『知らなくていい味』







 ぱちり。前触れもなく目が覚める。辺りは未だ薄暗いから、まだ夜中だろうか。寝返りをうって隣を確認する。しかし、意識を失う直前まで一緒にいたはずの彼の姿は、そこにはなかった。……ならば、今日もきっと。視線をそのまま窓へ移せば、カーテンの隙間からベランダにいる彼の背中が伺えた。
 
 寝起きでぼんやりとした思考のまま、上体を起こす。彼が着せてくれたであろう寝巻をきちんと整え、上着を肩にかけて、ベランダに続く窓を開けた。
 
「……名前さん?」
 
 こちらを見て驚いた顔をする彼。夜風に誘われて鼻を掠めるのは、今や嗅ぎなれつつある独特なにおい。手元を見れば、彼愛用の電子タバコがそこにはあった。
やっぱり、予想通りだったな。行為をした後、彼がそっとベッドを抜けて一服するのを、私は知っていた。
 
「なんだか急に目が覚めてしまって。外を見たら文謙さんの姿が見えたので、来てしまいました」
「そうでしたか……目覚めたときに隣にいてあげられずすみません。まだ遅い時間ですし、寝付けなくなる前に早く戻りましょう」
 
 そう言いすぐさま踵を返そうとする彼を、私は制する。
 
「いえ、私は大丈夫です。……それ、まだ吸い初めたばかりでしょう?シーツに温もりがまだ残ってました。満足するまで吸ってください」
「え?しかし……」
「……実を言うと、私、文謙さんがタバコを吸ってる姿に前から興味があったんです。でも、文謙さんっていつもこっそり吸ってるから、なかなか間近で見られる機会がなくて……だめですかね?」
 
 これは彼に対する配慮もあるけれど、八割くらいは私の本音。見た目や性格から考えても"吸わなそう"なイメージがある彼が、実は煙草を吸う人だと知ったときは、心底意外だと驚いたものだ。そして同時に、所謂ギャップ萌えというか、更に彼を魅力的に感じた記憶がある。恋は盲目と言うし、もしかしたらどんなところもステータスに思えてしまうだけなのかもしれないけれど。
 
「……貴女にそのように言われてしまっては弱いですね。お気遣いいただき恐縮です。では、貴女の言う通りにしましょう。少しだけ待っていてください」
 
 私の言葉を完全に気遣いだと受け取った彼はそう言うと、手中の電子タバコを握り直した。そのまま彼の唇に導かれる白いそれ。ほとんど音もなくそれを吸い込むと、やがて唇を離して。ふう、と白い煙が彼の口から放たれる。一連の動作は手馴れていて、喫煙歴が長いことを窺わせた。
 
 絵になる、と言ったらいいのだろうか。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない彼の表情。静寂に包まれた街並みを俯瞰する彼の瞳は、一体何を見て、何を思っているのだろうか? そういうことを想起させるような横顔が、そこにはあった。
 
 二、三回ほど彼がタバコを吸う姿を見届けた時点で、ふと、私にはとある好奇心が降り立ってきた。彼が煙を吐くタイミングで、思い切って声を掛ける。
 
「文謙さん。それ、私も吸ってみたいです」
「え?もしかしてタバコを、ですか?」
「はい、そうです」
「貴女は吸ったことがないと言っていた記憶がありますが……」
「はい、今まで吸ったことはありません。ですが文謙さんの吸ってる姿を見て、ちょっと興味が湧いてきて」
「……すみませんが、これは身体に悪いものなので貴女にはおすすめできませんね」
 
 なんとなく、聞く前から断られる気はしていた。でも、こちらは体に悪いのも承知の上で言っているのだ。簡単に折れてなるものかと意地が働く。
 
「でも、文謙さんは吸ってますよね?」
「私はいいのですが、貴女のこととなると話は変わります。タバコなんて、一生吸わないでいれるのなら絶対にその方が良いんですよ」
 
 出た、タバコを吸う人の常套句。喫煙者の友人や知り合いは他にもいるけれど、みんな決まって同じことを言う。……こうなったら、奥の手を使うしかないだろう。私は彼の腕にちょこんと触れて、目を伏せる。
 
「……好きな人と同じ感覚を味わってみたいって思うのは、いけないことですか?」
「……え?」
「これがきっかけで吸い始めることはないって約束します。一度だけでいいから、どうかお願いできませんか? 私、文謙さんのことをもっと知りたいんです」
「名前さん……」
 
 私より五歳上の文謙さん。比較的幼い顔立ちで、親しみがあって、物腰も低くて、目線も近い方である彼。けれどもふとした瞬間に、彼はやはり私より年上の、大人の男性なのだと感じさせられることがある。特にそれが嫌なわけではないのだけれど、少しでも彼の隣に並び立てるように、彼に近づきたいと感じるのだ。
 
「……本当に一度だけですね?」
「はい、約束します」
 
 彼は私の答えを聞いても暫し逡巡しているようだった。しかし、考えを変えるつもりのない私の様子を見てか、口を噤んで。「……わかりました」と言うと、タバコの箱から新しいスティックを取りだし、古いものと交換する彼。さすがに同じものは使わせないか、なんて考えながらしばらく待てば、「では、どうぞ」と電子タバコを手渡された。
 
 想像してたより、少し重いかも。裏表をちらちらと見た後、さきほどの彼の姿を思い出しながら、それを片手に持つ。
 
 あれ。このあとって、どうしたらいいんだろう。たぶん普通に先の方を咥えて、吸って、吐くんだと思うけれど……。後のイメージを膨らませながらタバコと睨めっこをしていると、彼がくすりと笑う声が届いてきた。
 
「吸い方を教えましょうか」
「……お願いしたいです」
「わかりました。まあ、教えるといっても大したことは言えないのですが……」
 
 彼はこちらを覗き込むように、私に視線を合わせてくる。少し近い距離感に胸が跳ねてしまう。
 
「まずはタバコの先を唇で挟むように咥えてください。急に息を吸ったり吐いたりしないよう、気をつけてくださいね」
 
 言葉の通りに、口元にタバコを寄せていく。妙にどきどきしてきて、ごくりと唾を飲んだ。真夜中に、彼の指示に従いながら、あまりよろしくはないことをする。そんな一種の背徳感に酔ってしまうような心地がした。
 
「咥えられたら、ゆっくりとタバコを吸ってください。頑張って勢いよく吸引しようとすると危険なので、意識しすぎないように。とにかく、少しずつゆっくりと吸い込んでみてください」
 
 少しずつ、ゆっくり。彼の言葉を心で復唱しながら、いざタバコを咥える。紙、だな。ちょっと違和感がある。止めていた息を解放し、おそるおそるとタバコを吸い込んでみた。瞬間。
 
「ッ、げほっ、げほっ!」
「あっ、大丈夫ですか……!?」
 
 にがい、煙い、苦しい。が、一気に襲いかかってきて、咳き込んでしまう。遅れて訪れるのは、ぐわん、と脳が揺れるような感覚。なに、これ、本当に人間が摂取して大丈夫なものなの……!?思わず少しだけ、涙目になってしまった。
 
 私は彼に電子タバコを手渡し、何度か咳き込んだ。彼に背をさすられて、幾分か気分がマシになった後にやっと「もう、大丈夫です」と彼に声を発することが出来たが、依然として喉元に違和感は残り続けていた。
 
「最初はほとんどの人が貴女のように噎せるものです。……初めてのタバコの感想はいかがでしたか?そんなに良いものではないでしょう?」
「うう……そうですね……これを美味しそうに吸う人が不思議だと感じてしまいます……」
「はは、そうですか。それを聞けて少し安心しました。貴女にはぜひ、そのままでいて欲しいものです」
 
 ああ、恥ずかしい。反対を押し切って豪語した癖に、ほんの少し吸った程度でこの有様とは。これでは彼に近づくどころか、少し離れてしまったような気さえしてくる。きっと私には、彼と同じようにタバコを吸える日は一生来ないのだろう。私は少し落胆しながら、文字通り苦い思いでいた。
 
 ……あれ?そのとき、私はふとあることに気がついた。口内に残る、この味。これには、覚えがある。強い苦みで先ほどまで気がつけなかったこの、言葉では説明できない味わいは─────。私はそれの正体に気がついて、少しだけ嬉しくなった。
 
「……タバコは確かに、私には向いてなかったみたいです。でも、一つだけ吸ってみて良かったなと思えることがありました」
「良かったこと、ですか……?」
「はい」
 
 私は内緒話をするように、背伸びをして彼の耳元に手を添えた。
 
「……文謙さんとのキスの味が、すごく濃くなったような味したんです」
 
 目を見開く彼に、ふふ、と笑ってみせる。彼とのキスは、彼の服からほんの僅かに香るタバコの匂いが、舌に乗ったような味がする。これは触れるだけの軽いものじゃなくて、より深いキスをするようになってから気がついたこと。今回吸ってみたタバコは、その彼の味が苦みを感じるほどまでに凝縮されたような後味を覚えたのだ。
 
 そんなちょっとした喜びのようなものを感じていると、彼が言葉を返してこないことに気がついた。どうしたのかと彼の顔色を伺うと。目を閉じる暇もなく、彼に唇を塞がれた。
 
「んっ、!?」
 
 突然のことに狼狽えるけれど、彼は止まってくれる気配がない。むしろ逃がさないというふうに後頭部を抑えられ、半ば無理やり唇をこじ開けられる。性急な彼の舌の動きに何とか応えようとするも、動きについていけない。それはキス、と言うよりかは、口吸い、といった表現の方が当てはまるように感じた。
 
 だんだんとこちらにも舌を絡ませる余裕ができたときに、やっぱり今日はいつもより濃い味がする、という考えに至った。タバコを吸ってからすぐにキスをしたことなんて今までなかったから、知らなかった。彼から僅かに感じられていたこの味って、本当はこんなに苦くて濃いものなんだって、今日初めて知った。
 
 そして、やがて離れていく唇。軽く息切れしてしまうほど激しい口付けだった。私はそのまま、彼の顔を見つめる。それは力強く、窘めるような瞳だった。

「……ダメですよ。私より濃い味が良かっただなんて、思わないでください。貴女は私の味だけを知っていて、それが貴女にとっての一番であって欲しいのです」
 
 鼓膜を震わす重低音。気持ち、いつもより低く感じるその声が、胸に甘い痺れをもたらす。いつの日か彼を可愛いと、私より年下に見えると評した友人に、教えてあげたい。彼はこんなにも年相応の色気を醸し出せる、年上の男のひとなのだと。
 
 未だ酸素が回っておらず、ふわふわとした頭の中、「良かったっていうのは、そういう意味で言ったわけでは……」と答えるけれど、彼はどうやら納得していない模様。
 
「……明日は貴女の身体を労ると約束します。ですからどうかもう一度……しても、いいでしょうか。早い内に貴女が覚えてしまった味を忘れさせないと、気が済みそうにありません」
 
 彼の口ぶりは、まるでタバコに嫉妬でもしているかのようだ。基本謙虚で控えめな彼が、ところどころで一番は譲れないというプライドを見せるのが少し面白い。でも今回は私のことが関わっているからかときめきの方が勝っているかも?なんて漠然と思った。
 
「……そうですね。私も、文謙さんの味だけを知っていたいです」
 
 彼の熱に感化されたようにそう返せば、彼は私に一つ唇を落とすと、私の腰に手を添えながら、窓を開けて部屋に戻っていく。ベランダの手すりには、まるで一種の罰か何かように、寒空の下に晒された電子タバコがぽつんと残されていた。
 
 
 
 
 

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