ぴぴ


火花


高専に入ってまだ数日。朝の点呼で名簿を読み上げる夜蛾の声は相変わらず眠気を誘うほど平板だ。それでも今日は教室の空気がひとつ硬く締まっていた。黒板の端には白いチョークで「実戦訓練(ペア)」とだけ書かれている。その1行を見た瞬間、背骨に冷たいものが沿うように嫌な予感が走った。
そして予感というのはたいてい当たるものだ。

「___京本心音、五条悟」

刹那、教室がざわめいた。夏油は「あーあ」と肩をすくめ、硝子は肘で窓枠を小突きながら口の端だけを上げる。

「……は?」

喉の奥で音が引っかかる。誰が好き好んであんなやつと組まなきゃいけないのか。

「よかったじゃん、最強ペアで」
「冗談きついね、相性最悪だと思うけど」

皮肉を飲み込むより先に夜蛾が立て板に水で注意事項を並べた。構内グラウンドの西側、練習場の結界を二重にしてある。内側の薄い結界内に模擬呪霊を十数体放ってあるそうだ。制限時間は25分。殲滅完了で合格、失敗すれば後日やり直し。評価は個人ではなくペアに対して行う。要は連携が試される課題だ。

***

春の淡い光が白く跳ねるグラウンドに出ると既に術場は組み上がっていた。薄い膜のような気配が空気の層を変質させ、砂の匂いにほんのりと鉄の匂いが混じる。結界に触れるだけで内側でうごめくにおいが伝わってきた。
湿った、ぬめる、低い呻き。等級は3〜4あたりが雑多に。数は___15。

「おーおー、ピリピリしてんなぁ」

サングラスをかけ直しながら五条が欠伸をひとつ。緊張感の欠片もない声音だった。五条の"平常"はいつだって他人の神経を逆撫でする。

「べつに。訓練だからやるだけ」

「ふーん、訓練だから、ね。」

「つまんな。」

一言ごとに神経を逆なでしてくる。開始の合図が鳴る前から胃の奥に小さな火が灯っていた。

結界の縁に立ち私は呼吸を整える。

___《三祟相》鬼神三相の借受。まずは玉藻前の尾を1本、背に顕現させる。尾は白桃色の薄絹のように揺れ、微細な呪力の流れを拾い上げてくれる。鼓膜ではなく骨の内側で"音"が聴こえる。足音。呼気。舌打ち。呪霊の舌が砂を舐める湿音。

笛が鳴った、その瞬間。
五条は風だった。何の相談もなく、何の確認もなく、白い残像だけを置いて結界の奥へ突っ切る。砂の弾ける音、骨が砕ける乾いた音。最初の呪霊の頭蓋が靴底で容易く踏み潰される。

「ははっ、雑魚すぎ」

面白くもなさそうに吐かれた声。教えられていた最強の姿と一致しない、どこか飽き切った少年の声音。協力という概念は彼の辞書では後ろの方に書かれているみたいだ。私は結界の縁で一拍置き、ため息を短く吐く。

「……本気で一緒にやる気ないんだ」

それでも立ち尽くす選択肢はない。私も踏み込む。玉藻前の尾を3本に増やし、視界の隅に微弱な光点を浮かべる。点は、においの密度__つまり位置。右2、左4、前方5。後衛に隠れる雑魚が2。五条が派手に暴れるせいで群れは逆に蜘蛛の子を散らしたように散開していた。連携というより別行動。けれど別行動を整流に変えることはできる。

「ちょっとは合わせる気あるの?」

背中越しに声を投げると乾いた返答が空気を裂いた。

「合わせる必要ある?」

彼の無下限が薄膜のように空間を歪めた。触れようとした呪霊は触れる前に減速し、弾かれ、地面に叩きつけられる。砂が跳ね、音だけが遅れて耳に届く。

「……最低」

思っていたことがそのまま口から零れた。強いのは知っている。圧倒的な才を認めざるを得ない。

けれど___

「チームで動くってそういうことじゃないでしょ」

「おまえが俺についてくれば済むだけの話じゃね?」

挑発の温度は低い。怒りを煽るための熱ではなく退屈を埋めるための、氷みたいな言い方だ。
"ま、お前にはできないだろうけど"
その目がそう言った。私は一歩前に出る。玉藻前は感知に残し、右腕だけに酒呑童子の膂力を落とす。骨が軋む。腱が鳴る。肌の下で重さが変わる。皮膚に浮いた薄桃色の痣が息と同期して僅かに明滅する。

「……口だけって思われるの嫌いなんだよね」

次の一息で地面を蹴ると砂が裂け、空気が爆ぜる。目の前の3体は正面から、左の1体は踏み込みで、右奥の2体は燕返しの誘導で___まとめて線に並べる。殴るのではなく、押す。酒呑童子の力は拳より重い扉を押し切るときの感覚に近い。正面の頭蓋が音もなく凹む。骨の裏側で血が散る。後続の2体が押されて絡み、まとめて砂に沈む。
左へ半歩。踏み込み直し、回転する。肘で顎を打ち、踵で胸板を砕く。砂塵の向こう、玉藻前の光点がひとつ消えるたびに胸の奥の火が静かに大きくなる。
最後に残った1体の喉元に大嶽丸の風を指先だけ通す。顕現はせずに反映のみ。指の間を抜ける薄刃が皮膚と皮膚のあいだの空気を裂く。
始まる前よりも鉄の匂いが濃くなり、風が1枚、私と五条のあいだを抜けていく。

「やればできんじゃん」

心底退屈そうな声音。ただ、口元がほんの少しだけ歪んでいた。それは楽しげでも称賛でもなく、やっと退屈が一枚剥がれた、そんな顔。

「やれば、ね」

息を整えながら玉藻前の尾を一気に消す。肩と腕の重さが人間のそれに戻ると指先がじんわりと震えた。

「次は最初からやれよ。"ペア(笑)"なんだし。」

そう言って、こちらの存在など気にもしないように踵を返して去っていく背中。やっぱり、腹が立つ。

***

制限時間は10分も残っていた。帳外の見学席から夏油が小さく手を挙げる。硝子は面倒くさそうに拍手を2回だけ鳴らし、夜蛾は「合格」と一言だけ記録用紙に書き込んだ。

「やっぱ強いね、(なまえ)」

夏油が歩み寄って呑気に笑いかける。

「ありがと」

「……けど、連携は最低。あれで合格にする先生は優しすぎ」

硝子が肩をすくめる。言い返す気はない。私も同じ意見だからだ。当の五条は少し離れた日陰でサングラスを額に押し上げ、空を見ていた。白髪が風で揺れる。

「ねぇ、心音」

夏油が声を落とした。

「君の術式、3つの"相"があるって聞いた。今は右腕だけだよね」

「いまは、ね。顕現は___この程度の相手に要らない」

「賢明だな」

ふっと笑う夏油の目がほんの少しだけ鋭くなる。

***

更衣室で私は自分の手をひっそりと見下ろした。《三祟相》は骨と腱の一本一本に他者を通す。扱いを誤れば身体は簡単に壊れる。それでも私は緩めないし、甘えない。

更衣室を出てすぐの突き当たり、外気の匂いと一緒にあの声が降ってきた。

「なぁ、おまえ」

振り返ると五条がそこにいた。白い前髪が光を跳ね返している。

「おまえの尾。あれ、感知だろ?六眼は細部を解くけどあれは立体を描くタイプだよな」

「ふーん、よく見てるんだね」

「見てるつーか見えるのな」

言い方は相変わらずだが、六眼で確かに観ていたのだろう。その観察の中にほんの僅かな好奇心の色が混じっている気がした。

「……で?」

視線だけを上げると彼は鼻で笑い、どうでもよさそうに肩を回した。

「べつに?今度から飽きたらおまえに任せよっかなーってだけ」

「最初から連携してやればいいじゃん」

「んー考えとくわ」

背中を向けた白い影は数歩で角を曲がって消えた。

胸の中に残ったのは達成感ではない。高揚でも安心でもない。ただひとつ。

「……1番関わりたくないタイプ」

本心だった。それでも、次の訓練の集合時間になると私はいつもより早くグラウンドに立っていた。
嫌悪と興味は、ときどき同じポケットに入っている。私はそれをまだうまく取り出せないだけだ。

- 2 -

*前次#


ページ: