風が吹いて木々も芽吹く

 何を言っているんだ、この男は。ひっく、ひっく、涙が止まらない私の背中を優しくさすって、軽く抱きしめる。やめて、なんなの、それ。

「……からかってるの?」

 それとも、振られたから、今度こそ本当に「都合のいい女」にしようとしているのだろうか。トラッポラなら、ありえる。私が好きと言ったのをいいことに、トラッポラの都合のいいときに呼び出されて、彼女ができれば捨てられる。なにそれ。そんなの、嫌だ。嫌で、嫌で、涙が止まらない。他の女の子を抱いた手で抱きしめられるのも嫌なのに、私からは離れられなくて、むしろ顔を埋めてしまうくらいだった。

「ナマエちゃん、聞いて」
「……なに。私、セフレとか、絶対やだ」
「……違うって。聞いてよ」

 もう既に重くて面倒くさいムーブを発しているのに、隠していた面倒くささが隠せずに溢れているのに、顔を上げればトラッポラが、これまでにないくらい優しい笑顔をしているの。そんな顔、初めて見た。面倒くさいって言って呆れたり、怒ったりしてもいいのに、こんなにも優しくて、辛そうだ。

「……オレさ。ナマエちゃんに告白して、振られたら吹っ切れると思ったんだよ」
「……ん、」
「……大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
「だろーね」

 返事をするにも声が変に上擦って、裏返って、挙句の果てには掠れたから、トラッポラの手がゆっくり伸びてきて、私の頬を包んだ。こんな距離感初めてで、ドキドキする。そのまま親指で目尻を拭われると、反射的に瞼を下ろした。すると、ふ、と息が洩れる音がして、また目を開けた。性格が悪いのか? 人の泣き顔を見て、嬉しそうに笑うなんて。
 私が彼のことを、彼の真っ赤な目をじっと見ると、それが続きを促す合図だと思ったのか、そのまま唇をそっと開いた。その仕草すら今は鮮明で、色っぽく見える。

「だけど、二年経っても忘れらんなかった。夢に出てくるし、気がついたらナマエちゃんとの写真見返して」
「……なに、それ」
「気持ち悪いでしょ、オレ。いざ会っても、かわいくてずっとドキドキしてて、ぜんっぜん冷めてなかったんだよ」

 そんな素振り、なかったじゃん。心臓がバクバク鳴っている。この詐欺師、ペテン師。早く言ってよ、なんて言いたいけれど、一度振られてそれだったら、確かに普通は気持ち悪い、のかもしれない。

 たまたま人目がなかったから良かったけれど、次第にこの状況が恥ずかしくなって、彼の胸をそっと押して離れると、笑いながら私の手を引いた。ここは彼の町だから、彼の方がこの土地に詳しい。手を引かれるままに足を動かせば、外灯がまばらに点灯していて、ブランコに滑り台、鉄棒。この時間は誰もいないであろう、公園に連れてこられた。

「私、は――」
「待って。後でゆーっくり聞くから」
「……はい」

 私をベンチに座らせると、トラッポラは隣に座らずに地面に膝をついて、私の顔を下から覗き込んだ。何よ、紳士。やめてよ、そういうの。私の返事を聞くと、恐る恐る手を伸ばして、私の頬に触れそうなところで一度止まると、ゆっくり、指先から触れた。

「……好きなままだったけど、ナマエちゃんは『今まで通り』を望んでたからさ。新しい恋愛したら忘れるかなって思って」

 今までの彼女は、全部そういうこと? 好きじゃないのに、この間キスしてた子だって、私を忘れるためだったの? それが本当だったら、彼女たちが本当に可哀想で、この男は最低だ。なのに、どこか嬉しい私も、最低だ。そう思うと、あの光景がまたフラッシュバックして、トラッポラの手を避けるようにすると、眉を下げてから、その少し冷たい手を下ろした。それに従うみたいに視線も移動させると、睫毛を伏せてから、またぽつぽつと話し始めた。

「……でも無理だった。吹っ切れるなんて無理だ。写真も消せないし、ナマエちゃんを消すくらいなら、恋愛なんてしなくていいと思った」
「そんなこと――」
「あるよ。……オレの初恋で、きっと最後の恋だから」

 そう言うと同時に、トラッポラの睫毛が上がった。暗がりなのに、熟したチェリーみたいな瞳が主張するように光っているから、つい目が離せなくなって、意図的に離そうとすれば、「こっち見て」なんて言って引き止めた。この数分だけで、どれだけドキドキさせたら気が済むの。学生時代だって、そりゃああれだけ男しかいないところに放り込まれたらときめいたりしたこともある。フロイド先輩、シルバー先輩、セベク、エペル、クルーウェル先生。誰だって、私をドキドキさせてきた。けれど今は、私が知らないくらい、ずっとずっと身体全体がドクドクしていて、トラッポラにも聞こえてるんじゃないかってくらいだ。

「言い過ぎだよ。……これから、好きな人が現れるかもしれない」
「かもね。でもオレは、ナマエちゃんを最後にしたいんだよ」

 なに、それ。

「口説くの、上手すぎでしょ。……なんなの」
「褒め言葉? ありがとう」

 また涙が溢れてくると、トラッポラの手が宙をさまよったから、口説くなら徹底的にやってよ、なんて思って、私からその手を掴んだ。驚いたように固まったかと思いきや、私に掴まれていた、私のものよりも大きな手が、すっと私から逃れては手の甲の上に被せるように包んで、私の膝に下ろした。

「ほんとは……ずっとこの想いは内緒にしたままでいたかったけど。……さっきの、先輩だっけ。たまたま見かけちゃってさ」
「たまたま……」
「そ、たまたま。それで、……あー、なんでもない」
「……嫉妬した、とか?」
「ま、平たく言えばそんな感じ」

 偶然レストランを通りかかったのだろうか。それとも、先輩と分かれるとき? どっちでも良いけれど、トラッポラが、嫉妬してくれた。それだけで嬉しくて、触れられたところは熱くなって、脳も沸騰しそうなくらい暑い。
 俯いていると、不意にトラッポラからの視線を感じて、手を握られたままハッとして前を向くと、また息を洩らして、目を細めてこちらを見た。その表情、駄目だ。きゅんとして、苦しくなる。

「……だから、ナマエちゃんのことはまだ好き。てか、大好き」
「……ん」

 前も嬉しかったけど、今回の「好き」は、嬉しくて、幸せで、苦しくて、私も好きって返したかった。けれどどこか照れくさくて、辛くて、やっぱりまだ苦しくて、状況を呑み込めずに曖昧な返事をすれば、トラッポラがそれを察したのか、私の手をきゅっと握った。それでも、弱すぎるくらいだ。

「それで、ナマエちゃんの話も聞きたい」

 一度整理するには、それが良いかもしれない。涙が収まってきて、すん、と鼻をすすると、トラッポラと目がしっかり合う。私、きっと酷い顔してる。メイクなんてぐちゃぐちゃで、涙だけでなくて鼻水もきっと酷くて、トラッポラの手から逃れては顔を隠すように両手で隠すと、今度は迷いなくそれを掴まれた。

「大丈夫」
「私、……やだ、顔が」
「ううん、大丈夫」

 乱れた髪を整えるように、分け目が変になってしまった流れを変えるように、トラッポラの手が私の頭に恐る恐る触れた。どうしてさっきから、そんなにぎこちない動きで触れるのだろう。きっと、準備ができたらでいいよ、なんて言ってくれているのだろうから、待たせないように、唾を飲み込んで、顔もできるだけ綺麗に、はできないから、また鼻をすすって、ようやく口を開いた。

「私は……再会してから、今まで通りなのが嬉しかった」
「うん」
「素が出せて、軽口叩き合えて、取り繕わなくて良くて、嬉しかった」
「うん」

 優しい声で相槌を打ってくれる。私は状況を呑み込むのでいっぱいいっぱいだったのに、トラッポラは、こんなに余裕があって、腹が立つ。腹が立つけれど、一度話し出すとすべてを話したくて、引かれるかな、なんて思いながらも、口を動かすのが止まらない。

「でも……トラッポラに最初の彼女ができてから、ずっとトラッポラのこと考えてきたの。振られたって知ったら、その彼女の見る目がないって思って、」
「うん」
「……三人目で、初めてイライラした。ピアスを見てもイライラして、なんか、全部イライラして、いつの間にか、……好きに、なってた」

 好き。また口にすると、私の方が恥ずかしくなって、さっきまであんなに言っていたのに、本当に好きになったという事実が押し寄せてきて、苦しい。目を合わせられなくなった私に、トラッポラがまた下からじっと覗き込んできて、初めて告白されたあのときみたい。トラッポラはゆっくり、ほんのり口端を上げると、自然と漏れ出たもののように呟いた。

「嬉しい」
「……もうちょっと、話していい?」
「いいよ、好きなだけ話して」

 ここまでで、十分だと思った。けれど、先輩がもし変に誤解されたままなら、それは良くない。その話は、しておかないと。あの頃からは想像もつかないようなトラッポラの優しさが、沁みる。これが私にだけしか向けられないものなら、どれほど嬉しいか。

「……トラッポラと同じ。トラッポラを諦めたくて、恋をしようと思った。先輩と積極的に会った」
「……そっか」
「それで、今日、本当は付き合う予定だった」

 そうだ。先輩が私の気持ちに気がついていなかったら、今頃付き合って、いつまで続いていただろうか。もう、目の前で私の話を聞いている男と話すことは遠分なかっただろう。私の言葉を聞いて、トラッポラは眉をひそめた。少なくとも、私は付き合うつもりだった。

「でも、好きじゃないのがバレてて、……背中、押してくれたの」
「は、マジ?」
「マジ」
「……なに、めっちゃ良い人じゃん」

 本当に、申し訳ないことをしたと思う。私はずっと違う男のことを考えていて、それでいざその場になると背中を押してくれて。私が先輩の立場なら、好都合だと考えては好かれていなくとも付き合っていたと思うから。こんな考えを持っている女だ。先輩も、私なんかと付き合わない運命を選んで正解だったと思う。
 トラッポラは、「マジか……」と零すと、一度私の手を離しては下を向いて、大きく溜息をついた。

「……先輩にさ、ありがとうって言っといて」
「……うん」
「あと、ごめんって」
「……ん?」
「謝っといて」

 どうしてトラッポラが謝るの? 嫉妬したから、ということだろうか。「なんで?」と聞けば、口を尖らせて「別に」と言った。いきなり子供っぽくなって、かわいい、なんて思い始めたら、もう私の負けだ。下に垂れたトラッポラの手を、今度はまた私から掴むと、両手で包んだ。トラッポラの熟れたさくらんぼみたいな、宝石みたいな瞳が光ったような気がして、涼しい風が吹いた。ああ、今だ。きっと、言うなら今だ。そう思って、ぎゅっと力を込めると、私の心臓までぎゅっとなる。もう、頭が熱い。身体が熱い。変になりそう。だけど、今だ。今だ。熱を冷ますように空気を取り込んだって、何も変わらない。ぎゅっと目を瞑って、もう一度開くと、ぼやけた視界の中で像が結ばれた。ドキドキ、してる。

「……私、トラッポラが好き」

 またぶわっと熱が上って、もう速くならないと思っても、どんどん心拍数は上がっていく。ドキドキ、してる。バクバクしてる。枯れたと思った涙はぼろぼろと溢れてきて、トラッポラがそれを見て優しく微笑むから、また涙が零れてきて、辛くて、嬉しい。

「ナマエちゃん」
「……な、に」
「好き」
「ん、うん」
「抱きしめたい。抱きしめていい?」
「なんで、聞くの」
「割れちゃいそう、だから」

 壊れちゃいそう、じゃなくて、割れちゃいそうってなに。初めて聞いた表現につい、涙の中でも笑いが零れると、トラッポラも息を零して、その場に立ち上がった。それから、優しくて甘い表情でこちらを見ているから、飛び込みたい。私からいけということだろうか。上等だ。

「わっ」
「……好き」
「……うん。……うっ」
「好き」
「ちょ、苦しい」

 ベンチから立ち上がって、トラッポラを押し倒すくらいの勢いで抱きついて、なのにトラッポラは私をしっかり抱きとめた。トラッポラの匂いが濃い。石鹸のような匂いもする。ドキドキする。安心する。初めてなのに、安心する。これでもかというくらい、潰すくらい、ぎゅっと抱きしめると、苦しそうな声がした。それでもかまわない。関係ない。私ももっと、割れるくらいぎゅってして。そう思うのに、柔くしか力を入れてくれない。トラッポラの吐息が、こんなに近くで聞こえる。ドキドキ、してる。トラッポラも、私と同じようにドキドキしてる。

「付き合おう、ナマエちゃん」
「う、ん、……ほんとに?」
「ほんと。嘘つかねーし」
「……嘘ついてばっかじゃん」

 付き合う。好きな人と、付き合う。なにそれ、なにそれ、嬉しい。両想いって、奇跡だよ。どれだけ確率低いと思ってるの。肩口に埋めていた顔を少し上げると、トラッポラは目を細めて、嬉しそうに、無邪気に笑っていて、嬉しい、嬉しい。好きだって、飽きさせるくらい言いたい。

「私、めんどくさいよ。思ってるより、めんどくさい」
「上等じゃん。オレもマジで重いから、覚悟して」
「……うん」
「別れようって言われても絶対ごねるから」
「……うん」
「そこは言わないって言えよ」

 トラッポラが重くて面倒くさくて気持ち悪いのは、もう承知してる。でも、私にとっては丁度良かった。トラッポラも、そうならいいのに。私の重さ、全部愛してほしい。
 また肩口に顔を埋めると、トラッポラの優しい手がぽんぽんと私の背を叩いた。それから、髪を梳く。

「香水変えたのもいい感じ。好きだよ」
「……なに」
「ピアスも、オレとお揃いのままで良かったのに」
「どうしてそのとき言ってくれないの」
「だってキモいでしょ」
「キモい」
「……お前ねえ」

 全部、気づいてたの。そんなの、恥ずかしい。恥ずかしいけれど、好きだ。もう、重症だ。ナイトレイブンカレッジにいたときでは想像できなかった、こんな気持ち。恋愛は思ったよりも難しくて、簡単で、辛くて苦しくて、嬉しい。ぎゅっ、とまたトラッポラの内臓まで潰してやるくらい抱きしめるのに、トラッポラはまだ弱い。そんなに簡単に割れるほどヤワじゃないのに。
 そのほとんど加わっていない力が弱められると、トラッポラが私の背中をぽんぽん、と叩いて、見上げれば熱っぽい瞳があって、胸が苦しい。トラッポラの濡れた唇がゆっくり開かれれば、夢みたい、だと思った。

「ナマエちゃん」
「うん」
「オレと付き合って」
「……うん。う、私と、付き合って」

 夢だったらいいのに。夢だったら、夢じゃなかったら、いいのに。夢じゃない。また恥ずかしくなって顔を下げると、トラッポラが私の腰を引き寄せて、胸に埋めさせるように私を導いた。ふは、と笑う声が聞こえて、見えないけれど、私の耳に口を寄せられる気配がして、ぞくぞくする。

「かわいい」
「……やめて」
「かわいいよ、全部」

 やだ、この、女たらし。馬鹿。全然紳士じゃない。かわいいのなんて、知ってる。でも今はぐちゃぐちゃで、かわいくない。でも、最高にかわいい気がしてくるから、不思議だ。

「オレのことばっか考えてくれてたの、かわいい」
「……トラッポラだって」
「あんなに感情的になってくれたのもかわいい。あと、涙もろいのもかわいい」
「……トラッポラのせい」
「オレのせいで泣いてるとか、マジでかわいい」
「……ドS」

 あの頃は自分から「かわいい?」なんて聞いて反応を楽しんでいたのに、今は、かわいいって言われて私が照れてる。トラッポラからのかわいい、なんて慣れてない。どんどん耳が熱くなっていって、味をしめたのかトラッポラはずっと耳元でかわいい、かわいいって連呼して、もう、頭が馬鹿になりそう。
 今度は恥ずかしさで涙が出そうになって、本当に涙もろいのかも。いや、この男のせいだ。顔を上げて、トラッポラを睨んでも彼は余裕そうで、ついささやかな笑みが息となって洩れた。

「私、知らないことばっかなの。トラッポラのこと好きになって、知らないことばかりだった。知らないこと、全部教えて」

 そう言うと、トラッポラは目を丸くして、ぱちぱちして、外灯の明かりでもわかるくらい耳を赤くして、消えそうな、へろへろの声で「大事にするよ」と言って私をぎゅっと抱きしめてくれた。かっこ、つかないな。それと、少し、力が強い。
 その体勢で何も言わずに、トラッポラの強い匂いと息遣いに沈んでいると、また力が緩められて、私をやんわり引き剥がすと、真っ直ぐの瞳で私を見た。溶けちゃいそうだ。

「……じゃあさ、付き合った手始めに」
「……ん?」

 付き合った手始め? 何を言われるんだろう。おそらく手の早いトラッポラのことだ。キス? それは、ちょっと無理。なんだろう、とトラッポラを見つめ返すと、彼が口角をにっと上げた。今日初めての良からぬ笑顔を見て、絶対良くないことだ、と予感しつつ、彼の続きの言葉を待った。

「オレのこと、エースって呼んでよ」
「……」
「ほら」
「……」
「エース」
「……トラッポラ」
「ははっ」

 キス以前に、それすらも今更、ハードルが高かった。トラッポラは、トラッポラだよ。彼はやっぱりか、なんて笑ってくれて、私をまた柔く抱きしめた。エースって呼べるようになるまで、もうちょっと待って。私もトラッポラの背に腕を回して、時間を忘れるくらい、そのままでいた。風が、心地良かった。