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図書室のような匂いのする部屋だった。本の匂いというのは言葉にできないけれど、なんとなく特有の匂いが学校の図書室には漂っていて、別に好きでも嫌いでもないその匂いが、この国語準備室に薄くだが充満していた。
一冊1キロ近くはある国語辞典がいっぱいに詰められた段ボールを、イトはせっせと運んでいた。国語の授業中にぐっすりと眠っていた罰として運ぶように、と担任から仰せつかった。
3-Zに在籍する生徒に限って言えば、この程度の重さの荷物ならば造作もなく運べてしまう。学級委員長があまりの量の多さに手伝いを申し出てくれたが、丁重に断り一人で持ち上げた。
国語準備室のドアは閉められていたが、イトは流れるような動作で足で開けた。手が塞がっているから仕方ない、との言い訳は心の内で。
大きな音を立てて机の上に置く。片付けろとまでは言われていないので、これでイトの仕事は終わりだ。
労働の後の反射的なため息をついた後に踵を返す。
放課後。運動部の体操の掛け声が遠くから聞こえる。
「おー、あんがとな」
開いたままのドアから顔を覗かせたのは、イトに重労働を押し付けた張本人の坂田銀八だった。学校内だというのにタバコを咥えながら、死んだ魚の目で突っ立っている。
イトは視線だけ合わせて浅く頷いた。そのまま銀八の横を通って部屋を後にしようとする。
しかし行手を阻むように銀八が身体の位置をずらし、イトの目の前に立ち塞がる。イトは怪訝そうな顔で目の前の銀八を見上げた。
「なんスか」
「柄悪ゥ……いや、まぁアレだよ。とりあえずそこ座れ」
銀八はイトの肩に手を置いて強制的にぐるりと後ろを向かせる。無防備な背を押して、教室内にあるただ一つの椅子にイトを座らせた。
抵抗する間も与えない、速やかな行為にイトは一拍遅れてから首を傾げた。
「何事?」
「生徒指導事」
窓を開けると初夏の香りが風と共に吹かれてきて、同時に本の匂いは何処かへ飛んでいってしまった。狭い部屋はすぐに気配を変えてしまう。銀八がタバコに火をつけると途端に初夏の香りも去ってしまった。
生徒指導と聞いて思い当たる節は、イトには全くない。かといって優等生かと聞かれれば肯定することは出来ないのだが、イト以上に問題児の多いZ組、わざわざ自分だけひっ捕まえて生徒指導する理由が分からない。とはイトの言い分で。
彼女も彼女でZ組の他に引けを取らない問題児であるが、自己認識と他者認識に齟齬が生じるのは致し方ない……かもしれない。
イトは銀八が話し始めるのを待っていた。煙がもくもくと空に吸い込まれていく様を黙って見ていた。
気温が上がるにつれ段々と日が長くなっていたが、それでも16時をまわれば、空は夕焼け色に変わり始めていた。
「なんかあっただろ」
「……なんか」
「そ、なんか」
イトは腕を組んだ。なんかってなんだ。アバウトな問いかけに考え込む。
Z組に在籍しているのだから、毎日何かしらのトラブルはある。今日はゴリラが壁にめり込んでいた。
銀八の態度からそういう類の"なんか"ではないだろうことは伝わったが、果たしてそれ以外に何かあっただろうかと、イトは明後日の方向を見ながら思案する。
「えー、なんだろう」
「いやいやいや、そんな立派な隈携えてすっとぼけんのも無理あるからね。そもそも気づいてない?」
「くま?」
「あっ気づいてなかったの。目の下すげぇことになってんぞ」
銀八が自身の目の下をトントン、と指で叩く。イトも反射的に同じ場所をなぞった。
手鏡を常備しているわけでもなく、けれど先生が言うのだからそうなのだろうと、イトはへぇ、と気の抜けた返事をする。銀八が苦い顔をした。
「風邪とか、体調はどうなんだ」
「元気です。多分」
「多分かい。……まぁでも、お前が風邪引いたところなんて、今も昔も見たことないしな」
窓の外を眺めている銀八の表情は、イトの座る位置からは伺えなかった。だが昔からというのは本当に、言葉通り昔からであるのは理解できた。
200年以上も昔の話。江戸時代の話。
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