正しいことのように思えてしまう。少なくとも私には、言い返す言葉が何ひとつ見当たらなかった。
「……仮にあなたについて行ったとして、私が本当に愛を貰える保証はあるの?」
せめてもの抵抗としてそう尋ねれば、彼はきらりと光る金の八重歯を覗かせ、「もちろんだ」と答えてきて。「そう言うだけなら誰にでもできるわ。そんなもの、どうやって証明するの?」とすかさず言い返すと、彼は煙管を口に咥え、ふっと息を吹き出すと、ハート型の煙を作り出した。
「まず俺が、お前を"愛して"やる」
「……え、あなたが……?」
「ああ。お前が頷きさえすれば、今すぐにでもな」
「……」
「ちなみに言っておくが、ここで拒めば俺はもう二度とお前の前には姿を現さない。拒んだ相手からそう何度も誘われたら迷惑だろう?」
物は言いよう、というのはきっとこのことだ。聞こえはいいかもしれないが、これはほとんど脅しに近いもの。言い換えれば彼は"チャンスは一度きりだ"と、私に圧をかけているのだ。
しかし、私にもはや冷静な判断ができる理性など残っていなかった。欲しい。欲しい。喉から手が出るほどに。懲りずにこの身が、愛を渇望している。私、私は、わたし、は─────
「……よく言えたな。いい子だ、baby」
ほとんど無意識で、彼に愛を乞うた瞬間。豪雨が、途端に止んだ。代わって私の視界は艶やかな朱色になり、震えていた体躯は四本の腕で包み込まれていて。しばらくしてやっと、彼が私を抱き締めていることに気がついた。
さっきまでずっと、屋根の下にいたのに。意地でも私の近くに寄って来なかったのに。高級そうな服や時計やアクセサリーもつけてるのに。厭わず、迷わず、本当にすぐに、泥に塗れた濡れ鼠の私を、彼は腕に抱いてくれた。
とくり、とくり。頬から伝わってくる彼の心音に、瞳が潤んでいく。私はたまらず彼の背中に手を伸ばして、再び声を殺して泣いた。
ああ、どうして、彼には分かってしまうのだろう。私が、"こういう"愛を求めているって。……でも、私は心のどこかで気づいている。これはきっと、愛は愛でも、偽りの愛。私を上手く丸め込むための、方弁なのだと。
けれど、それでも。私はこの人の元で、新たな生き方を探してみたいと思う。例え偽物だったとしても、私が彼の言動に救われたことは、確かな事実だから。
……いつの間にか、彼の手から私の首元へと繋がれた桃色の鎖を見て、私は決意を固めた。これがきっと、最善の解だと信じて。