また、そう言える日まで







「明日、俺と由美で錦の誕生会をやるんだが……お前も来ないか?」

帰宅中、道端で偶然会った桐生さんに言われたのは、そんな言葉。

そこでまず思ったのは、

“錦山くんって明日誕生日なんだ”

というどこか他人事な感想だった。


§


錦山くんとは半年前に出会った。しつこいナンパに困っていたところ、私を助けてくれたのが彼だった。

それを機に顔を見知ってからは、街中で頻繁に声を掛けてくれるようになった。消極的な私にも気さくに話しかけ、人懐っこい笑みを浮かべ。そんな彼の性格故か、仲良くなるにはそう時間はかからなかった。

それから程なくして、食事を共にするようにもなった。多分、その頃にはもう彼に惹かれていたと思う。

そしてある日、街を歩く彼の姿を見かけ、話しかけようと近付いたところで、足が止まった。彼は、彼と同じ年くらいの男性と、清楚なイメージの可愛らしい女性と楽しそうに談笑していた。

……初めて見る表情だった。

今まで私が見てきた彼の顔は、彼のほんの一片に過ぎなかったのだと思い知らされた。その空間には、私が絶対越えられないであろう壁が見えた。たった一目で、それが分かってしまった。私はなんとなくそれ以上その光景を見ているのが耐えられなくなってしまって、道を引き返そうとした。

「……名前?」

その声に、思わずぴくりと反応してしまう。

出来れば気付かないで欲しかった。その2人はきっと、大切な人達なのでしょう? そんな彼らと話しているのに、私の存在に気付いてしまうなんて、そんなの。

…そんなの、嬉しくなってしまうに決まってる。

「お、やっぱ名前だったか。どうしたよ、こんな時間に」
「…ちょっと、買い物があって」

努めて笑顔を作った。内心は醜い感情と歓喜とが混ざりあっていて、とてもじゃないが自然な笑みは出来なかった。

すると彼の後ろから先程の2人が私の顔を興味深そうに覗き込んできた。

「……錦、そいつは?」
「あ!もしかして、彼女とか?」
「馬鹿、違ぇよ。ちょっとしつこいナンパされて困ってたんで、追い払ってやったことがあってな。それがきっかけで知り合ったんだよ」
「へー!案外やるじゃない」
「あぁ、案外やるな」
「おいおい、一言余計だっつの」

私には決して見せない、彼の生き生きとした笑顔。きゅっと胸が締め付けられたのは、恋心故か、複雑な心境故か。

「…はじめまして、名前です」

先程と同様、笑みになれない笑みをし、会釈する。そしてお互い軽く自己紹介をすると、彼らが幼馴染みであることを知った。幼い頃から今の今までずっと共に居続てこその、あの特別な空間だったのだと、どこか納得出来た。

桐生さん、由美さん。2人はとても優しく、素敵な人だった。その日から2人も錦くんと同じように、街で会えば挨拶をしてくれるようになった。

でも、どんなに彼らがいい人たちでも、私にとっては “錦山くんの幼馴染み” でしかなくて。我ながら性格が悪いと思うけれど、2人と顔見知りになったことを機に、錦山くんが2人の話ばかりするようになったのは、少し面白くなかったのだ。



─────そんな最中だった。

桐生さんに、錦山くんの誕生日会に誘われたのは。

「……錦山くん、明日誕生日だったんですね」
「ん?もしかして聞いてなかったのか?…まぁ、あいつもわざわざ自分の誕生日を言ったりしねぇか。なんの脈絡もなく言えば、まるで祝ってくれと言ってるようなもんみてぇだからな」
「そう、ですね」

桐生さんの中では、私と錦山くんがどのように映っているのだろうか。分からない、けれど、今の発言から見ても、少なくとも私が思う以上に、錦山くんとの関係値は高いと考えているのだろう。錦山くんにとっては私は、幼馴染みでも恋人でもなく、友人か顔見知り程度の存在でしかないのに。

「…誕生日会、ですよね。申し訳ないですが、私は遠慮しておきます。せっかくのお誘いなのにすみません」
「……なにか、用事でもあるのか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……せっかく水入らずなのに私が参加するのは気が引けて」
「なんだ、そんなことか。それなら気にする事はねぇ。むしろお前が来てくれたら嬉しいと思ってるんだ。俺も由美も…もちろん錦もな」
「……桐生さんは、なにか勘違いしてます。私は桐生さんが思うほど、錦山くんと親しくないんです。きっと錦山くんだって、私がいたら場違いだって思いますよ」
「……いや、そんなことは、」
「錦山くんが直接言ってたんですか?私が来てくれたら嬉しいって」
「……」

黙り込んでしまった桐生さんを見て、やってしまった、と思った。そして、私はなんて嫌な女なのだと、自分に嫌気がさした。桐生さんはただ善意で私を誘ってくれただけなのに。勝手に嫉妬して拗らせて彼に当たって。こんなの、錦山くんが好きになるはずもない。いや、錦山くんどころか、誰だって。

「……ごめんなさい。明日は特別な日なのに、嫌な気持ちにさせてしまって」
「……いや、それは気にしちゃいねぇよ。それよりさっきの話だが」
「私、家に帰ったらやることがあるので、そろそろ失礼します」

桐生さんは不思議な人だった。外見だけでは少し近寄り難い感じがするが、話してみれば言葉の節々に優しさが感じられるのだ。

何事も筋が通っていて、いつも真っ直ぐな人。幼馴染みということを差し引いても、彼を兄弟と言って敬うのも頷ける。

しかし彼は、眩しすぎるのだ、本当に。こうして暗い気持ちになっているときには、彼の光は眩しすぎて視界が白んでしまう。

「待て」

その光に引き止められて、目が眩む。足を止める。でも振り向きはせず、耳だけを傾ける。

「……誕生日会はセレナって店でやる。明日の22時頃からだ」

彼は、それ以上何も語らなかった。でもきっと “来い” と、彼はそう言っている。私はそれに対して何も返さず、そのまま帰宅した。



§



……一体、私は何をやっているのだろう。行く気もないのに彼へのプレゼントを手にし、意味もなく街をぶらつき。

1時間ほど経った頃、やっとセレナという店のあるビルの前に立った。ただ見上げるだけで、それ以上足を進める気はなかった。こんなことしていても、ただ時間は過ぎていくだけで、何も変わらない、誰も気付かない。ならば、何を期待してここにいるのだろうか。

はぁ、と口から漏らした息は無色透明。寒い季節になってきたけれど、まだそれは白い吐息にはならなかった。

「……錦山くん」

ふと、届くはずもない相手の名前を呼んだ。


─────刹那。


「……名前?」
「っ!」

まるで、ドラマのワンシーンかのように。

目の前に、彼が現れた。

見開かれた彼の瞳が、ネオンの光を浴びて、きらきらと光っていた。

「……へへ、なんか、ドラマみてぇだな」

息が詰まった。まさか、彼が同じようなこと思っていたなんて。思わず頬に熱が集まってしまうけれど、きっとこの暗さでは気付かれないはずだ。

「俺、今お前を探しに行くとこだったんだよ」
「…え?」
「桐生から今日のこと聞いてたんだろ?でもアイツ、店の名前だけ言って具体的な場所は伝えなかったらしいじゃねぇか。だからお前が迷ってると思ってよ、ちょっと様子見に行こうとしたんだ。そしたら外に、お前がいたってわけだ」

彼の発言から察するに、桐生さんはどうやら私を誘ったことは話したが、誘いを断ったことは伝えなかったらしい。伝えられていたらそれはそれで少し困ったことになっていたかもしれないけれど、まさかこんな結果になるとは。

「……どうして探そうとしてくれたの?私が行く気がなかったって、考えなかったの?」
「なんだよ、それ。まさか名前、来たくなかったのか?」
「…それは、」
「ま、もしそう言ったとしてもこの状況じゃ信じられねぇけどな」
「!……どうして?」
「どうしてってお前……明らかにプレゼントですっつぅもん手にして、ここに立ってるってのはなぁ」

そう言って嬉しそうに笑う彼に、胸が締め付けられた。今まで燻っていたもやもやが、一気に晴れていくような気分だった。

「早く来い。こっちは名前来るって聞いてから、もう祝われる気満々なんだよ」

そう言って、どこか気恥ずかしそうに手をのばしてくれる彼。……本当、やめて欲しい。こんな期待させるようなこと。だって知ってる。どう足掻いても彼の特別には決して敵わないことも、彼の思いが既に別の女性に向いていることも。

だけど、少しだけ、自惚れてもいいのだろうか。私が思う以上に、彼は私のことを大切に思ってくれているのかもしれないと。

私は差し出された彼の手のひらに触れた。少しだけ触れた指先が熱くて、思わず手を引っ込めそうになった。でもそれは、優しく握られた手によってかなわなかった。

「錦山くん」

エレベーターのボタンを押す彼の背中に、私は語りかける。彼は振り返らずに、「なんだ?」と返事をした。

お誕生日おめでとう
「……全く、遅ぇんだよ」

口ではそう言いつつも、その声色はやけに上機嫌で。遅れて「ありがとよ」と言ってくれたときの笑顔を、私はきっと忘れない。





















10/9 AM 12:46


……あぁ。また、日付が過ぎてしまった。

今年も言えなかったな。そんなに難しい言葉じゃないはずなのに、なぜだろう。

彼はほぼ毎日のように魘されているし、定期的に不安定になることはあるけれど。

10月8日。

これも彼の感情が大きく揺らぐ日だった。

……恐らくそれは、“彼ら”のことを思い出すからであろう。もうここにはいない彼ら、喪ってしまった彼ら、二度と元通りには戻れない彼ら。きっと彼の命が尽きるまで、消えない、消せない、消えてくれない存在。その記憶が強く呼び覚まされるのは、決まって何か強い思い出が残っている日だ。

今日は、久方ぶりに手酷く抱かれた。でも、一度だって拒みはしなかった。むしろそんな彼を優しく包みこむように、余裕があれば笑いかけてみせた。大丈夫、あなたには、私がいるから。彼らの代わりになるだなんて思い上がった考えはしていないけれど、それを埋めるような努力は惜しまなかった。たとえそこに愛がなかったとしても、彼に必要とされているだけで十分だった。

本当は言いたい。誕生日に言う、定番のあの言葉。すべてを呪うように生きる彼に、あなたが生まれてきてくれて私は本当に嬉しいんだって、そんな感謝の気持ちを込めて。

でも、言えるはずがなかった。それを言えば、彼がさらに荒れてしまうのは…否、傷ついてしまうのは、目に見えていた。

『…俺は、何のために生まれてきたんだろうな』

行為中、彼がそう呟いたのを聞いたことがある。彼は何もかもを呪っているかのようだけど、きっと自身を一番に呪っている。自分が生きているから、生まれてきたから…そんな風に考えてしまうことがあるのだと思う。だから、そんな彼に間違っても、彼の誕生を祝う言葉なんて、口にできるはずがなかった。

彼は私を胸に抱いて、今は穏やかに寝息を立てていて。密着する肌から直に伝わる鼓動が愛おしくて、思わず泣きそうになってしまう。

「彰くん。生まれてきてくれて、ありがとう」

一筋流れた涙は、シーツに小さなシミを作る。そして溶けて、乾いて、やがて跡も残さず消えていく。

あなたがどんなに否定しても、これだけは譲れない。

あなたは、生まれて良かったんだよ。

何のために、なんて、みんなみんな思っていることなんだよ。

自分の存在が仮に人を不幸にしたとしても、それ以上に、あなたの存在に救われた人はいるんだよ。

少なくとも私は、そうだから。

「……あいしてるよ、ずっと」

その言葉を最後に、瞼を閉じる。彼は私が愛を囁くのを嫌がるから、こうして彼が眠りについた後に、こっそりと伝えることにしていた。

今囁いた言葉も、彼にばれてしまってはいけない。

だから、私は気付かないことにした。

寝ているはずの彼の腕が強く締まったことも、その手が微かに震えていることも、鼻を啜るような音がしたことも、

ぜんぶ、ぜんぶ。









いつかのあの日のように

お誕生日おめでとう

また、そう言える日まで





2023.10.08 錦山彰HBD記念


backtop