クラスの半数は運動部に所属しているので、休み時間なんかになるとどこからかは必ず『バルガスキャンプ』のワードが聞こえてくる。廃部という言葉に危機感を抱いている人はやはりごく数人で、バルガス先生の脅しの意味はあまり意味を成していない気もした。強豪揃いの運動部を廃部にまでするなんて、なかなか度胸あるなあ。
キャンプまで残り二日、となったところで、今日は全部活動の休みと私とフロイド先輩のバイト休みが被った貴重な日。事前にフロイド先輩からはこのお店とこのお店を回りたい、というアウトドアウェアのお店の地図が共有されていて、メンズ、レディース問わず、品揃えも豊富そうだ。
放課後になれば鏡の間集合という話になっていたので、急ぐでもゆっくりでもなく廊下を歩く。あ、そういえばキャンプって基礎化粧品とか持っていってもいいのかなあ。流石に三日間シャワーを浴びれないなんてことはないだろうし。ドライヤーはないし、しおりの端の方には魔法を使わないようにだとか小さく書いてあるように見えるけれど、きっと目の錯覚だ。しおりだけでは心もとなく、スマホでキャンプの持ち物を調べていると、ぼふっと何かに当たる感じがして慌てて顔を上げる。
「おい駄犬。歩きながらスマホを触るな」
「ごめんなさぁい」
「間延びした返事はやめろ」
ドン! ではなく、ぼふっという感触はクルーウェル先生のもこもこコートだったのかあ、納得だ。眉をひそめて私を見下ろす先生にもう一度すみません、と謝ると誤魔化すみたいに笑った。ホームルーム終わりで特に何も持っていないクルーウェル先生は、もう一日が終わるっていうのに相変わらず崩れることを知らない綺麗な顔をしている。私もこういう歳のとり方がしたい。あっ、綺麗な顔といえば。
「ねえ先生、キャンプに行くのに基礎化粧品とか、他に必要なものってなんだと思います?」
「キャンプ? ……ああ、バルガス先生主催のキャンプか」
「そうそう」
ヴィルさんと同じ部活だったり、ヴィルさんが運動部なら一番参考にしたけれど、しかし美意識の高さでいうとクルーウェル先生もすごく頼りになる。アパレル業界で働いていた、みたいな話も聞いたことがあるし。この十年後もあまり外見が変わらなそうな不老のクルーウェル先生はスキンケアもヘアケアも怠っていないようだし、思春期のこの時期にできやすいアレが三日間でできてしまうのはどうしても避けたい。
クルーウェル先生は口元に赤で覆われた指先を軽く当てて考えるみたいな素振りをしながら、こちらを見た。
「そういえばミョウジは馬術部だったか」
「? そうです」
「ローズハートとシルバーとジグボルト……なら問題はなさそうだな。まあ、何かあればリーチ弟がどうにかするか」
「何がですか?」
私の質問に答えずに何やらぶつぶつと言い始めたクルーウェル先生に今度は私が訝しげに眉をひそめると、丈夫な革の手袋をまとった指先で私の額を弾かれた。それなりに痛い。何するんですか! と額を押さえて先生を睨むと、呆れたような長い息を洩らした。
「何度も言うが、ここは男子校だぞ。そんな中で三日間なんて、何か間違いでもあったらどうするつもりだ」
「で、でも今まで何もなかったし」
「何かあってからじゃ遅いんだよ」
懸念していなかったわけではないけれど、本当に頭の片隅に、ほんの少し置いていた程度のことをまさかここまで言われるなんて。少し苛立ったようにも見える先生の圧に萎縮してしまうし、そんなこと言われたら気が気でなくなってしまう。クルーウェル先生の馬鹿! 教師として百点すぎる。以前もスカートを折り始めた頃くらいに呼び出されたかと思いきや、『かわいいのは結構だが、ここが男子校だということは頭に入れておけ』と注意されたことがある。もっとも、先生の言うことは正論でしかない。
反省と私の浅はかさに肩を落とすと、先生は目頭のあたりを押さえてまた嘆息した。
「寮の自室と比べてテントは布一枚のみで隔てられていてアクセスしやすい。だからこそ警戒心は持っておけ」
「はぁい……」
「しかし馬術部の面々を見るに、その心配は少なそうだ」
それは同意です。仲の良い三人以外も、馬術部は比較的まともな生徒ばかりだ。うーん、でもそうか。今までエペルとかオクタヴィネルの先輩とか、誰かしらが近くにいて、特にリーチ兄弟がバックにいるとかいう噂のおかげでそういうことにならなかっただけなのかもしれない。
気をつけます、と反省の声色を混ぜて言うと、「よろしい」と言った。まだグッドガールではなさそうだ。
「持ち物の話だったな」
「あっ、はい」
「仔犬の言う通り、基礎化粧品は最低限持っていけ。ただ、バルガス先生のことだ。朝からゆっくり洗顔をしたり化粧をしている暇はないだろう」
やっぱりそうなりますよね。キャンプというがっつりアウトドアなイベントかつ汗をかきやすいそれにばっちりメイクをするつもりは元よりなかったけれど、だとすればトラッポラやスペードの顔のスートはどうするんだろう。描いたまま寝るのかなあ。それか朝早くに急いで描いてガタガタとか。ちょっと見てみたい。
先生のアドバイスは頼りになるなあ、と思いながら「ありがとうございます」とお礼を言うと、手に握っていたスマホが震えた。数件のメッセージ通知が届いており、どうやらフロイド先輩がお待ちかねのようだ。
「その三日間、運動部は公欠になるから安心しろ」
「良かったです。じゃあそろそろ行きますね。先生、さよなら〜」
「さようなら。馬術部の一員として恥じぬよう、無事に帰って来いよ」
「パパ……」
「誰がパパだ」
若々しいお父さんだ。クルーウェル先生大好き〜! の意を込めてやや大きく手を振ったけれど、ただ冷めたように見られるだけに終わった。周囲から「ミョウジがまたちょっかいをかけて冷めた目で見られている」と向けられる視線がなかなかに痛々しいし恥ずかしい。ナイトレイブンカレッジ生全員クルーウェル先生のこと好きなくせに。
◈◈◈
鏡の間に到着すると、必要最低限しか入っていなさそうなペラペラなスクールバッグを持ったフロイド先輩と合流をした。アウトドアウェア、楽しみだなあ。そわそわ、表情筋がゆるむ私の顔を見たフロイド先輩も、私と感情を共有したみたいに優しげに目を細めた。アズール寮長やジェイド副寮長ではあまり見ることのできないこの表情は、結構好き。
「やっと来た。じゃあ行こっか」
「お待たせしました。ふふ、楽しみ」
「楽しみだねぇ」
闇の鏡にフロイド先輩が行き先を告げると、鏡を抜けた先はショッピング街で、平日ということもあって人は少なかった。人混みが苦手だからすごく助かる。この通りに来るのは初めてなので、新鮮な気持ちで周囲を見回していると、フロイド先輩が私の右手をとって引っ張っていったので、私も軽く握り返してみると、離れかけた手がまたいっそう強く握られた。体温は低くてひんやりとしているはずなのに、やっぱり温もりを感じることができる。
最初に到着したお店は、あらかじめフロイド先輩から送られてきていた大きめのお店。ショーウィンドウにはマネキンが飾られていて、スポーティーながらも色合いが可愛かったりする。あ、あのサンバイザー、馴染みやすそうだしロゴもかわいい。
自動ドアが開くと、フロイド先輩から店内に入った。いらっしゃいませー、と声をかける店員さんがぎょっとした表情をしたのは、フロイド先輩の身長だろうな。少しジャンプしたら頭が思いきり自動ドアの上に当たりそうなくらいで、たまに忘れそうになるけれど、フロイド先輩って相当身長が高いんだった。私も後を着くようにいそいそと中に入ると、帽子からジャケット、スニーカーまでたくさん揃っていた。
「じゃあオレはあっち見てくるから、ナマエちゃんも自由に見てきて」
「わかりました」
「決まらなかったら呼んで。一緒に考えるし、他のとこも回ろ」
そうして一時解散。というより自由行動に移ることになって、フロイド先輩はメンズファッションの方に向かっていった。お金ならあるし、使いすぎてもその分ラウンジで働けば良いだけだし、頭からつま先までの全身コーデを買ってしまおうかな。水色とかピンクとか、どうせなら淡くて可愛いのがいいなあ、と思っていると、脳内のクルーウェル先生がお叱りをしてきた。けれどそれはもちろん幻聴だし、きっとクルーウェル先生もヴィルさんもこの場にいたら「とびきりおしゃれなのを」「好きなものを」って言うだろうし。
そうして手にとったのはシンプルだけとかわいいジャケット。どこかあの双子みを感じる色合いになっていて、寒い夜の防寒にも優れそうな質感。日中暑ければ脱げばいいし。それに合わせて、マネキンに被せてあったサンバイザーの色も青系にすると、もうほとんど決まったようなものだ。あとはスニーカーとボトムスと、
「なに、もう決まったの?」
「かわいいの選んできただけなんですけど、」
「へえ、試着したら見せてね。Tシャツとかは?」
何が必要だろう、とカゴにジャケットやらを放り込んで店内をうろうろしていると、どうやらまだ悩んでいるらしいフロイド先輩に声をかけられた。うーん、私が即決すぎるのだろうか。それにしても、これだけなんでも揃うお店って、なかなかないのでは?
Tシャツ、とフロイド先輩に言われて、家にあるものでいいかなあ、と返すと、フロイド先輩が自分のカゴをゴソゴソとして白いTシャツを出してきた。サイズ大きいなあ。
「これ見て、ここの文字もオレにぴったり。メンズらしいんだけど、ナマエちゃんがオーバーサイズで着たらかわいいと思うんだよねぇ」
「オーバーサイズ! 確かにかわいいかも」
「せっかくならお揃いにすんのも結構良くね?」
Tシャツは寮で部屋着としてしか着ないから、襟元がよれたものも多い。オーバーサイズのものは持っていなかったし、普段ショートパンツなんかと合わせてもかわいいかも。フロイド先輩もそういえばおしゃれさんで、もともとナイトレイブンカレッジにおしゃれな人が多いのもあるけれど、私はファッション面なんかでも恵まれているなあ。お揃いはちょっと、匂わせをしているみたい。
案内された陳列棚の前で、フロイド先輩はシャツのロゴの色がグレーのものを選んだみたいだけれど、あっ、私もグレーが良かった。色違いがいいなあって思って、結局選んだのはアウターよりもごく薄めの、フロイド先輩と色違いのもの。どうやらこのシャツのデザインは、どの色も薄めらしい。
「じゃあ一回着てきますね」
「おっけー。オレももうすぐ決まると思うし……着たら待ってて」
黒のスキニーも一緒にカゴに入れると、試着室で選んだ服に着替える。あっ、やっぱりかわいい。サイズもぴったりで良かった。白ベースのスニーカーを後で見て……頭の日焼けが怖いしサンバイザーも見ておこう。
床に脱ぎ散らかしてある制服はそのままに、カーテンを開けてフロイド先輩を呼ぶと近くにいたらしくすぐにこちらに向かってきた。
「うん、かわいい。よく似合ってんじゃん」
「あとはスニーカーだけです」
「あっちに靴屋あるし、あとで見に――」
そうしてにこにこ私を見下ろしてくるフロイド先輩が靴屋のあるらしい方を指をさしてから、視線を完全に私の足元に落としたと同時に、機嫌良さげのフロイド先輩の表情が真顔に戻ったかと思いきや、シャッと勢いよくカーテンが閉められた。すごい、光の速さだ。何が起こったのかわからずにいると、フロイド先輩が「いや、なんでもねぇ……」と言う声がカーテン越しに弱々しく聞こえた。
◈◈◈
高校生ってお金が減りますね、なんて言いながら、それなりの金額が表示されたレジを見る。高すぎるというわけではなく、手の届く範囲で高いのがなんともだ。ブランドものなので当然といえば当然だけれど、スキニーは購入せずにもう少し手軽な、ファストファッションのお店で買おうと思う。オクタヴィネル寮生は寮長経営のカフェでの収入があり、さらに実家からも仕送りがあるので割と裕福な方ではあるだろう。高校生ながらにカフェを経営しているアズール寮長に感謝しつつ、少し惜しみはあるけれど、思いきってマドルをトレーに出した。えーん。
店を移して、今度はアウトドア用品専門ではなくて、スニーカーからブーツ、革靴まで揃っているらしいお店に着いた。もう夕日によってこの通りもオレンジに染められている。フロイド先輩の行きつけらしく、そういえば前にお部屋を覗いたとき、ここのお店のロゴが描かれたシューズボックスがたくさん置かれていたような気がする。
「オレ、女の子の靴選んでみたかったんだよねぇ」
「そうなんですか?」
「うん。オレってどっちかっていうと足でかいし……割と市販のやつだと限られてきてて。ナマエちゃんは女の子だし足もオレより全然ちっせぇし、いろんなデザインがあるでしょ?」
確かに、たまにトラッポラやスペードと並んで歩いたり、アズール寮長のを思い出してみると、フロイド先輩やジェイド先輩は身長がある分足も大きい。談話室で脱ぎ捨てられた靴の大きさがそれを物語っていた気がする。比べて私は、この学園では間違いなく足が小さい部類だ。筋肉量や体力だけでなく、足の小ささでまで記録更新をしてしまった。
店内に入って、今度は常連だからかお店の人もフロイド先輩の身長には驚かなかったみたい。それからスニーカーを見ていると、あれ、フロイド先輩も着いてくる。
「フロイド先輩? 自分の見てこないんですか?」
「あー、オレは今日は買わない。ナマエちゃんの選ぶの手伝いたいーって言ったじゃん」
「あっ、そういうこと……」
それで背後からこう威圧感があるわけだ。フロイド先輩は私がスニーカーを眺める中、後ろから私の肩の上を通して腕を伸ばしてきた。ふわっといつもと同じようでもう少しだけ甘い香りがした。違う香水なのだろうか。どちらにせよ、いい匂い。伸びてきた白い手は私の前、少し上にあるスニーカーをとった。白地に薄ピンクのライン。それと、白地を薄青で縁どったスニーカー。
「このへんがナマエちゃん、好きだと思うんだよね」
「かわいい」
「でしょ? ほら、座って」
どちらもかわいくて、せっかくなので二つとも履いてみることにした。サイズを伝えると、「ちっちぇ。稚魚みたい」なんて言いながら、私の足のサイズの靴を手に収めた。言われた通り腰かけて、履いていたローファーを脱ぐと、フロイド先輩が私の前に跪いたようで、つい驚いて肩を跳ねさせる。えっ、なに、このシチュエーション。
私の踵を片手で軽く持ち上げたフロイド先輩は、私にスニーカーを履かせようとしているようで、私のつま先を履き口に入れようとした。
「え、フロイド先輩、それは自分でできますって」
「いいから。嫌じゃないでしょ?」
「嫌、ではないけど」
「ならいいじゃん。任せて」
そうして一足目、ピンクの控えめに引かれたラインの方を履かせられると、私の踵を持ったままこちらを見上げてきた。なんだこれ、王子様みたい。王子様というより、私がお姫様の立場なら召使いの方が近いような気もするけれど。足汗とか、大丈夫かな。
両足にスニーカーが履かせられて、「立って」のひと言をもらうと、おずおずと椅子から立ち上がって、足元だけが映る鏡を覗き込んだ。この太すぎないラインが丁度いい感じだ。かわいい〜。それを脱ぐと、次の靴もフロイド先輩が持って待機していて、レジの方を見るとおじさんがにこにここちらを見ていて、その視線に流石に恥ずかしくなってしまったので、「自分で履けるので!」とフロイド先輩から靴を奪っては自分で履いた。あっ、かわいい!
「どっちも似合うじゃん」
「迷うなぁ……」
「どっちにしてもさっき買ったのとは合いそうだし……あとはナマエちゃんの判断」
どちらもかわいくて甲乙つけがたく、どちらを買っても後悔しないだろう。他にもきっとかわいいものはたくさんあるだろうけれど、また選択肢が増えて決められなくなってしまっては困る。だから、フロイド先輩が選んでくれたこの二つだ。
うーん、と迷った末、踵にわずかばかり残っていた心地良さげな感覚が次第に消えていくのを感じて、それがどこか勿体なくて、
「こっちの、ピンクの方にします」
そう言ってフロイド先輩の持っていたスニーカーを指さすと、フロイド先輩はピアスと髪をそれぞれ揺らして、「絶対そっちだと思った」と笑った。