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 初めて夢を見た日のことを、イトは鮮明に覚えている。
 夢などそれまで何回も何百回も何千回も見たことはあって、そのどれもが朧げな記憶で、朝起きるとそっくり忘れている。それが今までイトがみてきた夢だった。

 藤の花が狂い咲く星月夜。ぽっかりと浮かぶ満月の光を吸収した藤がきらきらと輝いている。
 朝起きてもその景色は目に焼き付いて離れなかった。実際に見たわけではないのに、思わず手を伸ばして触れた藤の感触が、指先に残っている気がした。

 次の晩も同じ夢を見た。次の日も、その次も。
 丸かった月が少しずつ形を変えて、でもまた元に戻った。この間中ずっとイトは地面に座り込んで、ただ藤と月とを眺めているだけだった。

「…………よいしょ」

 今日は、違う。
 イトはゆっくりと立ち上がり、服についた砂を払う。
 不思議な感覚だった。夢の中で自分の意思通りに動けることは、今までの経験上ほとんどなかったのに。
 イトが立とうと思えば立ち上がり、汚れを払おうと思えば腕がその通りに動く。これではまるで、現実世界と何の変わりもない。

 ひとつ違う点を挙げるならば、服装だろうか。
 昔着ていた、江戸の時代を生きていた時の服装そのままでここにいる。
 イトの小柄な身体をすっぽり覆い尽くす鼠色のマントと、その下には動きやすいチャイナ服。腰にはホルダーに刺さったままの臙脂色の番傘に、首にぶら下がったゴーグル。指先まで覆われた日除けの布まで、全てがあの時代のままだった。

 変な気分。心の内だけでつぶやいて、イトは歩き始めた。どこに続いているのか分からない道の先は、月の光が届いておらず薄暗い。
 夜目が効くのも昔の通りなものだから、イトは困ったように眉を下げる。奇妙な感覚は、一ヶ月経っても全く慣れない。


 イトが前世を思い出したのは、銀魂高校の入学式の日だった。

 約二年前のあの日、桜が舞う校庭内を日傘をさしながら歩いていると、視界の端を銀色が過ぎった。
 汚れた白衣、曇った眼鏡、明らかに美容室拵えではないくるくるの天然パーマ。
 だらしない格好、と思った矢先、目と目が合った。途端、イトの身体に雷のような衝撃が走った。
「お前……」
「……っ、なに、これ……?」
 視界がぐるぐると回る。頭の中に勝手に記憶が入ってくる。次から次へと、知らない記憶ばかりが。
 思わずしゃがみ込み、頭を抑えた。その拍子に傘を手放してしまって、うずくまっていたうなじが陽の光でジリジリと焼かれている感覚が忘れられない。
「おい、大丈夫か」
 心配して声をかけてきた生徒がいやにマヨネーズ臭くて、イトはとうとう意識を手放した。生まれて初めてのキャパオーバーであった。

 入学式早々校庭でぶっ倒れ保健室に運ばれたイトは一時期時の人となった。本当に一時期、一瞬だけ。
 在籍する教師や同級生がぶっ飛び過ぎて、イトの噂などすぐに流れてしまった。そのぶっ飛んだ人物たちこそが前世からの繋がりを持つ者たちである。
 
 記憶を持つのは銀八とイトの二人だけ。どうして自分たちだけなのか常々疑問に思っていたけれど、このことについて二人で話すことはしなかった。それが無駄な事だと、薄々気付いているのだ。

 藤の花が増えている。匂いも強い。酔いそうだと、鼻下をマントに埋めた。
 まるで江戸の時のように五感が研ぎ澄まされ、雰囲気の変化も敏感に感じ取れた。無意識のうちに傘に伸びた手に、イトは少しだけ狼狽えた。

「…………建物だ」

 見渡す限りの藤の花の先、少しだけ開けた道をもう少しだけ進む。花に隠されているかのように、奥の奥にあったのは大きな平屋の建物だった。
 イトは足を止めて様子を窺う。一定の距離を保ちながら建物の周りをぐるっと歩いた。人気がない。静まり返っている。

 その場で軽く跳躍をしてみる。とん、と爪先から軽く音が鳴って、意識をして再び飛ぶと今度は音もなく着地した。
 頭上にある木の枝の中から太めのものを吟味する。ひとつ飛ぶと、定めた枝の上にイトの姿があった。

 懐かしいと感じてしまうのは、おかしなことなのだろうか。現実では考えられない身体能力を思い出してしまっていることも。
 1時間近く歩き続けても疲労を感じないどころか、自分の背丈よりも高い位置まで飛べてしまう跳躍力は、けれどどうしたってイトには懐かしいものなのだった。

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