あなたが珍しく落ち込んでしまったとき(錦山彰)





寂れた廃ビルの一室に、鈍い音が鳴り響く。何度も何度も、それは続く。既に見るに耐えない顔になっている相手は、もう意識を失っているけれど、彼は止まらない。

「錦山くんもうやめて……その人、死んじゃうよ……」
「……はは、何言ってんだよ。こんなクズ野郎、死んで当然だろ。それにお前がこいつらから受けた傷は、 こんなもんじゃねぇはずだ」

そこにいつもの明るく優しい笑顔の面影はなく。彼の瞳は、顔は、 心は、 ゆっくりと黒い感情に蝕まれていく。

拳を振り上げ、殴る。ただただその作業を続ける。頬にべっとりと赤黒い血を付け、狂気的な表情をする彼の姿は、傍から見ればどちらが悪者なのか最早分からなかった。

「っ錦山くん……!」

その姿を見ていられず、男に跨る彼の背中にしがみつく。

「……私、大丈夫だよ……錦山くんが助けてくれたから、もう大丈夫。だから、もうこれ以上はやめよう……?」

そう言うと、ぴたりと動きを止める彼。念を押すようにその背中へ頬を寄せれば、彼は拳を下におろす。すると、回していた手の甲にぽたりとなにかが降ってくる。それが彼の涙だと理解するのには、そう時間はかからなくて。

「……悪ぃ……名前のほうが何倍も辛いはずなのに、憎いはずなのに踏みとどまらせちまうなんて……俺は……」

震える彼の声が鼓膜に届くと、つられてじわりと視界が歪む。彼が自分のことのように苦しんでいるのが、辛くて、悲しくて、嬉しくて、愛しくて。そんな感情に掻き乱されながら、全てを受け入れるように優しく彼を抱きしめる。

幾分か落ち着いた後、彼と共に帰路につく。二人でシャワーを浴びて、二人でベッドに入って、自然な流れで肌を重ねる。互いを慰めるように、嫌な記憶を消し去るように、まるで世界に二人きりになったかのように。

何度も何度も互いの名を呼んで、そうしている相手が紛れもなく自分の愛するひとなのだと確かめ合うことが、本当に幸せで。

……そうしてその日は、二人抱き合って眠りについた。




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