「……また泣いてんの?」
神室町が目覚める夜。しとしとと降りそそぐ雨の中。
おまえは小さな折りたたみ傘をさして、ぽつんと屋上の端に立っていた。この前と、同じように。いや、その前も、さらにその前も、……。まるでなにかの儀式のように、決まっておまえは雨の日に涙を流した。
「いえ、これは雨なので……泣いてなんかないです」
上擦った声色。取り繕った笑顔。いつもの定型文。
……こんなにわかりやすい嘘をつくやつ、他にいないだろ。知ってるか? 傘をさしてれば、強風でも吹かない限り、雨に濡れることなんかないんだよ。でもきっと、おまえが雨の日に泣くのは、この言い訳を使うためだから。
「……そっか」
そう、だから俺は今日も、おまえの嘘に騙されてやる。本当は俺の前では無理しなくていい≠ュらいクサい台詞を言ってやりたいところだけど。あいにく俺には、おまえにそれを言ってやれる権限も立場も需要もない。その役を担える幸福な人間はこの世でただひとり。それは、おまえの泣く理由でもある男。ちょっと本気で入れ替わってくれねぇかな。そろそろ俺の日々の恨み嫉み妬みが積もりに積もってくる頃だろうし、都合のいい奇跡でも起きてくれよ。
……なんて。
「……」
急になんか取り出したかと思えば、ツーショット写真入りのロケット?あーあ。そんな切なそうに見つめちゃってさ。そんなにいい男かそいつ? 幼馴染だかなんだか知らないけど。おまえみたいないい女がそばにいながら、他のやつ好きになっちまうとか、さすがに見る目無さすぎないか?
…とか言えたら楽なのにな。結局俺は、見えないふり、聞こえないふり、知らないふり。せいぜい俺にできることなんて、雨の日におまえの横で、おまえの想い人を呪うことくらいだ。いつまで繰り返すんだろうな、これ。というか、おまえもおまえだよ。毎回雨に頼りやがって。一度だって、俺を頼ってくれやしない。これが知り合いポジションの男の運命ってやつか。
はぁ、これだから勝算のない賭けは嫌なんだよ。かと言って、簡単に降りてやる気もないが。
「どれくらい外いんの? 震えてんじゃん。風邪ひくぞ」
「ふふ、優しいですね。さすがお巡りさん」
いや、期待を裏切るようで悪いけど、下心しかないんだわ。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。こういうときもう言っちまえよ≠ニ悪魔が囁くけれど、その度になんとか理性がやめておけ≠ニ自制する。そして、想像する。例えばおまえ以外のひとが、俺に好意を伝えてきたとして……無理だな。100%揺らぐ気がしない。やはり、想い人以外から好意を向けられても、困らせるだけなのだろう。おまえほどじゃないかもしれないけど、しんどいよ、本当。
「…谷村さん。私今日で終わりにしようと思うんです」
おまえがそう言い放った途端。急に、雨音が強く感じられた。降り注ぐ雫は、夜闇を突き刺し、引き裂き、地を穿つ。敢えて、なにを、と問わずとも、言葉の意味はわかった。
「あの人を好きな私なんて、はじめからいなかった…そういうことにしようって」
だけど、意図はわからなかった。諦めるとか、踏ん切りをつけるとか、そういうのならわかるけど。なぜ、なかったことにする必要があるのか。
「……私、あの人と身体の関係だったんです」
息を飲んだ。思わず目線を真横にやって、おまえを見つめる。伏せられたまつ毛から覗く、悄然とした仄暗い瞳と目が合うと、どくり、心臓が嫌な音をたてた。
「……その言い方だと、付き合ってないのにってこと?」
「……付き合おうとか、そういう言葉は交わしてません。でも、関係はあったし、彼もいつか結婚しようってよく話してたから……そういうことでいいのかなって」
だけど、全部、私の勘違いでした。
ガツンと、鈍器で頭を殴られたような衝撃。無理矢理にでも笑おうとするその顔は、見るに堪えないほど悲壮感に溢れていて。今すぐおまえを抱きしめたい衝動に駆られるともに、おまえの想い人への怒りで頭の中が真っ赤になった。
「馬鹿ですよね、私。ずっと知ってる人だからってなんの疑いもせず、あの人の言うことをすべて鵜呑みにして」
「…………」
「知らない女の人とベッドの上にいた彼に言われました。
『お前はただの幼馴染で、恋人は“こいつ”だけだ』と」
そうか。いつかおまえが言ってた“あの人に好きな女性がいたって知ってしまったんです”って、そういうことだったのか。でも俺は、勝手に自分で納得して、ただそれだけで、なにも言葉が出なかった。
失恋したとはいえ、いつまでも泣き続けるのには、なにか俺に話したこと以上の理由があるんじゃないかって思い始めたのは、いつからだったか。おまえがもし事情を話してくれたそのときには、こういう言葉を掛けよう、ああいう言葉で慰めようって、たくさん考えていたはずなのに。
「今日までに、あの人が関わった物の全てを処分しました。……あとは、これだけなんです」
それは、先ほどおまえが手にしていた写真入りのロケットペンダントだった。こちらに向かって笑顔をみせる二人の男女。それは瞬きの間に、おまえの指によって遮られた。
「この人を好きな私なんて、いなかった」
びり、と入り込んだ亀裂は、まるで今の二人の関係を現してるかのよう。しかし、小さな楕円の中の住人は何が起こっているかなんて全く考えていない様子で、相も変わらず朗らかに、幸せそうに、その小さな世界で笑っていた。
おまえはそのまま、ロケットを握り締めた拳を手摺りの外へ持っていく。確かこの下は、ゴミ捨て場のある路地裏だったか。それでなんとなく、おまえが何をしようとしているかを察した。
「…………本当に、いなかったら、良かったのに」
それは、今にも消え入りそうな、小さな声だった。
でも、俺の耳にはしっかりと届いた。無数の雨粒を掻い潜って、欠けることなく俺の元まで辿り着いた。
だから。
「……谷村、さん?」
気づいたら、おまえの腕を掴んでいた。まるで、これから起こるであろう出来事を、引き止めるように。
「……いなかったら良かったとか、言うなよ」
その言葉は、聞き捨てならなかった。
たとえおまえでも、許せなかった。
「気持ちはわかるし、第三者がなに言ってんだよって思うかもしんないけど」
だって、それでも俺は。
「あいつを憎みこそすれ、おまえ自身を否定することなんかないだろ」
俺はあいつを好きだったおまえも、好きだったから。
「… 谷村、さん…」
伝わっちまってねぇかな。言葉を越えて溢れそうな、おまえへの想い。もう少しだけなら大丈夫なはずだ。
「……その写真でさ、」
俺がそう呟くと、おまえは写真に食い込ませていた爪をゆっくりと離して、それを見つめた。
「俺、おまえのそんな顔、初めて見たんだ」
この空の暗雲をも一掃してしまえそうな、どこまでも輝かしく、眩しいくらいの笑み。この笑顔をつくったのは、つくることが出来たのは、悔しいけど俺じゃない。
「事実がどうであれ、その笑顔すらなかったことにして、全部捨てるようなこと、するなよ。…おまえだって本当は、捨てたくないんだろ?」
「……どうして、」
「懲りずに今日までずっと、雨に濡れてるから」
それを俺は、おまえの真横で、ずっと見てきたから。
おまえは俺の言葉を受けて、また頬に雨粒を伝わせた。人間って不便だな。片手で傘を持って、もう片方でおまえの腕を掴んで。そのたった二本しか腕がないから。おまえに降りかかる
「……谷村、さん…わたし、」
おまえが何かを発しようとした、刹那。おまえの手のひらから、するりと、なにかが滑っていくのが視界に入った。
──そこからは、すべてがスローモーションの世界。
おまえは瞳を大きく開いて、慌ててそれを掴もうとして、体重が下に向いて、低い手摺りは意味を成さず、そのままおまえの体は下へ下へと向いていき。
俺はおまえの腕を掴んでいた手を思い切り上に引き上げて、傘を持っていた手を離して、代わりにおまえの手から離れたロケットを掴むと、何故かおまえと俺の間に手摺りの壁が阻んでいるのが見えて。そして。
気づいたら俺は、宙に浮いていた。
必死にこちらに手を伸ばすおまえ。
せっかく可愛い顔なのに、雨でぐしょぐしょだ。
あぁ、結局。
俺はさいごまで、おまえにそんな顔しかさせられないのか。
でも、俺、そんなおまえも、好きだな。
どうしようもないくらい、好きだったよ。
重力に従いながら、おまえの顔を目に焼き付けるように見つめて、この有り余る想いを口にしようとする。
しかし、ついにそれは形を成すことなく。
ぽろぽろと降り零れる無数の雨粒たちとともに、俺は、おまえからずっとずっと離れたところに向かっていった。
「―――っ!」
勢いよく飛び上がった。物静かな空間に、自身の吐息が際立って響き渡る。状況を理解するより先に、忙しなく鳴り続ける鼓動を感じ、ひどく安堵した。
……今の、夢か。
あの出来事は、最近にも、遠い昔にも思えるから、すぐに現実だと気づけなかった。にしても、随分久しぶりに見たな。理由は大方、見当がついているが。俺はベッドの横に置いておいたロケットに目を移した。
「……ん、」
おっと。お姫様を起こしちまったか。
俺の真横でシーツに包まる彼女が、ぼんやりとした様子で、こちらに顔を向ける。
「……おはよう、正義さん」
「おはよ、名前」
俺が髪を撫でれば、気持ち良さそうに微笑む彼女。
んー、今日も200点。点つけるようなもんじゃないけど。
「…………怖い夢でも見たの?」
「、……なんで?」
「冬なのにすごい汗かいてるし、あとは……彼女の勘?」
「ふ、なんだよそれ」
「えぇ、結構当たるんだよ?」
「……まぁ、外れてはないけどさ」
「ほら!」
得意げな表情をする彼女に自然と笑いが込み上げる。
そうして、先ほどまで俺と俺の吐息しかなかった味気ない空間は今日も、彼女の存在によって鮮やかに彩られ始める。愛ってこういうことかなって。柄にもなく考えてみたり。
「……ねぇ、どんな夢見たの?」
起き上がった彼女はこちらを案じるように覗き込む。
シーツで胸元を隠す姿が、目に毒だ。
「……あのときの、屋上の夢」
「えっ…!なんで今になって…まさか、なにかの前兆なんじゃ…!?」
「それはさすがに大袈裟すぎ。大丈夫だって」
彼女は案の定、瞠目して動揺を隠さない。そうやって心配させたくなかったから、本当は言いたくなかったんだ。
「もう、大丈夫じゃないでしょ!あの日だって運が良かったのと、正義さんだったから助かっただけで、普通だったら……」
「それはもう過ぎたことだし、今はこうして五体満足なんだからいいだろ?…あ、わかってると思うけど、前に封印した“私のせいで”ってやつ復活させるなよ」
屋上から落ちたあの日。俺はてっきりここで死ぬんだと思ってたけど、案外生き延びることができた。落ちた場所がゴミ捨て場の上だったこと、無意識に受け身を取っていたこと。他にもなにかあった気がするが、とにかく俺は死ななかった。
意識を失っていた俺が次に目覚めたのは、白い空間。これがあの世ってやつか、なんて考えていると、全身が軋むような感覚がして。違和感から視線でその場を探れば、目を丸くする彼女がいるんだから、本当に驚かされた。あ、俺、これ生きてるわ。って、そのとき初めて気がついた。
だけど、まさかそれから、彼女が一ヶ月半欠かさず病院に通い詰めてくれるなんて。退院後も毎日のように会うようになって、ついには、彼女と交際することになるだなんて。屋上から落ちた瞬間の俺は、夢にも思わなかっただろう。だって俺は今でさえ、これは妄想なんじゃないかと、思うときがあるから。
欲して、切望して、渇望して。きっと俺は生まれてから死ぬまで、これ以上になにかを欲しいと思うことはないのだろうと。それほどまでに、焦がれて焦がれて仕方なかった彼女が。俺を選んで俺に好意を向けて、俺に特別な笑顔をみせてくれる。こんな幸せがあっていいのだろうか? そんなふうに。
とりあえず言えることは、俺にとってあの屋上からのダイブは、至上の人生への入口だったってわけだ。結果的に。ほんと人生って、何があるかわかんないな。
「…うん。それはもう卒業したから、大丈夫」
「そ。ならいいよ」
「でもそれにしたって、なんで突然あの日の夢見たんだろうね」
「そういえば思い当たる節はあるんだった。ほら、これ」
「あ、それ…!」
俺は横に置いてあったロケットを手に取り、彼女に見せた。
「棚にしまってあったのに、取り出したの?」
「んー、ちょっと使いたくてさ」
…なんか今になって、緊張してくるな。長年ギャンブラーとして培ってきたポーカーフェイスは、ちゃんと機能しているだろうか。
「はい」
「?」
「開けてみて」
彼女は純真な眼で俺からロケットを受け取り、促されるままロケットを開く。
きらり。光を受けて輝くのは、昨日俺が入れておいたそれ。今は彼女の手元にあるのだと思うと、不思議な感覚になる。
「……結婚しよっか、俺たち」
「…………え、」
異常に渇いた口内。
冷える手のひら。
流れる汗。
彼女の顔を見るのが少し怖くて。
でも、しっかりとその瞳を見つめる。
「名前。俺と、結婚してくれないか?」
長い長い時間。に、感じた。
実際、長かったのかもしれないけれど。今、彼女は、なにを思い、なにを考えているのだろうか。そんな煩悩を振り払うと、全身で彼女に思いを伝えることだけに徹する。
ぽろっと煌めいたのは、彼女の瞳から生まれ落ちた、涙。それは、この世にあるどんな宝石よりも価値があって、どんな宝石だって敵いやしない美しさをもつ代物だろう。
「……泣くか笑うか、どっちかにしろって」
「っ……ちがう、よ」
彼女は涙を拭いながら、俯いた顔をこちらに向ける。
「これは、雨、だから…泣いて、ないよ」
彼女の言葉は、あのときのおまえの姿を呼び起こさせた。雨ばかり頼って。頑なに涙だと認めなくて。ふだん弱音なんて吐かないくせに、好きな男のことでは泣くんだよな。
でも、彼女はもう、前のおまえとは違う。同じところはあっても、違う。だって、悲しくて泣いてるわけじゃない。あの破けた写真にも負けないくらいの、彼女の満面の笑みが、その証拠だ。
俺は彼女を抱き締めた。少しも迷うことなく。
俺は彼女に有り余る愛を伝えた。確かに形を成して。
だって今の俺にはそれをする権限も立場もあるから。
窓の外から注がれる優しい光が、俺たちを照らす。
ふと、そちらに目を向けると。
───そこには、雲ひとつない晴天が広がっていた。