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 布団が変わると眠れなくなるなんてことは全くない、むしろ布団が無くても眠れるほど図太い神経を持つイトであったが、オンボロ寮のベッドは落ち着かなくてやや寝不足気味である。
 あんなに柔らかくてフカフカな布団は多分、産まれて初めてのことだった。記憶のない赤ちゃんの頃ならもしかしたら。けれどもイトが覚えていないのならそれはノーカンだ。

 いい匂いもするし心地の良い温もりに包まれるから、イトは結局、ボロボロのソファの上で着ていたマントにくるまりながら寝た。
 着古した分厚いマントに顔を埋めて、深呼吸をするとひどく落ち着いた。色々な汚れが付着して、その度に洗剤で洗えるわけもないから、結構なにおいだとイトにも分かる。
 ただそれでも、高級羽毛布団なんかよりも、硬くてカビ臭いソファの上でこのマントに包まれている方が、心の底から安心できたのだ。
 夜中の3時をまわった時だった。

 少しだけ重たそうな瞼を擦りながら起きてきたイトとは正反対に、ユウは疲れからかぐっすりと眠ることができた。
 家で使っていた時よりも良い物であろう布団に枕に、吸い込まれるようにして倒れ込んでからの記憶がない。
 グリムの足がお腹に乗っていたから目覚めがいいとは言えなかったけれど。窓から差し込む朝日の眩しさに、ほんの少しだけ不安が和らいだだ気がした。

「今日からお仕事を頼みたいところではありましたが……まずは生活スペースの掃除からですかねぇ」

 煤や埃を被ったキッチンの前で朝食はどうするか考えていると、クロウリーが現れてそう言った。
 昨日の夕食と同じように全員分の朝食を運んできてくれたが、毎日毎食持ってきてられないから早く自炊せよ、ということだろう。

 キッチン以外にもまだ掃除すべき箇所ばかりのオンボロ寮であるが、グリムが掃除という言葉に顔を顰める。
 雑用係の名は非常に不本意ではあるが、学園に通うためならば仕方ない。不満の言葉は出さなかったが、せめてもの抵抗でめいっぱい嫌そうな表情をしてみせた。

 そんなことより雑用より、魔法を学びたいのに。

「私、掃除得意です」

 グリムにとって大変ありがたい申し出は、寝起き特有のポヤポヤした表情でへにゃりと笑ったイトからだった。

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「大丈夫かなぁ、イトちゃん」

 オンボロ寮を出てすぐ、ユウの口からイトを心配する言葉が出てきたから、グリムは丸い瞳を更に丸くさせて驚いた。

「女の子一人で、あそこゴーストもいるし。やっぱり一緒に掃除した方が……」
「本人が言ってるんだから好きにさせるんだゾ」
「そうかもしれないけど……うーん」

 何をウンウン唸っているんだこの人間は。あの女の何が心配なのだ。むしろ、離れられて良かったじゃないか、とは、口には出せない。

 身体中からあんなに血の匂いをさせて、時折見せる鋭い視線はナイフのようで、グリムは最初、生きた心地がしなかった。
 魔法のおかげで匂いは消えてくれた。けれど人よりも気配に敏感なグリムは、イトと同じ空間いると心臓が鷲掴みにされているような、剣の鋒を喉元に突き付けられているような気分になる。

 話によればユウと同じく異世界からやって来たとかで、魔法を使うことはできない。グリムに言わせれば雑魚であるはずの彼女を、どうして恐ろしいと思ってしまうのだろう。

 朝の空気を新鮮で美味しいと感じるのは、オンボロ寮が何年も使われていない埃っぽい古びた建物であったから、という理由だけではない。
 イトから物理的に離れたことで、グリムはようやく息がしやすくなったのだ。

「早く雑用係の仕事を終わらせて、イトちゃんに合流しよう」

 意気込むユウに返事はしない。できれば長引かせて、他の仕事も任されて、オンボロ寮に帰る時間を遅くしたいのが本音だ。
 願わくば、ゴースト達にいじめられて、あの寮から出て行ってはくれないか。
 グリムは自分がひどいことを考えている自覚はない。むしろひどい目にあっているのは自分の方だと思っている。

 でも多分、あのゴースト達ではイトを追い出すことはできないだろう。どころか、ゴースト達も彼女を怖がるのではないだろうか。

 イトからは死の匂いがする。

「グリム? 寝てるの?」
「歩きながら寝るわけないんだゾッ」

 返事の声は、震えていなかっただろうか。

 グリムの胸中で渦巻く不安は、NRC校舎に近づくにつれ次第に薄れていった。

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