あまい口実






「…………」

今の状態を一文で説明するとしたら、一人の女が正座で机の上に乗った大量のチロルチョコを目視している$}。もしこの光景を誰かに見られていたとしたら、その人の目にはさぞ滑稽に映ることだろう。

帰宅後、ポストの中に私の好物のホワイト&クッキーのチロルチョコがなんと20個も入っていた。普通ならこんなことがあったら不審に思うだろうけれど、生憎私は普通でない人と関わっているので、これに疑問を抱いたり不思議に思うこともなかった。これを見て真っ先に浮かんだのは一人の男の姿。最近忙しいのか、なんだかんだで数週間ほど会っていない、あの男。

『……そればっか食ってんな』
『このチョコのこと?ふふ、これ私の大好物なんだ!疲れた体のご褒美』
『肥えんぞ』
『……はい?』
『豚になるつったんだよ』
『…………ちょっと??』
『仮に豚になったら、お前は晴れて俺のモンから俺の家畜に昇格できるな?喜べよ』
『はぁ〜〜!?余計なお世話ですーこの後ちゃんと運動するから豚になんかなりませんー』

どうだか、なんて言って鼻で笑う彼の顔を思い出したところで、いつかした会話の回想を中断する。ほんと荼毘はいつもいつも人の気にしてることをズケズケと。あの顔、今思い出しただけでもちょっとムカつくな。でも、サラッと言ってたけど私が豚になっても捨てないんだな、なんて思ってしまったり。

…とまぁ、こんな出来事もあった為、間違えなくこれは彼の仕業に違いないという訳だ。そう、間違えなく彼だと分かるため、私は差出人については特段気にしていることは無い。問題は、彼がどういう意図でこれを贈ったのかということ。

私はそのチョコレートの一つを手に取り、恐る恐る包み紙を開けてみる。現れたのは、ココア味のクランチクッキーが鏤められたホワイトチョコレート。表と裏をちらちらと確認し、念の為匂いも嗅んでみる。…うん、大丈夫そう。私はそのチョコを光に翳したり軽く叩いてみたりという奇行を繰り広げたあと、再度そのチョコと睨めっこをし、思い切ってそれを口に含んでみた。

「…おいし」

たった一人の空間に零れたその声は、誰に届くこともなく虚しく消えた。脳に響くジャリジャリとした音はやがて小さくなり、口内に温和な甘味と僅かな苦味を残して溶けていく。なんとも言えない感情が胸に広がると、まだたくさん残るそれを見つめたまま、机に突っ伏した。

私が彼と会うとき。それは彼が私を訪ねるときだ。たとえこちらから会いたいと思っても、私は彼の住んでいる場所や連絡先などを知らないため、それは叶わない。彼とは結構長く続いている方だけれども、私と彼の関係はあまりにも脆い。彼が私に会いに来なかったら、そこで終わるのだ。だから、こうして二週間以上も会えない日が続いていると、自然と不安は募るわけで。寂しいと思ってるのは私だけなんだろうな。もしかしてとうとう飽きられたかな。キリがないとは分かっていても、後ろ向きな思考は自然と溢れてきてしまう。

「……」

いや、もうやめよう。あの人を好きになった時点で、これは覚悟していたこと。こんなんでへばっていたら彼の相手は務まらない。私はマイナスな考えを頭の隅に追いやり、再びチョコレートの話題に頭を切りかえた。

そう、そうだ、このチョコレート。世間からはヴィランと呼ばれる立場にいる彼が、曲がりに曲がりまくった性格をしたあの彼が贈り物?をしてくるなんて。値段としては数十円とかなり安価なものだが、彼が贈ってくれたものだと考えると私の中の価値が爆上がりする。なんだろう、このチロルチョコから醸し出されるゴディバ並のプレミア感。さっき一口で食べたの勿体無かったかも。というかこれ、どうやって入手したのだろうか?…だめだ、彼がチロルチョコを買ってる図を想像するだけで吹き出しそうになる。まぁ何にせよ、わざわざ私の好物を手に入れ、持ってきてくれたってことなんだよな。そう思うと、温かい何かが胸の奥から溢れてくる。そして同時に、やはりどうしようもない寂寥感に苛まれてしまう。
継ぎ接ぎだらけの姿に、黒い髪から覗く蒼い瞳。鼻を掠める何かの焼けた匂いでさえ、今では恋しくて。会いに来てくれないかな。早く会いたいな。…そもそも会えるのかな。

「…遂に豚になったかよ」
「…………え?」
「つーことは差し詰めここは養豚場ってことか」

なァ家畜?そこにはいつのまにか、ニヤリと嗤いこちらを見下ろす彼が立っていた。こんなに近くにいたのに気づかなかったの…?これには自分でもドン引きしてしまう。その後こちらの反応を待つ彼にハッとし、遅れて彼の放った言葉を咀嚼したけれども、湧いて出る感情は胸が詰まりそうなほどの安堵感だった。

「……家畜じゃないし」

緩む口角を抑え、努めて怒ったような表情を浮かべると、私は伏せていた顔を上げる。彼はそれを一瞥すると、机の上のものに視線を移した。

「これくれたの、荼毘でしょ?」
「ハハ、流石に気づいたか」
「…そっか、ありがとう」

そう微笑みかけると、彼は無言でソファに座り、足を組む。それから顎でお前も座れ≠ニ指示してきて。私は突然のことに戸惑いつつも、こくりと頷き彼の横に腰を沈めた。

「食ったか?」
「え、チョコのこと?なら一個食べたけど…」
「……たった一個かよ」

不満げな顔をする彼に、疑問符を浮かべる。たった一個、とはどういうことだろう。その言い草は、もっと食べていて欲しかった、とでも言うかのように聞こえる。この流れで言えばまさか、もっと食べていれば豚になれたのにな、などと言い出すのではないだろうか。心の中でこっそり怒る準備をしていると、「ソレは、口実だ」と彼の声。

「………口実?」
「ソレを食ったお前に対して、いざというときアレやっただろ≠チて言えば、俺に従わざるを得ないだろ?その為の口実だ」

つまり、彼は口実の材料としてチョコを贈り、その後食べた数だけ私に言うことを聞かせようとしていたということか。…理由が彼らしい。それなら納得だ。彼が他意無く何かを与えてくるなんて、彼と過ごしてきた私には到底思えなかったから。更に言えば口実≠ニいう言葉選びも彼ならではという感じがする。普通に考えれば口実≠謔閧熈切り札≠ニいう表現の方が適切な気もするが、前者を使うのは本当に性格が歪んだ彼ならではのワードセンスだ。口実とは言い逃れや言いがかりの材料として使われる言葉。筋の通らない言い訳。それを理解した上で敢えて口実≠ニ言うあたり、彼の性格は余程良いと見える。知ってたけど。だから私は彼の言葉に対して特に残念がることも不審に思うこともなかったが、「最近会えてなかったから、そのお詫びとか想像してたのになぁ」なんて普通の女の子らしく笑ってみた。

「…へぇ?詫びだっつってたらどうすンだよ」
「これ荼毘の偽物かなって疑う」
「ハッ、可愛くねェヤツ」

愉しそうに笑う彼につられてふふ、と声を漏らす。先程まで抱いていた不安なんてもうすっかりどこかへ消えてしまった。こうした冗談を交わすだけでも、単純な私は容易に満たされてしまう。好きだな、やっぱり。いつまで経っても連絡先教えてくれなくても、会えない期間が長くても、最低な意地悪言ってきても、凶悪だと言われているヴィランでも、好き。彼が好き。

「荼毘も可愛くないよ?全然寂しいとか言ってくれないし」
「思ってもねェこと言われて嬉しいか?」
「…そういうところが可愛くないんだよなぁ」

予想通りの返答だけど、僅かに生き残っていた期待達が肩を落とす。その他大多数は少しも傷ついたような表情を見せず、呆れた顔で彼の言葉を流す。と、不意に黙り込んだ彼がこちらをじっと見つめてきて。痛ましく残る火傷跡から覗く、隠しきれない端正なその顔に見つめられると、色々な意味で体に緊張が走った。

「…ま、寂しいっつーのは死んでもねェが、お前の顔が浮かんでここに来たのは確かだな」
「……え?」
「今更何驚いたツラしてんだ。そうじゃなかったら今までも今も、ここには来てねェだろ」

違うか?と不敵な笑みを見せる彼に、心臓が壊れそうな程に跳ねる。そのまま私の名前を呼び、こちらの頬に這わせてくる彼の手がとても熱い。でも間違いなく、今の私の頬の方が熱いはず。ぼぅ、と彼を見つめていたその瞬きの間に、私の体はソファに沈み込んでいた。目の前には捕食者の瞳をした彼の蒼が、私を捕らえている。まさかここで?、と焦る私に対して彼は余裕そうな表情。

「ま、待って荼毘!ちょっと、せめてベッドで、」
「アレやっただろ▲
「…………え」
「わざわざ用意してやったんだ。…名前、お前のためになァ?分かンだろ」

なるほど、早速口実≠使ってきたというわけか。確かにこう言われてしまえば拒否できない。…だけど、不思議と嫌な感じはしなかった。そう、彼は私を従えるためであれ何であれ、わざわざあのチョコレートを手に入れてくれたんだ。そんな面倒なことをしてくれるくらい、私は彼にとって価値があると、自惚れてもいいのだろうか。

「…ふふ、好き」

堪えきれない笑みを漏らすと、彼は一瞬怪訝そうにこちらを見てきたが、次には「…つまんねェな」と呟くと、その言葉とは裏腹に、頗る気分良さげな顔で唇を重ねてきた。

ああ、残りの口実たちもこうして使われていくのだろうか。そして蕩けるような甘くて愛しいそれに、私はどろどろと溶かされていくんだろう。貴方と結ばれたその時点ではもう既に、私は原型を留めていなかったというのに。

そんな思考を捩じ伏せるように、彼は絶え間なく熱を与えてくる。それはチョコレートなどとは比べ物にならないくらいあまい味がした。





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