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桜はすっかり散っていた。俗に言う出会いと別れの季節、とやらが過ぎ去ってすぐの、木漏れ日が心地いい日だった。こんな晴天の中、これから学校だなんて。イトは欠伸をひとつこぼし、重たい足をゆっくりと運ぶ。番傘をくるりと回した。
「間抜けヅラ」
「うるさ」
隣を歩いていたクラスメイトが傘を覗き込むようにしてそう毒づいた。イトは反射的に彼の鞄を小突いたが、沖田は飄々とした顔でそれを受け流した。
「さっきも電車でブッサイクな面晒してやしたぜィ」
「寝不足なの……ふあ」
隠す気のない大きな口に沖田から呆れた視線を向けられたが、出てしまうものは止められない。ほろりと零れそうになる涙を指先で拭う。
授業で眠ってしまうだろうけれど、成績に支障が来す以外の問題はない。それが一番の問題に思えるが、高校生など何事も舐め腐っている年頃なのだから、大人が話す将来がどうの、進路がどうの、イトはいつもうわの空で聞いている。
どうせ眠るなら保健室のベッドがいい。家のものよりも硬いけれど清潔で、パリッとしたシーツのベッドが。
どの授業時に教室を抜け出そうか、イトが脳内で時間割を思い出していた時だった。
「──あの!!」
突然背後から聞こえた大きな声に、沖田と揃って肩を震わせた。すぐに顔を見合わせ、同じタイミングで振り返る。
後ろに立っていたのは、額の痣と花札の耳飾りが特徴的な少年で、顔立ちや学生服から同い年くらいであろうと推測できた。けれど見覚えは全くないものだから、イトは沖田を見遣る。
お前の客? とでも言いたげな視線は、沖田からも向けられていた。
「あの……俺のこと、覚えていませんか」
少年の視線はイトだけに向けられていた。真っ直ぐに直向きに、どこか縋るように。
イトは首を横に振った。その途端、少年を拒絶してしまった気持ちになってしまった。全くもって見知らぬ相手なのに、左胸あたりがずくんと痛んだ気がした。
少年はひどく傷ついた顔を一瞬だけ見せたが、すぐに笑顔を取り繕った。誰が見ても分かるほどの痛々しい笑顔だったが、イトも沖田もそれを指摘したりはしない。知らない相手だから。
「人違い、でした。突然すみません」
「いや……こちらこそ、なんかごめんなさい」
「いえ、俺が間違えただけなので。それでは」
少年が走り去る。風と共に、焼けた炭の匂いがした。
少年の姿が見えなくなった頃、沖田が歩き出す。イトも立ち止まっていた足を踏み出して、学校までの道を急ぐ。
「縄文式のナンパ? ……にしては、なんかガチでしたねィ」
「……なんだったんだろうね」
眠気は、覚めてくれたけど。首を傾げながら少年の姿を今一度思い出す。
花札の耳飾りはともかく、あの額の痣は、一度でも目にしていたら何かしら引っかかりがあると思うのだが、残念ながらいくら考えても覚えがない。
人の名を覚えるのは苦手だが、顔だけならまだ何とか、この人見たことがあるな、くらいにはなるのに。
「新手の宗教勧誘かなんかでさぁ」
「うーん、多分それは、違う気がする」
少年は言葉にはしなかったものの、節々で、視線で、確かにイトのことを知っていると伝えてきた。彼の真摯な姿勢を見て、ナンパや宗教勧誘だとかは到底思えず、イトは傘の下で考え込む。
人違いではないのだろうと確信があった。あの傷ついた表情は、紛れもなく、自分の否定がそうさせてしまっていたのだと、イトは気付いた。
それでも、覚えていないものは仕方がないだろうと思考を散らす。もしも思い出せたところで、結局何の意味があって声をかけられたまでは分からないと思うので、この出来事は早急に忘れることにした。
不意に空を見上げる。晴天。薄い雲がかかっている。
飛行機もヘリコプターも、"船"も飛んでいない。
あぁ、その時代の。イトは次に江戸の町並みを思い返してみたが、やっぱり少年に見覚えはなかったのだった。
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