七海は意外とヤキモチやきだ。
荒々しく開いたリビングの扉にあ、まずい。と背中をヒヤリと何かが走って頬が引き攣った。刹那、彼の大きな手に、手首ががっしりと掴まれて座っていたソファに引き倒される。試しに腕を動かしてみるが、予想通りピクリともしなくて額に冷や汗が浮かんだ。とりあえず、頬を引き攣らせたまま笑顔を浮かべて、おかえりと言ってみる。眉間に皺を作り、暫く間を置いてから低い音がただいまと声を紡いだ。
今日に関しては、彼が怒っている理由に思い当たる点がある。任務に疲れたと駄々をこねる五条が、背中にべったり張り付いて離れなかったのだ。自分より体格の良い長身の男を背負って歩くのは骨が折れる。半分ぐらい潰されながらずりずりと廊下を歩いて、結局容赦なく全体重を掛けてくる五条にぺちゃんこにされて、のし掛かられるようにして床板に倒れ込んだのだ。それでも退いてくれる気配はなく、人を押し潰しながら背中で訳の分からないことを言い続ける五条を、大層怒った恵くんが蹴飛ばして助けてくれた。わざわざ無下限を切っていた辺り、とにかく誰かに構ってほしくて仕方なかったのだと思う。そしてその間も腰や肩に大きな手が回っていたから、おそらく全身に五条の気配がしっかり残っている。とはいえ五条のスキンシップの多さなんて今に始まった事ではなく、七海が怒り心頭で帰ってくるまで忘れていた。目の前の彼が、何が言いたいかわかりますか、と視線で訴えかけてくるので事の顛末を説明した。眉間のシワを増やして、大きなため息をつく彼が、危機感が足りないだの、気を付けろと言ってるだのとお決まりの説教を始めたので嫌な思いをさせたのは事実だし。と、とりあえず視線だけを上向けて、首を少し傾けてごめんねと謝ってみた。彼が目を見開いてからまた大きな大きなため息をつく。そうして背中に腕を回し、胸元に顔を埋めてから額を擦り付けてくるので、解放された手で頭を撫でてみた。また大きなため息が聞こえて、瞬間、ふわりと体が浮く。抱き上げられたのだと気付くとひえ、と間抜けな声が口から出て、縋るように彼の首に抱き付いた。ズンズンと向かっていく先は、おそらく浴室だ。少し吃りながら一緒に入るの?と尋ねると食い気味にはいと返事が戻ってきて、あ、やっぱこれはまずい。と再び頬が引き攣った。
今日は一級相当の呪霊を祓ってきたのだと言った。見る限り目立った怪我はないようだが特殊な形をした眼鏡を外した瞳に、戦闘の名残りか、燻った炎が残っている。"命のやり取り"をした後の、爛々とした、瞳。彼は大抵、こういう時、帰ってきて俺の肩をグッと掴むと、最後の理性を振り絞るようにいいですか、と低く尋ねる。そうすると俺は、彼の瞳に宿る炎に煽られて、頷くことしかできなくなる。
いつもは懇切丁寧に、こちらを傷付けないことに重点を置いている彼が、獣のような荒い息を吐きながら、僅かに乱暴に体を貪る。やだ、もだめ、も聞いてもらえずに、暴力的なまでの快楽に嬲られるこの瞬間を、生きて帰ってきてくれたことに対する喜びや労いだけで許してしまっているだけではないことを、認めるにはまだほんの少し気恥ずかしいのだ。
突然の雨だった。彼と2人での任務を終え少し離れたところに車を停めた保護監督の元に戻る途中。あっという間に服を深い色に染める雨量は、一瞬で2人を濡れ鼠にした。慌ててシャッターの閉まったどこかの軒先に入る。せっかく呪霊はさくっと倒せたのにね、と苦笑いをする彼に返事を返そうとして、真っ白な額から頬を伝い、華奢な顎をなぞって首筋を走る水滴が、制服の中に吸い込まれていく一連を、目で追ってしまって息を呑んだ。心臓が大きな音を立てそうになって慌てて目を逸らそうとした瞬間、彼は自らの首元に手を伸ばし、上衣のボタンを外した。ぷつ、ぷつとボタンが外されて、上衣の前が開かれる。中に着た白いシャツに肌色が浮かび上がっているのが見えて、無意識に腕が伸びた。上衣の前をぎゅっと掴んで強引に閉じる。目の前の彼が驚いたように数度瞬きを繰り返すので、しまった、と焦りながら脱ぐと冷えますよ、なんてことを口走ったように思う。ポカンとしていた彼が、確かにそうかもなんて言って浮かべた笑顔に見惚れているうちに、雨は上がってしまった。ゲリラ豪雨だったのだろうか。裾をぎゅうと絞りながら、早く戻ろうと手を引く彼に連れられて軒先から出る。さっきまでの雨がまるで嘘だったかのように、雲の隙間から差した陽光が辺りをキラキラと輝かせていた。
自分と比べて随分と小さい、それでいて男性らしさも、ある程度は持ち合わせた薄い手。そこからすらりと伸びる指は綺麗で、頼りないほどに細い。その中でも1番小さな小指が、机の下でちょん、と触れ合う。
五条さんと家入さんに(半ば無理矢理)連れられてやってきたここは、雰囲気の良い居酒屋の個室だ。私の隣に座った彼は先程まで楽し気に笑っていたが、触れた小指を僅かに絡ませると、視線を一瞬、こちらに動かした。なんでもないようにグラスを傾けながら、触れ合わせた指を更に絡め取る。すぐに逃げていってしまうかと思われた指先は、意外にも彼からもきゅ、といじらしく絡んできて、五条さんのウザ絡みを無視して今すぐにでも連れ帰りたくなってしまった。
爪の先まで繊細な男だと思った。任務や戦闘訓練なんかが続くと、当たり前に傷が増える。基本的には小さな傷なんかはほったらかしなことが多くて、その日も頬の引っ掻き傷から薄く血が出ていることにさえ気付いていなかった。
下の名前で呼んでくれと言ったその言葉をきっちり守るその人は、真希ちゃん、とすれ違いざまに私の腕を引いた。たまたますぐ近くだった医務室に、訳も分からないままずるずる引っ張られていくと椅子に座らせられて頬に消毒液をぽんぽんと当てられた。痛みに気付いたのもこの時だ。いてェと思わず口にすると、その人が僅かに空気を揺らす。じゃあ、怪我しないようにしないとね、なんて至極当たり前のことを言われて反論しようとして、あの繊細な指先がまるで壊物に触るように、慈しみを込めて傷の近くを撫でるから、何も言えなくなってしまった。
いつの間に眠っていたのか、うっすら開いた瞼の隙間から飛び込んできた照明の眩しさにもう一度目を閉じようと身動ぐと、頭上から声が落ちてきた。
あ、起きた?
心臓が大きな音を立てるのと同時に目を見開くと、視界に映ったのは優しげに微笑む彼だった。疲れてたんだね、と額にかかった髪を梳き分けるように撫でられて、寝起きでぼやけた頭が段々と鮮明になっていく。自分の頭が乗っているのは、おそらく彼の膝の上だ。もうちょっと寝ててもいいよ、なんて頭を撫でながら言う彼の声は、泣きそうになるぐらい甘くて優しい。言われた通り、疲れているのだろう。無意識に手を伸ばして彼の細い腰に腕を回し、薄っぺらな腹に顔を埋めた。ふふ、と空気の揺れる音がする。甘えたさんだ、と言いながら頭を撫でられて、このまま一生、呪いなんて縁の無さそうなこの柔らかな幸せが続けばいいのに、と願った。
綺麗な人だなと、思った。五条先生も背も高いしめちゃくちゃかっこいいと思うけれど、どちらかというと美人と称するのが1番似合うような。聴診器をこちらに当てて、目を伏せて心音を聞いているときの真剣な表情はあまりにも美しくて、まるで映画のワンシーンみたいだ。長い睫毛がふわん、と僅かに上向いていることがよくわかる。釘崎なんかが見たら、怒りそう。彼が聴診器を外したタイミングでふふ、と笑うと彼もなあに?と言いながら笑った。
でも、精密に作られた人形のような美しい顔を綻ばせてほんの少し幼い笑顔を浮かべるこの瞬間が1番好ましいな、と思う。
夜、映画を見ようと言ったのは彼で、あまり使われることのないテレビの前のソファに並んで座って、大きな画面を見ていた。映画も終盤、ふと彼の様子が気になって視線を動かすと音も立てずに静かに涙を流していて、ああ、この人の涙は相変わらず美しいなと思った。薄く張った水膜が青灰色がかった黒い瞳をキラキラと艶めかせて、長い睫毛にまるで雨上がりの蜘蛛の糸のように水滴が絡む。まっしろな頬を伝い落ちていく涙はまるで宝石のように煌めいて。彼の美しい横顔を見つめ続けていると無意識に手が伸びた。どうしたの?という言葉を言い切るその前に衝動的に唇に噛みついた。