クラムジー+アイロニー







[ 急用が入った。]
[ 今日は会えそうにない。本当にすまない。]

そのメッセージを見て、今日一番のため息が出た。いつもより早い時間に起きて、時間をかけて丁寧にメイクをし、定時退社できるよう一生懸命仕事に励んで、再度気合を入れて化粧をし直してから、待ち合わせの場所へ三十分前に着いた。スマホの画面で前髪を確認したり、服に汚れが着いていないか見回したり、そわそわしながら待つこと約一時間。待ちに待った彼からのメッセージは、期待していたものではなく。すまない、の文字を指でなぞりながら、再びため息が零れた。

付き合い始めてから約一年の彼は、非常に忙しい人だった。二十代後半にして、とある大手企業の営業本部長である彼には、デート中の通話やドタキャンが日常茶飯事である。ただでさえ会える機会が少ないのに、その予定さえも潰されてしまうのは、彼には悪いが不満でしかなかった。半年前まではここまで酷くなかったのだが、最近では一ヶ月に二回ほど会えればいい方である。彼の方も何とか時間を作ろうとし、約束を取り付ける努力をしてくれているのは認めるが、こう毎回ドタキャンされてしまうんじゃ仕方がない。でも、それでも。彼を切れないでいるのは、惚れた弱みというやつなのだろうか。会えない時間が多ければ多いほど、たまに会えたときの喜びと愛しさは、計り知れないものがあった。切ない顔で名前を囁かれ、愛してると言いながら口付けをされ、その腕に抱かれてしまえば、不思議と何もかもが許せてしまうのだった。

すっかり闇に沈んだ空。ぽつんと浮かんだ月の光が、頬を照らした。目を細めれば、涙袋に薄く塗ったグリッターがキラキラと視界に入り、まるで自分が涙を流しているように錯覚した。本物の涙は既に枯れてしまったことが、少し寂しく感じられた。

これからどうしようか、と辺りを見回す。このまま家に帰るのが無難だが、そんな気分でもない。しかし生憎、この近辺では気軽に入れそうな店も見当たらず。彼が指定する待ち合わせ場所はいつも、人気のないところだった。彼はどうやら顔が広いらしく、人の集中する場に顔を出すと、会社関係の人間に出くわしてしまうことが頻繁にあるのだという。せめてオフの時くらい仕事のことを忘れさせて欲しいと思った結果、彼はとうとう人っ子一人いないような閑散とした地を待ち合わせ場所に選ぶようになったのだという。

肌を撫でた風に誘われて、ふと斜め上の方を見上げると、手摺りのある屋上が目に入った。一瞬いやな想像をしたが、すぐにその考えを取り払う。再び純粋に屋上を見つめてみると、その場所になぜか心惹かれる自分がいた。実際に行ったことはないけれど、漫画とかドラマでのイメージだと、何か悩み事がある人が気分転換で屋上に行っている気がする。外装を見た感じ、そこは廃ビルのようだ。それがわかった時点でもう、私はあの屋上へ向かうという気持ちが決まっていた。人がいる可能性もあるけれど、そのときはそのときだ。

ゆっくりとそのビルへ近づき、空きっぱなしになったドアから中を覗き込む。窓から差し込む月光では少々心もとないので、スマホの光を使いながら屋上へと続くであろう階段を昇っていった。こつこつと子気味よく鳴るヒールの音を耳に入れながら、まるで無敵にでもなったかのようにどんどんと踏み面を越えていき、ついに屋上への扉の前に辿り着く。逸る鼓動を感じつつ、銀製のドアノブに手をかければ、簡単に扉が開いた。

まるで塀のようなそれ――パラペットというらしい――に囲まれた味気ないコンクリートの世界に足を踏み入れれば、下にいた時にもビル内にいた時にも感じられなかったわずかに冷たい風が、ぶわりと身体を包み込んだ。手摺りに手を付き、そこから見える景色を眺める。場所が場所なのでお世辞にも綺麗と言えるものではなかったけれど、不思議と心が楽になるような気がした。なるほど、人が屋上で気分転換ができるというのも迷信ではないのだろう、と妙に納得しながら、頬杖をつき、何も考えずにただ風を感じた。しばらくして、そろそろ帰ろうかと思いを巡らせながら、真下の地面を見つめる。

「飛び降りんのか?」

突如。真横から聞こえてきた男性の声に、思わず悲鳴をあげそうになった。さっきまでそんな気配なかったのに、とか、一体いつからそこに、とか。そんなことをぐるぐると考えるだけで、まるで全身をセメントで固められたかのように、一ミリも動くことが出来なくて。目線すらも動かすことが出来ないため、視界の端に移る僅かな情報でしか彼の存在を判断できない。ぶわ、と体中の汗がどっと溢れ出すような、そんな感覚を味わいながら、口元をぐっと引き絞っていると、いつの間に横にいた男は、両手を手摺りの上に乗せた。

「この高さだと確実じゃねぇだろ。運良く頭から落ちでもしねぇと、中途半端に死に損なうのがオチだな」

どうやら彼は、私が命を絶とうとしているように見えたらしい。なんだか的外れなことを言われているけれど、知らぬ間に真隣にいた彼の存在そのものへの衝撃が大きすぎて、何も答えられない。そのまま沈黙を貫けば、彼はフッと鼻で笑った。

「俺の個性、炎が出んだよ。オマケによく燃える。俺だったら痛みもなく、一瞬でてめェを灰にしてやれるぜ?」

骨も残さずな。

彼が得意げにそう語ると、ふと片頬にちりりとした熱を感じた。彼の語った内容を遅れながらも頭で理解すれば、この頬に感じるそれの正体が何かは明らかで。反射的に彼から身を離し、勢いで顔を向ければ、その男性の姿を初めて目視した。口元から首元、目の下、両腕など至る所まで不気味に映る、爛れたような肌。闇に吸い込まれていきそうな黒い髪と服装に対し、手元でゆらゆらと燃える蒼炎は、まるで鬼火のようだった。歪められた瞳と口元に、ゾクリと背筋が粟立つ。恐怖で全身が石のように冷たくなり、早急に逃げないといけないはずなのに、足は竦んでしまって使い物にならない。しかし、彼の放つ炎の強さが一気に増し、先程とは比べ物にならないほどの熱を感じると。

「ッ死ぬ気はないです!!」

ほぼ、本能的に叫んだように思う。思考したことを口に出すのではなく、生存本能が勝手に口を動かしたような。そんな私の叫びはどうやら彼の耳へ十分に届いたようで。その手に宿る炎の勢いがゆっくりと弱まっていくと同時に、彼の目が細められる。

「なんだ?今更怖気付いたのかよ」
「そうじゃなくて、本当に死ぬ気なんてこれっぽっちもなかったんです」
「死ぬ気のないヤツが、こんな夜中にわざわざ人気のない場所に来て、廃ビルの屋上から地面を見下ろすのか?そりゃ、随分といいご趣味だな」
「……それは、事情があって」
「事情、ねぇ」

その一言を最後に彼の手から放たれる炎が完全に消えたことを確認すると、ふっと体が解放された感覚がした。未だ色々大丈夫な状況では無いけれど、これでひとまずやっと落ち着くことができる。彼は再び両手を手摺りに付き、今度は遠くの方の景色へ目を向けた。そのまま彼の様子を伺うようにその横顔を見つめ続けていれば、こちらに目を向けられる。月のハイライトの入った蒼の瞳と視線が重なると、どきりと大きく胸が鳴った。

彼は『その事情とやらを言ってみろ』という風に軽く顎を動かし、話をするよう促してくる。その事情というものは、初対面の人間に語るにはなんとも虚しい内容であったが、この場で答えなかったらどうなるか分からなかったので、従う以外の選択肢はなく。かくして、私は会って間もない他人に個人的な恋愛事情を話す羽目になったのであった。



§



「……心底下らねェな」

ここ最近の恋人との状況と、この場所にいた理由。それらをかいつまんで話した結果、最初に彼が口にした台詞はそれだった。聞いて損したと言わんばかりに呆れた溜息を漏らす彼に、ぐぅの音も出ない。まぁ確かに、忙しい恋人に最近あまり構って貰えず、今日もドタキャンされて落ち込んでいました、だなんて、赤の他人からしたら下らないことなのだろう。でも、それは私にとってはかなり深刻な問題なのであって。しかも、元はと言えば自分から聞いたのだから、複雑な事情があるのだとか変に期待した方がお門違いというものだろう。

そんな、瑣末な不満もありつつ。彼に話した後の自分の心境は、驚く程にスッキリとしていた。恋人の彼にはもちろん、友人にも家族にも相談できずにしまい込んでいた心の内を吐き出せたから、というのもあるだろうが、理由は彼の話の聞き方にもあるように思った。彼は決して私の方は見ず、ただ屋上からの景色を眺めるだけだった。一見、聞いているのか聞いていないのか分からないようにも見えるが、話を切ると「…で?」と続きを促してくるあたり、しっかりと耳を傾けてくれているのが感じられて。話に水を差すこともなく、肯定も否定もせず、じっと話を聞いてくれたのだ。そこまでしっかり聞いておきながら、最後に口にした言葉がアレなのは、さすがにフォローできないけれど、少なくとも私は彼の姿勢に一種の心地良さを覚えた。そんなに特殊なことをしているようには思えないが、なんだろう、これは。もしかしたら私はただ誰かに聞いて欲しかっただけなのかもしれない。こちらの味方になるような意見もその逆の意見もせず、ただ第三者として話を聞いて欲しかった。それで満足だったのだ、きっと。

「……ありがとうございました」

そんな私の口から自然に出た台詞は、感謝の言葉だった。それに対し彼が怪訝な表情でこちらに視線を送るものだから、「話、聞いてくれたので」と少し微笑むと、「こっちから聞いたんだからてめぇが礼なんざする必要ねェだろ」と小馬鹿にしたように笑った。少しだけだけど、彼の纏う雰囲気が柔らかくなったようで、なんだか嬉しくなった。

「…あの、私名前って言うんですけど…あなたの名前、聞いてもいいですか?」

迷ったけれど、やっぱり口にした。もし今回きりの出会いだとしても、彼の名前を知っておきたいと思った。彼にとっては気まぐれだったとしても、私にとって彼との時間は、確かに救いになっていたのだ。彼はこちらの真意を伺うような目を向けて来たが、やがて、

「…荼毘だ」

と名乗った。ダビさん。小声でその名を復唱する。ダビって、よく荼毘に付すとかいう、あの荼毘だろうか。炎の個性を持っていたようだし、恐らくその意味で合っていると信じたい。彼に次いで自分の名も告げたけれど、相変わらず彼は無反応なので、聞こえているのかいないのか分からない。でも、何故だか不快感はなく、むしろ予想通りの反応が面白くてくすりと笑ってしまった。

「私、明日もあるのでそろそろ帰りますね。改めて、ありがとうございました、荼毘さん」

次会える保証はないから、「また今度」は口にしなかった。彼はそれに対して何も答えなかったが、私が手摺りから離れ、すれ違うその瞬間まで、ずっとこちらを目で追っていた。そして彼から完全に背を向け、屋上のドアから出るときにも、背中に彼の視線を感じた気がした。

その日。屋上を下りてから恋人とのわだかまりがすっぽり頭から抜け落ちていた事実は、ドタキャンしたことへの詫びのメッセージが来た時にやっと気が付いたことであった。



§



「…あ、」

扉を開けると、そこには既にこの前の彼――荼毘さんがいた。ビルの下から見た時に人の姿は確認できなかったから今日はいないと踏んで、さすがに会えないかぁ、なんて思っていたのに。手摺りから離れた場所で座っていたなら、それは下から見えないなと納得した。来訪者の顔を確認するためか、こちらを振り返っていた彼の表情は、私の顔を見てもさして変わることはなく。もしかしたら、彼の方からは私の姿を既に上から確認していたのかもしれない。

「また来たのかよ。お前は知らねェだろうが、ここは元々俺の気に入りの場所なんだ。気分転換なら他所でやれ」
「…私だって来たくて来たんじゃないんです。でも…」
「…またすっぽかされたってか?ハッ、つくづくバカな女だな、お前」

そう、そうなのだ。恋人の彼は再び同じ場所に待ち合わせしようと持ちかけできたのだが、またどうしても外せない急用が入ったとかで、見事ドタキャンされてしまったのだ。しかもオマケに今回は前回よりも三十分長く待たされてしまったりする。そしていつものように、深くため息をつきそうになったそのとき、ふと、屋上での出来事が頭を過って。そのまま導かれるようにあの日の廃ビルへと足を進めてから、今に至る。

そんなこんなで、屋上まで来たはいいのだが、もともとここが行きつけの場所であったらしい彼に他所へ行けとしまって、扉の前で少し戸惑う。けれど、無理やり追い出すような素振りは見られないため、許されたのかな?と思いつつ少し歩みを進める。スカートを履いているので座っている彼に対して手摺りの近くで立つのは気が引けるし、かと言って彼の真隣に座ったらそれはそれで気まずい。しばし逡巡した後、私は彼からヒト三人分ほど離れた場所に座り込んだ。

夜の静寂が私と荼毘さんを支配していた。今日は前よりも風が穏やかで、少し物足りない心地がした。彼が忙しいのはわかってる、仕事を最も優先させなくてはいけないのは分かってる、だけど我儘な私の心がそれを簡単には認めてくれないのだ。風の強さが足りなかった。もっともっと、強く吹いてくれたらいいのに。そうして、ざわざわと騒ぐこの心の内を、すべて吹き飛ばして欲しい。

「…で、今日はどんな事情があってここにいんだよ」

急に、そんな言葉が降り掛かってくるから、私はそれを拾うのに酷く苦労した。それはまるで、「今日は何があったんだ、話してみろ」と語りかけてくれているように聞こえて。今日もあの日のように、話を聞いてくれるということでいいのだろうか。つい伺うように彼の方を見ると、彼はフッと不敵な笑みを浮かべる。

「事情がねェんなら、お前はただの死にたがりってことでいいよな?」

荼毘さんはそう言いながら、手のひらに小さな蒼炎を生み出した。大きさも相まって、それは魂のようにも見えて。まるで、私の命は自分が握っているとでも言っているかのように感じた。未だかつて、こんなにもこちらに利点しかない脅し文句があっただろうか。他所へ行けと言ったり話せと言ったり、彼の真意はよく分からないけれど、少なくとも極悪人ではないのだろうということだけは何となく感じた。

「…実は、────」



§



「────で、そこであの上司なんて言ったと思います!?」
「……『前に説明しただろ。』」
「そうなんですよ!そんなの一言も言ったことないのに!理不尽だと思いません!?」
「…今日もバカみてェに元気だな、お前。夜の静けさも泣いてるぜ」
「……わ」
「は?なんだその顔」

…それから。私は恋人にドタキャンされる度に荼毘さんのいるあの屋上へと向かった。待ち合わせ場所はいつの日か廃ビルの真下ではなくなってしまったけれど、それでも私はあの場所に向かった。一度、ドタキャンされた日ではないものの、仕事関係でもやもやが溜まったときに屋上へ行ってしまうと、それからは何かにつけて頻繁に足を運ぶようになった。それに伴い、私と荼毘さんの関係にも少し変化があった。変なぎこちなさもなくなったし、ヒト三人分空いていた距離はヒト一人分になったし、話に対して終始無言だった彼の方も、段々と反応が増えていった。最初こそ、私は彼の無言に徹して話を聞いてくれる姿勢に心地良さを感じていたものの、不思議と返答が返ってくるのはそれもそれで良いと思えた。それはきっと荼毘さんの、どちらの味方にも付かず、あくまで第三者として接するスタンスが変わらなかったからなのだと思う。

私は出会ってそう長くもない荼毘さんにのことを、かなり信頼していた。……いや、信頼しすぎてしまったのだ。

「…あ、そういえば荼毘さん、前に私の恋人の顔見てみたいって言ってましたよね?」
「『お前の恋人になる男の顔拝んでみてェ』っつーのは嫌味だからな」
「…いや、わかってますけど…それはさておき、気になりませんか?」
「…今まで見せる気無かっただろ。どういう心境の変化だ?」

荼毘さんの言うことはもっともだった。恋人の彼はわざわざ廃ビル付近に待ち合わせ場所を指定するくらい、人通りの多い場所にいることを避けたがっていることから、むやみにその顔を見せるのは憚られた。なので未だに友人や身内には恋人がいるとは言っているものの、彼のいる会社名や顔写真は見せたことがなかった。だから、同じように荼毘さんにも彼の個人情報に関する話は避け続けてきた。見せろ、と直接言われたことは無かったが、やはり避けていたのはバレてしまっていたらしい。

「…単刀直入に言いますが、荼毘さんって、無職ですよね?」
「……オイ、話繋がってんのかそれ」
「めちゃくちゃ繋がってます。…彼、会社関係ではかなり顔が広いらしいんです。それでいて、会社繋がりの人にプライベートを知られるのを嫌がってて。もしかしたらの可能性も考えて、今まで周囲の人に彼の写真を見せたことはありませんでした」
「…だから、そういう繋がりがねェ俺なら大丈夫だと思ったってわけか」
「……本当は自慢したいんですよ。私の彼氏はこんなにかっこよくて素敵な人なんだって。だから、ちょっともやっとしてる部分があって、…」
「……好きにしろ」
「やった、さすが荼毘さん」

どこか投げやりな態度の荼毘さんには目を瞑りつつ、私は満面の笑みでスマホのアルバムを遡ってゆく。情報の流出を防ぐためにそもそも一緒に写真を撮ってくれることが少ないのは寂しいが、個人的には少なくても撮ってくれるだけまだマシだと思っている。その僅かな写真の中でも、幸せいっぱいといった風に二人で笑い合っているもの選ぶと、荼毘さんの方へ画面を向ける。

「これです」

こちらはうきうきしながら見せているけれど、きっと彼はいつも通り、そこまで反応を見せないのだろうなぁ、と思いながら彼の顔を覗き込むと。そこには、予想とは違う表情を浮かべる彼がいるものだから、思わず息が詰まってしまった。いつも気だるげに見える瞳は、大きく見開かれ、そこに浮かぶ蒼の双眸は、透き通るような美しいビー玉のようだった。小さく漏れた息遣いが耳に届くまで、時が止まってしまったのかとさえ錯覚してしまうほど、彼は微動だにしなかった。それは、彼から初めて感じ取れた、驚きという感情だった。なにが、彼をそうさせているのか。それは、自分の手元にある恋人との写真でしかなくて。まさか、もしかして、荼毘さんは彼のことを知って────

その考えに至った瞬間、勢いよくスマホを背に隠した。長い時間のようでいてほんの一瞬、驚いた表情がうかがえた彼だけど、きっとそれは見間違えではないと思った。なんで軽率な行動をしてしまったのだろう。その可能性は、無いわけではなかったというのに。私は震える唇をどうにか動かして、彼を見据える。

「……知って、るんですか?彼のこと」

彼は、先程の表情はまやかしかと疑ってしまうほどに、今はなんでもない普通の表情を取り繕っている。どくどくと痛いほどに心臓が鳴り響いて、冷や汗が流れる。いつもは心地よいと感じていた屋上の風が強く頬を撫ぜ、今日ばかりはそれを鬱陶しく思う他なかった。彼の沈黙は数秒のようで、何十分にも感じられた。

「……知らねェよ。ただ、思ったより大した男を捕まえてる事に驚いた、って言えば納得するか?」
「…なに、言って…」

彼の言葉に安堵するやいなや、新たに紡がれた、どこか含みのある発言に動揺する。なんの感情も宿していないような面立ちに、思わずぞくりとした。逸らさずそれを見続けていれば、瞬きしたその一瞬で、彼は侮蔑の表情を浮かべた。

「釣り合い取れてねェんだよ、お前らは」

何を言われているか分からなかった。目の前の男の口から放たれた言葉をゆっくり咀嚼し、嚥下し、反芻し、再び咀嚼しても、それは同じだった。この男は、何を言ってる?釣り合い?何と何が?写真に映る男女が?…誰がどう見ても見目がいい彼と、平凡な私が?

「……冗談も、それくらいにしてもらえませんか?」
「ハッ、冗談?俺はンなこと言った覚えねェな。何度でも言ってやる。てめえと、ソイツじゃ、釣り合わねェつってんだよ」
「っ…!!…あなたに、あなたに!なんでそんなことを言う権利があるんですか!?」
「権利も何も、俺はただ自分の意見を言っただけだ。あくまでてめェの他人として、な」

嘘だと、冗談だと、言って欲しかった。だって、私の知ってる荼毘さんはいつも偏った意見は出さずに、ただ私の愚痴をぼんやり聞いて、たまに小馬鹿にしたようにせせら笑ったり、ちょっとした突っ込みを入れてきたりして。それで、それから、…。

あれ、私。
一体、彼の何を知っているというのだろう。

「……だび、さ、」
「その写真、よく見直すこった。運が良ければ、バカなお前でも現実ってモンが見えてくるかもしれねェからな」

駆け出した。否、逃げ出した。とにかく、それ以上その場にいることが耐えられなかった。去る際、じりじりと焼き付けるような視線が背中を焦がして、体中が爛れたように痛くてたまらなかった。その視線の意味は、何?哀れみか、嘲笑か、それとも。滑り落ちるのも恐れず階段を駆け下り、通勤バッグを抱え込んで、人気のない夜道を走る。靴擦れした踵がじくじくと傷んで、視界が歪んだ。

ものすごく、悲しかった。悲しい、悲しい。その言葉が頭を支配して、他に何も浮かばなかった。だから、その感情が、恋人と釣り合わないと言われた悲しみなのか、それをあの男に言われたことによる悲しみなのか、それとも別の何かなのか、判断することは出来なかった。



§



恋人の彼と、音信不通になった。

何度メッセージを送っても既読の文字はつかず、電話をかけてみても、覇気のない声色の女性が淡々と定型文を語るのみだった。普段なら最低二日に一度はメッセージのやりとりをしているため、一週間も連絡がつかないのは、かなりおかしな事だった。何度か彼の会社に連絡を試みようともしたが、彼が意図的に私を避けようとしている場合のことを思うと、行動に移すことは憚られた。

連絡が取れなくなってから十日ほど経ったある日。私の足は、なぜかあの廃ビルの方へ向かっていた。この期に及んで、一体何を期待しているのだろうか。あの男にこの有様を嗤って欲しいのか。またあのときのように話を聞いて欲しいのか。私はあの屋上へ行く理由に、漫画やドラマにあるような意味の気分転換を求めていないことを、気が付かないでいた。

久しぶりに見る廃ビルは、仄かな懐かしさと、鋭い痛みを呼び起こさせた。これから私がしようとしているのは、かさぶたを掻き毟るような、傷口を抉り出すような、自傷的な行為なのかもしれない。それでも、なぜか歩みを止めることはできなくて。引き寄せられるように、私はあの場所へと向かうのだった。



§



そこに、あの男はいなかった。そのことに安堵しつつも、心のどこかで落胆を覚えている自分がいる気がした。そんな気持ちに導かれたのか、私は男がいつも座っている場所に座り込んた。何を考えるわけでもなく、ふと闇に覆われた広い夜空を眺めていれば、なぜか涙が零れ出した。最近、もう私は泣けなくなってしまったのだろうかと思っていたが、意外にもあっさり零れ出したそれに戸惑った。これから誰に会う訳でもないけれど、目を擦ってしまえば悲惨なことになるのは目に見えている。だからぼろぼろと零れ出すそれが自然に止まるまで、私はじっと耐え続けた。

「あいつに会えねェのがそんなに辛いか?」

ふと、空から聞き覚えのある声が降り注いだ。それは私がよく知っているようで、よく知らない、あの男の声だった。男の言葉はまるで堤防のように、溢れ出る涙を塞き止めた。しかし、声を出して男の問いに答える気力を与えるには、不十分だった。

「…だびさん」

辛うじて漏れた言葉は、おそらく本名でないであろう彼の名で。どこか縋るような声色が出てしまったことを心の中で恥じた。―――このあと紡がれる彼の言葉が、私を更なる絶望へと叩き落とす事になるとも知らずに。

「殺した」
「……え、」
「俺が薪にしちまったよ、お前の男」

頭が真っ白になるとはこういう事なのだと初めて実感した。「だから二度と顔合わせることもねェだろうさ」そう続けて喉を鳴らす男に、臓物を握りしめられるような感覚がした。またタチの悪い冗談を言って私を揶揄っているのかもしれない、そう思いたいのに。その目が、その顔が、その表情が。冗談などではないと告げていたのだ。

「…なん、で…」
「いつまでも現実見ねェお前が哀れで仕方がなかったんだよ。天秤がいつまでも一方に傾いてりゃ、気になっちまうのが人間の性ってモンだろ?」

さも当然の事かのように語る男に、全く理解が追いつかなかった。自分が今まで見てきた“荼毘”とは、一体何だったのだろうか。過ごしてきた時間の全てを否定されるような言葉の数々に、足元から崩れ落ちていく気分だった。

「ま、塵一つ残さず燃やしちまったからなァ?信じられねェならそれでもいいぜ。ただ、一度燃えたモンは戻ってこねェってことは一応教えておいてやる。還らねェもんにいつまでも縋れば、てめえの時間ドブに捨てることになるだろうよ」

男のあんまりな発言に、私の感情は絶望から憤りへと一気に動かされた。今すぐにでも食ってかかりたい気持ちを拳を握りしめることで抑え込み、無慈悲な発言を繰り出す男の方へキッと顔を向ける。

「……っ」

刹那。思わず、息を飲んだ。烈火のごとく怒っていた自身に、冷水を浴びせられたような心地がした。男は、今まで見た事もないような、絶対零度の暗い瞳をしていた。誰一人踏み込めないほどの、果てしなく冷たく深い闇を感じさせるその表情に、足元から凍りついてしまいそうだった。心のどこかで、いつも通り人を見下すような表情で、悪辣な笑みを浮かべているのだろうと、そう思っていた。だから、こんな表情をする彼を前にして、何を言っていいのか分からなくなってしまった。

「………最低ですね、あなた」

言いたいことはたくさんあるのに、やっと言えたのはなんとも稚拙な言葉だった。気を取り直して再び睨みをきかせながら、冷えた表情の男に立ち向かえば、どこに笑い所があったのだろうか、なぜか口元を歪ませ、「あいつと笑い合ってるのに比べりゃ、その顔の方がよっぽどてめえに似合いだぜ」なんて言ってくるから、眉を顰めながら狼狽えてしまった。

「…ヒーローに通報しますから」
「証拠もねェのにンなことできんのか?」
「…彼、顔が広いので。今だって多方面から色々調査が進んでるはずです」
「消えてから結構経つってのに、ちっとも騒がれやしねェ。世間サマってのは、随分非情みてェだな」
「……あなたの顔なんて、二度と見たくありません」
「ハッ、そうかよ」

これ以上この場にいても何も出来ないと悟った私は、屋上の扉の方へ体を向ける。…もうここへ来ることはないだろう。様々な出来事が走馬燈のように駆け巡ったが、それらは全てこの地へ置いていくことにした。
ドアノブを握る。冷たいそれを握れば、熱くなった私の手のひらと、熱伝導をおこす。

「名前」

初めて彼の口から紡がれた自身の名前に、胸が跳ね上がる。聞いてないように見えたのに、やっぱりちゃんと聞いてたんだな、なんて、呑気なことを思ってしまった自分が嫌になった。私は男が何かを言おうとしていることを察して、律儀にそれを待つことにした。

「…次はせいぜい、“イイ男”に会えるといいな」

それは、“普通”の私と釣り合わなかった今は亡き恋人の彼に対して言っているのか、理不尽な理由で恋人を殺した彼自身に対して言っているのか。嫌味なのか、純粋な気持ちなのか。今の言葉の意味も含め、洗いざらい話して欲しいことでいっぱいだったが、言葉を発しようと開きかけた口は、吐息を漏らすだけで。すっかり手のひらと同じ温度になったドアノブを再び強く握り締めると、私は男に対して何も言わずに、その場を後にした。

その日だけは、いつも帰る際背中に刺さっていた視線の気配を、感じることはなかった。



§



翌日は、運悪く休日だった。仕事があれば余計なことを考えなくて済むというのに、特にすることがないと、屋上に置いてきたはずの出来事が頭を巡って、私を苦しめた。あれから恐る恐る音信不通の彼の名前をネットで調べようとしたものの、なぜか体が拒否反応を起こしてしまい、結局何も分からず終いになってしまった。多分、彼がこの世にいないことを認めたくないのだろうと思う。

“現実を見ろ”

あの男がそう言っている気がして、意味もなく耳を塞ぐ。現実を見ろ、現実を見ろ。それに反発するように嫌だ、嫌だと口にすれば、頭が割れるように痛んだ。

私は部屋を逃げるように外へ出た。ほぼ無意識で出てしまったので、持ち物や自身の格好などが気になったが、通りかかったショーウィンドウを見る限り、そこまで問題はなさそうで。しっかりと化粧もしていることから、習慣とは恐ろしいものだと漠然と感じた。

活気のある場所で気分転換をしようと街中を歩き回るも、所々目につく仲睦まじげなカップルを見かける度に虚しくなって、気づけば結局人の寄り付かないような場所をうろうろしていた。するとあるとき、路地裏の死角から出てきた来た男と、ぶつかってしまった。

「おっと、失礼」

からん、と。予想もしていなかった音が鳴ったので、ぶつかったことよりもそちらに気を取られてしまった。「こちらこそ、すみません」と言いながら、ぶつかった相手の顔も見ずに音の正体を探すと、相手の足元に、小さなビー玉のようなものが落ちていることに気が付いた。思わずそれを拾い上げると、透き通る美しい蒼が、あの男の瞳と重なって見えて。同時に視界がぼやけると、次にはそれがぐにゃりと歪んで見えた。

「あ、それ俺のだわ。ありがとさん」
「…っ」
「……え。あれ、待って、キミ泣いてる!?」
「いや、っすみませ、っ、」
「ちょ、あっ、もしかしてどっかぶつけたとか!?悪ィ、どこが痛むんだ!?」
「や、っ違くて、大丈夫、なので、」
「いやいや、泣きながら言われても全然説得力ねェよ」

これ以上相手の人を困らせまいと、涙を堪えたけれど、止まるどころか次から次へと溢れてくるからどうしようもない。いっそこの場を去ろうかと踵を返そうとすると、「待って」と手首を掴まれ引き止められる。

「理由がなんであれ、こんな状態のキミを放って置きたくないんだよね、俺。…あ、ちなみに変な意味は全くないないよ?ただ、落ち着くまで場所移動しないかってだけで」
「…でも、本当に、」
「あとキミが手に持ってるソレ、まだ返してもらってないしさ」

そういえば、と思い出して、手のひらに握られた蒼のガラス玉の存在を感じる。徐に振り返れば、天然パーマの、少し軽薄そうな印象を持つ男性が、「ね?」と軽くウィンクをした。



§



さっさと持ち物を返して去ればいいものの、その男性のもつ独特な雰囲気になぜか首を横に振ることが出来なくて。怪しい所に連れてかれたら逃げればいいか、と思いながらとぼとぼと男性についていった。案内された場所はこれまた人気のない場所にある寂れたビル。内心どきりとしたが、中に入ってみるとバーのような部屋に続いた。

「あーー!!圧紘くんがカァイイ女の人連れてきてます!!」
「なっ…!オイ、お前どういうつもりだよ!?いくら死柄木と黒霧が今出てるからって…!!」
「しかもちょっと泣いてるじゃねぇか!まさか拉致してきたのか!?お前ェ最低だな!!」「コンプレス、よくやった!!」
「はいはいお前らうるさいよー。あ、ここの席好きに座っていいからね」
「あ、はい…」

道中、他に人がいるとは聞いていたけれど、想像よりも数倍賑やかな雰囲気に少し気圧されつつ、私は導かれるままにカウンターの席に座る。男性は元々部屋にいた三人を軽く往なすと、「騒がしくてごめんね」と困った風に笑ったけれど、「とんでもないです」と返せば、ほっとしたような表情をした。

「なにか飲む?」
「いえ、お構いなく」

そう言ったものの、水を用意してくれたので、「ありがとうございます」と呟けば、流れるような動きでぽんと頭をひと撫でされた。

「セクハラですよ圧紘くん」
「変態オヤジだな!」「なんて紳士的なんだ!」
「…あんなナチュラルに…お前…」
「お前らいい加減ちょっと黙ろうか?あと俺はおじさんだけどオヤジじゃないから」

そんなやり取りを聞いて、思わずくすりと笑いが漏れると、アツヒロさん(制服を着た少女が呼んでいた)は、一瞬驚いたような顔をしたが、次には優しく微笑み返してくれた。

それから。アツヒロさんは無闇にこちらの話を聞き出そうとはせず、本当にただ私が落ち着くまでそこにいることを許してくれた。しかし、いつまでも居座るわけにもいかないので、そろそろお暇しなくてはならない。ちょうど今お手洗いを借りたので、部屋に入るタイミングにでも切り出そう。そう思いながらバーに続くドアを開けようとすると、部屋の中からあの制服を着た少女が、「そういえば、荼毘くんってなんであんなことしたんでしょうねぇ」なんて言ったのが聞こえてきた。もちろん、私は胸がどきりと跳ねた。同名の他人かもしれないけれど、荼毘なんて珍しい名前の人がそんなに多くいるだろうか、という気持ちもあって。私はそのまま彼らの会話を聞くべく、扉の前で聞き耳を立てた。

「あー、そりゃ俺も思ったわ。この前あいつが殺ったのって義爛の持ってきたリストにいたやつだろ?生け捕りにしたら報酬貰えるヤツ。確か洗脳系の個性だったよな……お、あった。こいつか。へー、相手の好意を自分に向けることができる、ねぇ。しかもそいつの個性にかかった人間は、そいつが理想の人間に見えちまうらしい。その個性に加えて、女引っ掛けまくってるところ見ると、なんかインキュバスみてェだな」
「生け捕りと生死問わずを履き違えることなんて普通あるかよ!虫の息でも生きてりゃしばらく生活に困らなかったってのに…」
「人間、誰でも間違えるもんさ!」「荼毘のバカ!!」
「でも、私は荼毘くんが間違えたわけじゃないと思います。そのリストについても『俺はやんねェ。お前らで勝手にやってろ』とかカッコつけて言ってましたし」
「それじゃ荼毘は条件を間違えたわけでも手元が狂った訳でもなく、そもそもこの案件には乗らずに、個人的な理由であいつを手にかけた可能性がある、って言いてぇのか?」
「それがわかんないから聞いたんですよ。ねぇ、圧紘くんはどう思います?」
「うーん…なんとも言えねェな。けど、そのリストに載る奴らはそもそも手がかり掴むことすら難しいメンツなんだよ。おそらく、情報流すだけでも金になる。そんな大物をついうっかり、遺体すら残さず燃やしちまうなんざ、なんからしくねェと思うンだよなぁ。まさかリストにいる奴の顔忘れてたってこともねェだろうし。荼毘がそうしちまうほど怒らせる何かをそいつがしでかしたか、はたまた俺たちの知らねェ別の事情ってモンがあったのか。…ま、本当のところは本人にしかわかんねェがな」
「結局、真相は闇の中、か」
「うーん。難しいことはよくわかんないですけど、そのリストに載ってる人ってみんなとっても悪ーいひとなんですよね?なら報酬は残念ですけど、荼毘くんが悪者を倒してハッピーエンド!!ってコトでもいいんじゃないですか?」
「トガちゃんの言う通り!荼毘は俺たちのヒーローだ!」「おっかねぇヴィランに決まってんだろ!」
「…ステインの意思はどうだろうか。いや、でも報酬が…」

そこまで聞いて、もう十分だと思った。荼毘さんと彼らの関係とか、彼らが本当は何者なのかだとか、そういうものはひとまずどうでもよかった。ただ、私の身に降り掛かった真実と、荼毘さんの言動に隠された意味が分かった気がしたから。現にいま、私の頭にかかっていた靄のようなものが徐々に消えていくと同時に、今まで何故か忘れていた記憶が、蘇りつつあって。

『いや…やめて…近づかないで…!!』
『…いや?本当に、いやなのかい?“いや”じゃなくて、“好き”だろう?』
『…ち、ちが、』
『君は、僕が“好き”なんだよ』
『っ……わたし、は―――』

カラクリが分かってしまえば、残るのは全身を這うような嫌悪感だけだった。会う度に偽物の感情を植え付けらて、ただ言いなりになって、男にとっての複数の内の一人になって。そんな人間に約一年もの間、身体を許してしまっていただなんて、吐き気がした。おそるおそるスマホを取り出し、あの日荼毘さんに見せた写真を開くと、私は絶句した。そこには、知らない男がいた。否、実際には一度だけ見たことがある男であったが、私が今まで接してきたはずの男の影はどこにもなかった。よく知らない男と自分が共に笑い合うその絵面は、見るに耐えないほど気持ちが悪かった。

…これで、ついに全部わかってしまった。経緯はどうあれ、私は全てを知ってしまった。恐怖、嫌悪、絶望。様々な感情が交錯して、今にも叫び出したい気分だった。…だけど。今の私には、そうするよりも優先しなければならないことがあった。

『飛び降りんのか?』

初めて会った日の、少し不気味で、独特の雰囲気を醸し出す荼毘さん。

『事情がねェんなら、お前はただの死にたがりってことでいいよな?』

変わった脅し文句を使って、私の話を聞いてくれた荼毘さん。

『…今日もバカみてェに元気だな、お前。夜の静けさも泣いてるぜ』

愉快そうに人を馬鹿にしてきたと思えば、しれっとズレたことを言い出す荼毘さん。

『釣り合い取れてねェんだよ、お前らは』

突然、冷酷な表情で突き放してきた荼毘さん。

『…次はせいぜい、“イイ男”に会えるといいな』

私の名を呼び、どこか憂いを見え隠れさせた荼毘さん。

彼との思い出は、全部が全部、ホンモノだ。そしてそれらを思い浮かべたとき、胸に広がるこのあたたかい感情も、きっと─────

…行かないと、早く。あの人の元へ。

私は勢いよく扉を開けると、驚いた様子の彼らを尻目に、「急用ができたので帰ります!」と叫び、てきぱきと荷物の準備をする。急に声を張り上げた私に呆気にとられている中で、アツヒロさんだけは平静を取り戻し、「気をつけて帰んなよ」と声をかけてくれた。

「…そういえば、これ。お返ししますね」
「ん?あー、いーよいーよ。良かったらそれはキミにあげる。ただの何の変哲もないビー玉だけどね」
「本当ですか?嬉しいです!ありがとうございます、アツヒロさん」
「……!」

改めて全員にお礼を言うと、私は颯爽と彼らの“アジト”から出ていった。外はすっかり日が暮れてしまったが、僅かな光を頼りにきらきらと輝く手のひらの蒼は眩しかった。記憶の中の蒼がそれと重なると、今までとは別の種類の息苦しさを感じた。



§



「そういえば、名前聞きそびれちゃったな」
「えー、圧紘くんナンパ下手くそですね」
「…うるさいよ」



§



走って走って、ひたすら走り続けて。髪やメイクが崩れても、治りかかっていた踵のかさぶたから血が流れても、上手く息継ぎが出来なくて呼吸がままならなくても。一秒でも早く彼に会いたいから、走り続けた。やがてよく見慣れた景色のところまで来ると、あの廃ビルが見えてきた。最後の力を振り絞ってそこまで駆け出し、私はその無機質な灰の建物をじっと見つめた。昨日もここへ来たというのに、それに対する見方が全く変わっていたことが可笑しくて、思わず笑ってしまった。

息を整えながら、一歩一歩を踏みしめて階段を昇っていく。先程まであんなに早く彼に会いたくてたまらなかったのに、いざそれを前にするとどこか不安を覚えてしまって、歩みが遅くなった。それでも、確実に屋上への道は縮まっていって。やがて扉の前まで着くと、小さく深呼吸をしてから、一度はもう来ないと決意したはずの場所へと、足を踏み入れた。

そこに彼は──────いた。

闇に溶ける髪と服がゆらゆらと風に揺れ、あのビー玉のように透き通る蒼の瞳は、月の光を浴びてきらきらと輝いていた。こちらを少しも見ることなく、宙に浮かんだ視線は、一体何を映しているのだろうか。そして、屋上へ来てから僅かに感じた違和感。それは、彼がいつもの定位置ではなく、私が座っていた場所に座り込んでいる事だった。それを理解した瞬間、自惚れではないが、ぶわ、と頬が熱くなってしまった。

静寂は続く。あれだけ会いたかった相手が目の前にいるのにも関わらず。話したいのに、喉に声が張り付くような感覚がして、上手く言葉を紡げない。そんなもどかしい気持ちに焦りつつも、私は逆に、彼の定位置の方に腰を下ろした。

「…二度と顔見せねェんじゃなかったか?」

先に沈黙を破ったのは、彼の方だった。心地よく耳を通るテノールは、こんなにも胸をざわつかせるものだったろうか。その変化に戸惑いながらも充足感を覚えつつ、私は口にすべき言の葉を慎重に探る。

「…いろいろ事情が変わったんです」
「ハッ、また事情かよ」

話せ、とは言われなかったので、そのまま口を噤んだ。それからさほど間を置かずに、彼は「…で?何しにここに来たんだ」と続けたので、「荼毘さんが言っていた“イイ男”を見つけたので、その報告を」と返せば、彼の目が初めてこちらを捉えた。

「…へぇ?そりゃ随分と早いこった。女の心変わりは怖ェな」

彼はこちらを見据え、スッと目を細める。口元は笑っているようだが、底冷えするようなその視線が彼の内心を物語っていた。しかし、私はそれをものともせず。殊勝にも、「どんな相手なのか、訊かないんですか?」と言ってみせた。彼は数秒、私の腹の中を探ろうとしたようだけれど、ついに考え倦ねたのか、「訊けば教えてくれるってのか?」と言う。「教えますよ」と返せば、彼は私の方へと顔を向けた。それは『じゃあ言ってみろ』と言わんばかりの仕草だったので、私は彼の意に従うことにした。

「まず見るからに悪人面。というか多分ヴィラン」
「…それで?」
「加えて性格も悪いし、いつも皮肉ぶつけて人を小馬鹿にしてきます。…でも、騙されてる女に遠回しながらも助言くれたり、憎まれ役買ってでもその女を救おうとしてくれたり…。かなり不器用だしちょっと過激だけど、嫌いになれない魅力がある、…そんな、ひとです」
「……。」
「騙されてるならお前騙されてるぞって、ハッキリ言ったらいいのに。私の中の“あの人”を綺麗なまま守って、あなた自身の方は黒く染めて…そんなことされても、ちっとも嬉しくないです。少なくとも私は、真実を知れてよかったと思いました。…まぁ、そういうところが、あなたの“イイ”所だったりするんですけどね」

…言った。言ってやった。言いたいことの半分以上は伝えられなかったけれど、確かに彼への想いは言葉にできた、はず。今更ながら頬に熱が集まってきて、どくどくと鳴る鼓動が全身に響き渡る。羞恥心に耐えながらも彼の表情を覗けば、あの日見たような、大きく見開かれた蒼のビー玉が、私の赤くなった顔を映し出していた。やがて彼の口からくく、と喉を鳴らすような笑い声が聞こえてくると、彼は例の、相手を馬鹿にするような表情を浮かべて。

「…バカな女だな。男運は前世にでも置いてきたか」
「もしかしたらそうかもしれませんね、まだ決まったわけじゃないと思いますけど」

周囲は陰鬱とした黒なのに、場にそぐわずどこか晴れ晴れとした雰囲気を醸す彼が妙に愛おしく感じて、同じようにくすくすと笑った。

──────その、一瞬の隙で。

「っ…」

私の視界には彼の顔がいっぱいに広がって、唇に柔らかい感触が当たった。彼が口付けをしたのだと、それが離れるまでうまく理解できなかった。目を見開き、これでもかと言うほど赤く茹で上がった私の顔を見て、彼は満足そうに口角を上げ。

「…これからゆっくり確かめるんだな。そしたら、嫌でも俺の言った言葉の意味が分かるだろうよ」

ゆっくり、か。その言葉が妙に嬉しくて、思わずにやけそうになる。挑発的な顔をする彼に、私も同じような表情を返して。

「……望むところです」

堂々と宣戦布告をすれば、今度は少し深い口付けが、私の戦意を徐々に消失させていくのだった。




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