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2.1940年某日、国防軍総司令部にて
1939年9月のポーランド侵攻によって戦いは始まった。そして、1940年6月のフランス降伏後、欧州でドイツに立ち向かうのはイギリスだけになっていた。 名前が廊下を歩いていると、ルートヴィッヒが前からやって来るのが見えた。挨拶だけで通り過ぎようとしたら、ルートヴィッヒにがっしりと腕を掴まれてしまった。普段はこんなことをする子ではない。名前は困惑の眼差しでルートヴィッヒを見る。すると、ルートヴィッヒの顔は少しだけ悲痛そうに歪んでいるように見えた。 適当に見つけて入った部屋に誰も居ないことを確認すると、ルートヴィッヒは名前と向き合った。厳しい面持ちが崩れ、言い淀む唇が小さく戦慄く。まるで幼いころのルートヴィッヒに戻ったかのようだった。暫く無言の時間が過ぎ、名前があの頃のように「いったい、どうしたというの?」と優しく問いかけると、ルートヴィッヒはようやく重い口を開いた。飛び出したのは、名前にとって、好ましくない無い情報だった。 「姉さん、上司がイギリス本土に対する攻略作戦を構想している」 「それは、本当なのか?」 「……姉さんには伝えておかなくてはならないと思って……本当に、すまない」 「待ちなさい。……それは、ルートヴィッヒが謝るようなことではないよ」 名前は、兄弟達の前では彼との決別をはっきりと口にしている。しかし、こっそりと手帳に挟み持つ、彼と一緒に映っている写真を見ては、愛を呟き、キスをし、涙を流している。そんな名前のことを知っているルートヴィッヒは、まだ確定前の情報だがどうしても伝えておかなければいけないと考えた。作戦の情報を名前に伝えたからといって、何がどうなるわけでもない。しかし、名前にはルートヴィッヒの心づかいが何より嬉しかった。 「ギルが育てる、と言った時は心配したのだが・・・ルート、お前は良い男になったね。弟じゃなければ、きっと惚れていたよ」 「ね、姉さんっ」 「私の心配などせずともいい」 名前はルートヴィッヒの身体を抱き寄せた。己よりも大きくなった弟の身体をぎゅっと、強く抱きしめる。名前は大きな弟の鉄十時にキスをした。 「私は神に誓ったのだ。必ず、必ずお前を勝たせる! とな」 名前の力強い意志のこもった言葉を聞いて、ルートヴィッヒは抱きつかれるという突然の事で宙を彷徨わせるしかなかった腕で、迷いなく名前の華奢な身体を抱きしめ返した。いつも、とても大きく見える姉だが、こんなに、こんなに小さかったのだと、ルートヴィッヒは改めて思った。ルートヴィッヒには名前が無理をしていることはわかっていた。だが、だからと言って何もできない。苦悩する名前にルートヴィッヒがしてやれることは、何もないのだ。逆に何か余計なことをして、誇り高い名前の心を折ってしまうのが怖かった。だが、今回はそう言っていられないと思った。上司から英国本土攻略作戦の概要を聴かされる度に、彼からの手紙一つで満面の嬉しそうな笑みを浮かべる名前の顔が脳裏をチラついた。言わずには、いられなかった。 小さく笑って、名前が宥めるようにルートヴィッヒの背中を優しく叩いた。そして、離れた。急に温もりが去って、そこはぽっかりと空いた冷たい空間になった。俯くルートヴィッヒの頭を、名前は優しく撫でた。名前の慈愛は、剣となりルートヴィッヒの胸を深く貫いていく。名前を悲しませることは、この上なく酷く、罪深いことのような気がして、ルートヴィッヒは拳を強く握り締めた。 「すまない」 「ルートヴィッヒ、勘違いをしてはいけないよ」 そう言った名前の声はどこまでも透き通り、凛としていた。 「お前は、いつも強くあらなければならない……だから、これしきのことでいちいち煩わされているようでは、しまいにはギルが怒りだすぞ」 ルートヴィッヒは、これしきのこと、と何でもないことのように言い切る名前の顔を見ることが、ついにできなかった。叱咤してくれれば楽なのに、彼が好きなんだと作戦に反対してくれれば楽なのに、どこまでも優しい姉が憐れでならなかった。 「さあ、お互い忙しい身だ。こんなところで油を売っていてもしかたがないぞ?」 「あ、ああ。そうだな。……これからも頼むぞ、姉さん……否、名前」 「仰せのままに、我らがライヒよ」 部屋を出て、名前は悩んでいた。 まさか、ルートヴィッヒがあんなに名前のことを考えていてくれたなど思わなかったのだ。名前は正直に驚いていた。ルートヴィッヒは自分のことだけ考えていればいいのだ。なんせ、他の誰でもない、彼がドイツなのだから。ルートヴィッヒがドイツなのだ。私と兄弟達は、ルートヴィッヒのために消える覚悟は遠の昔にできている。ルートヴィッヒを守り、勝利に導くことこそ、生きた証になる。誰もがそう言って笑い、杯を空けていた。それ故に決心が緩んでしまう危なさを含んだ時間のことは、外に漏らさず胸に留めておくべきだと思った。 名前は、彼に会いたいのだと、彼が好きなのだと、彼を愛しているのだと、口にすることがどれほど楽なことなのか、どれほど己が望んでいるのかを知っている。けれど、こんな些細なことでルートヴィッヒを困らせるわけにはいかない。 今は、戦争をしているのだ。 個人の意志よりも、国家の意思を優先させなければならない。勝たなければすべて終わり。国も、民も、土地さえも失った国の末路は消滅だけ。ドイツのそんなところは絶対に見たくはない。そのためにすべきことはなにか。何を犠牲にしなければならない。名前はわかっている。わかりきっているのだ。名前は彼の事を考えながら、小さく、それは小さく息を零した。 「本当に、愛してるんだ……」 それは誰も知らない、小さな呟き。すぐに、空気に溶けてしまって、後には残らない。 弱音を吐くのはこれで最後。 国しか入れないプライベートな部屋に向かえば、先客が一人いた。ギルベルトがソファーに腰を沈めて、のんびりと煙草を燻らせていた。ギラギラとした赤紫の目で射抜かれた名前は、己の不甲斐なさなど全て見抜かれているのだと思った。虚勢をいくら張ったところで、メッキはすぐに剥がれ落ちてしまう。 「何だよ、泣きそうじゃねェか」 「うるさい!」 名前はそう言いながらも、己の目が潤んでいるのを自覚していた。ツカツカと大股で近寄り、ギルベルトが指の間に挟んでいる煙草を奪い取った。 「オイ!」 腰を浮かして怒るギルベルトを無視し、名前は煙草を吸った。途端、苦みが口いっぱいに広がる。咽そうになるが、それを寸でのところで押しとどめた。そして、ふーっと息を吐いた。 再び、ソファーに腰を沈めたギルベルトが心配そうに名前を見る。 名前は手帳から大切にしていた写真を取り出し、机に置いた。ギルベルトが何をするのかと見守る中、愛しい彼の顔に煙草を押しつけた。 ジュッと軽い音がして、彼の顔があったところに丸い穴が開いた。名前は満足そうに穴の開いた写真を手帳にしまい、煙草を灰皿に押しつけた。ギルベルトは厄介そうに、頭をガシガシと掻いた。 「無理すんなよ……」 「言われるまでもない」 振り払うように、腹の底からの言葉を吐く。 決別の証は、とても重く名前に圧し掛かる。 愛している。確かに、彼を愛しているのだ。 |