平凡コンプレックス







彼はなぜ私を好きになってくれたんだろう。
最近、そんな疑問を抱き始めた。

彼、もとい、秋山駿。

街金融スカイファイナンスの社長兼、キャバクラ・エリーゼのオーナー。

ワインレッドのジャケットに、ひらいた黒シャツから覗く金のネックレス、そして腕時計。少し長めの黒髪を後ろに流し、男らしさを醸す無精髭を蓄える、贔屓目なしでもいい男。

対する私は、平々凡々。普通に義務教育を終え、普通に高校、大学と卒業し、普通にOLになり。特筆して優れていることもなく、それなりのオシャレをして、化粧をして。そうやって、私はザ・普通の道を生きてきた。……そんな私が秋山さんとお付き合いできたのは、奇跡のようなことだと思っている。

いつからかは覚えてないけど、彼に出会い惹かれるまでにはそう時間はかからなかった気がする。はっきりと自覚してからは、叶いっこないって気持ちを必死に押し込めたっけ。唯一の相談相手の谷村さんには「……あー、まぁ、ばれないんじゃね?」と(若干心もとない)お墨付きをいただいて、私自身も、案外上手くやってるなと思っていた。そういう、つもりだった。

「ねぇ、俺のこと好きでしょ」

……彼から、そんな言葉を聞くまでは。

「!?な、なななっ、
「いやいや、あれで気づかないのは相当な鈍感だけだと思うよ」
「……うそ」

顔が急激に紅潮した後、一瞬で真っ青になる。私はどうなるんだ。待っているのは恥か死か、しんど死か、失恋死か。いずれにしても、競馬中継を聞きながらテキトーに返事をした谷村さんだけは幽霊になってでも祟ってやると心に決めた。

「ごめんね、意地悪なこと聞いて。でも、そろそろ困ると思ってさ」
「……困る、ですか」

それは、私の気持ちが、という意味だろうか。
結果は分かりきっていたけれど、やっぱりいざ振られるとなると頭が真っ白になる。……まぁ、それもすぐ、杞憂に終わるのだけど。

「そう。君に触れられないのが限界ってこと」
「…………え?」
「そわそわするナマエちゃんも見ていて楽しかったけど、やっぱり先に進まないとできないことが多すぎるよね、色々」

「……名前ちゃんが好きだよ。俺の恋人になってくれる?」

今でも鮮明に思い出せる、あのときの彼の言葉、表情。思い出す度ににやけてしまうけれど、今はそれも長く続かない。

きっかけは些細なことだった。彼と並んで歩いているとき、ショーウィンドウに写る私たちの姿が目に入って。いかにも神室町に住む男、という感じの華がある彼と、どこかパッとしない私。なんとなくだけど、違和感というか、釣り合わないというか、そんなふうに思ってしまった。

それを機に、彼は私のなにがよかったんだろうと、もやもやすることが増えていった。数日前には、たまたま街で秋山さんとエリーゼのキャストさんが立ち話しているのを見て、衝撃を受けた。一応私が彼女なわけだけど、そこにいた二人をお似合いだと思ってしまったのだ。分かってはいたけど、いつもあんなに煌びやかな女性たちと関わってるんだな。そう思うと、もやもやはさらに肥大化していって。やっぱり見比べれば一目瞭然だし、いつか我に返った秋山さんが別の女性を選んでしまうのではないか。美女だったらこんな悩み抱かなかっただろうに、世界は不平等だなぁ。私は本日何度目かのため息をつき、ネオンに照らされた地面を見つめた。

「あれ、名前じゃん」

前方から私の名を呼ぶ声に足を止める。見上げるとそこには、私のよく知る人物がこちらへ向かって、ポケットに入れてない方の手をひらひらと振っていた。

「谷村さん!お疲れ様です」
「お前も仕事帰りか?お疲れさん」

そう言ってわずかに頬を緩める彼。
そういえば、彼も顔面が大変お強い方だ。正直、今の表情だけで百人中、半分以上が恋に落ちていてもおかしくない。というか、私のまわり顔整っている人多くない……?べつにそれが悪いって言ってるわけじゃないけど、なんだか今の私にはすごく刺さる。

「……なんか元気ないな。大丈夫か?」
「……ちょっと、色々あって」

鋭い。正直、今会うには困る相手だったなと内心考える。親しみやすさから忘れてしまいがちだが、やはり彼は刑事なのだと、こういうときに思い知らされる。

「当てよっか。……秋山さん絡み、だろ?」

図星。わ、言ったそばからさっそく当ててきたよこの人……。しかも言い訳を言うには相手が悪すぎるから、私は口籠もるしかなく。そうして何も発さずにいると、彼は片手で私の背中をポンポンと軽く叩いた。

「時間あるなら久しぶりに飯行こうぜ。また前みたいに話聞くしさ」



……




「だから…人生って不平等なんですよ…!!」
「……名前ってこんなに酔いやすかったっけ」
「なに言ってるんですか、全っ然酔ってないです!」
「はいはい、酔っぱらいはみんなそう言うんだよ」

喫茶店アルプスで食事をした後、お酒が入らないと話せないからと近くのバーに行き、久しぶりに少し強めのお酒を飲めば、びっくりするほどするする言葉が漏れだして。それで今に至る。多分。

ふわふわ。ゆらゆら。
視界が揺れる。お酒を飲めば自然とこうなるものだから、別に酔っているわけじゃない。今だってちゃんと受け答えできてるし。そんな私を見て彼は呆れたようにひとつため息をつくと、腕を組む。

「……でもまぁ、なるほどね。大体は理解した。つまり、秋山さんに見合う自信が無いってことで合ってる?」
「そんな感じです……」

自分でも支離滅裂なことを言っていた自覚はあったが、それでも彼はなんとか理解してくれたようだ。私は枝豆の中身を取り出す作業をやめ、谷村さんの言葉を待つ。

「……うん、秋山さんが悪いかな」
「……え、えぇ!?私が平凡なことが、ですか!?」
「俺から見ればね」
「……もしかして、たにむらさんも酔ってます……?」
「酔ってねぇよ」

ていうかついに酔ってんの認めたな。
そう言って軽く小突く彼を、尚不思議そうに見つめてしまう。一体全体、どうして秋山さんが悪いと考えるに至ったのだろうか。そんな私の考えが伝わったのか、谷村さんは一泊置いてから口を開く。

「秋山さんが選んだんだから、平凡だっていいじゃん別に」
「……でも、」
「でも。不安なんだろ?そりゃそう思わせちゃってる秋山さんが悪いって。あくまで俺の意見だけど」

ほわほわ。ぐるぐる。
思考を巡らせるけれど、彼の言葉が上手く理解できない。別に酔ってるからじゃない、本当によく分からない。

この世界にはたくさんの女の人がいて、たくさんの素敵な人がいて。容姿だけでなく、性格とか財力とか、そういうのも含めて自分を上回る人たちが数え切れないくらいいる。そんな中、この先ずっと私を選び続けてくれる自信がない。そういう女性と出会う機会があれば、彼は離れていってしまうのではないか。そんな不安が止まない。……こんなふうに考えてしまう原因が、秋山さん?なんか今日の谷村さんの言うこと、やっぱりよくわかんない。

瞼が重い。視界にぼんやり映るまつ毛が上下に揺れる。頭も靄がかかったよう。私は腕を枕にして、重い頭をテーブルに委ねた。すると彼はそんな私に合わせるように頬杖をつき、こちらに向き合う。

「俺にしてみる?」


……。


…………?



彼の言葉を咀嚼する。ゆっくりゆっくり噛み砕く。でも、どれだけ細かく刻み、すり潰しても、喉を通らない。嚥下できない。

「俺なら名前を不安にさせない自信あるよ」

彼の手が頬を撫でる。ふわり、優しい手つき。悪い心地はしない。でも、あの人に触れられるのとはちょっと違う。

「……たにむら、さん……?」
「お前さっき自分のこと平凡とか言ってたけど、俺からすりゃ十分、」


「──────はい、そこまで」


そのとき。真後ろから、第三者の声が聞こえてきた。

あ、この声。

伏せていた顔をわずかに動かし、視線だけ後ろを向ける。するとそこには、感情の読めない表情を浮かべる彼が立っていた。

あきやまさん。そう口にして立ち上がりたい思いとは裏腹に、体はいうことを聞かなかった。

「……谷村さん。これ、どういうつもりかな」
「どういうって、フツーに相談乗ってただけですよ」
「へぇ、ただの相談にしては随分飲ませたね。この後ホテルにでも連れ込む気だった?」
「まさか。止めなかったのは謝りますけど、そういう気は一切ありませんって」
「じゃあ、さっきのはどう説明するつもり?」
「あわよくばナマエに秋山さんが嫉妬したとこ見せてやれるかなーと思ったんですよ。さっき秋山さんが店入ってきたのが見えたんで、タイミング見計らってました。残念ながら、当の本人は睡魔と戦ってる最中みたいですけど」
「なるほど、気づいてたんだ」
「伊達に刑事やってないんでね。こういうのは癖みたいなもんです」

彼らがなにかを話しているようだけど、会話の半分も聞き取ることができない。今の私には、意識を現実に留めようとすることで精一杯だった。

「名前ちゃん」

谷村さんとの会話が終わったのか、彼は私の名を呼ぶ。それに辛うじて、はい、と応えれば、いつの間に近くに来ていた彼がこちらを覗き込んで、顔にかかった髪を耳にかけた。

「負ぶるって言ったら、掴まってられる?」

負ぶるって、おんぶ?秋山さんがしてくれるの?
なんだかはずかしいけれど妙に嬉しくて、こくこくと頷き、思わずにへらと笑う。彼はそんな私を見て呆れつつも微笑むと、こちらに背を向けしゃがみ込む。先ほどまで少しも動けないような気がしていたけれど、その背中を見れば飛びつきたい衝動に駆られて。思いのままに彼の背中にダイブすると、首周りへ腕を回す。ふわ、とした浮遊感とともに、遠くなる地面。嗅ぎなれた彼の香水が心地よくて、そのままぎゅっと頬を擦り寄せた。

「代金はそこね。釣りはお好きにどうぞ」
「お。んじゃ遠慮なく」

そう告げると、彼はもうここに用はなくなったのか、谷村さんに背を向け、歩みだそうとする。

「秋山さん」

ふと、谷村さんが呼びかける。彼は足を止めると、振り返りはせず、横目で谷村さんを目視する。

「ほどほどにね」

意味深な一言。谷村さんは多くを語らなかった。でも、彼にとってその言葉の真意を理解するには十分だったらしく。僅かな沈黙の後、わかってるよ、と一言返すと、彼はついにその場を後にした。


からん、というベル音ともに冷めた世界に包み込まれる。肌を撫ぜるひやりとした風が、彼の温もりをより強く感じさせた。

「そういう気は一切ない、か……[[rb:あんな目 > ・・・・]]しておいてよく言えるよ、まったく」

その呟きは誰の耳に届くこともなく、神室町の喧騒と雑踏に紛れ、やがて霧散に消えていった。



§



ずき、と頭に鈍痛が走る。

瞼の隙間から漏れる白みがかった光が眩しい。そこでやっと自分が眠りから覚めつつあることを察すると、ゆっくりと思考を始める。

あれ?私さっきまで谷村さんと飲んでたよね……?珍しく強めのお酒飲んだら、色々溜め込んでたものが爆発して、またお酒を呷ってしまった気がする。そして、それから。……まずい、その先の記憶があやふやだ。確か、途中で秋山さんが来たことは覚えてるんだけど……。

そんな風に昨晩の出来事を辿っていると、近くで布が擦れるような物音が聞こえてきて。おもむろに瞼を持ち上げると、ぼやけたフィルター越しに男性の顔のシルエットが写る。

「……あきやま、さん……?」
「うん。おはよう、名前ちゃん」

やがてピントが合うと、ベッドの横からこちらを覗き込む秋山さんの姿を、私の瞳と脳が完全に捉えた。そして、その顔を見て記憶が蘇る。酔いが回って動けなくなってしまって、彼の背中に飛びついて、背中の体温が心地よくて、……。そこまで思い出したところで、一瞬で覚醒した。私は勢いよく上体を起こし、彼に向き合う。

「あああ秋山さん!!昨夜は大変ご迷惑を、う゛っ……」
「あーほらほら無理しない。なにか飲む?薬は?」
「……いただきます」
「了解。……はい、どうぞ」

既に用意していたのか、彼はすぐにコップに入れた水と市販薬を渡してくれる。申し訳なく思いつつも彼に感謝を述べ、コップに口をつけた。

そういえばここって、どこかのホテルの一室かな?彼は部屋の内装を眺める私の様子を見て考えていることを察したのか 「店を出てから、一番最初に目に入ったホテルに入ったんだよ」と説明してくれた。うわぁ、めちゃくちゃ迷惑かけてる……これはしばらく引き摺ることになりそうだ。

「……とりあえず、シャワーでも浴びてくる?ちなみに俺はさっき済ませたから」
「……じゃあ、そうさせてもらいます」
「一人で入れそう?なにかあったらすぐ呼んでね」
「大丈夫です、ありがとうございます」

“とりあえず”ということは、おそらく彼には別の要件があるのだろう。今回だとそれは十中八九、昨晩についての話。すぐに謝罪やら何やらしたいところだけど、話す前に汗を流しておきたいし、酷い有様になっているであろう化粧は今すぐにでも落としたい。私はそのまま彼の好意に甘えることにして、浴室へと向かった。


……



「おかえり」

彼の出迎えに少し照れつつ、微笑みかける。これは脱衣所に行ってすぐ気がついたことだけど、私はスーツではなくバスローブを着ていた。多分、皺になるからと彼が着替えさせてくれたのだろう。本当に至れり尽くせりで、彼には頭が上がらない。

「あの、秋山さん……改めて、色々すみませんでした」
「いやいや、謝らないでいいよ。むしろこういうのも恋人の特権って感じでちょっといいなって思ったくらいだし。……それよりもさ、俺は谷村さんとなに話してたかが気になるんだけど」
「え、っと……それは……」

思わず言い淀んでしまうと、彼は真剣な表情でこちらを見据える。

「……それって、谷村さんが言ってた“平凡”っていうのが関わってたりする?」
「!」
「不安がどうこう、みたいなことも言ってたな。俺のことについて相談してたの?」
「それは……」
「話して欲しい。俺、名前ちゃんに何を言われたって嫌わない自信あるよ」

彼の手が、私の手のひらを包み込む。それはまるで、なんでも受け止めると告げているかのようで。未だ気が進まないけれど、ここで話さない選択肢はきっとない。私は覚悟を決めて、重い口を開いた。

「……私は秋山さんとは違って平凡だから、釣り合ってないんじゃないかって思い始めて……それから、秋山さんがなんで私みたいな人を好きになってくれたんだろう、とか、色々考えてしまって……という感じです」

さすがに谷村さんに話した全ての本音をさらけ出すことはできなかったが、たどたどしくも話の主旨は伝える。何を言われても嫌わない自信があるとは言っていても、実際のところどうなのかは分からない。居た堪れない気持ちで視線を下に向けると、彼が未だ手を握ってくれているのが目に入った。

「……なんで名前ちゃんを好きになったのか、ね」

彼は私の放った言葉を確かめるように口にする。しばらく続いた沈黙にどこか緊張しながら、彼の口元を固唾を飲んで見守った。

「一目惚れだよ」


─────────。


その言葉を聞いたとき、文字通り息が止まった。こんなに強い衝撃を受けたのは、彼に思いを告げられて以来だ。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。やがて思い出したかのように儚い吐息が漏れ出すと、心臓が早鐘を打ち始めて。そこから茹だるような熱が全身に広がったのは、一瞬の出来事だった。

「ひ、ひと……!?そんな、冗談ですよね!?」
「冗談でこんなこと言うわけないでしょ」

少し照れくさそうにも見える様子から、彼の言葉の真実味が増す。いや、まさかの一目惚れ……!混乱しながら記憶のページを捲り、急いで「秋山駿〜初めての出会い編〜」の項目を探るも、残念ながらヒットしない。私は顔を紅潮させながらも、信じられないものを見る目で彼を見つめた。

「……覚えてないのも無理ないかな。だってそのとき俺、まだホームレスだったから」
「えっ、秋山さんがホームレスだったのって、確か数年前でしたよね……?もしかして私、そのとき既に秋山さんに会ってたんですか……!?」
「うん、実はね」

あまりにも怒涛の展開すぎて頭が追いつかない。なにそれ、全然知らない、超気になる。自分に起きた出来事だというのに全く心当たりがないのがもどかしい。そんなとき彼は「……よかったら俺の昔話、聞いてくれる?」とこちらの求めていたことを尋ねてくれて。ぜひ聞かせてください、と即答すると、彼は過ぎ去った出来事に思いを馳せた。


……



あるとき路上で寝っ転がってたら、目の前を通った女性がハンカチを落としたんだ。俺は咄嗟に拾おうとして、躊躇った。俺みたいな小汚いホームレスに拾ってもらっても、嫌がられるんじゃないか、怖がられるんじゃないかって。その時は、落し物を拾って届ける、こんな当たり前のことが出来ない身の上が、つくづく嫌になったよ。そこで俺は周りを見渡した。誰か俺の代わりに拾って届けてくれる人はいないかって。でも、生憎誰も気が付きやしなかった。俺が迷ってるうちに女性の背中はどんどん小さくなっていって、このままじゃ見失ってしまうだろうと思った。俺は再びハンカチを見た。そしたら、ちょうどそれを踏もうとしている人がいてさ。そこでやっと俺はハンカチを手に取って、女性を追うことにした。ハンカチについた土を払いながら思い切り走って、俺は女性に声をかけた。

『すみません、そこの方』

俺は女性が振り返ったのが分かると、すぐにキャップを深く被った。ホームレスに対する世間の風当たりはたかが知れてたからからね。慣れてるとはいえ、不快を顕にされるのは気分がいいもんじゃない。だから、女性の顔を見ないためにそうした。

『……はい、私ですか?』
『ええ。……その、このハンカチ、あなたのものですよね?さっき落としてましたよ』

俺は女性に向けてハンカチを差し出した。さて、果たして素直に受け取ってもらえるか、もういらないと罵詈雑言を浴びせられるか、怯えて立ち去られるか。そんなことを思ってたら、俺の手からハンカチは抜き取られててさ。

『ありがとうございます……!』

その女性の声に、俺は心底驚いた。受け取ってもらえることが俺の考えうる最高の結果だったのに、まさかそうしてもらえる上に感謝までされるなんて。こんなに純粋な気持ちをぶつけられたのは一体いつぶりだろう、って柄にもなく泣きそうになったよ。そこで俺は気になったんだ。このひとは、どんな目で、どんな表情で、俺を見ているんだろうって。俺はキャップのつばから手を離して、好奇心のままに顔を上げた。


「……で、そのときの眩しい笑顔に見事射抜かれちゃってさぁ。あれからどんなに辛いことがあっても、あの子のように、俺のような人間にも微笑んでくれる人がいる世界なら、案外捨てたもんじゃないって乗り越えてこられたんだよ。ある意味、命の恩人とも言えるかもしれない」
「な、なるほど、そんなことが……」
「いや、他人事みたいに言ってるけど君だからね?」

彼の話を聞けばなにか思い出すかも、と淡い期待を抱いたものの、実際は全くその気配がない。それこそ、彼の言うようにまるで他人事のように感じられてしまった。しかし、彼が語る表情は、それが作り話でないことを物語っていた。

「……ドン底からどうにかのし上がったときは、せめてもう一度だけでも会えないかなって思ってたけど……まさか恋人になれるなんてね。本当、奇跡みたいなもんだよ」
「……待ってください。恩人とか奇跡とか言う割には、私だいぶ秋山さんに翻弄されてた気が……?」
「まぁ、それとこれとは別だから。あと俺だって弄んでたつもりはないよ?ただ名前ちゃんのことがすごく好きで可愛くてしょうがなくて、結果的にそうなっただけで」

……薄々気づいてはいたけど、秋山さんってだいぶいい性格してるよね。若干腑に落ちないところはあるが、私と同じように“恋人になれたのが奇跡みたい”と思ってくれていたことの嬉しさが勝ったので、それ以上の言及は控えることにした。

「……ってことでさ、名前ちゃんにとっての平凡は、俺にとっての唯一無二なんだよ。釣り合いだなんていったら、間違いなく分不相応なのは俺の方。そして名前ちゃんが自分の見目をどう思っていようと、俺は確かに名前ちゃんに一目惚れしたんだ。……どう?不安は少しでも拭えた?それでもまだ不安なら、形を変えて何度でも言ってあげる」

彼の言葉は胸にすとんと落ちてきて、燻っていた蟠りが消えていくのを感じる。
私にとっての平凡は、彼にとっての唯一無二、か。きっと私を平凡たらしめていたのは、他でもない私自身だったんだろうな。誰が平凡だと言ったわけでもないのに、勝手に比較して、決めつけて。そうして自分を卑下してた。こうやって、唯一の存在だと言ってくれる人のおかげで、やっと気付くことができた。

「……いえ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
「あ、なんか吹っ切れたって顔してるね。とりあえず良かったよ。……それから、ごめん。もっと早く伝えてれば、こんなに悩む必要なかったはずなのに」
「そんな!これは私の気持ちの問題ですから」
「それでも、男としては名前ちゃんを不安にさせたくなかった」

これでは堂々巡りになりそうだと思いながらも、こちらも譲らないという視線で彼を見つめれば、どちらからともなく、くすくすと笑い合う。

これにて一件落着、大団円。

私はてっきりそういう腹積もりでいたのだけど、「じゃあ、次ね」と言い出した彼に思わず、ん?となる。恐る恐る彼の顔色を伺えば、そこには怖いくらいニコニコとした笑顔を浮かべる彼がいた。

「これは前からずっっっと言おうと思ってたんだけど、名前ちゃんは谷村さんを信用しすぎ。普段はああだけどやるときはやる人だから、彼」
「えっ谷村さん?あの、」
「それ以前に。好きな女の子が別の男とサシで飲んでるとか、普通に嫉妬するからね。あ、谷村さんだし大丈夫ですよ、は通用しないから。むしろあの人だからこそ危険みたいなところあるから。ナマエちゃんはちょっと鈍いきらいがあるから分かってないだけなの。オーケー?」
「……、はい」

どうやら彼は彼で思うところがあったようだ。しかもここまで一気に捲し立てるだなんて、相当溜め込んでいたに違いない。確かに私、秋山さんはいつも余裕綽々で嫉妬とかするイメージなかったし、谷村さんとのことも特に深く考えてなかったな。私だって、秋山さんが友達と称する女性と一対一で飲んでたら面白くはない。これは反省しないと……なんて思いつつも、心のどこかで彼の嫉妬心を喜んでしまう自分がいた。

本当に分かってるかなぁ、と多少誇張しなから訝しげにこちらを見てくる彼に、分かってます!と身を乗り出す。すると突として、私は彼に肩を引き寄せられ、彼の胸にぴったりと密着する形になって。急な出来事に驚きながらも彼の顔を見ると、こちらを見つめる熱の籠った双眸と目が合い、思わずぞくりとした。

「……さっきの話だと、名前ちゃんはなんだか俺をすごい人みたいに思ってるみたいだったけどさ。蓋を開けてみれば俺だって所詮、好きな子に関することじゃ常に余裕がない、普通の男だよ」

自嘲気味だけど、どこか妖しく。彼がフッと口角を上げると、部屋の空気が変わったのを肌で感じた。焦がすような視線に耐えかねて思わず顔を背けると、彼は目を合わせられないなら、と言わんばかりに、私の耳元へ口を寄せた。

「今だって、ほら……こんなにどきどきしてる」

囁きにも似た掠れがかった声が、耳を擽り、脳を熔かす。彼は私の手を自らの胸に誘導させた。どくどくどく、と気持ち速めの彼の心音が掌を介して伝われば、つられるように私の心臓も早鐘を打ち始めた。

「名前ちゃんがこうさせてるんだよ、わかる?」
「……あ、秋、山さん……っ」

つぅ、と彼の細くて綺麗な指が太腿を撫でる。そのいやらしい手つきから、彼の方は完全にスイッチが入ってしまったのだと悟った。

「……こんな俺は、好きじゃない?」

そんな聞き方、ずるい。嫌い?って聞けば、嫌いじゃないって答えられるのに。でも、それもきっと、彼の計算の内。

「…………好き、です」

羞恥と快感に震える声で、呟く。無意識に、ぎゅっと拳を握りしめる。

「……目を見て言ってくれないと、信じられないな」

嘘つき。そんなこと思ってない癖に。でも、そうしなければ不安を与えてしまうのもまた事実。

「こっち、向いてよ」

意地悪。やっぱり私を弄んでる。でも、それもこれも“ただ君のことがすごく好きで可愛くてしょうがない”故の言動なら、拒む理由は無い。

……ああ、知らず知らずに布石を打たれていたのか。今さらそう気づいても、彼に出会った時点でなにもかもがもう遅い。

「……す、好きで、っ」

彼の要望通りに顔を向け、口にしようとした言葉は、彼の唇によって遮られてしまう。何度も何度も、重なり合っては絡み合い、吸われ、なぞられ、奪われて。激しい水音に、耳まで犯されている気分になる。

やがて息が続かなくなり、彼の肩を軽く押せば、彼は下唇を軽く食んだのを最後に、唇を離した。

「……可愛い」

吐息混じりの低い声に、下腹部がきゅぅ、と疼く。酸素が薄くなり、脳が正常に回らない。頭の中が“秋山さん”と“好き”でいっぱいになって、口を開けばそれしか言えなくなりそうだ。彼はそんな私の頬を優しく撫で、心の底から幸せそうに微笑む。

「俺も、名前ちゃんの全部が好きだよ」

こんなにも愛おしげな表情と声色で愛を紡ぐ人の、一体何を疑おうか。別の人を選んでしまうのでは、だなんて考えてしまった自分を今さらになって恥じる。


そして私はこのときから、平凡な自分に別れを告げ、本当の意味で身も心も彼の唯一になった。





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