1.1933年某日、国防軍総司令部にて

1933年の某日。この日、世界が転がり始めた。
それは、酷い目覚めだった。天気が悪いわけでも、情勢が悪いわけでも、夢見が悪いわけでもない。ただ、酷く悪い目覚めだったのだ。
名前はのそりと起き上がり、明るい陽光の射すカーテンは開けず、リビングのある階下へと向かった。
リビングに入ると、テーブルの上にはこの家にいる人数分の朝食が用意されていた。すでに着席していたルートヴィッヒは、コーヒーを啜りながら新聞に目を通し、もくもくと朝食を食べていた。室内にギルベルトの姿は見えない。まだ、寝ているのか、ジョギングにでも出ているのか。名前は無言で席に着いて、すでに冷めて生ぬくなったミルクをひと口だけ飲んだ。そして、ドカリとバスケットに鎮座している六穀パンに手を伸ばした。何枚か薄く切って、クランベリージャムをたっぷりとのせて食べる。いつもと同じ朝食なのに、どうにも今日は美味しくない。ちらりと目の前で新聞を広げているルートヴィッヒを見やる。彼の顔は残念ながら新聞に隠れて見えなかった。
名前がパンを食べ始めると、カサカサと音を鳴らせてルートヴィッヒは新聞を片づけた。そして、顔を上げて「グーテンモルゲン、姉さん」と口にした。名前も、「グーテンモルゲン」と、挨拶を返した。

「兄さんに、今日は遅刻などせずきちんと定刻通り来るように言っておいてくれ」

「ああ、わかったよ」

短い会話を終えると、ルートヴィッヒはコーヒーをぐいっと飲みほしてから席を立ち、リビングから出て行った。ドアがバタンと乾いた音を立てて閉まった。
一人残されたリビングはとても、静かだった。元から、会話はあまりないので静かと言うのもおかしな表現なのかもしれない。
ルートヴィッヒが車で出かけて数分後、寝癖をつけたギルベルトがリビングに入って来た。大きな欠伸の後、頭をポリポリと掻いた。ギルベルトはツイっと名前を一瞥してから、冷蔵庫を開けた。しかし、目当ての物が入っていなかったのを確認するやいなやすぐに扉を閉めてしまった。そして、リビング内をくるりと眺めて名前に視線をやった。

「おい、名前。ルッツは? どこいった?」

「あの子ならもう出かけた。何時だと思っている」

「……」

ギルベルトは鼻を鳴らすと、乱暴に椅子を引いて腰かけた。そして、そのままフォークを手に取り、皿の上に綺麗に盛りつけてブルストに突き刺して食べ始めた。名前は気にすることなく、食後の紅茶を楽しむ。先ほどのやり取りは、名前とギルベルトのあってないような毎朝の挨拶。遠慮などあってないようなものだ。
身支度を終えた名前は、しぶるギルベルトの襟元を引っ張り、二人してSSKに乗り込む。運転は名前がする。ギルベルトは目を閉じ、腹の上で手を重ねて眠る時の体勢に入った。いつものことなので、名前は何も気にしない。
キーを回して、エンジンをかける。車体が振動して、心地よい振動が始まった。ブレーキを踏み、ギアをローに入れて、車を発進させる。すぐに、ギルベルトが気に入っているラジオ番組に周波数を合わせる。さっそく高らかな歌声が聞こえてきた。
風が名前の髪を優しく揺らした。信号で停まっている隙に、気になる部分を手櫛で撫でて直す。ギルベルトを一瞥すると、ぼんやりと空を見つめていた。
前の車が動き出したことで、信号が青に変わったのだと気づく。名前が快調に車を走らせていると、ギルベルトがボソリと呟いた。

「名前、お前……あいつのことはいいのかよ?」

「あいつ、とは?」

「お前の宝物のことだよ」

「私の宝はルートヴィッヒだけだが」

「まじめに返すなよ……ボサボサ頭の子ネズミちゃんのことさ」

「……もう終わったことだ」

「いーや、終わっちゃいねぇな。俺様に話してみろ。今なら誰も聞いちゃいない」

相も変わらず勝手なことを言う、と名前は思った。彼のことで悩まないわけがない。国と言う関係や、国に齎す利害関係抜きで、一個人として何百年もつきあっていた男と離れ離れになるのだ。
だがしかし、今は国家のために国民が一致総団結している大切な情勢だ。この大一番と言う戦争にとにかく勝たなければならない。勝利なくして、私たちに未来は無いのだから。いくら彼のことが好きでも、相対しなければならない決断を迫られる時がある。今がまさにその時だと名前は感じていた。これは、今までにも何度か経験している感情だ。しかし、今回は焦燥に襲われる。もう、会えなくなってしまうのではないかと思えてしまう。名前は、時々胸が苦しくて張り裂けそうになる。けれど、今の名前にそれを言うことはできない。

「我らがライヒの膝を地につかせるわけにはいかない」

「……まさに、鉄の女だな」

ギルベルトが皮肉たっぷりの面持ちでケセセと笑った。名前は答えることなく、前だけを見ることにした。そうこうしている内に、車が国防軍本部に着いた。検問所にいる国防軍の兵士にパスを見せて、格子を開けさせる。そのままビュっと車を走らせ、駐車スペースに芸術的な並列駐車をした。
身体を起こしたギルベルトはさっさと車から降りる。名前もエンジンを切り、鍵を尻ポケットに滑り込ませた車から降りた。磨きあげておいたブーツは光を反射してピカピカと光った。車のサイドミラーで、服装の乱れを確認する。名前は歪んでいたギルベルトのネクタイを直してやった。ギルベルトは当たり前のようにそれを受ける。
ギルベルトが腕時計に目を落とすと、すでに約束の時間になろうとしているところだった。

「遅れちまう」

「急ごう」

「ああ」

ギルベルトが前を歩き、名前は後ろからついていく。ギルベルトは軍人の鏡のように姿勢正しく、一歩一歩が機械のような正確さで狂わない。コンパスが違うギルベルトの後を歩くために、自然と名前の足は速くなる。
建物の正面には厳めしい立派な体格の、まさにドイツ軍人と言うことを表現しているような兵士が二人立っている。兵士が2人を確認して、踵を揃え、敬礼をした。それに対し、名前も敬礼で返す。ギルベルトは気軽に「ご苦労さん」と声をかけた。
吹き抜けのホールには行きかう人々のブーツの音がよく響いた。
歩いていた兵士たちは名前とギルベルトに気づくと、立ち止まって敬礼をした。2人はすべての兵士に敬礼を返していては面倒なので、「御苦労」とだけ声をかけて会議が行われる予定の部屋がある三階へと急いだ。今日は党幹部の連中だけで会議をする、ということを先にルートヴィッヒから聞いている。
会議がおこなわれる部屋は一目見てわかった。党員の腕章をつけた兵士が顔を引き締め、周囲を警戒していたからだ。室内で、しかも国防軍本部でそのような警戒はしなくても良いとは思ったが、何事もまじめにするドイツ人らしい、と名前は少し微笑んだ。
近づくと、兵士が敬礼した。名前も敬礼で返す。さすがにギルベルトも敬礼で返した。機械のような硬い動きで、兵士が扉を開けた。重苦しい色の扉は簡単に開いた。
部屋の中にいたのは、我らがライヒと、いまのドイツを束ねている男。そして、重役達。幾数もの目が、ギョロリと動いたのを名前は感じた。

「ルーッツ!待ったか?」

ギルベルトは満面の笑みでズカズカと部屋の中に入っていく。重役達がぎょっとした顔つきで、ギルベルトを見た。そんな視線はなんのその、ギルベルトはルートヴィッヒに近づいた。名前は厳しい視線を寄せる総統の前まで歩み寄った。名前が敬礼をすると、男も返礼した。

「ギルベルトが失礼をいたしました」

「いや、いい。聞いている通りの性格のようだ」

男は気難しい顔を緩めて、楽しそうに笑った。名前は、男が笑ったことに対して、眉をひそめてばかりの男でもこんな顔ができるのだな、と意外に思った。

「……さっそくだがライヒの繁栄と栄光のためにも、あなたには尽力してもらう」

「ああ、任せておきたまえ。ドイツが世界を統一する日はそう遠くないと約束しておきましょう」

「頼もしい限りだ。では、よろしく」

己より身長の低いドイツの新たな上司を見ながら、名前はただただドイツの安寧を願った。


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