I wanna be a “woman”.







年上のひとに、恋をした。

5歳とか10歳とか、そんな程度のものじゃない。親子だって有り得るくらいの年齢差。まさか自分が何十歳も上のひとを好きになるなんて思いもしなかった。でも、恋に落ちた。落ちてしまった。

鋭い眼光に引き結んだ口、顔には戦いの勲章であろう横一文字が刻まれている彼は、所謂ヤのつく職業のひと。おそらく、堅気の人間のほとんどは普通の人ではないと感じることだろう。でも、怖いと思っていたその顔を、かっこいいって、好きだって、そう思うようになったのはいつからだったか。

彼のことを考えれば考えるほど思いは募るばかりなのに、その存在の遠さに頭を抱える日々。でも、諦めるなんて到底無理な話だった。今の私に、彼以上に思える人なんて、絶対出来やしないから。そうやって、本能が伝えているから。

「柏木さん、こんばんは」
「ああ、嬢ちゃんか。もうすっかり常連だな」

そう言い目元を緩ませる彼に胸が暖かくなる。カウンター席で冷麺を啜る彼の隣に当たり前のように座り、大将に冷麺を注文する。こうやって彼に近づく権利がある事実が嬉しくも、どこか歯痒い。

柏木さんとは、彼の行きつけであるこの店での顔見知りという関係だった。何となく入った店の冷麺が気に入って、会社帰りに何度か来ている内に、いつもカウンター席に座っている男性の存在に気がついて。風貌から見て本職の人だろうか、と怯えつつもなぜか気になり、隙を伺って顔を盗み見る、なんてことをしてみたり。

ここへ足繁く理由はなんだろう?いつも冷麺を食べているし、冷麺が好きなのかな?どんな人だろう?食べ終わったあと必ずごちそうさんって言うあたり、いい人なのかも?

人間の好奇心とは恐ろしいもので、知りたいという欲求は留まることを知らない。とにかく彼の存在が気になって仕方がなくて、ついに仕事にまで影響が出そうになったとき。大将にそれとなく彼について尋ねることを決断した。もちろん、彼が帰った後に。

『ああ、柏木さんのことかい?お嬢さんの予想通り、彼はヤーさんだよ。有難いことにウチの冷麺を甚く気に入ってくれていてね。もう10年位の付き合いになるかなぁ』
『10年!それはすごいですね……』
『柏木さんはね、情に厚く、義を重んじ、不実には容赦しない……この街に残っている数少ない、かっこいい極道ってヤツだよ』
『じゃあ、いい人ってことですか?』
『まぁ、一概にいい人だとは言えないかもしれないけど、少なくとも私はそう思っているよ』

大将からその言葉を聞いたとき、嬉しいような誇らしいような、変な感覚になったことを覚えている。例えば、自分が好きな漫画を、友達にも絶賛されたときのような。自分の好きなものが、他の人から褒めちぎられて、自分も嬉しくなってしまう、そんな気持ち。今になってみれば、恋を自覚したのはそのときだったのかもしれない。

そうだ。あのとき、思うだけに留めておけば良かったのにな。しかし、愚かにも私は彼に話しかけてしまった。唐突に、冷麺お好きなんですかって、ただ一言。大抵の人は訝しむだろうけれど、彼は意外にもごく普通に対応してくれて。『嬢ちゃんもよく見かけるが、好きなのか?』と返されたときは、文字通り心臓が爆発するんじゃないかと思った。彼も、私を知ってた、見てた。深い意味はなかったとしても、その事実が嬉しくて仕方がなくて……そこからはもう、後戻りなんて出来なかった。

彼にもっと近付きたい。他人だったあの人が、見てるだけ、思ってるだけだったあの人が、隣で話せるまで近くになった。ならもっと、近付きたい。もっと、近付けるはず。

……浮き足立ってそんなことを考えていた自分が恥ずかしい。あのときの私は、今も尚 “知り合い” に留まってしまっている私を見たら、一体どう思うのだろうか。

「柏木さんって本当にいい女性ひと、いないんですか?」
「残念だがいねえな」
「……柏木さんみたいな人、女の人が放っておくと思えません」
「おいおい、煽てたって今日は奢らねえぞ」
「そんなつもりじゃ……!」
「ふ、分かってるさ。……嬢ちゃんは優しいな。ありがとうよ」

そうやって目元を下げ、柔らかな声を出す彼は好き。でも、そうやって娘を見るような瞳で、“嬢ちゃん”って呼ぶ彼は好きじゃない。

あなたが好きって言ってしまいたい。でも、今の関係を失いたくない。矛盾する気持ち。交錯する思い。ぐちゃぐちゃになって臓腑に重くのしかかる。冷麺はまだ半分も残っているのに、既に胃が苦しい。早く楽になりたい。全て吐き出してしまいたい。

でもそんな思いも、ゆっくり溶かして消化してしまえば、きっと問題ない。だからどうかまだ、好きでいさせて?

悲鳴をあげる心に、訴えかける。そうして過ぎ去ってゆく、進まない日々。


§


「と、いうことなので!助けてください大将!!」
「うーーん……助けてって言われてもなぁ」

今日は残業が長引いたせいで、いつもの時間に店に行けず、柏木さんに会うことができなかった。そして気分はどん底もどん底で。その気持ちがそうさせたのか私はついに大将に相談してしまった。

「最近の様子を見てもしかして、とは思っていたけど……まさかお嬢さんが柏木さんをねぇ。具体的には何をどう助けて欲しいんだい?」
「とりあえずこの店以外での繋がりが欲しいんですけど、口実が思い浮かばなくて…連絡先は遠回しに拒否されましたし、普段は忙しそうだし…」
「口実か……あ、そうだ。柏木さんたまに昼時出前を取ることがあるんだけど、もし良ければお嬢さんが行ってみるかい?仕事が休みの時にでもさ」
「いいですねそれ…!ぜひやらせてください!」
「でも届ける場所は当然ヤーさんの事務所なっちゃうわけだし、そこにお嬢ちゃんを一人で行かせるのもなぁ」
「大丈夫です!根性だけは自信ありますから!」

後先考えず勢いで言ってしまった感は否めないけれどもはや私に選択権などなかった。やるしかない、柏木さんのためなら例えヤクザの事務所だって怖くない!……多分。

大将はしばらく渋っていたけれど、結局「じゃあそのときが来たら伝えるよ」と言って、連絡先を交換してくれた。


そして、数日後。意外にも早く大将から連絡が来た。
「くれぐれも気をつけるんだよ」心配そうな顔をしながら出前の冷麺を渡す大将に感謝を述べ強く頷き、足を進める。

事前に送ってもらった住所を見る限り、どうやら柏木さんの事務所はミレニアムタワーにあるようだ。ヤクザの中でも偉い人なのは何となく知っていたけれど、やっぱりすごい人だな、と感心しつつも、やはり遠い存在なのだと思い知らされてしまう。

漠然とそんなことを思いながら歩いていれば、いつの間にタワーの前まで着いていて。それからサングラスを掛けたいかにも、という人たちが何人か話しかけてきたが、出前です、と言えば、対応に慣れているのか意外にも理解してくれた (怪しいものを持っていないか隈無くチェックされたが)。

そしていよいよ、彼のところへたどり着く、というときに、壁は立ち塞がった。

「ご苦労だった。あとはこちらで渡しておく」

……まさかこうくるとは思わなかった。たしかによく考えてみれば、偉い人はこういうものを直々に受け取らないものなのかもしれない。もしくは、大将なら組員でも顔見知りだろうから直接渡せたのかもしれないけれど、素性の分からない者はそう簡単に組長に会わせられないとか。

思いがけないハプニングに動揺してしまうが、ここまで来て何の進展もなしに帰るわけにはいかない。

「……あの、すみません。こちら、注文した方に直接渡すのは難しいでしょうか?」
「……なにを言っている?こちらで渡すと言ったのが聞こえなかったのか?」
「えっと、実は注文者の柏木さんとはちょっとした知り合いで。一言だけでもいいのでお話したいんです。お願いできませんか?」
「親父がアンタと知り合いだと?親父に今特定のオンナはいないはずだ」
「いえ、そういうんじゃないですけど、」
「帰れ。これ以上居座る気なら、無理やりにでも出てもらう」

まずい。これ以上引き下がるのは、非常にまずい。分かっているのに、恐怖やら謎の意地やらが邪魔をしてうまく足を動かすことが出来ない。

どうしよう、どうしよう。
そうやって留まり続ける私に男はついに痺れを切らしたのか、こちらに腕を伸ばしてきて。思わずぎゅ、と目を瞑ろうとした、そのとき。

「おい、騒がしいぞ。一体何を……」

がちゃり、という音とともに聞こえてくる重低音。思わず顔を上げれば、そこには私が会いたくてたまらなかった彼が、目を丸くしてそこに立っていた。

「……嬢ちゃん、か……?」
「……は、はい……」


§


その後。柏木さんは瞬時に場を収め人払いをすると、すんなり私を事務所に通してくれた。壁に飾られた仁義の文字に気圧され、きょろきょろと周囲を見回していると、柏木さんが少し笑いつつ、私に座るよう促した。

「それで、なんで嬢ちゃんが配達を?」
「…その、店が大盛況で人手が足りなくなってしまって…常連の私になら任せられるって言って、大将に頼まれたんです」

彼に嘘をつくのは心苦しいけれどここは致し方ない。事前に大将から教えられていた方便を使うと、彼は僅かに眉を曇らす。

「そうだったのか……大将、忙しいのに悪ぃことしちまったな。嬢ちゃんも、怖い思いさせて悪かった」
「いえ、怪しい発言をした私が悪いんです。あの人は柏木さんを守ろうとしていただけですし、気にしないでください」

そう言って笑いかければ、彼の顔が安堵の表情に変わり、私も続いて安堵した。しかし、思いのほか気が緩みすぎてしまった。多分、極端な緊張と緩みが同時に起こったせいで。だから、驚くほどポロッと零れてしまった。

「はぁ、柏木さん、好きだなぁ……」



…………。


…………………………。



止まる時間。静止する彼。そして、静寂。

私、今、何を言った?

脳内で台詞を巻き戻し、また巻き戻し、確認する。
そして、それを理解した瞬間、頭が真っ白になった。
あんなに閉じ込めておいた思いだったのに、こんなにも容易く溢れてしまった。よりにもよって、こんな形で。

何とかして誤魔化さないと、冗談だって言わないと。でも、思いとは裏腹に私の口は一向に動く気を見せなくて─────



「……代金はここに置いておく」

そんなときだった。彼が、そう言ったのは。まるで私の言葉なんて初めからなかったかのようなそれ。これがドラマの撮影なら、監督がすかさずカットを入れる場面だろう。でも、彼は台詞を間違えてしまった、という態度ではなく。この結果が示すのは、言わずもがな。

「あ……あの、柏木さん……?」
「釣りならいらんと伝えておいてくれ」
「なんで……待って、ください……!」
「……嬢ちゃん、」
「っ───好きなんです!あなたのことが!」
「……」
「……柏木さんが、私のことをそういう風に見てないのは分かってますし、高望みはしません……でも、せめて……私のことを嬢ちゃんって呼ばないで、名前で呼んでくれませんか……?」

それは、心からの願いだった。思いが通じる以前に、土台にすら立てないのが辛かった。恋愛対象外だと言わんばかりの、“嬢ちゃん” が苦しかった。ただ、“女性” として見て欲しかった。でもこれじゃあ暗に『私にもまだチャンスはありますか?』と聞いているようなものなのでは?私は彼の顔を見ていられず、そのまま俯いた。

「……そろそろ帰らねえと大将が心配する。早く戻ってやれ、“嬢ちゃん”」

真っ暗な暗雲が光を遮った。足元から全身が凍りつくような心地がした。彼は、私の告白に対する直接的な返事を言わなかった。しかし、“嬢ちゃん”と言った。それがなによりの答えだった。きっと彼のことだから私が傷つかないよう遠回しに言ってくれたのだろう。でも今は、その優しさが余計に辛くて、なによりも残酷だった。

駆け出した。否、逃げ出した。代金をカバンに入れて彼の顔も見ず、飛び出ていった。今日のために気合を入れたメイクも、セットした髪も、新品の服も、走れば走るほど酷い有様になっていく。だけどそんなものもうなんの意味もない。
だってそれもこれも全部、全部────

私は残された僅かな理性で店まで走った。大将はぼろぼろの私を見ても特に何も訊かなかった。ただ一言、「お疲れ様」と言って、まるで娘に接するように優しく頭を撫でてくれた。


§


有給を取った。
取らされた、取らせてくれたとも言う。

私はあれから彼のことを考えないようにするため、仕事にのめり込んだ。とにかく仕事を詰めに詰め、夜も遅くまで残業した。そんな私の様子に職場の人達は、どうしたの、何かあったの、と声をかけてくれたが、大丈夫ですと曖昧に微笑むことしかできなくて。挙句日々やつれていく私を見かねて、ついに上司から、さすがに働きすぎだと言われ、半ば強制的に休みを取らされてしまった。

彼らの善意は確かにありがたいが、休めと言われても少し困ってしまう。だって、休まないことこそが、今の私を救う唯一の方法なのに。今日は一日寝ていようか、とも考えたが、そういえば大将と……彼にも、なんのお詫びもしていなかったことを思い出す。さすがにまだ彼に会う勇気は無いけれど、大将には菓子折でも買って顔を出そうかな。新たな目的を見つけた私は、重い腰を持ち上げながら、出かける準備を始めた。


§


やっぱり無難なクッキーが良かったかな、と少し後悔しつつ手に持った菓子折り用のバームクーヘンを見つめる。大将に一つと、彼に一つ。もし万が一彼がいたら渡せるように、というのはあるけれど、大将に渡してもらうよう頼むのが本命だった。人を介して菓子折りを渡すだなんてそれこそ失礼だと思う気持ちもあるが、そうしなければこのまま永遠に無視することになってしまうから仕方がないと自分に言い訳をした。

……そっか、私。もう何があっても自分から彼に会う気はないんだな。あれから24時間を何度も繰り返したのに、未だ引き摺り続けている自分に呆れてしまう。

はぁ、と大きななため息をつく。ため息をすると幸せが逃げるって言うけれど、確かストレス発散になるからした方がいいとも聞いたことがある。今のため息はどっちだろう。幸せが逃げたのか、ストレス発散になったのか。どちらも虚しいものには変わりないが。

とりとめもないことを漠然と考えながら店の付近まで辿り着くと、なにか違和感を感じた。なんだろうこのにおい、まるでガソリンみたいな……?本能的に嫌な予感を感じ、店へまで小走りする。

普段より勢いよく扉を開ける。そして、息を飲んだ。店の中には、見るからにガラの悪い男達がいた。多分だけど、ヤクザの人。中には灯油缶のようなものをもっている人もおり彼らの目的が連想されて戦慄した。

見る、ギラりとした無数の双眸が私の方を、一気に。ぼとり、持っていた菓子折りが床に落ちた。どういうこと、何が起こって、

「お嬢さん!早く逃げろ!!」

聞き覚えのある声にハッとすると、部屋の隅で怯える大将が目に入る。しかし何かを考える前に、男の1人が私の腕を掴み上げていた。

「逃がさねぇぜ?」
「……っ」
「ひひ、そんなに怯えんなって。そう簡単にカタギに手ぇ出したりなんてしねぇさ。アンタはここであったことを何も見てねぇ……そういうことにしといてくれればいいだけの話よ」

無かったことに?なぜ?そもそもどうしてもこの店を?疑問に思うことはあっても、従う以外の選択肢はきっと全て不正解で。恐怖で声を発せずにいると、ふと男の1人がこちらの顔を覗き込む。

「……待て。こいつ、柏木の女じゃねぇか?」

その名前に思わず目を見開いてしまった。しかしそれが決定打になったのか、そこから男達の態度が急変した。

「カシラに女ァ?聞いたことねえが」
「俺は噂で聞いたことあるぜ。最近やけに入れ込んでる女がいるってな」
「それが本当ならいいエサだ。思わぬ収穫ってやつか?柏木の気に入りの店を燃やしてやろうかと思ったが……予定変更だ。女連れてくぞ」
「へい」
「……ッ……!」

あっという間だった。男が近づいて来たかと思えば、口を塞がれ体を抑え込まれ、両腕を縛り上げられる。抵抗を試みるも、びくともしなかった。

「アンタら……お嬢さんを離せ!」
「おっと大将さん。二度と料理が出来なくなるほど痛めつけてやったっていいんだぜ?」
「……っ」

胸ぐらを掴まれた大将に向かって精一杯首を振り、何もしてはダメと伝える。大将が悔しそうな顔をして俯くと、男は粗雑にその手を離した。

「柏木が来たら伝えろ!“女は預かった、取り戻したけりゃ一人であの場所に来い”ってな」


§


人気のない路地裏に連行され、私は何も出来ないでいた。時折不躾な目で見られたり、品のないことを言われたりしたけれど、あまり反応を見せない私に飽きたのか、構われることは少なくなった。

「……しかし、柏木の野郎来ねぇじゃねぇか。女はハズレか?」
「いや、恐らく別の場所でやり合ってんだろ。なんせこりゃ、俺ら駒井組に加え、他の直系五団体も含めた同時多発の合同クーデターなんだからよ」
「風間組事務所に風間組のシマ……今頃、襲撃喰らいまくって大惨事だろうな、へへっ」
「……!」

彼が何かに巻き込まれていることはわかっていたが、予想よりも遥かに事態は深刻なようで。思わず彼らの会話に瞠目すると、それに気づいた男がニタリと嫌な笑みを浮かべる。

「どうせ暇だしな……柏木が死ぬ前に教えてやるよ。あいつはな、若頭代行の癖して近江の寺田なんぞにトップ取られても何もしやしねぇ腑抜けた野郎なんだよ。おかげで古参の面子は丸つぶれ……だから俺たちは結託した。まずは柏木の野郎と風間組を潰し、古参系を一手にまとめ、寺田一派を一匹残らず消す……これが俺らの計画だよ。どうだ?」

多分、彼は“柏木の女”として接しているのだろうが、実際そんなことは無いので、言っていることのほとんどが理解できなかった。でもとりあえず、彼らが身勝手な行動をしていることと、柏木さんに逆恨みしていることはなんとなく分かった。

なにか言おうにも口を塞がれているため、とりあえず軽く睨みつけると、何を思ったのか、「それ離せ」と私の口元を抑えている男に指示を出した。

「何か言いたげだな、女」
「……私はあなた達の内情をよく知りませんが、これだけは言えます。柏木さんは、腑抜けなんかじゃありません」
「……あ?」
「……柏木さんは柏木さんなりに、何か考えがあるはずです。彼を知っているのなら、それくらい分かるはずです」
「テメェ……少し情けをかけたからっていい気になりやがって……!」
「っ、」

こうなるかもって予想はついてたのに、口が止まらなかった。声は震えているのに、喉奥から引き出すように言葉を紡いだ。

あ、殴られる。男の拳がスローモーションに見えて、来る衝撃を覚悟して目を瞑って。

「────ぐあッ!!」

私じゃない人物の、殴られる音がした。
男たちがざわめく。
おもむろに目を開ければ、そこには。

「……」

殴り飛ばしたであろう男を冷めた瞳で見つめる、あの人がいた。男たちの物騒な話から、無事だろうかと心配していたが、見たところ特に外傷はないようだ。

「柏木さん……!」

安心感と共に声が漏れ出すと、彼はこちらに目を向けた。一瞬だけ目元を緩めるも、再び鋭い眼光を放ち。

「……おい」

いつもよりいくらか低い声を出す彼に、男たちは唾を飲む。彼の凄みに圧倒されたのか、誰一人として口を開かずにいた。

「……東城会が近江の人間の支配下になったことを不満に思うのは分かる。てめえらの暴走も俺の不手際だった。……だがな」

「そいつを巻き込むんだったら話が違ェんだよ!!」

その咆哮を合図に、彼は目にも止まらぬ早さで男たちを次々と薙ぎ倒していった。たとえ何人に囲まれようが、武器を持つ相手だろうが、関係なかった。軽く躱し、殴り、蹴り、また殴り。やがて数分も経たずに、彼と私以外の人間は全て地に伏した。

もう立ち上がる者がいないと判断すると、彼は無言で私の元へ来て、拘束を解いてくれた。そのまま流れるように横抱きにされ、拒否しようと思ったが、彼の何も言わせない態度を見て、唇を閉じ観念した。

「……カシ……ラ、」
「……」

赤黒く頬を膨らませた男が、歩み出そうとした彼を呼び止める。男はそれ以上口を開かなかったが、何を言おうとしたのか察したのか、彼は男たちの方へ向かい語り始めた。

「クーデターは失敗だ。今頃、風間組の連中があらかた片付け終わってるだろうよ」
「……」
「寺田は桐生が選んだ男……そして、俺は桐生を信じることにした。出来れば皆にもそうして欲しいと思っている」
「……俺ら、は……、」
「今回の件については俺の責任として全員不問にする。……だが、てめェらだけはよく覚えておけ。次こいつに触れたら……俺が息の根止めるってな」

彼はその言葉を最後に踵を返し、男たちから遠ざかっていった。「……カッケェ」と、誰かが呟く声が聞こえた気がした。


§


多分、もしかして、もしかしなくても、彼は私をプライベートのマンションへ運ぼうとしていた。というのも、彼はさきほどの騒動から一言も発することなく無言に徹していて。おまけにこちらを見ないし、話しかけられないオーラを放つしで、会話ができず。本当は横抱き恥ずかしいのでやめてください、とか、どこに行くんですか、とか聞きたいところなのだけれど……。とりあえず目的地は近いようだし、着くまでの辛抱だと諦め、身を任せることにしたというわけだ。

そして今、やっと扉の前であろう場所に辿り着いて。彼は器用にドアを開けると、そのまま部屋をずんずんと進んでいき、私をソファの上に座らせた。

僅かに香る彼の匂いを感じ、今更になって緊張していると。突如、鼻腔いっぱいに彼の匂いが広がった。

「……無事で良かった」

耳元に響くその声で私は今抱きしめられているんだと実感した。やさしい声、やさしい香り、やさしい音。こんなにも近くで彼を感じたのは初めてで。じわりじわりと胸に溢れ出る暖かい気持ちに、涙が出そうになった。

ああ、私、やっぱり彼が好きだ。

もう、いい。この思いが叶わなくたっていい。苦しんだっていい。そんな風に思えるほど好きな人ができた私は、もう十分幸せ者なんだ。

「……助けてくれて、ありがとうございました」
「……あぁ」
「柏木さん、私……やっぱり、あなたが好きです……たとえあなたが、私を女性として見ていなくても……ずっと “嬢ちゃん” でも、私は────」

次の言葉は、彼によって遮られた。なんの前触れもなかったから、目を開けたままだった。だからすぐに理解できた。私は今、彼に口付けられていると。

触れるだけのそれはゆっくりと離れていき、そのまま遠ざかると思いきや、額と額が重なった。



「……女に見えるに決まってるだろ」



艶めいた重低音に、胸が跳ねる。身体中に熱い血が巡る。この行為の意味は、その言葉の意味は、一体。

「頑なに“嬢ちゃん”って呼んでたのは俺なりの予防だ。手元が狂ってお前に手を出さないようにするためのな」
「……柏木さ、っ」

そして再び重なる唇。今度は触れるだけじゃ終わらなかった。1度目は軽く、2度目は下唇を僅かに食んで、3度目は開いた口の間に舌が滑り込んだ。奪うようなのに優しく、激しすぎないのに濃厚で。こんなキス、知らない。快感に背筋がぞわりとし、無意識に太ももをくねらせてしまう。

やがて再びそれが離れると、彼との間に銀の糸が光るが目に入り、恍惚としながら彼を見つめた。情欲を滲ませるその瞳に、火傷してしまいそうだった。

「……もし疑うなら何度でもしてやる。言っておくが、“嬢ちゃん”にはしねえよ。こいつは“女”にするもんだ」
「っ……で、でも、あのときは……」
「分かるだろ。お前はまっさらな素人で、俺は明日の保証もねぇ筋者だ。あのとき俺は天秤にかけた、一時期の苦しみの後に別の誰かと幸せになるお前と、極道の手垢付けたまま死ぬまで一人で苦しむお前をな。それで前者を取った、それだけだ」
「……なら、今はなんで……?」
「……全く馬鹿らしいが、今回の件で気づいちまった。お前を完全に失うことに、俺は耐えられそうにないってな。……お前に会えなかった今日までの時間、俺がどんな思いで過ごしてきたか分かるか?」

そう言って彼は私の頬を親指で柔くさすった。慈しむようなそれはやはり、“嬢ちゃん” にするものではなくて。何度そうしているんだろう、と思っていたけれどそれが私の涙を拭う行為だということに遅れて気がついた。

だって、こんな幸せ、誰が想像した?彼が私を“女性”として接して、抱き寄せて、キスをして。優しい彼は私の幸せよりも、私を欲することを選んだ。そんなことって。

「…私の方も柏木さんに会えなかった日々はまるで魂が抜けたようになってました…こんなふうにした責任、ちゃんと取って欲しいです」

未だ溢れる涙を他所に、彼を抱き締める。背中に手を回してくれない彼に不安が過って、彼の顔を見上げれば、少しだけ真剣な顔をしている彼の顔がいて。

「……今ならまだ間に合う。今ならまだ、お前を離してやれる……逃げるなら、今だけだ」

彼はごく真剣に言っているようだけれど、私から言わせればそれは、「この先一生離してやれない」というプロポーズじみた言葉にしか聞こえなかった。思わずくすりと笑うと、彼の頬に手を伸ばし、今度は私から触れるだけのキスをする。

「……逃がさないでください、ずっと」

悪戯っぽく笑うと、彼は参ったというふうに肩を竦め呆れたように笑った。

「……お前には驚かされる。だいたい俺といくつ離れてると思ってんだ?」
「愛があれば年齢は関係ないです」
「普通の人間のような生活は出来ないぞ。今回みたいに巻き込まれることだってあるかもしれない」
「柏木さんがいればそれでいいんです」
「ナマエ」

彼の口から初めて紡がれた私の名前にどきりとする。そして気づけば、視界が反転し、背中は柔らかな感触に沈んでいって。

「あまり可愛いことを言ってくれるな。……加減が効かなくなる」

そして “女” としてたくさん愛してくれた。







You are already a “woman”.

お前は既に、俺にとって“女”でしかなかった。



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